第五章 岩瀬案内グループの活動

 

 ここでは岩瀬の町並みの観光案内をするボランティアグループ、岩瀬案内グループについて記述する。私は実際に案内グループに加わって観光案内をすることができたので、この章では自分の体験も踏まえて記述することにする。

案内グループの代表者は清水幸一さんという方で、1981年から「東岩瀬郷土史会」という岩瀬の歴史を研究する組織の会長を務めており、岩瀬のことについて博識な方である。清水さんはそういう立場上、岩瀬に関する会合にはよく声をかけられる存在であった。2005年、岩瀬の体育協会や婦人会、町内会連合会の代表会が集まり開かれたふるさとづくり協議会に清水さんも東岩瀬郷土史会の会長として出席した。この会合では、2006年に富山ライトレールの開設をきっかけに岩瀬の町をどのようにしていくかという議題が話し合われた。そこで、清水さんは岩瀬を観光案内をするグループを作ってみてはどうかと提言をした。岩瀬の観光名所だけでなくそのいわれもテキスト化できるのは清水さんしかいないと言われ、清水さんは2005年の暮れから2006年の正月にかけて案内グループへの参加者を公募して勉強会を行った。勉強会は昼の部と夜の部に分け、仕事の都合でどちらか選ぶことのできるようにし、計6回行った。勉強会が終わり、出席率の低い人は遠慮していただいて残った30人程度で20065月に岩瀬案内グループは発足した。案内グループでは発足後も年に2回ほど勉強会が行われており、案内グループのメンバーはそこで自分たちの町の知識を深め、さらに新しいメンバーの募集を行うことになる。200712月現在、案内グループの人数は40人程度に増えており、活動実績としては、20065月から20074月までに72団体、2546人を案内している。主な依頼団体は老人クラブ、町内団体、婦人会といった高齢の団体が多い。私が案内に参加したときは富山市内の小学校の生徒たちであった。

案内グループへの依頼は代表者の清水さんへの電話連絡のみとなる。ただし、案内グループの電話番号は公式に発表されていない。依頼者から市の観光振興課や岩瀬の地区センターに観光案内の依頼が来た場合に案内グループの電話番号を教える仕組みになっている。これは今の状態ではたくさんの依頼には応えられる体制が整っていないからである。同じ理由で現在は団体の案内しか引き受けていない。

グループの構成員はみな岩瀬の町に住んでいる人たちで、50から60代の人たちが中心である。清水さんの東岩瀬郷土史会のメンバーも6人参加している。彼らのほとんどは仕事を続けている人たちであり、仕事の合間を縫って案内を引き受けている。案内の要請を清水さんが受けた場合、メンバーに連絡を取り、人員調整を行う。しかし、大体の団体は平日の昼間に来ることが多いので、仕事を定年退職した人や農家の人が駆り出されることが多い。比較的時間に余裕がある人でなければ参加するのが難しいのである。現在、常時出られる人は6,7人ほどである。また、40人中、一人で観光案内ができるのは10人ほどで、あとの人たちはベテランの人についていって案内の仕方を勉強し、いずれは一人でできるようになっていく。案内する人数は、案内する団体一つに対し、3人程度がつくことになる。私が案内したときは生徒20人ほどが1グループとなり、全部で3グループを案内した。各グループにつき案内グループメンバーが一人つき、3グループがそれぞれ案内グループが事前に決めた名所を回った。一人は前述した清水さんで、後の二人はいずれも定年退職した高齢の方である。一人は奥田ミチルさんという女性で、定年前は小学校の先生をしていた方だ。案内グループ発足当時から参加している案内グループの中でもベテランの方で、一人で観光案内ができる貴重な人材の一人である。奥田さんは、清水さんの作ったテキスト以外のことも自主的に調べてきては新しく書き込んだり、勉強会で調べてきたことを他のメンバーに教えるほど熱心な方でもある。もう一人は網谷渥さんという男性で、この方も退職までは教員を務めていた方で、一人での案内は今回が2回目だということであった。網谷さんはもともと清水さんたちの住んでいる校下の隣の萩浦校下に住んでいる方であるが、退職後公民館活動を行っており、清水さんたちの校下の公民館主事を務めていた縁もあって清水さんとは顔見知りであった。清水さんがライトレールに乗っている途中、偶然網谷さんを見つけ声をかけたのが案内グループに参加したきっかけである。清水さんは網谷さんに、岩瀬案内グループのようなことを萩浦校下で網谷さんを中心にやっていってもらいたいと考えている。

