第5章 生き難さの諸側面
第1節 高次脳機能障害の難しさ
実際に、高次脳機能障害の人々がどんなことで苦労しているか、どのように複雑なのかを実例を挙げながら紹介する。
●高次脳機能障害と分かるまでの苦労
高次脳機能障害の大きな問題点に、発見までの遅れがある。受傷時の病院ですぐに「高次脳障害機能」という病名が出ず、「後遺症なし」と診断されて退院を余儀なくされるケースは未だに存在する。本調査でもCさん、Dさん、そして体験記の鈴木郷さんは自らが高次脳機能障害と分かるまでにそれぞれ時間がかかっている。高次脳機能障害についての知識を持っている病院がまだ少ないこと、社会的認知度が低いことが原因として挙げられるが、これは解決すべき重要な課題である。
●障害の認識
高次脳機能障害の人の大きな特徴として、彼らは自分の障害を認識するのに時間がかかる、という点がある。つまり、自分で自分が「高次脳機能障害者」であるということをなかなか理解できないということだ。身体障害、例えば足が不自由な人であれば「歩けない」という自分の障害に現実の不便から気づかざるをえない。しかし高次脳の場合は当初「自分が事故以前と何か違う」という漠然とした違和感から始まる。そして、多くの人が「死んでもおかしくなかったのに、奇跡的に助かった」という段階を経ているため、多少の違和感を最初ごまかしてしまうのである。「高次脳機能障害である」とはっきりと分かった後でも、イライラする、記憶が続かないなど内面的な症状が多い障害であるため、「これは障害のせいだ」と理解することが難しく本人は非常に苦悩してしまう。
●人によって例外もある
Dさんは割とすぐに自分の障害を理解できたと言う。というのも、病院での検査を通してのことだった。ランダムに並んだ数字を順番に線で結んでいくようなテストを病院でやるうちに、健常者よりも何倍も時間がかかることが分かったのだ。日常生活に不便を感じていなかったDさんはその結果にショックを受けたそうだが、次第に「数字ではっきり表れている」ことに納得し、障害を理解するようになった。
●感情をコントロールできない
コミュニケーション上の大きな問題として、感情のコントロールができないという点がある。これも全員がそうというわけではないが、多くの高次脳機能障害者が抱える問題である。Dさんもいきなり機嫌が悪くなったり、怒鳴ったり、物を投げるようなことがたまにあるという。
Aさんは「一段と子供っぽくなってすぐ親や周囲を頼る、些細なことで大声を出して暴れる、5歳の幼児と15歳の反抗期の子供と21歳の年齢相応のいっぱしの理屈を言う若者が同居している状態でした。」と受傷当時の息子さんを振り返る。以前の健康な状態や、症状が安定している時の本人とのギャップが、さらに周囲にショックを与えるのである。
●理解されにくい障害
高次脳機能障害は理解が非常に難しい病気である。外見では障害者と分からないこと、できることとできないことのギャップなどが原因である。例えばDさんはパソコンを扱うのが得意で、自分でブログを作ったり、一通りの操作をすることができるが、コンビニのオニギリを開けることができない。このような例を見ると、例えば職場でも「これができるならこれもできるだろう」という常識が通じなかったり、お互いにその相互理解が難しくなる。
障害の内容も人それぞれに違うため、高次脳機能障害の知識を持っている人でも、もちろん本人自身でさえも「全部はまだ理解できない」(Cさん)と語る。
●何が理解を遅らせるか
それは障害の複雑さにある。高次脳は脳のどこがダメージを受けたかによって症状が全く異なる。Cさんは高次脳と診断を受ける前に自分で図書館で調べて「自分は高次脳だ」と気づいていた。しかし、理解となると「全部は分かりません」と語る。自分でも自分の障害を全て理解するのが難しく、そして人によって症状が違いすぎて高次脳という病気を「こういう病気だ」と定義することは難しいのである。
●受け入れも難しい
