第二章 先行研究のレヴュー
第一節 新公衆衛生運動と日本における「健康講座」の活動
第一項 新公衆衛生運動(中川、黒田 2010)
◆新公衆衛生運動概要
「新公衆衛生運動」とは、従来の公衆衛生の目標である「予防」に「健康増進」を加えた公衆衛生政策の推進である。それは、1970年代以降、欧米を中心として展開された。
◆新公衆衛生運動の歴史
(1)1965年 L.ブレスローらの調査
L.ブレスローらによって1965年から始められたアメリカ・カリフォルニア州アラメダ郡での調査が、病気の「早期発見/早期治療」という二次予防よりも、「発病予防/健康増進」という一次予防重視の政策に大きな影響を与えた。この調査は、住民約7000人を対象とした9年間の追跡調査であり、以下の7つの「健康習慣」を励行していた人ほど死亡率が低いということが明らかにされている。その健康習慣とは、[1]7〜8時間の睡眠、[2]朝食を食べる、[3]間食をしない、[4]喫煙をしない、[5]禁酒または適度の飲酒、[6]適度な体重、[7]規則的な運動であり、それは後に「アラメダ・セブン」と称され、健康教育の目標行動となった。
(2)1974年 カナダのラロンド保健大臣による報告書
ラロンド報告書は、1974年に発表され、公衆衛生活動の重点をそれまでの疾病予防から健康増進へ移すとともに、活動の前提となる病因論を、特定病因論から確率論的病因論へと変えた。
(3)1978年 WHOとUNICEFの共催で行われた国際会議
マーラーWHO事務総長はこの国際会議において、医療の重点をそれまでの高度医療中心から、予防を含むプライマリヘルスケアへと転換することを提唱する「アルマ・アタ宣言」を出した。
(4)1979年 ヘルシーピープル
ヘルシーピープルの特徴は、疫学や健康に対するリスクファクターを重視し、特に個人の生活習慣の改善による健康の実現を強調する点であった。
(5)70年代後半 オタワ憲章
70年代後半になると、犠牲者非難(疾病の原因が個人にあるとする理論に基づき、本来なら犠牲者である発病した個人を不当に非難すること)につながりやすいとして、個人の努力に基づいた予防活動は批判された。それを受け、町全体の環境を健康増進に寄与するよう改善し、健康都市への転換をめざす運動が欧州を中心に展開され、1986年、カナダのオタワで「健康増進を個人の生活改善に限定してとらえるのではなく、社会的環境の改善を含む」ことを認めた「オタワ憲章」が採択された。
◆新公衆衛生に対する批判・懸念
第一に、リスクという概念の導入により、従来は介入の対象とならなかった人々にもその影響が及ぶ点である。健康な人々と不健康な人々の明確な境界は消滅し、全人口が潜在的なリスクにさらされた集団とみなされる。結果的に公衆衛生上の統制は広範囲に及ぶことになるが、リスクの同定は専門家でも困難といわれる。そして個人はあらゆるリスクを避けるという新しい義務を負うことになる。
第二に、「個人の行動」と「社会環境」のバランスをどのようにとるか疑問視されたことである。比較的恵まれた環境に住む人々より、経済的に困窮した状態で生活している人々の方が、不健康の原因を「個人の行動」に求め、自らを責める傾向のあることが明らかにされている。
第三に、健康増進において「個人の責任」が強調されることの意味するところが、以前に比べて見えにくくなっていることへの懸念である。1970年代後半、病気の予防活動における自助努力を強調することは、公衆衛生政策をすすめる国が「個人生活に介入し、非難し、処罰する」こととみなされた。当時、恵まれているとはいえない社会環境のもとで発病した人は「犠牲者」であり、その犠牲者を非難する国家という図式が明瞭であった。ところが、現在、コミュニティ開発、健康政策、エコロジー運動など、さまざまなチャンネルへの働きかけを通じて行われる健康増進の活動は、市民のエンパワメントを助けるものと考えられている。健康で持続可能な環境を作り上げるため、「コミュニティ参加」、「持続的発展」、「領域横断的協働」において、個人はより活動的な役割を担わなければならない。
以上のように、新公衆衛生運動の取り組みは、半世紀前から世界各地で行われていた。これを受けて日本でも各地で地域住民を対象とした健康講座(ヘルスプロモーション)が行われている。
第二項 日本における「健康講座」の活動 ―病院から地域に出ていき行う健康講座―
(1)古川町商店街「すこやか健康講座」(桂他 2007)
◆概要
京都大学の医療グループが地域住民の生活に密着した商店街を拠点に一次予防、二次予防の観点から商店街就労者と周辺住民、とりわけ高齢者を対象に介護予防や生活習慣病予防による健康寿命の延伸を目的とした保健活動を実施している。
◆活動内容
「すこやか健康講座」は、午後7〜9時の間に開催し、商店街および周辺住民の参加しやすい夕方以降の時間帯に実施している。会場は、参加しやすく運動ができる商店街周辺の、ホテルや料亭の大広間、商店街の集会所、近隣の公共施設などが設定される。
