第3章 先行研究
第1節 語りから障害を見る
フランク(Frank,1995=2002)は病いを持った人々の語りを3つの類型に分けた。これらは「物語の筋書き」であり、「回復の語り・混沌の語り・探求の語り」から成る。「昨日私は健康であった。今日私は病気である。しかし明日には再び健康になるであろう。」という回復の語りについてフランクは「回復の物語は、人が死を迎えつつある時、あるいは障害が慢性的に残ってしまう時には、もはや役に立たない。回復がもたらされない時には、他の物語が準備されねばならず、さもなければ語りの難破が現実のものと成ってしまうのである。」(ibid:135)と語っている。回復の語りがその効力をなくしてしまった時、人々は混沌の状態におかれ、やがて探求の物語を見いだしていくことで語ることを続けていくのである。
フランクは病い研究を行う上で、「病いについての支配的な文化的観念が、受動的なもの―病む人を病気の「犠牲者」、ケアの受け手としてとらえる見方―から能動的なものへと移行することを願っている。病む人は、病いを物語へと転じることによって、運命を経験へと変換する」(ibid:3)と語っている。病いによって人の生は急激に色を変え、人々は大きな動揺を感じる。しかし、病いを単にマイナスな観点だけで捉えるのは間違いだと私は感じる。自分の病いを語ることで新しい物語を見つけていくことによって、人は喪失体験をも経験として活かしていけるのではないだろうか。よって本研究では障害者自身や家族の語りを通して、彼らの物語を描き出すことに重点を置いている。
第2節 障害を扱う研究
障害者と言っても身体障害・精神障害・脳機能障害などそれぞれ異なる特徴があり諸研究の成果がいずれの障害にも当てはまるとは言えない。しかし本章ではいくつかの障害にまたがって先行研究をレビューし、それを本研究の主旨にあてはめていきたい。
第1項 障害をどう捉えるか
障害研究において重要なのは障害をどう捉えるか・位置づけるかである。これにはいくつかの説があるので、以下に紹介する。
石川(1992)は、ピア・カウンセリングを行う人々のもとでのフィールドワークをもとに、障害者が障害をどう捉えるかについて、「障害をふっ切る方法」として以下の二つの方法を挙げている。
●自分から障害を差し引く
「自分から障害を差し引く」とは、スティグマ[i]たる障害自体を中立的に解釈し、障害以外の部分に価値を見出すことを意味する。つまり、障害を外側から課せられた条件であって、人の内在的な特徴ではないと考えるのである。「身体は障害者であっても、精神は障害者ではない」という考え方である。
しかし、身体障害者が車椅子や補装具で身体機能を代替可能なのに比べて高次脳機能障害や精神障害のように障害が知能や精神に大きな影響を及ぼす場合、それらの機能を代替することは容易ではない。(自分から障害を簡単に差し引くことが出来ない)よって全ての障害にこの考え方を適用するのは難しいと考えられる。
いきなり以前できたことができなくなった中途障害者にとって、以前の自分を「本来の自分」とし、この考え方を持つことは自然であるが、この考え方には大きな難点が指摘されている。それは、本来障害者が闘うべき敵は健全者文化(能力によって人を隔てる文化、障害をおとしめる文化)であるのに、自分の障害が敵となってしまい、健全者にすりよった考え方になってしまうことである。障害の補償を自分の責務と感じ、それにのめり込んでいってしまうことは、結果的に障害を否定する健全者文化に近づくことになってしまうのではないだろうか。
●障害を含めた自分を認める
障害を差し引いた後の自分に価値を与えるのではなく、障害を積極的に意味づけ自分の重要な一部と見なす、ということである。これは障害を否定的なものとして軽減・除去せんとする社会の主流的な価値規範を問い直すものでもある。この考え方は主に幼少期からの障害者によって主張されてきた。障害者は障害を自己の中心に位置付けるという点で、上記の障害を自己から切り離す方法とは逆の方法とも言える。また、上記の方法が自分(障害者自身)を健常者と変わらないと考えようとするのに対して、この考え方は健常者と障害者をはっきりと区別するものである。つまり、健全者文化とはっきりと一線を引いた考え方と言える。
しかし、この考え方にも問題点がある。それは彼らが実際に生活している社会は健常者が中心である以上、障害に基づいた独自の価値規範や生活様式を産み出そうとしても、常に健常者文化の圧倒的な影響力に脅かされることである。また、そこには全てを肯定する、障害を肯定する苦しさがあり、障害を肯定しきれないときには再度自分を否定しなければならなくなってしまう。
●生涯における意義ある喪失としての障害、新しい価値観
田垣(2007)は脊髄損傷者を対象に、彼らが障害をどのように意味づけているかをその変化とともに明らかにしようとしている。
