目次
第1章 問題関心・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1
第2章 インタビュー概要とプロフィール・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3
第1節 「平和活動を行ってきた者」Aさんのインタビュー概要・・・・・・・・3
第2節 「平和活動を行ってこなかった者」Bさんのインタビュー概要・・・・・3
第3節 Aさんのプロフィール・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3
第4節 Bさんのプロフィール・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3
第3章 それぞれの戦争体験・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5
第1節 Aさんの戦争体験・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・5
第2節 Bさんの戦争体験・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・8
第4章 それぞれの戦後・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・13
第1節 Aさんの戦後・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・13
第2節 Bさんの戦後・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・16
第5章 平和観とその実践・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・18
第1節 Aさんの平和活動・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・18
第2節
第2節
Bさんの一貫した物語への抵抗感・・・・・・・・・・・・・・・・・・21
第6章 考察・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・24
おわりに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・27
注・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・28
引用・参考文献・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・29
第1章 問題関心
本論文は、戦争体験を「語る者」と「語らない者」の両者の語りの構図を分析することで、自己物語が如何に形成され、戦後、平和を「語る」活動へと邁進していくか、または、していかないのか、という点に目的を持つ。
終戦から61年が経ち、戦争体験者は日に日に少なくなっている。戦中、われわれと年齢もさほど変わりのない若者が、その戦争という大きな出来事に巻き込まれたのである。中には、特別攻撃隊員(以下、特攻隊員)として「必死」を強いられる者もいた。健康的な若者が突然「死」を定められたのである。しかし、結果として終戦を迎え、必死のはずの特攻隊員が生き残る結果となった。戦中「死」を定められた特攻隊員としての戦争体験は、戦後活動に大きな影響を残したはずである。
森岡(1993)は、戦中特攻していった隊員たちの「死」の納得について、「物語」が適用されていることを指摘する。森岡は、その納得に機能する一つの役割として「死のコンボイ」という概念を挙げる。「コンボイ」とは、アメリカの文化人類学者プラースのいう親密で持続的な関わりが強調された関係である。コンボイは「道づれ」と訳され、森岡は「死出の旅にも道づれがある」とコンボイの意味を延長させ、必死の場面での戦友を「死のコンボイ」と呼び、その一定した役割について論じている(森岡 1999: 3)。死のコンボイは、死の葛藤と恐怖に対処する際、機能する。森岡は、彼らの遺書を分析し、死のコンボイが早すぎる死を意義づけ、迫り来る死に備えようとする働きがあることを論じた。