第四章 同郷者集団の変容

 

第一節 第一期 1960年代後半〜1980年代前半

 

<背景>

 この年代でまず注目すべきは高度経済成長の存在であろう。1970年代前後に生じた高度経済成長による好景気の波は、同郷者集団にも大きな影響を与えた。

 「太平洋ベルトの工業の盛んな都市部へ一種集団就職のような形でたくさんの人が出てきた」と東海地区県人会のDは語っている。高度経済成長を要因としてこの時代、多くの人口が東京、名古屋、大阪などの都市部に流入し、日本全体での工業化、企業拡大の兆候があった。先に述べた都市部では、多くの工場が建設され、都市内へ企業を誘致し、企業は人材を必要とした。その流れに従い、集団就職という形で地方から多くの人口が流入し、高度経済成長を促進した。

 同郷者集団、特にこの時代は県人会がそれらの流出してきた地方出身者に大きく関係している。富山県人社のKは「昔は集団就職とかで、その出身者の人がおこした会社に、就職したり、自動的に県人会があるのはもう知っていて(県人会の役員達は若者の)世話もしながら、(若者が都市に)とけ込んでいけたでしょうけど…」と語っている。都市部へ出て、右も左もわからぬ若者達は自分達が見覚えのある同郷者というカテゴリーで組織されている県人会に関心を示した。更に「次の就職先を斡旋というか、その仕事のお世話なんかで若者を(県人会が)呼び寄せたりしてましたしね」「富山県人の就職斡旋所を大阪では近畿の富山会館っていうところで作ったり…(中略)わざわざ富山県から電車に乗ってきたらとりあえず富山会館に行けみたいな記事が(『富山県人』に)載ってて」ともIは語っている。富山県出身者が創設した会社では、現在の団塊の世代と呼ばれる年代の富山県出身者数が膨大で、採用人数の中で出身者の割合が極端に不自然であることも指摘していた。当時の県人会の役員、世話人達は同郷のよしみでその若者達に出身県を要因とした縁故採用を行い、それに伴って県人会への入会が促進された。つまりは当時の県人会は都市部に出てきてからの若者達の一番最初の安住の地、身寄り場となり、若者と県人会会員との間で大きな関係性が築かれていたのである。現在の同郷者集団、特に県人会において高度経済成長期に入会した会員が圧倒的に多いのはこのような背景が存在していたからである。

 次に、富山県人社のKは現代と比べて交通や情報網の未発達を県人会の形成の要因として挙げている。「昔はね、そんなちょくちょく富山も帰ってこれないから、それこそ大阪であっても、そこで出身者の人が集まれたら貴重なのよね。富山弁で喋れるだけで。わがふるさとに帰ったような感じになって、だからその貴重性はあった」と語っており、郷土を離れてしまえば同郷人と滅多なことでは会えなかった背景を示唆している。また、現在と違いインターネットなどの情報網も発達しておらずなかなか郷土との交流や情報を得られなかった背景を踏まえ、富山県出身で文具メーカー、コクヨの創始者黒田善太郎氏の「大阪の梅田駅に行って、富山行きっていうのを見るだけでも懐かしかった」というエピソードも語っていた。この当時の県人会は、そういった現代とは異なる交通や情報の未発達という背景からも、活動の拡大や形成を為されていったようである。

 

<活動>

 この当時の活動、特に県人会の活動に関しては、『富山県人』、あるいは富山県人社へのインタヴューから推察するに年に一度の総会が主要な活動であったことが窺える。『富山県人』の情報をもとにすれば総会は、たいていホテルなどの大規模な会場を貸し切り、県人会会員が一堂に会し、役員の挨拶や会計報告などを行う。規模の大きい会では出席者が100人を超えることもあり、郷土を離れた地で同郷者達が集う。そして総会の後の懇親会と呼ばれる部分が会員にとって総会の醍醐味のようであった。総会の会場で食事をしつつ、時には県人会にゆかりの深い県知事や出身県の議員を招くなどして盛大な宴会を催していたようである。「総会をダシにして総会なんかほんまに2030分で終わってしまって、そのあとの懇親会のところがみんな楽しみに(会員は)来る」と、富山県人社の方が語っているように、この懇親会を含めて同郷者集団内では総会と認識されているようである。このような総会の形式は現在の同郷会集団にも受け継がれており、同様の会合の様子が現在も見受けられる。この第一期は会員が増加した時代でもあったためか、第一期以前の同郷者集団の総会を踏襲しながらも比較的盛大に開催されていた様相が読み取ることができる。『富山県人』の記事には、「東京富山県人大正会が総会と懇親会」「会員720人が交流深める近畿富山県人会」などの見出しが並び、当時の総会で行われた各会の会長就任の様子やホテルで開催されている懇親会の模様が記載されていた。

 そしてこの時期での特徴的な活動は、祖父江(1969:6-7)、園田(1992:30)にある園芸会及び郷土芸能会である。これは活動の詳細な記述がないためどのような活動であったのかはわからないが、『富山県人』の記事からは、郷土の伝統的な園芸や芸能を都市部の県人会内でも披露する内容であったようだ。このような活動の裏側には、郷土を離れても、郷土の文化や伝統を忘れないように損得抜きの郷土感情を再出させるためのイベントであったように考えられる。

 

<同郷者集団の形>

 松本(1985)は同郷者集団では郷土を離れた者の中からリーダーとなる者の群像を見出すことで、同郷者集団が形成されると分析している。このことは第一期の同郷者集団において非常に顕著であると言え、重要な役割を果たしていたのは会を運営していた役員の存在であることを示している。出身地を出て、この時期に既に都市部での生活が確立できていた者は、郷土から見れば絶対的な成功者であった。社会的なステータスの高さから郷土から出てきた若者達はそれらの成功者に羨望を示し、リーダーとしての資質を見出していた。言わば、当時の同郷者集団の役員とは、ほとんどの場合、郷土を離れ成功を掴んだ選りすぐりのエリート層ばかりが含まれていたのである。そして先に述べたようにその成功者達から差し伸べられた手によって若者達は同郷者集団に加入していった。それは富山県の場合も例外ではない。

