第二章 先行研究
第一節 「おたく」という言葉がもつイメージ
おたくという言葉はおたくという言葉が生まれてから今まで、ネガティブなイメージを伴って使われることが多い。元々は中森明夫がコミケと呼ばれる同人誌即売会にいる、普段は運動ができず、クラスの中でも日蔭者で、ファッションに気を配らない人々や、アニメ映画の初日に並ぶ人々、ブルートレインを撮ろうとして轢かれそうになる人々、SFを集めて悦に入る人々を、ネクラやマニアといった以前使われていた言葉ではなく、「おたく」と呼ぶと提唱したことによる。森川(2008)によると、その後おたくという言葉は連続幼女誘拐殺人事件を経て、「虚構の世界にこもり、現実と虚構の区別がつかず、小児性愛的な性向を持った人物を想起させる呼称」として世間一般に定着した。そしてその当時、アニメファンにはそのようなネガティブな人格的傾向があるという偏見が、強く形成されたとしている。今では特定の対象に趣味的に執着することを指し、軽いからかいや自嘲を含む使われ方もされるようになったが、依然と「おたく」という言葉だけで使われる場合に想起される人物像やニュアンスは、中森が提唱したステレオタイプからほとんど変わっていないとしている。
七邊(2005(1))は、他者との関係を強く求めていないのに生活に満足しているアニメやゲームを愛好する若者をオタクと定義し、オタクの関係性について述べている。また、若者研究における「オタクと関係性」からみた今までのオタク像を、オタクと対人領域に関するものと、オタクと個人領域に関するものという二つのものに分類している。オタクと対人領域に関するものの例として七邊は「オタクは社交能力が低いため、他者とのコミュニケーションを完全に拒絶するか、特定のコミュニケーションを拒絶する」像を挙げている。またオタクと個人領域に関するものの例として「オタクは、自分の世界に逃避し閉じこもっている(自閉している)」像を挙げている。
また七邊(2006)は、ゲームやアニメ、マンガなどのコアなファンを「オタク」とし、社会的にネガティブなイメージを含むオタクという「社会的カテゴリー」は当事者たちのふるまいや考え方に大きな影響を与えており、オタクにまつわる様々な社会現象の多くが、オタク・カテゴリーからの「距離化」、あるいは「同一化」といった対応によってもたらされているのではないかとしている。オタクというものがオタク以外の外集団にとってスティグマになることを当事者は知っていたため、外集団からの信頼を失わないために「自分の趣味を隠したりファッションに気を使ったりして、オタク・カテゴリーから距離を取ろうと」しているとした。また「自分たちの同類ではない者たち(外集団)を意味する語彙を所有し自分たちと区別」することは「当事者の多くがその集団に帰属意識を持ち、集合的アイデンティティを共有していること」を示し、パロディの生産やコスプレ、萌えという価値観は「情報収集や交換という規範など「文化」への同調」であり、「自分たちの「オタクらしさ」を確認するために、オタク集団の規範や真正性を体現するプロトタイプ的成員に同一化しようと」している、としている。
第二節 「おたく的楽しみ方」と「読み」というもの
吉本(2009)は著書で、おたくという言葉を美少女やメカといったSFや魔法などのファンタジー要素や、性的要素、恋愛要素を含んだ「おたくジャンル」の作品を愛好し、尚且つ、自分自身をおたくと自己認識している男性と定義した。そしてその上で「おたく的楽しみ方」として、フィクションの物語に強いリアリティを感じる事や、関連する領域を調べていく事、集まって話をして楽しむ事、大きなイベントを開いて楽しむ事、作品を自分なりに読み替えて楽しむ事を挙げた。また楽しみ方の基本として男女共にパロディや二次創作を上げ、おたくとしての楽しみ方を定義した。
そして永井(2002)はオタクの同人活動やコスプレといった活動の事例研究やフィールドワークをもとに、同人誌作家(特にやおい作家)とコスプレイヤーのテクストに対するデコーディングと、それぞれのコンテクストについての考察を行っている。
デコーディングという考え方はS・ホールの「エンコーディング/デコーディング理論」に起因する。エンコーディング/デコーディング理論では、情報の送信者は特定のコードを使用し、情報をエンコーディング(コード化)することによってメディアにのせることが可能となる。またコード化された情報を受ける受信者は、そのコードをデコーディング(脱コード化)することによって、メッセージの読解を行う。この理論は、受け手が常に送り手の意図した均一なメッセージを受け取るとは限らないことを示唆しており、送り手はエンコーディングに際して、メッセージを「こう読むべきだ」という「優先的」あるいは「支配的」コードを用いるが、受け手側はデコーディングに際して「多様な読み」を行う事を示している。永井は山口誠の考え方を用い、オーディエンスがデコーディングを行う際にとりうる位置を3つにわけている。一つ目は支配的(ヘゲモニック)な位置である。これはエンコードの〈意図〉とデコードの〈読み〉がほぼ一致するものである。二つ目が交渉的な位置である。これは、支配的な〈意図〉や期待された〈読み〉の力を大枠で認めつつも、独自の〈読み〉を部分的に試みるものである。最後が対抗的な位置である。これは、支配的な〈意図〉や〈読み〉に対立した独自の〈読み〉を実践することである。そして、これらの「読み」はコンテクスト(文脈)によって大きく決定付けられるとしている。
そのような先行研究をもとに永井は、同人誌作家とコスプレイヤーの読みの相違点を挙げている。同人誌作家やコスプレイヤーは交渉的な読みをするところは同じだが、それをどのように表現するか、コンテクストの読み方が違うとしている。同人誌作家のやおい的「読み」は、ひとつの物語から新たな物語をつくるような、ある意味で創造的な「読み」を行っているとしている。また同人誌については、同人誌に使われる「支配的コード」はその作者がデコーディング時に行った「読み」をそのまま表現したものであり、その作者のアイデンティティともしている。
コスプレイヤーに対しては、彼らの「読み」は虚構の世界を現実の世界に再現するような「読み」であり、テクストに対して模倣的であることが重要であるとしている。そして「読み」は「交渉的」ではあるが、部分的には「優先的」でなければならないとしている。
また彼らの共通点としてコンテクストはメディアに対峙することによってはじめて現れるものであり、オタク達は意図的に「支配的な位置」から逃れており、積極的に「交渉的な」コンテクストに身を置いているとしている。
第一節で扱った先行研究から、おたくというものは社会的にネガティブなイメージを持ちながらも、その集団に属する人たちが距離化や同一化を図りながら、おたくのイメージをある意味で共有しながら歩んできたことがうかがえる。またおたくが行う独特な読みによって同人誌やコスプレというものが作られ、表現されている事がわかった。
しかしこれらのおたくの負のイメージは、おたくの世界にこれから入ろうとする人々にとって大きな障害になっているのではないか。それはおたく達にとっておたくがスティグマになりうるのと同じように、興味を持つという事がある種のスティグマになっているのではないか。
また永井の研究では、オタクの一類型としてコスプレイヤーや同人誌作家を扱っていた。しかしおたくの世界に興味がある人たちがそのような読みをしているかどうかについては、論じられていない。
このような点を、おたくとも「一般人」ともとれる人たちの語りを通して考えていきたい。