第七章 分析

 

インタビューをした生徒や、アレッセの学習支援活動の中で接した生徒はみなそれぞれ日本語能力も勉強の成績も来日した時期も違っており、共通したものを見つけることは難しい。だが、インタビューの中で聞くことができた、Aの「言葉はわかるが意味はわからない」やKの「教科書は読めるけど意味はそんなに解らない」といった言葉などからわかるように、漠然と日本語での学習に不安をもっているものもいる。

 

第一節 CALP/BICS理論の適用とその限界

 

フィールドワークやインタビューの結果、家庭内の使用言語について各国に特徴が見られた。中国人児童らはほとんどが、中国人である母親とは中国語で、日本人である父親とは日本語で会話している。ACDEHがこのケースに当てはまるのだが、彼らは学校での成績は平均を大きく下回るものから、遙かに平均を超えるものまで様々である。BFGは両親ともに中国人であるため、家庭内では中国語のみを使用している。これは先行研究のCALP/BICS理論的には最も学習に適した環境なのだが、三者の成績は全員ばらばらである。また、ブラジル人生徒らは、聞くことのできた全員が家庭内ではポルトガル語のみを使用しており、これも先の理論によると学習に適した環境なのだが、中国人生徒と比べると成績が低い者が多い。その他の国の生徒達も家庭内では母語のみを使用しているものと、日本語のみを使用しているものに分かれるが、こちらも成績はまちまちである。

次に、来日時期に着目してみよう。ブラジル人児童やパキスタン人のVWは日本生まれ、または幼少期より日本に住んでおり、そのおかげか、日本語の会話能力はかなり高い。彼らは母語よりも日本語を得意としているし、学習支援をしていても日本語の能力が低いと感じたことはない。しかし、成績は他の国の生徒と比べて秀でているかというとそういうわけでもない。また、中国人児童らは小学校の高学年ぐらいの時期に来日した者がほとんどだが、来日してそれほど時間が経過していないためか、個人差はあるものの会話の中でも日本語の能力が足りていないと感じるものもいる。だが、日本語で会話することが得意でないため、みな成績が悪いというわけでもない。Bなどは会話よりも学習における日本語能力のほうが高いようにも思える。来日時期が長いほうが日本語に慣れて、会話の能力が高くなるという点は間違いないようだが、来日の遅い中国人児童らの中でも成績優秀な者がいるという点については、CALP/BICS理論から説明できる。児童らは母国でそれなりに母語(中国語)を使いこなし、CALPを発達させてから日本に来日してきているのだ。そのため、慣れていない日本語は流暢に話すことはできなくても、言語能力自体は高いので、CALPの発達していないと考えられるブラジル等の生徒と同等かそれ以上の学習能力を発揮することができるのだろう。


 

第二節 本人が自覚していない言葉の問題

 

 現在、外国人生徒たちは日本語での学習に漠然とした不安をもっているものが多い。彼らはどのようにして日本語を習得し、なぜ、その過程で現在のような不安を抱えるに至ったのだろうか。また、彼らは自分の日本語能力についてどのように考えているのだろうか。

来日初期の学校での授業に関するインタビューで、興味深い意見をきくことができた。

 

インタビュアー:先生の言ってることはわかった?

C:ああ、だいたいわかった。

インタビュアー:!日本語分かった?日本語聞いて。

C:いや、その時はさ。何故かわからんけど、わかる気がするんぜ。

インタビュアー:え、そうなの?全然(日本語)知らんけど、なんとなくそんなような気がするってこと?

C:うん、そう。

 

この「わかる気がする」という点だが、なぜこの時このように感じたのかは不明である。ただ、このような、根拠のない「わかる気がする」が積み重なった結果として、現在のように日本語に対する意識が生まれてしまったのではないだろうか。

いつから日本語を理解することができたという質問に対しては

 

インタビュアー:いつから日本語わかり始めたの?勝手にわかり始めた?

A:なんか中1のときから。

インタビュアー:なんとなく?

A:なんとなく分かり始めた。

インタビュアー:なんで?それは先生に教えてもらったから?

F:慣れじゃない?