富山県の例においてその代表として最も多く語られたのは前出の黒田善太郎氏である。文具メーカー、コクヨの創業者である黒田善太郎氏は近畿地区に数多くあった富山県関係の県人会を取りまとめ、近畿富山県人会を創設した。また、氏が中心となって基金を募り近畿地区に富山会館を建設し、同郷者には優先的に就職斡旋を行っていたようである。氏の愛郷心についても非常に有名で、「国の誉れ」という意味で商標を「国誉」と定めたことが現在のコクヨという社名の由来となっている。ここでの「国」とは氏の故郷、越中国を指すのだと富山県人社のJは語っていた。当時の社会において富山県出身の有力者の筆頭として黒田善太郎氏は最も有名であったようである。黒田善太郎氏が富山会館や近畿地区で富山県人会を創設したことは、この時代の県人会を知る人ならば周知のことで、氏の影響力の強さと富山県への郷土意識と愛着心の強さが垣間見える。

 また、Iは現代の県人会役員を当時の役員と比べて、昔のリーダーの方が運営面や県人会を盛り上げていくという面で力量があったと語っている。ここでも黒田善太郎氏を引き合いに出し、氏のようなカリスマ性のある懐の大きな人がいれば高岡市、富山市、魚津市などと細分化された自治体区分で結集せずに「全員同じ富山県じゃないか」という心持ちで「バーっとみんな俺のとこ来い」と同郷者を集めてしまった。そういった包容力のある人が会の先頭に立てば、非常にいい会になると思うが、現在はそのような人はおらず会員もあまり興味がない。興味がない人も昔からたくさんいただろうが、頭務める方の方針によって左右されるのだろうとIは分析している。当時は県人会のリーダーの力量により、同郷の者で集まり会員が積極的に参加する県人会運営が進められていた。そういった役員の一種のカリスマ性とも言うべき素養は現代の県人会組織までにも一貫して大きな影響を与え、会を運営し活動を進める上での大切なファクターとなっていたのである。これらの役員への羨望と力量を中心として当時の県人会は編成を為し、規模を徐々に大きくしながら形成されていったと考えられる。

 


第二節 第二期 1980年代後半〜1990年代前半

 

<背景>

 1990年代前後に勃興した急激な経済成長、所謂バブル経済によって、同郷者集団の活動は変容した。好景気による潤沢な資金が第二期以前まで行われていなかった様々な活動を展開することを可能にしたのである。80年代から90年代初頭のバブル全盛期は、企業も調子が良く、富山県に本社を置く企業も例外ではなかった。九州に出張所を設けていた富山県本社の企業は、企業が中心となって九州地区の県人会の経費を会社で面倒をみていたケースもあるとIは語っていた。バブルに伴う好景気は多大なる資金を企業にもたらし、一部の同郷者集団にも恩恵を与えたようである。そういったバブル経済の影響は同郷者集団の活動や内容に直接作用していたようで、「資金が会として潤沢に回すことができたときは、総会の会場がレベルアップしてったっていうようなこともあると思いますし」とIは語っており、企業と同郷者集団の関係性の深さや景気との関連性を見出せる。

 加えて同郷者集団を運営する役員達の年代も大きく影響しているようである。「ちょうど県人会なんかで(現在)重鎮になっておられる方が一番元気のいい時代やったのかも」と、当時の役員達の活発さをIは要因として語っている。80年代から90年代は、戦後の集団就職に伴い1820歳で富山県を離れた郷土の出身者、成功者が最も活力を発揮していた時期であるとIは分析しており、事実この時期の県人会の活動は最も勢力を増し活発になり、また会員数も増加している。この時期に役員として主導していた人物は現在は会社の役職を後継者に譲り、県人会においても重鎮として会を引退しながらも見守る形で会には参与している場合が多いようである。

 好景気による潤沢な資金運営と運営する役員の活発さが重なり、この時期のほとんどの同郷者集団の活動はより積極的に規模を大きく展開していったようである。

 

<活動>

 第二期は、総会の開催は従来の同郷者集団と同様なのだが、『富山県人』においてこの時期以前の時期区分に見られない総会以外の活動報告が多く為されている。主に『富山県人』に記載されている記事を参考にして、以下にそれらの活動の具体例を記述する。

 

・郷土力士、琴ヶ梅の応援

 「琴ヶ梅関を激励 福岡富山県人会」という見出しで、当時の『富山県人』には記事が記載されている(1991:3月号)。内容としては記事によると、「大相撲九州場所前に琴ヶ梅が大関、横綱を目指して頑張ってもらいたいという願いを込めて、多数の会員が集まり開会。県人会役員からの激励の言葉、県人会より祝儀を贈り、後県人会の総会と同様カラオケ自慢の宴会となった。最後には琴ヶ梅関の敢闘の万歳三唱、閉会の挨拶の後、散会となった」とある。また、東京の方ではこの時期に東京琴ヶ梅後援会と称する会を発足し、ここでも60余名が集まり激励会を行ったという記事もある(1991:1月号)。Iも「琴ヶ梅が九州場所で、郷土の富山県の力士なんですけど、行ったときにバーっと宴会開いて頑張れ頑張れと、それも核にしてやっぱ、すごく盛り上がったっていうようなことは(福岡富山県人会の方は)おっしゃってたんですね」と、当時の情報を語っている。

 

・富山出身の画家、下田義寛への応援

 「下田義寛っていう絵描きで超売れっ子の絵描きなんだけど、その人がパリの三越店で展覧会したら滑川の人らが10何人で、励まし兼ねて個展の観覧ツアーやっとるわね。だからそうゆう題材があるのと、そうゆう企画する人がおればそんなことするわね」と、当時の活動をJは語っている。下田義勘のような題材すなわち地元をあげて応援できるような人物がいて、なおかつそれを企画する先導者がいれば当時はこのような活動を行ったと述べている。