研究の中で、障害者が「障害者になって初めて知った価値」について深く検討しているのはやまだ(1995)が提唱する「生涯発達における喪失の意義」という観点に立つ為である。障害という身体機能の喪失は人生に危機をもたらす出来事ではあるが、生涯という長期的な時間経過から見れば、「生の意味が問われ、生活が再構造化され、人生を変容させ、成熟をもたらす発達の契機」(やまだ・河原・藤野・小原・田垣・藤田・堀川,1999)に成りうる。田垣は中途障害者のライフストーリーを聴く上で、「障害者になって初めて知った価値」に注目し、それが「健常者の頃からの価値規範」とどのような関係にあるのかを分析している。その結果、新しい価値観は受傷によって新規に生じるのではなく、喪失前から維持している価値規範との連続性の上に成立していることを田垣は強調している。障害者に残った価値観には「社会参加への意思」、「障害者への差別心」などがあるが、インタビュイーの「健常者の自分と、車椅子の自分という二つの生き方を得た」という語りは、まさに以前の価値観を残した上での新しい価値観であると言える。
●希望的あきらめによる障害との共存
関谷(2007)は精神障害者を対象に、ライフストーリー・インタビューを行い、そこから得られた語りを分析する手法をとっている。
障害について考えるとき、長年用いられてきたのが「障害の受容」という考え方である。「障害の受容とは、あきらめでも居直りでもなく、障害に対する価値観の転換であり、障害をもつことが、自己の全体としての人間的価値を低下させることではないことの認識と体得をつうじて、恥の意識や劣等感を克服し、積極的な生活態度に転ずることである」と上田(1983:209)は定義している。何らかの方法で障害を受け入れ、積極的な生活態度に転ずることがよしとされてきたのである。しかし、関谷は「だれも彼もが障害や障害者となった自己をよしとできるものなのか。また受け入れなくてはならないのか。」と述べている。仕事に関しては障害のことを割り切って臨めても、恋愛や対人関係に関しては踏み出せない精神障害者の語りを受けて、関谷は「自身の現状がすべて納得できるわけではない。落ち着いているようにみえても、受容できる部分と受け入れることのできない部分を抱えているのが、本ケースに限らず、多くの障害者(と非障害者)の現実ではないか。個々人の内面に受容も拒否も矛盾せずにあるということ、価値転換により自己存在は支えられても、現実の生きづらさはなおも残るということ。また障害と歩むあり様はその人それぞれであるということがある。」と語る。関谷は「障害との共存」という考え方を提唱している。それは「制限つきの生活・人生であっても障害をもったままのいまの自分で生きていこうとする意志とその行動」を指すつまり、受容できない部分があってもその部分を持ったまま何とか生を切り開いていこうとする姿勢が、多くの障害者の現実ではないか、ということである。
第2項 中途障害者の観点から考える
中途障害をもたらす事故・病気は人生における大きな喪失体験であるが、田垣が「今は障害者だが、経験的には健常者の頃もあったので両方からの見方が出来る」と述べるように、彼らは障害を負うことによって、「ダブル・ライフ」という存在になり、障害をより主観的にも、客観的にも見ることのできる立場と言える。
また、中途障害者は受傷後まもなくは自分の障害を認識しにくいという特徴がある。田垣によると(病院を退院後)「話し手が障害を単なる身体機能の喪失ではなく、自身の価値を低めうるものと気づいている。2人とも他者からの奇異な視線によって、自身を「障害者」と受傷後初めて認識している。」この点から考えると、人々は障害によって障害者になるのではなく、健常者が大半を占める世の中における位置付けとして障害者になると考えられる。フランクの語る「支配的な文化観念」つまり「健常者文化」と相対するものとして「障害者文化」があり、この対比こそ障害者研究の根底なのではないだろうか。中途障害者はこの二つの文化のバイリンガルな存在であり、非常に興味深い研究対象である。
第3節 まとめ
障害について考える上で、重要な視点はその捉え方であり、彼らが障害を受容しているのか、受容はせずとも共存しようとしているのか、はたまたその別か、ということを論じることが出来る。この方法を調べることによって本研究の目的である「別の語り」も因果関係をもって引き出されると考えられる。
障害者が障害と向き合う背景には障害者を障害者たらしめるもの、つまり健常者文化との対比がある。よって我々は「できる・できない」という局面に注目し障害者を「犠牲者」としてしまいがちであるが、真に障害者の考えを知るためにはその語り、暮らしぶり、環境をしっかり観察しなければならない。
本章第2節第1項においていくつかの捉え方の事例を示したが、本研究の調査対象である高次脳機能障害者においてもこれらの方法があてはまるかどうか、異なる方法があればそれがどのようなものであるかを明らかにしていきたい。
[i] スティグマ・・・身体上や性格上のある特徴に与えられるマイナスのイメージ。個人に非常な不名誉や屈辱を引き起こすもの
参考文献・URL
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