案内グループが案内することは、グループ内の公募によって決められた。案内場所を挙げると、富山港、富岩運河、浦方の井戸、一里塚、金刀比羅社、岩瀬小学校、諏訪神社、七福亭、富山展望台、廻船問屋森家、岩瀬運河、義経の鎧掛け松、白灯台、岩瀬漁港、渡辺地蔵、大漁橋、神武天皇公園、大伴家持万葉歌碑、カナル会館、と19ヶ所にも及ぶ。案内場所はいわゆる観光名所と言うところに限らず、岩瀬の町の歴史や特徴を現した場所も含まれる。例えば、富山港は別段特筆するべき見所はなく、観光客がわざわざ足を運ぶような場所でもない。しかし、岩瀬の町、ひいては富山の発展において富山港は必要不可欠な場所である。私が参加した案内では、その富山港を一望できる富山展望台に向かい、そこから富山港を一望しながら富山港の説明を行った。富山港からの輸出品、富山港への輸入品、どこの国の船が訪れるのか、今の港町の形成といったことを子供たちにもわかりやすいように説明していた。観光名所を案内しながら、岩瀬の歴史、文化をともに伝えていくのである。他にも案内することとして挙げられたものの中には嵯峨寿安、高桑文雄、山崎覚太郎といった岩瀬出身の文化人、北前船などといった今は失われた過去の建造物、東岩瀬御蔵、町蔵、祭りのときに登場する曳山車の説明があり、名所を巡る中で語られる物語も存在する。

これまで説明した案内することは説明とともに小冊子にまとめられている。これは清水さんが岩瀬のいわれをテキスト化したものである。この小冊子は案内グループメンバーに配られており、メンバーはこれをもとに案内を行っている。冊子の説明文も簡素なものとなっており、誰にでも読みやすく、覚えやすくなっている。これは案内グループの基本方針である、「下手でもいいから自分の言葉で話すこと。自分で調べたことを話すこと。間違ったことを教えないこと。」に通じていて、個人はその短い説明文をしっかりと覚え、少しずつ自分の覚えた知識を冊子に書き込んでいく。もちろん、冊子を見ながらの説明でもまったくかまわない。私が参加した案内では、網谷さんが金刀比羅社で説明をしている場面があった。ちょうど清水さんのグループと網谷さんのグループが出くわしたので、二つのグループまとめての説明を網谷さんが行うことになったのだ。清水さんは網谷さんにやってみてくださいというように説明役を振り、網谷さんはそれに応えて最近新聞広告にのった常夜燈を実物と比べながら、冊子に書いてあることを説明した。説明が終わると網谷さんは清水さんの方を見て「これでいいですかね」と確認し、清水さんはいいですよと答えていた。

観光案内ルートは富山ライトレールの東岩瀬駅から岩瀬浜駅、または、岩瀬浜駅から東岩瀬駅の間を通り、歩きながら各案内場所を回っていくことになる。前述したように、冊子に載った場所は19ヶ所程あるが、案内の時間は大体1時間から1時間半程度なので案内場所を絞って案内しなければならない。これぐらいの所要時間だと、一度に回れる数は大体3から4つ程度である。その場所の中には必ず森家を入れている。私の参加した案内では、岩瀬浜駅を出発し、カナル会館をゴール地点にしたルートであった。これは岩瀬浜駅を始点にして岩瀬の町をぐるりと一周するルートである。これは大多数の観光客はたいていライトレールで来て、ライトレールで帰っていくのに対し、案内した生徒たちが行きはライトレールできて、帰りはカナル会館からバスで帰るために始点と終点を変えて案内が行われたからである。案内は3グループに分けられ、それぞれ行く場所は同じだがはちあわせのないようにルートを変えて行った。これは、案内で森家に訪れた際、森家の中に入り森家の管理人の説明を30分ほど聞くことになるのでどうしても時間がかかるからである。私は3つのグループのうち、清水さんのグループについて回ることになった。岩瀬浜駅を出発し、岩瀬運河へ。大漁橋を渡り、町並みを縫うように歩き、北から岩瀬大通りに入る。修復された町並みを見物、説明しながら森家へ。ここで森家の管理人の説明を聞く。奥田さんグループが到着するころを見計らって森家をでて、大通りを外れた小道を西へ行く。しばらく進むと開けた場所に出て、金刀比羅社についた。すると、網谷さんのグループと鉢合わせし、一緒になって案内説明をする。説明が終わると網谷さんグループと分かれて大通りの一本裏の海沿いの道路を北へと歩く。まもなくして富山展望台に到着し、100段ほどの階段を登って、富山港を見下ろしながらの説明に入る。同じ数の階段を下りて道路をさらに北に進むと諏訪神社が見えてくる。ここでひとしきり説明を終えると、進路を東へ変え、大漁橋の道へと戻り、岩瀬浜駅に隣接したカナル会館へと戻り、全行程2時間ほどの案内は終了した。

清水さんはこの案内グループを通して、町民の誰もが簡単な観光案内ができるようになることを目標だと語る。観光客がどの町の人に話しかけても、自分の町のことを案内できるような町になることが理想だが、案内グループの活動はまだ始まったばかりだ。