 

・京都女子駅伝や広島駅伝への応援

 「京都富山県人会が女子駅伝の郷土勢応援」という見出しで『富山県人』には駅伝応援の様子が記されている(1991:3月号)。「選手団を駅頭にて役員が出迎え、利賀享友会館で県人会主催の歓迎激励会を開いた。会長の歓迎挨拶、団長の謝辞、監督からの選手紹介の後、宴に入った。選手の健闘を祈る万歳、団長の答礼で京都県人会の発展を祈る万歳の音頭をとり閉会した。駅伝当日は15人が応援旗を持って駆けつけ、アンカーがゴールインするまで声援した」と、ある。富山県人社の方も広島の駅伝と京都の女子駅伝を例に挙げた。「そういうのを機に県人会がかろうじて存続してたっていうのも広島(県人会)については聞いてます。一度立ち上がったけど下火になって、でも駅伝が始まるというので、広島県内にある県人会をとりあえず全部ピックアップして声掛けして、ふるさとから来るから郷土の選手を応援してくれということで中国新聞が支援して、それでそのあとに宴会やって、新年会やって、会存続してきたっていうようなことを広島の人から聞いております」「京都も女子駅伝やっとるけど、これは既に富山の場合は県人会が(京都に)あって、それでそのなかに県人会の行事として京都の女子駅伝の応援を入れた」と語っている。実際この時期に活動が衰退し下火となっていた県人会も存在したようである。しかし、駅伝のような郷土対抗のイベントや各地方新聞社主催の新しい行事によって、郷土をバックアップするために一部の県人会の復興が行われたのもこの時期である。

 また、「おそらくその駅伝を新聞社が始めたっていうことにしても、新聞社側にそういった潤沢な資金があったから始めれたとは思うんですよね」とIは語っており、バブル経済に伴う企業からの資金援助という背景が駅伝というイベントでも窺える。

 

・おわら、かぜの盆

この時期に活力を増した当時の役員が会の活動を盛り上げるために、特に積極的に取り上げたものがおわら、かぜの盆である。「(この当時)どこか(の県人会)でおわらのテープ流したら非常に人気があったと。そしたら隣の会も、わしもマネしようかと、そういう感じになってるのが多いとは思うんですけど…」と富山県人社のIは語る。富山県人会の場合、郷土を想起させるファクターとしておわら、かぜの盆は頻繁に取り上げられた。それが各県人会に伝播的に広がっていったようである。この時期以前から総会においておわら、かぜの盆を何らかの形で提供している会は存在した。しかし、この時期になると『富山県人』には「福井富山県人会総会 本場のおわらを招く」などといった見出しが見受けられ、経済面での余裕からかより一層大々的な規模でおわら、かぜの盆に関連するイベントを行っていた記事が確認できた。おわら、かぜの盆に関連するおわらの会などを立ち上げる団体が増えた時期もこの第二期である。一方で、第一期で活発に行われていた特徴的な活動、園芸会及び郷土芸能会はこの時期では活動の報告が全く為されていない。園田(1992:30)は、各県人会が自己を革新するための努力の一端としてこの時期前後にそれらの活動を消滅させたと分析している。富山県人会においてもそれは例外ではなく、消滅したそれらの活動の代わりにおわら、かぜの盆を取り入れる団体が増加し、イベント規模の増大に繋がったのかもしれない。

 

 以上のように県人会の活動の多様化ともとれるものが多く見受けられる。これは先に述べた資金面での余裕を要因として県人会が新たな活動をして以前とは違う同郷者集団の活動へと少しずつシフトしている兆候にも捉えられる。

 そして同郷者集団の活動が上記のように多様化したことをIは、「社会自体が多様化したっていうのはあるんでしょうねぇ。それまで楽しみって言っても70年代とかってなるとおそらく…そんな世間の宴会の形式とかもやっぱり決まりきったもんだったと思うんですよ。テレビもカラーテレビになって、っていうような時代の流れの中で、それが80年代になってバブルでいろんなチャンネルが出てきて、媒体もいろんな媒体が出てきて(多様化した)っていうのは、あるんじゃないかなって思いますね」と、考察している。社会的にもこの時期には経済成長に伴い大きな変革が生じ、情報網の発達などから社会全体が多チャンネル化、多様化していった。それは同郷者集団の活動にしても同様で、第二期以前に行われていた活動は踏襲しつつも、この時期の同郷者集団の役員達の力で多くの新たな活動が展開されていった。このような兆候は後述する第三期において更に顕著になってくる側面である。

 

 

<同郷者集団の形>

 この時期は、先にも述べたように第一期の県人会を主導していた人間、役員達が年代的に最も活発で県人会へより大きな影響を与えていたと富山県人社のインタヴューなどのデータから推察できる。言わば、第一期の県人会内での役員の主導力が一層増した時期だと言い換えても良いかもしれない。

 これは見方を変えれば、エリート層の役員達が己の成功や地位を誇示しようとする一環として県人会の活動を促進していたようにも捉えられる。「その頃にはいくつかは話があったようなんですけど、バブルがはじける前は東京で会社しとるかたでわざわざ富山県に工場建てたとかっていう人は結構いらっしゃいますしねぇ。故郷に錦を飾るじゃないですけど…」とあるように郷土への想いから「故郷に錦を飾る」という意味で、郷土を離れて成功を掴んだことを何らかの形で当時の成功者達は示したかったのかもしれない。そういった行動は前節で挙げた黒田善太郎氏も同様で、富山会館の建設も一部分であるように思える。この時期、黒田善太郎氏以降のそういった成功者達の自身の実績の誇示が一層色濃く表れ、多くの県人会関係の寄贈物や援助が行われた事実が存在している。そういう意味では、前述したこの時代の役員が企画したであろう多くの新たな活動も、会員のより一層の郷土感情を喚起するための有用な手段として講じられたものなのかもしれない。