自分はそれほどひどくない、と当初たいていの人は思うようである。Bさんも当初家族会に誘われたときに、「自分はこの人たちとは違う、こんなにひどくない」と言ってなかなか会に参加しようとしなかったそうだ。
第2節 高次脳機能障害と家族
障害を考える上で、家族の苦労は見逃すことのできない重要なポイントである。高次脳の人々は前述した通り、見た目には健常者と変わらない人が多い。受傷後時間が経っているとある程度身体面の機能が回復していて、話しても健常者と違いの分からない人が多い。実際私がBさんと初対面でお話しした時、どこにも違和感を感じなかった。それをAさんに話すと、それは私が身内でないからであり、Bさんは身内でない人に感情をあらわにすることは通常なく、逆に家族には外とは全く違う顔を見せるそうだ。家族の前ではリラックスできるが、外では理性を保ち緊張した状態なのだ。Dさんも時々カッとなることがあり、奥さんに怒鳴ったりしてしまうそうだが、外ではそういうことはほとんどないと言う。Aさんは障害者の家族の負担が大きな問題であり、本人の家族はそういった辛い立場を一身に引き受けてやりきれない気持ちになると言う。
●内と外の違い
不思議なのは、クラスメートと会って話をするときは、二十歳の息子の顔になっていることだ。友人たちと別れても、数時間は年相応の息子に戻っている。
「これはすごい!」と感心した。
郷は友達といるときは、友人と過ごしていた時代に戻るから、二十歳の郷になった。友人とは対等でいなければならないし、人前では格好をつけなくてはならないから、郷の理性と自覚が働くのだろう。
しかし、うちに帰ってくると、また幼児に戻ってしまうのだ。親子は郷が幼児の時から親子だから、郷は幼児でも二十歳の少年でも問題ない。家族は甘えられる存在だから、郷は二十歳に戻ることができないのだ。
(鈴木,2006:69)
感情のコントロール力は人によって違うが、本人にとって家族というのは感情をむき出しにできる存在であるようだ。この事例のようなギャップは家族に喜びとともに戸惑いをもたらす。
●抱え込みについて
抱え込みとは本人の変わり果てた姿を他の人に見せたくない、また他の人からの冷たい視線から本人を守りたいという親の愛情、誰にも障害を分かってもらえないという孤独が親子を社会から疎遠にし、親が子を離さない状況に陥ってしまうことである。
受傷当時の抱え込みについてもAさんはみんなにそういう時期があると語った。実際にAさんも息子のBさんと2人で暮らしていこうかと真剣に考えたことがあるそうだ。息子の変わり果てた姿を周りの人に見せることの苦しみなどから、親、特に母親は抱え込みに走る傾向にある。しかし、結局は抱え込みは問題を悪化させるのであり、家族会など理解者との出会いを経て親は逆に子を「外へ出そう」という思いに転じるようである。
●夫婦の場合
本人が既婚である場合、より複雑な展開になってしまうようである。というのも、本人が妻または夫を覚えていなかったり、本人の親からの抱え込みが同時に起こったりするケースがあるからである。覚えていないのに家族として共生しなければならないというぎくしゃくした状態は、親子関係のケースとはまた違った問題点を抱えているようである。高志の会員でも、結局別居に至った夫婦もいた。
Dさんに「既婚と未婚と、高次脳になってしまうならどちらの状態がよいと思いますか?」と聞いたところ、「家族がいなかった方が楽なんじゃないの。だって、それ以降結婚したりすれば、新しい、それは全て自分の記憶に残ることやから」「嫁はんには感謝してる(中略)本当に自分が逆の立場やったらこら大変、こんなん抱えてどうすんがやと」とDさんは語った。また、衝撃であったのはDさんが入院当時、よくお見舞いに来てくれる仲間の女性を「この人が本当の奥さんかな」と思っていたというエピソードである。稼ぎ手である夫が障害者になってしまった場合、妻が働きに出てますます関係が希薄になりがち、という構図があるが、こういった発言から考えるに夫婦間の関係の維持はとても大変そうである。必ずしも記憶障害が起こるわけではないが、本来他人である夫婦という関係において、関係性の変化は大きな試練になりうるということであろう。