しかし、特攻隊員たちが遺書として物語を作り上げていく際、その短い人生から独力で物語を作っていくことは当然難しいものであった。よって、それらの物語のおおまかな道筋は、既成の物語を参照することで補われたのである。これらは、当時、特攻隊員たちの中で歌われた「同期の桜」や「忠孝一本」の教説によって補われた。「同期の桜」では、「貴様と俺とは同期の桜 同じ兵学校の庭に咲く 咲いた花なら散るのは覚悟 みごと散りましょ国のため」と歌われ、死のコンボイとの死の物語が賛美され歌われている。これらのように既存の物語が参照され、死のコンボイとの約束を果たすために自らの死を共同体としての死として描き、早すぎた人生の終焉に納得するといった論理によって死に直面した若い特攻隊員たちは自らの人生に納得を強いる物語を構成し、自らの死を意義付けたのである。(森岡 1993,1999: 138,3)
さらに、森岡は生き残った特攻隊員たちの戦後にも「死のコンボイ」が機能したことを論じている。生き残った特攻隊員たちは、戦後虚脱状態に陥った。しかし、やがて特攻隊員たちも現実への適応をみせていく。そこで機能したのが「死のコンボイ」であった。死のコンボイは、戦後活動の起点として機能していく。生き残った隊員たちに「負い目」を感じさせ、生き残ったことの真の意味を模索する。そして、死のコンボイの「弔い」として壊滅的であった日本を復興させる、「新日本創造への参加を自らに課し、戦後の活動を開始し、開始しただけではなく、これが残る生涯を貫く動機付けとなった人々もいた」と論じている(森岡 1999: 7)。
門野(2005)は、沖縄反戦地主二世が、如何に平和活動に参加していったかを論じている。門野は、平和活動へと邁進していくようになった反戦地主二世、Yさんの自己物語の構造を明らかにすることで、平和活動参加への三つの知見を紹介する。第一の知見は、過去の出来事が、「現在の自己に適合するように再解釈され、自己の物語を構成要素として組み込まれる」という点である。門野が調査を行ったYさんの場合は、現在の観点から自己の物語を紡ぎだすためにたぐりよせられた過去の記憶の一貫した流れを表象するものが、反戦地主一世である「親の背中」として論じられている。この点で、平和活動参加の起点は、「過去の体験ではなく、「今を生きる」中にあるのならば行動開始の可能性は常に開かれている」と捉えるものが第一の知見である。第二の知見は、既存の物語や他者の物語を参照することによって、自己物語が組み立てられていくという点である。門野が論じたYさんの場合、継承の物語は、反戦地主一世である親からの直接的で継続的な継承ではなく、「沖縄のガンジー」と呼ばれる沖縄の平和運動家、阿波根氏の物語を参照している。しかし、Yさん自身は、阿波根氏との直接的な関わりはほとんどなかったのである。門野はこれについて「平和の継承が直接的かつ継続的である必要はない」と論じている。第三の知見は、自己を組み立てる際の「原点」の必要性である。Yさんの反戦地主としての自己を組み立てている中核は、幼い頃、ミサイル撤去運動に立ち会った際、「ブルドーザーによって巻き上げられた小石が顔に当たった時の痛み」とされ、経験の断片を束ねるための「原点」の必要性を門野は論じている(門野 2005: 26,32-33)。
以上のように、戦争体験の語りを、特に門野論文の観点を用いて、平和活動との関連に着目しながら論じていく。私は、当初、「戦争体験の語り」をテーマとして調査を始め、「戦争体験を積極的に語る者」と「語りたがらない者」と特徴付けられる二人のインタビュイーに出会った。しかし、両者のインタビューを進めていくうちに、戦争体験を語ることが平和活動とも密接なつながりを持っていることに気付いたのである。よって本論では、両者が戦争体験を語る仕方の違いを平和活動との関連に着目して比較検討していく。特に平和活動も語りも積極的に行ってこなかった事例(Bさん)は、表に出る機会が極端に少ない種類の資料と考えられるため、親族という特殊な間柄によって得られたそのデータは、希少なものといえよう。
第2章 インタビュー概要とプロフィール
第1節 「平和活動を行ってきた者」Aさんのインタビュー概要
2006年6月、私が所属する研究室の担当教官を通じて、Aさんを紹介してもらった。インタビューの依頼を電話にて承諾を得た後、数度、電話にてインタビューの目的や内容を伝えた。インタビューは、同年7月、12月の計2回にわたり行なわれた。2回のインタビューは、共にAさんが日頃、生涯学習活動の講師として利用する公的施設の一室を利用して行なわれた。初回インタビューは5時間に及び、2回目のインタビューは3時間程であった。2回のインタビューは、Aさんが持参した資料をもとに進められた。