 また、県人会はビジネスの場、仕事が決まる場としての側面も当時あったようである。「県人会もバブルのときとかは県人会のなかで仕事のやりとりの話がよくあったらしいんですけど…どっかで見積もりこんなんもらったけどお前んとこに回してやるからこれより安くせぇとか。県人会の場で仕事の話が決まるとか…よくあったっていうのは聞きましたけど…」と、Iは語っている。第一期までの純粋な同郷者達が集まるだけの集団からこの時期を境に変化してきたようで、好景気の影響からか羽振りの良い企業は同郷というつながりで仕事のやりとりを決定していた所もあったようである。加えて、バブルの後期には県人会の事務局にまで変化があった。第二期以前までは県人会の事務局は富山県庁内の観光課に県人会事務局担当という形で存在していたようなのだが、バブルの後期に県庁内の立地通商課という部署に移転し、現在にまで至っている。立地通商課とは、企業立地や企業誘致を行う部署であり、当時の県人会を運営していた事務局にもそういったビジネス的、実利的な利益を見込んでの変化が遂行される背景があったとIは語っていた。郷土を離れた人々が離れた地で集まり、交流を目的としていた当初の県人会とは随分、様相が異なっていると言わざるを得ない部分も存在していたようである。

 つまり、第二期の県人会は主導する役員の実力を如実に示す絶好の場でありながら、会員は新たな活動に引き寄せられ県人会という集団を楽しんでいた。一方で、同郷というつながりで取引や仕事が成立するビジネスの場という側面も保持しており、これらの要因から県人会が最も盛大に運営されていた時期だと言える。

 なお、同郷会についても第三期に向けて少しづつ活発化し、この時期に勃興し始めていた。同郷会の県人会の台頭とも捉えられる情勢に関しては、次節第三期にて述べることとする。

 


第三節 第三期 1990年代後半〜21世紀以降:新しい県人会の形

 

<背景>

 第三期には第一期、第二期のような急激な好景気の波による影響がない。どちらかと言えば第三期はバブル崩壊後からの一貫した不景気の影響を受け、同郷者集団の活動にも資金面で苦しい情勢を強いている。「今たぶんそういう(第二期のような)仕事的なつながりもあんまりないし…みんなやっぱりこの世知辛い世の中、忙しくて」と、富山県人社のKは心配そうに語っていた。東海地区県人会のDは「少子化でね、地元に置きたいという親が多いんですよね。そうするとやっぱり卒業して就職するなら地元でやってくれよということになって」と、県人会の衰退の要因を少子化から繋がる地方就職の拡大だとみている。地元で若者が就職し都市部へ出て来ない、そうして都市部の県人会は若年層の会員を確保できず、高齢者から次々と会員が減っていく現状があるのかもしれない。第一期、第二期から比べれば都市部での工業化の衰退とともに、「どこの県も今、企業誘致でね、いわゆる工業団地を作って」と語っており、企業誘致や工場誘致などにより、地元就職できることこそが都市部での県人会会員の確保が困難であることの一番の要因になっていると語っていた。

更に、会員減少の要因のひとつとして個人情報保護法の存在もインタヴューから挙がってきている。「最近はね、学校のいわゆる名簿っていうのが手に入らんのですね」。以前までは母校の名簿、卒業生名簿に連絡先が記載されていた。しかし、近年では個人情報保護法の配慮からそういった名簿に連絡先は記載されていないことも多い。第三期以前までは連絡先を手に入れ直接会員の勧誘を行っていたが、その手法が使えないことも会員確保の難しさに拍車をかけている。

 次に、富山県人社の方は第二期にあった社会の多チャンネル化、更なる情報の増大が現在の同郷者集団の背景にあると語っている。現在は情報の供給増大と交通網の発達によりいつでも郷土とコンタクトをとることができる。「テレビだなんだで富山の映像が出てきて、あー懐かしいっていうのが、もうインターネットになったら当たり前になってるじゃないですか」と、容易に郷土の情報を得ることが可能となり、全国どこにいても郷土の情報を得られるようになったことを指摘している。更に、「今は何でも満足、いろんな娯楽でも何でもあるから、みんな忙しいし、別にそんな県人会で楽しまなくってもまたそれぞれの趣味で楽しみとかあったり」「ここ(同郷者集団)へ足運ばせるための動機付けっていうのが(難しく、)おわら見るよりこっち行こうとかいう選択肢が(現在は)多いですからね」とも語っているように、情報網の発達以外の面でも社会的に嗜好や趣味などを行う組織の選択肢が多様化している傾向がある。そして、それらの多くの選択肢の中に県人会がなかなか入らないことも要因としてあることを考察していた。また、現在は同郷者集団での集まりが緩慢となり、それも楽しむことはあるが日帰りで帰省することもできるようになった。富山県も近くなり、大阪など離れた地域でわざわざ集まっているより、郷土へ帰って楽しむ人が増えてきたと、交通網の発達により短時間で郷土へ帰省することが可能となったことも要因としてKは指摘していた。わざわざ郷土から離れた地で会合や集まりを形成しなくとも、地元とコンタクトがとれる、郷土と関わりを保持できる社会になったという背景も存在しているようである。

 

 

<活動>

 前述した通り、資金面や会員の減少により活動を縮小してゆく団体も多い。そんな中で第二期の変容を踏まえつつ、そこから更に革新的な活動を展開させている団体がいくつかある。まずは『富山県人』の記事にあるものから触れていく。

 

