第四章 岩瀬大町新川町通り街並整備推進委員会がもたらしたもの
この章では岩瀬大町新川町通り街並整備推進委員会について会長であった小山さんへのインタヴューを元に記述していく。
1998年に岩瀬自治振興協議会ほか地元関係団体10団体から交易の森家土蔵群の保存についての陳情書が富山市に提出された。その翌年の1999年、富山市はまちづくり事業で北部地域の拠点整備に岩瀬大町通りを選定、「岩瀬大町新川町通り街並整備推進委員会」を発足させた。委員会の基本方針は、「富山市としては具体的な計画はないが、住民みずから主体となって委員会を組織して、行政と一体化した歴史ある街並整備に取り組むこと」であった。これに伴い、この委員会には地元の有力者である方々が多く招集された。相談役に桝田酒造の現会長や、有識者に東岩瀬郷土史会会長の清水幸一さんが参加していて、協議会会長には当時岩瀬町内会長であった小山宗正さんが選ばれた。また、行政もまちづくり専門家を派遣するなどの支援を行った。
岩瀬大町新川町通り街並整備推進委員会は富山市都市開発部とともに今後の方針を決める会議を1999年8月10日に行った。会議ではまず、今までの取り組みとして昭和58・61年度調査概要、都市マスタープランの概要、他都市の事例を確認した。そして、委員会のまとめとコンサルタントをも含め来年3月までに全体をまとめたいとして今後の方針を固め、自由討議に入った。この自由討議では、既存屋敷や空き家を富山市が助成金を考慮しての歴史的保存と整備、道路整備、電柱の撤廃といった今現在の岩瀬のまちづくりで実現していることが話し合われていた。
まず、小山さんたちはまちづくりの勉強をするために視察を行った。富山県高岡市金屋町、石川県七尾市、岐阜県飛騨市と近隣のまちづくりに成功している土地に行き、まちづくりをした代表者に話を聞いていく。その中で、小山さんがどこに行っても共通して言われたことがあった。それは、住民主体でやっていくことの重要性であった。行政からは資金援助だけもらい、実際に動くのは住民自体がやっていかなくてはいけない。そしてそれは住民全体でやっていくのではなく、母体である委員会が動き、住民たちを引っ張っていく存在になっていかなければならない。この考え方は小山さんのまちづくりの考え方に大きく影響を与えた。
視察後、小山さんたちは3つの作業部会を作り、作業分担を行った。その3つの作業部会とは、大町通りの道路の舗装を担当する「道路修景部会」、岩瀬米穀倉庫の利用を考える「土地利用部会」、岩瀬の探検ルートマップ作りを担当する「ミラクル=コスモス岩瀬探検部会」である。この中で、実際に構想が実現化したのが道路作業部会の道路舗装である。道路作業部会は車主体ではなく歩行者主体の歩きやすい道路で、なおかつ街の風格と味覚と歴史・文化、加えて地域人の豊かで温かい人柄が感じられる街並みの形成を目指した。その結果、段差や溝がなく、この町の祭りに登場する大きな曳山が巡航しても耐えられるすばらしい強度の舗装道路が完成した。また、岩瀬地区センター近くにある空き地を利用して観光バスの駐車場を作り、大通りへの観光のルート化をスムーズにしたことも道路作業部会の成功した例である。
また、小山さんたちはまちづくりのピーアールのためにイベントを企画した。「岩瀬ワールドミュージックフェスティバル」と題したこのイベントは町内で寄付金を集め、世界のさまざまな楽器を演奏できる人たちをむかえて岩瀬の町内4ヶ所を会場として開き、演奏会を行うというものであった。会場として選ばれた場所は森家、大町公園、盛立寺、願了寺で、それぞれの会場ではパーカッション演奏家、馬頭琴、アフリカンドラム、沖縄三線、二胡といった世界の音楽が演奏された。また、そば屋丹生庵(にゅうあん)では岩瀬大町新川町通り街並整備推進委員会の市が招いたコンサルタントである金沢工業大学の教授、森俊偉氏と桝田酒造の現会長、桝田敬次郎氏によるまちづくり提言「夜なべ談義」が行われた。小山さんはこれらのイベントにより、住民意識の高揚、音楽を聴きに来た人たちへの岩瀬の街並みへの興味・関心をもってもらうことを期待していた。事実、このイベントは新聞に取り上げられ、市に対するいいアピールにもなった。