講座の内容は『最近ちょっと太り気味が気になりませんか』、『メタボリックシンドロームって何?』、『高脂血症ってなんだろう?』『転倒・骨折予防について』、『寝たきりにならないためには?』といった生活習慣病予防と介護予防に関する内容が主なものである。現在のところ講座は、2カ月に1〜2回のペースで開催し、参加者は中高年を中心に30人から40人である。
◆講座開催までの流れ
・商店街が「すこやか健康講座」開催の要望を京都商店連盟に連絡する
・商店連盟が要望にそって大学と日時、内容を調整する
・商店街が場所を決定し、「すこやか健康講座」開催を周辺住民に広報告知する
・大学が「すこやか健康講座」の資料を準備し、実施する
・商店連盟が「すこやか健康講座」の感想を大学に知らせる
◆活動の成果
出前「すこやか健康講座」は、商店街就労者や周辺住民を対象に、主に情報提供(知識の普及)や動機付け支援を目的としている。
現在東山区古川町周辺のモデル地区では転倒・骨折予防、介護予防および体重管理と生活習慣病予防に関する知識の普及は進んでいる。動機づけ支援や積極的支援による意識や態度・行動の変容は緩徐ではあるが着実に浸透している。
また介護予防やライフスタイル改善を目的として企画した“すこやかサロン体操”に参加する者や血圧を測定する者は、いずれも単独で参加するよりも、仲間と一緒に参加する場合が多い。商店街や講座における地域住民同士の社会的な交流を介して生まれた仲間意識の再生と関係の強化が、個人の健康意識や態度・行動の変容を促進している可能性があると考える。
(2)長崎県保険医協会健康講座(林田 2003)
◆概要
長崎県保険医協会(以下「協会」)ではじめての地域医療活動として、老人問題を取り上げ、老人の医療や健康に対する意見を聞くため、長崎市の全老人クラブを対象にアンケート調査を実施した。そこで、老人の方が健康・医療に関する情報を欲していることがわかり実施に踏み切った。
◆活動内容
協会では、1981年より健康講座を開催、10年後の91年に200回、20年後の2002年7月で500回目を迎えた。現在およそ年に30回〜40回のペースで開催されている。
ある医師は、この講座について“医学のことを、医療の実際を、易しい普通の言葉で話すこと。出来ればその地方の方言を交えて説明が出来れば尚効果的でしょう。偉い大学の先生ではなく、近くの病院や診療所の先生のお話のほうがよい、そうすることで気軽にどんな質問も出せる雰囲気が出来るでしょう。”と言っている。
目的としては“県民の自発的健康増進運動を援助し、また相互理解を深める”ことであり、この健康講座は開業医から地域住民への一歩通行の講演会ではなく、もっと身近で気楽な、膝を突き合わせた相互のコミュニケーションの場として始まったのである。
◆活動の成果
老人クラブへのアンケートからは、「健康講座は健康を守るのに役立ったと思いますか?」に対して、17クラブの会長全員が『役に立ったと思う』と回答。協会の健康講座は『気楽に聞け、質問できて分かりやすい』と好評な意見とともに、『老人クラブも高齢化し会員を集めるのが難儀になってきている』との声等があった。
また、講師を務めた協会会員へのアンケートからは、「開業医と地域住民の相互理解に役立つと思うか?」の問いに対して『思う』21人、『思わない』1人、『分からない』3人という結果であった。多くの講師が健康講座の意義を感じている。
(3)「新・にしのみや健康づくり21」出前健康講座(兵庫県西宮市)
・主催 西宮保健所
・対象者 西宮市民で10人以上の団体・グループ・サークル、西宮市内の自治会・学校・PTA・企業など
・講師 医師・保健師・管理栄養士・歯科衛生士等
・講師料 無料
・講座時間 2時間以内
・内容 「栄養・食生活」、「運動」、「こころの健康」、「タバコ」、「アルコール」、「歯の健康」、「生活習慣病予防」、「母子保健」、「思春期保健」など
(4)元気アップ出前健康講座(青森県八戸市)
・主催 八戸市市民健康部
・対象者 八戸市民
・講師 医師、歯科医師、栄養士など
・講師料 無料
・講座時間 1時間半程度
・内容 「はじめよう脳卒中を防ぐ生活」「筋力アップとバランス食で目指せ若返り!」「社会的ひきこもりを理解するために」など
・場所 各地の公民館など
以上で取り上げた新公衆衛生運動や、それに関連した健康講座はヘルスプロモーションの流れに位置づけてとらえられる。これに対して、第三章調査の項目で述べる「コントDE健康」の活動は、確かにヘルスプロモーションとしての一面も持ってはいるが、以下で述べる佐久総合病院のような地域医療の流れに位置づけた方がよいと思われる。なぜなら、それらには「演劇」という共通項があるからだ。
第二節 佐久総合病院の例 ―演劇を取り入れた地域医療―
◆佐久総合病院について(1)(油井 2010)
貧しい農村地域には医師が来ないという状況のなかで、自分たちのいのちを自分たちで守る、組合の病院をつくろうと昭和19年に開設される。その次の年に若月俊一が外科医長として赴任し、そこから佐久総合病院(以下「佐久病院」)の歴史が大きく展開される。当時の南佐久郡には23の小さい村々があり、そのうち13の村が無医療村であった。若月の医療の実践は「医療の民主化」という大きな理念のもとで、無医村、無医地区の解消を進めた歴史でもあった。