・旅行やツアー

 「伊吹山、なばなの里バス旅行 東海富山県人会」(2000:8月号)「愛知万博へバスツアー 東京県人会連合会」(2005:8月)「紅葉と長野を巡る一泊ツアー 東京富山県人婦人会」(2005:12月号)「ハワイアンズで癒し 足立富山県人会日帰り旅行」(2009:12月号)といった見出しがこの時期の『富山県人』を見ると多く目につくようになる。多くは日帰りであったり一泊の小規模な旅行だが、同郷者集団でこういった観光やツアーを企画している情報はこの時期までほとんどなかった。現在は行事として年に一度必ず旅行を企画している会もあるようで、東海地区の富山県人会のインタヴューでは「(主だった活動としては)バス旅行とか。富山のほうに行ったり(中略)バスで日帰りなんですけど、行って帰ってこようっていうぐらいですかね」とあったように、自身の出身地を観光するツアーを企画する会もある。このような企画をする会は他にも少なくなく、前述した交通利便性の向上とともに新たな活動の一環として同郷者集団に多く取り入れられつつある傾向にある。

 

・ハイキングの会

 『富山県人』には「羊山公園、琴平丘陵ハイキング 東京富山県人歩こう会」(2009:12月号)という見出しから「会長の号令、リーダーのコース説明、準備体操の後に出発し、総勢32名のハイキング好きが羊山公園を経て、琴平ハイキングコースへと臨んだ。時々一息入れながら何とか最高峰に到達し、その後景観を楽しみながら下った。皆様の健脚に感謝しながら、駅で仮解散となった」と綴られている(2009:12月号)。この会は厳密には県人会とは別の団体であるが、近年東京在住の富山県人を募って「歩こう会」を発足したようである。これを富山県人社のIは、「東京なんかだと連合会組織のなかで(中略)旅行に行こうとか…ちょっとハイキングの会とかいろいろ企画はしてはおられますけど」と語っており、前例の旅行やツアーと同様に会員を惹きつけるための従来にはない活動のひとつの事例として紹介している。

 

 次に、東海地区県人会が毎年開催している「ふるさと全国県人会まつり」に関してフィールドワーク及び東海地区県人会のインタヴューをもとにして分析していく。

 

・ふるさと全国県人会まつり

 東海地区県人会が毎年開催している県人会まつりは各県の県人会が合同で主催している大規模な同郷者集団イベントである。200991213日に開催された県人会まつりをフィールドノーツの情報から以下に記述する。

 県人会まつりの会場は毎年名古屋の中心街、栄の久屋大通公園「もちの木広場」及びテレビ塔1階である。9回目の今回、一日目は悪天候のため人通りは多くなかったが、会場近くに行くと呼び込みや各県人会のステージ発表により祭りの活気が伝わってくる。各県人会はそれぞれブースを立ち上げており、各地方ごとに北陸なら北陸地方の県人会で、九州なら九州地方の県人会で結集していた。公園一帯は祭りのブースで埋め尽くされ、地方の名産を各県人会は盛んにアピールし、栃木県人会なら餃子を、静岡県人会ならば茶葉詰め放題などPRに力を入れていた。沖縄県人会のように出身地の民謡を奏でながら泡盛を販売し注目を集めている県人会もあった。秋田県人会のなまはげが行列を作って練り歩き、鹿児島県人会などのように焼酎やお酒が有名な県は試飲を通りすがる人々に勧め、ビラやパンフレット、地方誌、県の写真を置き出身県を告知しているところもあれば、観光大使やミス〜のようなアピール力の強い人を招致している県人会もあった。中京テレビ、テレビ塔1階ではゆるキャラのショーが行われており、別のステージでは各県の伝統民謡や伝統芸能などを披露していた。

 二日目は好天により来場者も多く、各県人会のブースも一層、活気に満ちていた。ブースとは別に県人会会員で宴会を開き大騒ぎしているところもあれば、セリのように名産を売りさばいている県人会もあり、名古屋の中心街とは思えない様相となっていた。私が見る限り来場者は30代以降の方がやはり多く、若者や子供連れの方も見受けられた。ところどころで「私も○○県民です」や「わしも□□県出身じゃー」といった県人会と来場者との交流もあり、来場者は他県の名産や文化を知ることによって県人会と一体となって祭りを盛り上げているようだった。

同郷者集団が協力しひとつのイベントを運営するということは全国でも珍しく、このイベントを主催し各県人と仲介役や主たる運営を担っている連絡協議会のAも、「他の県と連携してやっているのは、この愛知、東海地区がかなり珍しいとは聞いてます」と言っている。このイベント開催の経緯としては、「県人会の方が結構高齢化されているし、なんかPRをしたらどうかということで始まったというふうには聞いております。(中略)ふるさと自慢ができるようなことを皆で集まってやってみないかということで始まったというふうには聞いています」と語っており、現状の同郷者集団、特に東海地区に存在する県人会の活動に何らかの行事を提供する意図で始まったようである。「来場者に県人会にちょっとでも興味を持ってもらって、帰ってもらおうって」とも語っており、来場者や東海地区の人々に郷土をPR、アピールするという側面もあるようである。東海富山県人会のGが「(県人会まつりは)みなさん全国揃ってね、共にいこう、我がふるさとをPRしようという機会ですねぇ」と語っているように、各県人会にもその意図は浸透し定着しているようである。

 先にあった東海地区県人会の高齢化への対策も積極的である。県人会まつりは最初、物産展として始めたらしいのだが、それでは若い人にもアピールするためにゆるキャラを各会で用意し、それに関連した企画をしてみてはどうかと連絡協議会から各県人会の方へ提案があったようである。ゆるキャラ以外にも岡山の蒜山やきそばのようなB級グルメを揃え、県人会まつりの中で販売してアピールを試みている会もあり、若年層などに向けて新たなアプローチが次々と為されている。また、県人会まつり内のステージ発表の部分では例年、太鼓や盆踊りなどの地方芸能を披露しているらしいのだが、今回の県人会まつりでは一風変わった発表をということで、若者が伝統的なものから少し現代風にアレンジした発表を行っている県人会もある。福井のように伝統民謡をアレンジして少し様相を変え、若年層向けの要素を加えて発表したり、伝統的な舞踊に現代風のダンスやラップを取り入れ踊っていたりと、郷土の伝統芸能や民謡をアレンジして若者に魅力的なものに変換しようとする動きもある。そして、県人会まつり内で入会申し込み書を各会個別に用意し、入会募集中と掲げている県人会もあり、新規入会者獲得のため懸命に努力している姿が各所で見られた。連絡協議会の方でも2009年度から県人会会員増加のため、入会受け付けのブースを設けて県人会のPRに尽力している。同郷者集団の高齢化が深刻で、そのための多くの対策が試行錯誤されながら実行されていることがわかる。早急な解決を必要とする事態のため、県人会まつりではかなり積極的に打開策が実践されているようである。