A:あ〜そう、なんか毎日周りも日本語だから自然にわかる。

 

といった回答が得られた。日本語を理解できたと感じた時期は、日本に住み始めてから1年間ほどのようだ。また、理解できるようになったのは毎日日本語に触れ、慣れたためだと感じているらしい。

Cの「わかる気がする」やAの「なんとなく分かり始めた」という言葉から、彼らは日本に来て早い段階で、日本語を習得できたと考えていたようだ。しかし、現在になってその日本語での学習に不安を感じているのは、学習初期の「わかった気がする」「なんとなくわかる」の積み重ねによって、自分の無自覚のところで言葉の問題を抱え続けてしまっていたためではないだろうか。

第三節 もうひとつの問題――授業のやり過ごし――

 

 児童らの多くは日本語教室を終えた段階でも学校の授業はほとんど理解できなかったようだ。日本語能力が不十分な彼らは宿題などの教師の指示も理解できるはずもなく、そのまま放置してしまっていたようだ。

宿題をしっかりとやっていたのかという質問に対して、

 

インタビュアー:宿題とかちゃんと出してたの?

C:いやあ、やってなかったね(笑)

T:できないし(笑)

インタビュアー:日本語がわからないからできなかったってこと?

T:そう。できるわけないでしょ。

インタビュアー:宿題出さなくて叱られなかったの?

C:全然。何も言われんだ。

T:俺めっちゃ叱られたよ。

C(自分は)見放されとったからね(笑)

 

と答えていたように、教師もそれが彼らの言語の問題だとは思わず、彼ら自身のやる気のせいだと判断してしまっていたのではないだろうか。彼ら自身もできないからやらないということが理解されずに、理不尽な思いをしていたようだ。

日本に来てからの学校の授業はどうだったのかという質問には

 

インタビュアー:授業中どうしとったん?

C:ぼーっとしとった。先生なんかしゃべってますねみたいな()あ!でも字を書くからさ、たまたま漢字書いとるんはわかった。あとは、先生の表情とかでだいたいわかる。

 

A:全然わからんだ。自分でノートにさ、自分で適当になんか書いて、しかも中国語で書いたんね。

 

といった回答が得られた。中国人児童は漢字を手掛かりにして授業を理解しようとしていたようだ。また、Cは先生の表情から理解していたと言っている。

 先の「わかった気がする」という意識が、これら漢字や表情からの部分的な理解によって当座のコミュニケーションに関して大きな支障が生じていないという認知を生じさせ、そのことを通じて、一種の「わかったふり」をさせている可能性がある。この「わかったふり」によって彼らは授業をやり過ごしていき、学習不振は加速していく一方となってしまう。

この「やり過ごし」はErving Goffman(1963)の「パッシング(passing)」と類似している。「パッシング」とは、周囲に察せられたくない自分の欠点(肉体的な障碍や同性愛などの性格的な特徴など)を意図的に隠し、あたかも常人と同じであるかのようにふるまうことである。例えば、精神疾患の既往歴をもつ者は、彼の周囲がそのことを知らずに接していたならば、自分に不利な偏見に晒されないように、意図的にこの事実を隠して生活を送るだろう。このよう行為をGoffmanは「パッシング」と呼んだ。この「パッシング」は、外国人児童らの「授業についていけているように振舞う行為」つまり「授業のやり過ごし」と実によく似ている。生徒たちは授業内容に対してほとんど理解できていなくても、「わかった気がする」ために「わかったふり」をして、「授業のやり過ごし」をしてしまう。その結果、「パッシング」を行うもののように、彼らに何も問題がないかのように周囲に思わせるのである。ただ、「パッシング」と、この「やり過ごし」で大きく異なる点が1つある。「パッシング」が意図して行われる行為であるのに対し、「やり過ごし」は彼ら外国人生徒が意識せずに行っている行為なのである。生徒らは自分自身でも、実際には授業を理解できていないということに気付いていないのである。そのため、自らをも騙す形で「授業のやり過ごし」を行ってしまっているのだ。

このことから導かれる帰結として、生徒らにとって周囲の助けとなるコミュニケーションが作動しにくい状況になってしまうかもしれない。彼らがあたかも授業についていけているかのように振舞うため、周囲のものも彼らの学習不振に気付かない。また、本人が理解できていないと判断し、必要であると認知しなければ、友人に相談したり、教師に質問することもないだろう。それに加え、彼らと同じ学校に彼らが最も話しやすい相手である同じ国の出身者がいるということは滅多にない。稀にそのようなケースもあるが、

 

インタビュアー:(Aは)Fと同じ学校だったって聞いたけど、何か(わからないことを)聞きにいったりした?

A:いや、いかんだ。

インタビュアー:え、どうして?

A:え〜。別に聞くことなかった。

 

と答えているように、やはり、自分で問題があると認知していなければ、友人(FAと同じく中国出身であり、Aより先に日本に来ており、Aの入学時には日本語もかなり話せた)に助けを求めることもなくなってしまうのだ。このことから、彼らはタイミングを逸すると、途中で授業の進度に復帰することは難しく、学習面での遅れはますます取り返しにくくなってしまうと考えられる。