第2節 「平和活動を行ってこなかった者」Bさんのインタビュー概要
インタビューは、2006年5月、11月の計2回行なわれた。初回インタビューは、2時間程、2回目のインタビューは1時間程であった。2回のインタビューは共に、Bさんの自宅で行なわれた。Bさんは、私の身近な親族であり、現在までにほとんど戦争体験を語ってこなかった。
第3節 Aさんのプロフィール
Aさんは、昭和4年、5人兄弟の次男として石川県に生まれる。小学校時代には、戦争に伴った空腹や貧困を経験する。中学1年次、少年飛行兵を志願するものの両親の猛烈な反対にあい、受験を断念する。翌年、中学2年次、二度目の志願書提出の際にも両親の反対はあったがAさんの鬼気迫る勢いに両親も頷く外なくAさんの東京陸軍少年飛行学校への受験を認める。昭和19年4月、東京陸軍少年飛行兵学校入隊。翌年、3月卒業。卒業後は、操縦士として三重県鈴鹿市で訓練を続け、昭和20年4月、特攻隊への転属を希望し、「はやぶさ」の特攻隊員となる。同年、8月18日の出撃が決まっていたものの、8月15日、終戦。終戦から3ヶ月間は、隊の残務整理に追われ、三重県鈴鹿市に残る。昭和20年11月に地元金沢へと戻り同窓生のいる旧制中学校4年へ復学。翌年3月に卒業し、石川師範学校へ入学。石川師範学校卒業後、教員として小、中学校へ赴任。定年退職後も臨時講師として中学校、高校の講師を務める。現在では、小学生を対象とした文化施設での教育活動や生涯学習施設、各種講演会の講師として活躍している。
第4節 Bさんのプロフィール
Bさんは、大正14年、岩手県に生まれる。幼少期に母親が結核を患い、一家は離散。その後、母親の実家へ共に戻るが、すぐに母親は他界。その後は、祖母や叔父、叔母など身近な親族に育てられた。太平洋戦争開戦初期は、横須賀海軍工廠設計部で戦艦大和等の設計に携わる。昭和17年5月、予科練習生(以下、予科練)として土浦海軍航空隊に入隊。昭和19年3月、予科練卒業。卒業後、練習生として徳島海軍航空隊で6ヶ月間訓練を受ける。練習生卒業後、戦地勤務を希望するものの同航空隊での偵察法教員を命じられる。教官として1ヶ月の勤務の後、高知海軍航空隊で2ヶ月間の練成教育を受ける。その後、再び徳島海軍航空隊へと教官として戻され、昭和20年5月、721航空隊、攻撃708飛行隊である神雷特攻部隊への転勤が命じられる。一式陸上攻撃機「神雷」の偵察員として小松航空隊で訓練を受ける。昭和20年8月15日の出撃が決まっていたものの、同日8月15日の終戦を受け、作戦は中止となる。終戦後、解散命令を受け、地元岩手県へと戻る。同年9月、知人の紹介で岩手県警に入隊。次長や署長などの県警管理職を務めた後、昭和58年、定年を待たずして58歳で退職。退職後、地元タクシー会社の代表取締役に就任。タクシー会社を平成12年に退職し、現在では趣味である旅行やパチンコなどをしながら毎日を過ごしている。平成16年には、長年の警察官としての実績が称えられ瑞宝章が授与された。
第3章 それぞれの戦争体験
平和活動を行ってきたAさんと、行ってこなかったBさん、両者は、戦争体験を語ってきた数も機会も大きな違いがある。本章では、現在までに何度も戦争体験を語ってきたAさん、ほとんど語ってこなかったBさん、それぞれの戦争体験のストーリーを再構成していく。
第1節 Aさんの戦争体験
太平洋戦争が勃発したのはAさんが12歳のときだった。当時、小学校6年生だったAさんは小学校時代の思い出を「空腹」と語る。戦時中の国家総動員法の下、小学校の運動場がさつまいも畑に変わり、その隅で婦人会と呼ばれる組織のバケツリレーや竹やりの訓練が行われていた。配給による食料の制限は、当時育ち盛りであったAさんにとって辛い思い出だった。朝食は、ほとんど水のお粥を一杯。ぐつぐつと沸かされたお湯の中にたったひとつまみの米を入れるだけ。「もう、お湯を飲んでいる感じやね」とAさんは当時の想いを語る。昼食は親指ほどの小さなさつまいもを2本。通学途中で、空腹のために1本、そしてまた授業が終わるとグーグーと鳴る腹を抑えるためにもう1本と昼食前に全て食べ終えてしまっていた。当時の空腹をAさんは「腹減った。あぁ、腹減った。腹減った」と川柳にし、ノートに綴るほどだった。