 また、県人会まつりは地方の特産物を販売するための物販イベントとしての側面も大きく「2年前にちょうどアンケートをとったんですけれど、やっぱり(来場者は)名古屋市民の方が(多い)、この栄っていうのは名古屋の中心街で若い人達もファミリー層も来てるんで、知らなくてもここへ歩いて来てみたらこうやって太鼓の音がしてるからなんかちょっと寄ってみようかというような…もともと知ってても毎年買いに来るのが楽しみって人もいますし」とAが語っているように、地方の名産が一同に集まり、商品をじかに見て他県人と交流をもって購入できる機会は、通信技術が発達し、地方の物産のほとんどがネットショッピングで購入できる今現在の世の中において貴重な存在である。会場は、太鼓の音や活気ある呼び込みなどでにぎわい、名古屋の中心街で行うことによって非常にPR性の高いイベントとなっているため、来場者数は例年10万人近くになり、同郷者集団が行うイベントとしては他に類を見ない規模となっていることを窺い知ることができる。これは、前節第二期で述べた同郷者集団のビジネス的意義と同様だと捉えることができる。郷土をPRしつつ、地元の特産品を一堂に集めることでネームバリューや付加価値により販売促進を行っている。形は変われど、同郷者集団の本質とは少しかけ離れた実利を目的とした一面がこの時期でも一層強調され、こういったイベントにつながっているのではないだろうか。

 そういった実利の側面もありながら一方で、連絡協議会の方は「今はもうみんな県人会の中にはもうこれ(県人会まつり)がエネルギー、一番のイベントだって、これを中心に動いているっていうところもあります」とも言っており、県人会まつりが東海地区の県人会にとって年に一度の大切なイベントだと捉えている。東海地区の各県人会も富山県人会のインタヴューにあるように、「(県人会まつりを)楽しみにしている県人会(が多い)、酒盛りをして楽しみにしてる県人会もあろう、まぁこれでいい、いいよ」と、県人会まつりに乗じて行われる宴会や酒盛りを通して同郷出身者で集まり楽しめる祭りと快く受け入れられている様子がわかる。郷土をPRし物販を行う実利的要素と出身者同士で祭りを楽しめる従来の県人会要素、このふたつが併存していることが県人会まつりでは非常に興味深い。

 更に、Aが「愛知県の方から県人会の方に補助を頂いてて、やっぱり愛知県にとってもメリットとかありますよね」と語っているように、県人会まつりは会場である名古屋市との関連も深い。2010年に名古屋市を中心に行われる愛知国際芸術祭のような大規模なイベントがあれば、県人会の方が地元へ帰った際に地元議会でPRしてもらえるというメリットもある。2005年に愛知県で開催された愛知万博の際にも、万博大使という役割をもらい、帰省した時に地元の県庁や市役所に寄ってPRを行ってもらったとAは語っていた。このような側面から、主催地の名古屋市は他県や各地方自治体にイベントなどをPRする際のメリットを有し、この県人会まつりや連絡協議会としての活動を推進している。また、東海地区の県人会にとっても「(例えば名古屋在住の宮崎県出身の人なら)宮崎県人会のところへ行って「俺も宮崎出身なんだわー」って言って、そういう方たちが九州弁で話し始めたりだとか、そういうことはよくありますし」「こういうとこ(県人会まつり)を利用してね、入会ご案内とかね、こういう場を借りて通じてね、「あっじゃ栃木県民ですか」って話になって(会員を)集める。だから今日あたりでも7,8件昨日から今日にかけて(入会したいという)方がおられて(中略)だからこういう祭は(PRしたり会員を募集するには)一番良いやって感じですよね」という思わぬ交流の場となることも多く、郷土をPRするには絶好の場だと考えているようである。相互的にメリットを共有していることで、この県人会まつりは年々規模を大きくしながら活発に開催できているようである。

先ほど述べた名古屋市との連携があったことは渡邊・飯高(2007)が述べた同郷者集団の衰退への対策として「地域社会との連携や、地方に興味を持つ人々の取り込みによって、何とか活動を盛り上げようとする」(ibid: 55)活動の一端であるかのように感じられる。このイベントには一部、地方自治体の職員も参加している県があり、出身県をPRするために参加していると言っていた。群馬県庁から出身県のPRのためにイベントに参加していたBは協力的な地方自治体の姿勢を次のように説明してくれた。「主催は県人会ですから、行政はお手伝い。そういうかたちですね。また行政も行政だけじゃできない(こと)っていっぱいあるじゃないですか。特に群馬みたいに離れているところでは…そこで県人会のみなさんと力を合わせ、こちらで活躍されてるみなさんと、あるいは知り合いの方たくさんいらっしゃるわけですから、そういう人を通してね、イメージアップにつなげてもらいたいっていうかたちで、(県人会に)協力してもらう」。その他の道府県の各地方自治体や県庁といった行政もこの祭りを通じて県人会をバックアップし、PR活動として有用しようとする動きが往々にしてあった。渡邊・飯高(2007)が取り上げた川崎沖縄県人会と似た同郷者集団の外、他県の県人会や行政とのネットワークを持っている事例と言えるのではないだろうか。