しかし、岩瀬大町新川町通り街並整備推進委員会のまちづくりはそれ自体として決して順調とはいえなかった。第一に委員会会員の出席率の低さがある。委員会会員は29人ほどいたが会合を何回行っても全員がそろうことはほとんどなかったという。これは委員会会員のほとんどが仕事を持っている忙しい身であり、委員会の方に時間が取れなかったことが原因である。小山さん自身は定年したばかりで時間があったと語っており、委員会に深くかかわれた要因のひとつになっている。第二に住民たちの反対があった。住民たちは静かな町がまちづくりによって観光客が増え、町が騒がしくなるのを嫌がっていた。「観光客が増えても利益になるのは商店や土産物屋だけですからね。住民には関係ないわけですよ。特に若い人たちは働きに出て帰ってきても観光客がいると落ち着かないんでしょうね。」と小山さんは語る。
岩瀬大町新川町通り街並整備推進委員会は2001年に解散をすることになる。これは、もともと市が持ち出してきた計画が3年計画であったためである。岩瀬大町新川町通り街並整備推進委員会が行って実現したことは道路の舗装等少ないが、その下地は間違いなく今のまちづくりにつながっていると小山さんは語る。ここで1999年8月10日に行われた岩瀬大町新川町通り街並整備推進委員会の会議議事録から自由討議で話題に上がった主な討議内容を抜粋する。
1)富山市のまちづくり事業(岩瀬の歴史文化街並整備)は、世界的なレベルを目指してもらいたい。道路のインターロッキング(※コンクリートをお互いがかみ合うような形にし、レンガ調に組み合わせた舗装方法)はマッチせず、石畳がよい。
2)街並の時代感覚は、どの時代を基準に置くかで派生するものが違ってくる。
3)岩瀬大町通りの対象は、歴史文化と曳山メーンルートの大町―新川町とする。
4)既存屋敷、空き家、空き地は、富山市が経済的に助成金を考慮して、歴史的文化財の保存と整備をしてもらいたい。
5)人集めの観点から観光コース化を考慮したら如何か。
歴史ある古い街並、酒蔵、曳山車、港等の見物やお土産品(魚類の特産物、有名菓子、お酒等)のショッピング、フィッシング等の遊びと観光的要素が岩瀬にある。
6)北前船時代の米倉(近くの生産地から米穀類を集積し、俵詰めの作業場)が空き家となっている。また、駐車場として適当な空き家や空き地がある。
従って、これ等を歴史ある街並のアメニティー空間として活用したい。
7)森家の月間見学者は千人程あるが、道路の凸凹や適当な駐車場がなくて町内が迷惑するなど問題がある。
(文章を一部改変。「※」印付カッコ内は引用者による。)
先に述べた通り、岩瀬大町新川町通り街並整備推進委員会は、委員の出席率の低さや一部住民の反対により、順調には運ばなかった。しかし、この自由討議で話し合われた7点をみると、後の岩瀬のまちづくりを既に先取りしていることがわかる。1)と7)については、通りの路面をすっかりきれいにし、岩瀬地区センターの近くに駐車場もできた。また、電柱も撤廃され、きれいな街灯も並んでいる。4)と6)については、2005年から市からの補助金も出るようになり、後述する岩瀬まちづくり株式会社を中心にきれいな修繕された家屋が登場してきた。この委員会の活動は、それ自体では決して成果を挙げたとはいえないが、まちづくりのポイントを早い段階から出し合い議論する場になった、ということはできるだろう。
最後に小山さんにこれからの岩瀬のまちづくりについて聞いてみた。小山さんは今の岩瀬が間違いなく昔のそれとは変わっていることを実感していた。昔は大通りに人影もない状態だったものが今では日曜日になると多くの観光客が町を見て回っている。そして、自分たちが話し合っていたことがだんだん現実化していくことに喜びも感じている。しかし、それとは別に不安もある。「年寄りと若い人との間に溝があるように思います。視察に行ったときに言われたことなんですが、まちづくりは3年4年でできるものじゃないんです。何十年もかけてやっていくもんだと私も思います。まちづくりは何十年とかけてやっていかないといけないから次世代まで下地が残るかは不安ですね。」とまちづくりの意識の伝承を危惧していた。また、これからのまちづくりの展望としては、観光ルート化について語っていた。「新潟には森家のような建物はたくさんありますからね。森家だけでは他の街との差別化はできません。だから岩瀬大町通りだけじゃなくて富山市全体の観光ルート化を祈っとります。」というのが小山さんの意見であり、まちづくりへの希望である。