第六章 「目的を持って訪れるまち」を目指して―岩瀬まちづくり株式会社の活動―
この章では岩瀬まちづくり株式会社のことを社長である桝田隆一郎さんへのインタヴューを元に記述していく。
岩瀬まちづくり株式会社とは、岩瀬の老舗酒造店、桝田酒造の社長桝田隆一郎さんが創設した会社である。主な仕事は土地の所有権・賃貸権をまとめ、空き家となった伝統的家屋を修復したあとに賃貸や売却する事業を行い、新規開店や若者の定住を促すことである。岩瀬まちづくり株式会社では市の補助金を使って修景事業を行っている。これは、2005年から5ヵ年間と限定された「まち並修景等整備事業補助制度」という制度で、市から定められた基準を満たせば、家屋の修繕に市から助成金が出る制度である。なお、その詳しい基準については巻末に資料として添付する。
桝田さんが景観修繕に興味を持ち始めたのはある人の言葉がきっかけだった。その人は「電車に乗っていると新潟から金沢までは見るものがない」と桝田さんに話した。桝田さんはその話を聞いて、「じゃあ見せられるものを作ってやろうじゃないか」と奮起した。2001年、桝田さんは個人で旧材木店を購入、修復再生をして富山市稲荷町で店を構えていた蕎麦屋丹生庵に入居してもらった。この初めての修復再生事業はとても意味のあるものとなったと桝田さんは語る。丹生庵の例を通して、この修復再生事業をやっていくには個人よりも法人の方がやりやすいという考えに至った桝田さんは富山港線のライトレール化が決まった2004年に岩瀬まちづくり株式会社を創設した。創設後、岩瀬まちづくり株式会社は次々と景観の修復を進めていく。ここではその一例を挙げて行く。
岩瀬の大通りには電柱がない。これは桝田さんと関係者が協議して実現したことである。電柱をすべて撤廃して、配線をすべて大町通りからは見えない裏路地に移動させた。その結果岩瀬の空が広く見えるようになり、2006年5月に行われた祭りでは明治36年以来、約100年ぶりに高さ18メートルの曳山車が駆け回ることができるようになった。
旧廻船問屋・森家の土蔵群も修復再生により立派な建築物となった。そこには様々な人たちが入居している。まず、大通りに面した側には田尻酒店が入居した。高い天井に材木のよさを生かしたカウンター、入った瞬間にわかるほど店内には材木のいい匂いが立ち込めている。18メートルにも及ぶ大きなガラス張りの向こう側には各地から集めた日本酒、焼酎、ワインが約15000本貯蔵されている。田尻酒店のひとつ奥に入居しているのは南砺市利賀村の蕎麦屋「ごっつお館・なかじま屋」。風情あふれるたたずまいの中で食べるそばはよりいっそうの味わいが楽しめる。さらに奥にはガラス作家の安田泰三さん(安田,2008)、越中瀬戸焼作家の釈永岳さん(釈永岳,2008)の工房が並ぶ。工房にはそれぞれ自身の作成する作品のギャラリーも展示されており、若い感性の美術品が輝いている。
他にも、土塀の修復再生や桝田酒造の酒蔵と次々と景観を形作っていく桝田さんだが、このような事業が次々と行えていけたのは、桝田さんの老舗酒屋としての人脈が大きく働いているという。古くから土地を持っている権利者はそう簡単に土地を手放さない。特に、岩瀬の物件が欲しい人たちは多くは県外の人たちである。先祖代々持っている土地をよそ者に簡単に売ることはそうそうないであろう。しかし、その買い手と売り手の間に桝田さんが調整役として入ることにより、不可能と思われた交渉もうまくいくことがある。その交渉は10数回にも及ぶこともあり、すんなりとはいかない。しかし、桝田さんだからこそ交渉を続けることができ、それは土地所有者が先祖代々岩瀬で商売を続けてきた桝田酒造店に信頼を寄せているからだと思われる。このように桝田さんの桝田酒造店の社長という人脈と信頼が岩瀬まちづくり株式会社の原動力になっているのは間違いないであろう。
町の人たちに古くからの信頼を受けて仕事をしているように、桝田さん自身も岩瀬の昔の偉人たちに尊敬の念を持って修復事業を行っている。岩瀬の発展および、富山の発展に大きく寄与したといわれる旧五大家のひとつ、馬場家の建物を指し桝田さんは「僕は馬場さんを尊敬しているから馬場さんの家よりも高い屋根のものは作らないようにしてる」と語る。このことからも桝田さんの過去の偉人に対する尊敬の念が感じ取れるだろう。
このように積極的に修景事業を行う桝田さんだが、自分が町全体を引っ張っていくつもりはないと言う。桝田さんの成功例で触発され、修復を始めたところもあるが、そういうところには基本的に口は出していない。さらにいえば、桝田さんから頼んで修復再生を行うこともない。あくまで顧客の要望あっての仕事なのである。「相手のすることには口を出さない、だから私たちのことにも口を出してくれるな」とは桝田さんの弁である。
桝田さんは自分の考えとやり方で自分の町をよくしようとしている。この町をよくしようという気持ちは地方出身者ゆえの思いから生まれるものである。「僕らはね、ここから逃げられないんですよ。どうしても東京みたいな都会に地方のコンプレックスを感じる。でも、逃げられないから今住んでるまちを良くしようと思ったわけです。」という言葉からもわかるように自分の生まれ育った町を自慢できるようなところにしたいというのが桝田さんの根底にはある。だから、昔の町並みに戻したいと言うわけではなく、町の特色を活かせるものを模索した結果が景観の修繕だったのである。「今のこの町に合うような風合いに直す」という桝田さんの言葉が、そのまま岩瀬まちづくり株式会社のコンセプトなのであろう。
桝田さんの岩瀬のこれからの方針を聞くと「目的を持って訪れるまち」という言葉が出てきた。観光プランの合間に訪れる場所ではなく、例えば丹生庵のそばが食べたいからとか、安田さんのガラスが欲しいからという目的を持った観光客が訪れる町を作ることがこれからの課題であるという。そういった面では大勢の観光客が乗る観光バスが増えるのではなく、ライトレールを使って個人個人が訪れることが好ましいと桝田さんは語る。長浜や高山のような大規模な観光客を呼び込むまちづくりには賛成はできないようであった。