 これらの活動を見れば、同郷者集団の活動が前節第二期から更に変容を加え、県人会の衰退の中で活動が活発な会は試行錯誤し、新たな方向へとシフトしていっていることがわかる。

 

<同郷者集団の形>

 この時期において同郷者集団で一番の問題となってくることはこれまで会を支え、運営していた役員達の引退である。第二期に栄えていた役員達に代わる人材がおらず、県人会内での後継者への跡継ぎが行われていない所が多い。これは全国的に今現在の県人会が抱える大きな問題である。結果的に引き継がれずそのまま第二期の役員が務め衰退していく事例や、場合によっては後継者がおらず会が消滅してしまった事例もある。

富山県人社のインタヴューでは「県人会もふるさとを愛する、誰でもあると思う、それをちゃんと目覚めさせるっていうこととあとは運営方法、手法やわね。(中略)運営しやすいようにするとか、正しくやるにはいろんな会の中身いろいろ考えながら、しっかり根底のふるさとの愛があって、そうしたらあと今度は会の運営方法として(世話人がしっかり考える必要がある)(中略)その時の世話人の力量によるね」「それ(ふるさとを愛する心)をどのようにして盛り上げるか、そしてどのようにして運営するかていうことやって、いろいろ変わっていくがやろね。昔も、今も、根底はあんまり変わらんがいと」とあるように、同郷者集団を運営してきた役員の存在が現代までどれだけ大きく大切であったかがわかる。そして、現状の同郷者集団に関しては「富山県の会に出て、役員クラスはもちろん、(会員も)連合会の会に出るんですけど、その(連合会の)なかの各会員が、そういう(連合会を運営していこうという)意識を持ってるかって言ったら、だいぶそこは衰退してると思いますね。逆にもっと若い人がここの会に参加する動機付けっていうのが非常に難しい…っていうのが今の現状じゃないかというふうに思いますね」と、語っている。本来ならば後継者となるべき次代の若者は「故郷に錦を飾る」、県人会の会長となって郷土の代表として成功や地位を誇示したいという第二期までのような感覚が全くと言っていいほどない。若年層の観点から「まだ(県人会に)入ってしまえばいいんでしょうけど(県人会の)敷居が高く感じられてる面があるのかもしれないけどね」「世話されてる人自体を見ると県人会っていうとやっぱり堅苦しいイメージあるから、だからやっぱり緩やかな感じで出入りが自由な感じの会がいいのかな」と、富山県人社の方から見ても現在の役員と若者には同郷者集団を捉える上でのイメージのギャップがあるらしく、そのギャップを埋めるためには若年層向けの緩やかな会にシフトするべきなのかと分析している。これまで率先して会を運営してきた人が退き、役員の不在により同郷者集団の活動が第三期を迎えて更に多様化したことも、これらの若年層へ向けての変化だったのかもしれない。

ここで、そのような若年層向けの新たな同郷者集団の形の一端として、県人会に変わり活動が活発化してきた同郷会と近年活動をスタートさせたacoicoを取り上げることにする。

 

・同郷会

 まず、同郷会発足の背景に関して県人会とは異なった事例を紹介する。「東海高岡会みたいに、高岡の出身の人が向こうで出会って発足したっていうよりは、こちらの市側からとかの意向で作られてきてるのが最近は多いですね。10年ほど前からは大山会、今は富山市になってしまいましたけど大山町があったときは、東京と関西に大山会を町が旗振って作りましたし…朝日町も、東京は昔から東京朝日会はあったけれど近畿にないからゆうことで関西朝日会を、町がふるさとブースを(関西に)出すことなったときに、向こうの人(関西の朝日町出身の人)にお願いして関西朝日会ができたりとか…最近できる会は結構地元の意向で(作られているケースが多い)。なんか(同郷会を)やりたかったけどやれなかった人がいて、(自治体に)世話してもらって作られていったりしてますね」。これらの事例のように県人会とは異なり、特に最近発足された同郷会では郷土からの要請で組織されるケースが多いようである。「自治体としても何となく出身者の人のつながりを、(自治体内での)人口も減ってきとるしねぇ、なにか突破口見つけようゆうことで同郷会なんかを作ったり」とあるように、そこには地方自治体区分での郷土のアピールや都市圏での何らかのイベントが絡んでいることが多く、郷土を離れて活躍している出身者に貢献してもらおうという思惑がある。もう一方で、同郷会会員としても、郷土の自治体から運営面での援助や活動資金の提供があることは非常にありがたいようで、これらの活動には積極的である。こうして自治体側と同郷会会員側とが相互に利点を共有しながら、県人会には決して見られなった発足の形を次々と示し、活発な活動を展開している。        

 そしてもう一点、県人会と比べて同郷会が活発となる理由を述べる。「(同郷会の方が)同じ町とか市だったらまだ共通性があるから集まりやすかったり」「だいたい同じ市内どうしだったら、もし年違ってたとしても結構(お互いに)知ってる場所とかがあったりするから」「あいつの息子かーってな感じとか。ほんならお前あいつの息子も東京出てきとるはずやろじゃあ呼べ!とかそういう声もかけやすいという」と、組織の規模の小ささから会員同士で話も合いやすく、会員の増加にも望みやすいという側面がある。「それとこっちの自治体側ですね、高岡なら高岡、たとえば名古屋で独自でイベントやるんでって言ったらこれまでは富山県人会っていうでかい団体しかなかったのが、高岡の会だったらみんな飛びついて、わーじゃあわしも行くわしも行くと声がかけやすいというのもあるでしょうし」と先ほど述べた自治体との連携とともに積極的な活動への参加が見込めるという見解を示していた。

