第三章   岩瀬についての概要

 

 ここでは本稿の舞台である富山市岩瀬について記述する。富山市岩瀬は日本海に面した町であり、江戸時代から明治にかけて、日本海側の航路の拠点として東海道と並び日本の交通動脈の一翼として文化的、経済的役割を果たした北前船の停泊した宿場町である。廻船問屋である五大家が隆盛を誇り、富山の発展に大きく寄与した。町の大通りは、江戸時代には加賀藩の官道(北陸浜街道)として整備され、加賀藩の参勤交代の行列が通った。

このように江戸時代に港町として隆盛を極めた岩瀬地区であったが、明治時代にはいり鉄道の敷設が開始、北前船は役割を終え衰退の一途をたどることになる。明治6年にはフェーン現象等による大火で多くの家屋が消失した。これにより、馬場家や米田家の焼失はまぬがれたものの、江戸時代の伝統的建築は失われた。その後、焼失した建築物は岩瀬独自の「東岩瀬廻船問屋型」家屋として再建され、現在も岩瀬大通りにはこの時代の景観がまだ色濃く残っており、廻船問屋群のある街並みとして知られている。

昔の景観が残っている建物の中で、もっとも特徴的なものに北前船廻船問屋「森家」があげられる。「森家」は代々 四十物屋(あいもんや)仙右衛門と称し、明治以降は名字を「森」と名乗った。建物は、明治11年に建てられ、土地面積80坪ほどで、表から母屋、土蔵(2棟)、米蔵、肥料蔵と続いて、現在は、母屋と土蔵(2棟)が残っている。この建物は平成6年に国指定重要文化財になり、行政からの補助金で管理運営がされるようになった。

しかし、廻船問屋群も廻船問屋である五大家の衰退とともに豪華な外観だけを残して空き家になるところも出てきて、岩瀬大通りは商店街とはいえないまでにさびれてしまった。

ところがここで岩瀬に転機が訪れる。岩瀬地区は中心街の富山市からはJR富山港線によってつながっていたが、2003年度に富山港線のLRT(ライトレールトランジット)化が決定し、20044月には富山ライトレール株式会社が設立。20064月に開業されることとなった。

ライトレールは富山港線のころと比べ格段に利便性が高まった。15分おきに走るライトレールは1日上下線あわせて約132本の運行数に加え、終電が2334分とこの地域としては比較的遅くまで運行している。また、2006年には車両がグッドデザイン賞を獲得したように、きれいな外観も脚光を浴びている。

ライトレール開通後、初年で乗客数が10万人を越え、森家の入館者数が3倍に膨れ上がるなど岩瀬へ訪れる人が急激に増加した。そこにきて、以前から修復再生事業が開始されていた廻船問屋の町並みが脚光を浴び始めた。次の章からは岩瀬のまちづくりに関わってきた団体・人物の活動について順に記述していく。