「医療および文化活動を通じて住民のいのちと健康を守る」こと、それが「自分たちの使命だ」と考え、医療と文化活動を両輪としているのが特徴。文化活動とは単に歌を歌ったり楽器を演奏したりすることだけではない。そもそも文化という言葉の語源は「耕す」ということで、地域を耕し、そこに健康の種を蒔いて育てる活動が医療と文化活動の協働のかたちである。佐久病院は文化活動を、生き生きと豊かで人間らしくあることを文化的と呼び、それを獲得する活動を文化的活動と定義する。そう考えれば、医療はまさに文化活動である。医療と文化活動は一体化したものであり、それらの活動をもとに「地域づくりへの貢献」を行うのが佐久病院の理念である。
◆運営の特徴(油井 2010)
佐久病院の運営方針の特徴は、以下の3つで、佐久病院がめざすものは、医療の民主化、つまり住民主体の医療の実現である。
1. 「二足のわらじ」
高度・専門医療と、第一線医療(プライマリー・ヘルスケア)の共存がなければいけないという考え方。どこにも負けない高度な専門性の高い医療は、人の「いのちを救う」という面で絶対に必要なものである。都会に行かなければよい医療が受けられないのではいけない。一方、地域の中にあり、生活に根ざした第一線の医療も大切である。専門ばかりの医療だけでは安心して暮らしていけない。その2つを医療者は自らの中に持っていないといけない。同時に病院の機能としても、包括的に持っていなければいけないというのが佐久病院の「二足のわらじ」論である。
2. 「医療と文化活動を車の車輪」
佐久病院は総合力、団結力が持ち味である。コーラスや吹奏楽といった文化活動を日常的に行うなかで、職員が主体的に病院の運営や患者さんや地域のことを考え、また職員間の垣根を低くし、協力する力を育ててきたと言える。
佐久病院は5月の第3土・日に「病院祭」を行っており、2010年で64回目を数えた。これは病院を開放して行う病院の衛生展覧会である。時代とともにテーマが設定され、公衆衛生や食の安全性、医療制度、介護問題など、さまざまなテーマが取り上げられてきた。そしてその取り組みには住民の参加があった。病院祭は医療と文化活動の統合の一番特徴的な取り組みだと言える。
3. 「5:3:2方式」
これは病院の経営、運営を考えるときの力の配分方式である。病院の持つ力を10とすると、入院に5の力、外来医療に3の力、保健予防活動(現在では地域ケアや福祉の分野も入る)に2の力を注いでいくという運営方式を意味している。
佐久病院の活動のなかで特徴的と言われたのは、この2の部分にある。この保健予防活動の原点が、出張診療の取り組みにある。
昭和20年代、農村が非常に閉鎖的・封建的ななかで、患者は我慢型、手遅れ型が非常に多かった。若月を中心としたスタッフは病院のなかで治療する上で、どうして手遅れになるまで放っておくのか、我慢するのかと考え、地域に入って実態を見なければいけないと考えて、病院から地域へ出ていく活動を行った。そのなかで潜在疾病というものが非常に多くあることがわかり、出張して診療することの必要性がわかったのである。そこで、佐久病院のなかに出張診療班というボランタリーな組織を編成して、日曜日や土曜日の午後、地域に出掛けていくという活動を始め、その診療に衛生講話と演劇を組み合わせた。若月がシナリオを書いた演劇を職員が演じ、これがたいへん評判になった。この出張診療と衛生講話、そして演劇の組み合わせが佐久病院の医療と文化活動の統合といわれる所以である。
◆若月俊一の取り組み
若月は自身の著書の中で次のように語っている。
松田甚次郎という方の『土に叫ぶ』という本に宮沢賢治先生の教えとして載っているのに、こういうことがあるんです。農村へ行ったら、二つのことを守らなければいけないと。一つは小作人の立場にたつこと、地主の立場になってはいけない。もう一つは、農村へ入ったら、演説してはいけない、劇をやりなさいというんです。(若月 2010:44)
若月は、地域医療を行う際に、宮沢賢治の「農村へ行ったら、演説してはいけない。劇をやりなさい」という教えを守り、佐久病院の医療従事者で作る劇団を結成し、公演を行った。
以上から分かるように、若月は地域医療を行う際に演劇というものが非常に大切であると考えていた。では、なぜ歌や音楽ではなく、『演劇』であるのか。残念ながらそこまでは文献から理解することはできなかったが、佐久病院の地域医療に演劇が組み込まれた(現在も続いている)ことは、やはり演劇そのものに備わっている何かが有効なのではないかと思わせる。本論文はその謎をすべて明らかにすることはできないが、演劇の一種である『コント』を通して地域医療を行う医療従事者に接触し、また、そこで行われているコントの台本を分析することで、演じる当事者も意識しないような、演劇の持つ意味をできる限り明らかにしていきたい。