 また、同郷者集団の全ての例に言えることかもしれないが、同郷会の発足に関して「あまりにも高岡知られてないっていうことに愕然としたというふうに言っとられて(高岡会を立ち上げた)、そうゆうのがあって、トラウマじゃないですけど、そのネガティブなところの裏返しが郷土意識に変わってるんではないかなっていう気もするんですよね」と、考察している。第三期の<背景>部分で郷土の情報が得やすくなったと分析したがまだまだ全ての県の情報が全国に知れ渡っているわけではない。出身県民でなければその県の情報を全く知らない場合も多い。とりわけ出身県よりも更に細分化された自治体区分(市や町など)はより認知されていない現状がある。上記の高岡市の事例も同様で、富山県という単位ではなく高岡市というひとつの郷土として人々に認知され活動を行いたいという強い郷土意識から、このような同郷会を発足するに至った背景があったのであろう。

 

acoico

 上記のイメージのギャップを打開するために作られたのがこのacoicoであると言っても過言ではない。「若い人向けといえば、東京の方ではアコイコっていうのを、一昨年くらいに県から20代くらいの子に県人会作りできないかいって呼びかけて、ちょっと世話(をする人を)数人集めて、その人たちに企画させてやり始めました」と、富山県人社のKは経緯を語っており、ここでも同郷会と同様に県という行政の後ろ盾があったことが確認できる。「県が(一部の)活動費を出してやるんだと思うんだけれど。本来はあんまりそんな県関係なく、それぞれの地域で自然に県人会ってできてきたんですわ。(自然に)人も集まってきてつながってきて」とも、触れておりacocicoの発足や県からの援助に関してはかなり従来の県人会とは異なるようである。

 これらの情報を踏まえてacoicoLに伺ってみたところ、acoicoはもともと有志で富山県出身者の若手が集まる会として存在し、単純に首都圏にいる何人かのメンバーが任意で結集し交流イベントなどを行っていた団体だったようである。しかし近年、富山県知事から首都圏で若手の同郷者集団の会を正式に立ち上げてみたらどうかという提案があり、それがきっかけで正式に発足となった。この時点で、富山県と協力という形で関わりを持つことになり、あくまでも主体は若手を中心とした任意の会という形で、県の応援も受けながら活動していくこととなったようである。このような動きに関してLは、「結局は県人会自体は非常に高年齢化しておりまして、もう年齢が60歳以上7080代のかたが中心という会になってまして、若い人はなかなか入りづらいと。当初は3,40代のかたが中心になって立ち上げてられたんだと思うんですけども、そのかたがたがそのままスライドして新しいかたが入ってこなかったのか、より高年齢化して、逆に若い人で築いていけるっていう場がないっていうのが現状としてありまして」と語っており、同郷者集団、特に首都圏にある県人会の高齢化に対する対策として県からの援助があったように見える。また、「県のほうからも首都圏に出てくる若い人たちに対して県側からも情報発信したりとか、いずれは富山に帰ってほしいというメッセージのためにも、(従来の県人会とは)別という新しい会を立ち上げたという形ですね」と、同郷会の部分でも触れたことと同様、地方からの利点を見越して発足を促した背景が窺える。

 acoicoの活動に関しては「インターネットのブログを立ち上げて(会員に)登録してもらったらあと、いろんなイベント案内流していくっていうやりかたでやってらっしゃいます。ホームページも作っておられるから」と富山県人社のKが語っているように、情報社会を利用した新たな県人会活動の試みも見受けられる。実質的な活動には、若手のネットワーク形成を目標に、参加者同士の交流を主目的としたイベントを年間を通して行っている。年に一度、200人以上の会員が集まって開催されるフェスというイベントは、従来の県人会で言う総会にあたりacoicoの活動の中で最も大規模なイベントのようである。その他の活動に関しては、「定期的に会場を借りてパーティーを行ったり、バーベーキューやったりとか、そうゆうような交流をするイベントを年に何回か行っています」とLは語っており、ライブやバーベキューなど従来の同郷者集団とは異なる活動を展開させている。

その一方で、アコイコアカデミーというテーマにもとづいた交流の機会も設けている。例としては、2009年の8月に行われた横浜の開港博に合わせて富山県ゆかりの先人の地をめぐるバスツアー企画や都内を散策する散歩サークルのような企画も行っているようである。このような第三期に入ってからの同郷者集団と似たバスツアーやハイキングの会なども活動の名称を異にしながらも企画されている。これは従来の県人会と運営や組織は別とするものの、活動内容では酷似している部分である。最近では、首都圏にいる富山ゆかりの若手のアーティストや芸能人を応援するという企画も開始され、ブログを立ち上げ紹介し、富山県出身者の有望な若手への応援を行っている。こういった富山県出身の若手を富山県出身者の力でバックアップしていこうとする動きは、「郷土力士を応援する」、「駅伝を応援する」という第二期に見られた活動と同様のものように捉えられる。どの活動もあくまでも同郷者での交流を深めることを一番の目的としており、その点も従来の同郷者集団と大差ない。従来の同郷者集団とは運営面や活動面で異なる刷新された同郷者集団のようにacoicoは見えるが、従来の同郷者集団と背景や活動で共通点も存在し、県人会という名称を使わないながらも従来と似たような郷土意識のもとに立ち、進められている団体だということがわかる。

 こういった県人会に取って代わる集団が形成されることで生じる問題がひとつある。県人会の形骸化である。県人会は、会員数が膨大でその下に位置する団体である同郷会なども把握管理している場合が多い。主に首都圏、東京などの大都市圏ではそれが更に顕著で、東京富山県人会は下部組織や会員数の増加により東京富山県人会連合会と称されているほどである。そのため会員の把握が困難となり、下部組織の会合や活動へは参加するが県人会連合会の会合などには参加しない会員が発生してくる。そうして県人会及び県人会連合会が実質の活動をもたない、あるいは会員の把握や管理が不明瞭なただのシンボルとしての存在となってしまう危険性がある。このケースは会員や規模が大きくなればなるほど生じてくる問題で、富山県人社のIも「形骸化と言ってしまえばおそらくそういう面は否定はできないですね。こういう仕事してても」と、認めざるを得ない問題のようである。