●家族会の機能
私が出会った人々について言えば、むしろ本人よりも家族の語りに「家族会に助けられた」というものが多い。家族会は本人と家族に障害の情報や知識を与えるだけでなく、同じ苦しみをもつ人がいることを知ることで、家族の苦しみは大きく緩和される。しかし中には家族会に入りたがらない人もいるようで、Aさんは無理に家族会に誘うということではないが、家にとじこもっている方をどう外に出していくかが課題であると語っていた。
実際本人はと言うと、症状も境遇も違うことが多いので、本人同士に深いつながりは見られなかった。しかしAさんは家族会に来るといきいきする会員もいて、そういう人が活動できる居場所を作ることも家族会に必要な機能と語っていた。
第3節 社会参加・就労
障害者にとって重要なのは「いかに社会参加をするか」である。障害者は自立支援を受けることができ、自分にできることを見極めながら作業所(安い工賃をもらい作業をする施設)に通うか、障害者枠で就労するかという進路を決めていかなければならない。Aさんによれば、親は最初何でもいいから就労に結びつけるような何かはないか?と考えるが最近はAさん自身も考えが変わってきて、家以外に彼らの「居場所」を作ることが大事だと考えているそうだ。つまり、必ずしもできる仕事やスキルがなかったとしても、何かしらの活動をする場が必要ということである。親がそういったことを手助けすることについて、Aさんは「ある程度居場所とか将来の道をつけてやるのはこの人たち(本人)は多分判断できないし自信がない」と語っており、親や相談機関の手助けは甘やかしなどではなく障害者が社会に再び戻るために必要不可欠なものであることが分かる。親が子供を育てるように、ある程度の道を築き巣立ちを見送るという作業を人生でもう一度行っているようにも見える。
作業所や就労に関しては様々な苦労エピソードが語られるが、いずれも結果的に本人はいろんな苦難を乗り越えて改善を重ねていっている。
●リハビリとしての仕事
Dさんは、「今は良くも悪くも今景気悪いやろ。障害なくても50いくつのおじさんが、まあ基本的には仕事ないやろなって思いがあって」と語る。Dさんは自立支援ハウスで知的障害の子供の補助をする仕事を有償ボランティアとしてやっている。「まあ遊んでるような感じで。でも結局1日正味拘束されるから、それはそれで仕事っていうか。自分のリハビリになってるなって、ちょうどいいの見つかったなって思ってるんですけど。」とDさんが語るように、仕事はただ単にお金を稼ぐ作業ではなく、リハビリとして捉えることも出来るようである。
●苦労エピソード
実際に就職した人は、多くの苦労を経験するようである。Cさんに「職場でどんなことが大変だったか」と聞いたところ、障害の理解が難しいと語った。「あちらの方もどんな風に接したらいいとか分からないと思うんで、私ができる事とかを書いて、渡したりとか。やりとりが大変でしたね。身体のこと伝えるのが。」と当時を振り返っていた。高次脳機能障害者には社会的行動障害(イライラしやすく怒りやすい、喜怒哀楽のコントロールが難しい)や遂行機能障害(段取りが立てられない、計画どおりの行動が取れない)などを持つ人が多く、仕事をするにはたくさんの障害があるのである。
脳外傷友の会高志とやまの会員であるEさんは、職場の鍵をなくすというミスをしたことがある。これは健常者でもあり得るミスであるが、Eさんは本当に落ち込んで仕事を「やめよう」とまで思ったそうだ。Eさんが働いている施設を利用して会でバーベキューをすることがあったが、Eさんは休日なのに玄関の掃除をしたり、セッティングを手伝ったりしていた。Aさんによれば、Eさんも職場の人に自分を認めてもらおうと一生懸命なのだそうだ。