Aさんは、小学校を卒業し中学校へ進学する。当時、徴兵制度は満20歳であったが、志願兵は中学1年生以上から希望、受験することができた。Aさんは、学校の教室に掲げてあった「今こそ決戦の大空へ」という標語に「全面的に賛成」し、「心が動いた」と語る。子供心に「日本は戦争に勝つために焦っていると感じていた」というAさんであったが「焦っていてもいい、行こうと思った」。その標語がきっかけで志願を決意し、一度は願書を提出するものの両親の猛烈な反対にあい、願書を取り下げられてきてしまう。
だから、親父やお袋は僕が13のときに、そういう志願兵になったので怒ったわけです。怒ったのは本当言うたら、当たり前なんですね。お袋は特に「20歳になったら母ちゃんは、あんちゃんとAと三番目の弟は兵隊に放さんなんと思ってるから。覚悟できてるから。なんで待てれんのや」と。「早くに放すの嫌われー」って言うて泣いた。「兵隊行くのだめや」っちゅうて。まぁ、教育の力っちゅうか。時代の流れの恐ろしさって言いますかね。僕だけじゃなかったんですよ。えぇ。さっきも写真あったように4人おったら病気の人残してみんなそれぞれ志願兵いったんですね。
志願を希望したのはAさんだけではなかった。元来体の弱かった友人を除く、Aさんの友人の多くも志願したのだ。それらは、Aさんの思想的な信念の問題ではなく、時代の問題として語られている。それを「教育の力」「時代の流れの恐ろしさ」とAさんは語った。翌年、中学2年次、二度目の願書提出をAさんは試みる。昨年同様、両親の強い反対にあったもののAさんの「これで日本が戦争負けたらどうするがや」との鬼気迫る勢いに両親は頷く他なかった。昭和19年3月、志願した東京陸軍少年飛行兵学校へ入学。飛行兵を選んだ理由を「小学校の2、3年生の頃から模型飛行機を作っていましたから。子供の頃から空を飛んでいく飛行機に乗りたいなって思っていたわけです。何故かわからないけど好きでしたね。だから戦争に行くならパイロットやと。死んでもえぇがやと」と語る。当時のAさんは、後に特攻隊の操縦士になるとは考えもしなかったという。
東京陸軍少年飛行兵学校へ入隊したAさんは、「行ったその日から後悔した」と語る。入隊日に隊長の一人から言われた「お前たちの命は日本のために遠慮なく使わせてもらう。確かに預かった」という言葉、学校に掛けられているカレンダーには、「月月火水木金金」と「土日」のない暦。休みのない猛訓練が始まることを瞬く間に予想することができた。
予想通り翌日から猛訓練が始まる。飛行中の飛行機の中から蹴飛ばされ地上へと降りていく落下傘降下訓練は恐怖で足が震えた。水泳講習会と称された訓練では、隊員全員が海へと突き落とされ、沖から岸辺まで泳がされた。「いじめみたいなことをする教官もおりましたね」とAさんは語る。
当然、この厳しい訓練の中で隊から逃げていく生徒もいた。しかし、Aさんは「僕は単純だから、来るんじゃなかったなって思ったけど、今更帰れんなぁと思って」と語るように、親の反対を押し切り入隊した学校から逃げることはできなかった。入隊から9ヶ月程経った昭和20年1月より、「操縦科」「通信科」「整備科」の三つの専門課程に分化されるための訓練が始まる。生徒の大半は操縦科を希望していた。Aさんも他の生徒同様、操縦科への配属を希望した。同年3月、Aさんは念願叶って操縦科への配属が決まる。配属が決まった理由を「体が小さかったから」とAさんは語る。
同年3月、東京大空襲後の死体収容作業をAさんは命じられる。当時の様子を、Aさんは「本当言うたら東京のあの様子見たらもう手を挙げるべきだったと思う。」と語る。隅田川には、子供を抱きかかえながら息絶えた母親など何千人もの死体が浮かんでいたという。死臭が激しく、死体からはうじがわいていた。そのような死体を数日間引き上げ続けた。
そして、入学より1年が経った昭和20年3月、Aさんは陸軍少年飛行兵学校を卒業する。卒業後、整備科は、埼玉県所沢市へ。通信科は、茨城県水戸市へ。そして操縦科は、三重県鈴鹿市へと本拠地を移し、訓練は続けられた。訓練中、宿舎や基地が敵機から攻撃を受けることもあった。
鈴鹿へと移ったAさんの隊は、12人一班であった。隊では、Aさんが一番年下だったが、その年齢構成は比較的近かったという。12人は同じ部屋にベッドを並べ生活していた。そして、その12人の隊を仕切る隊長がK隊長である。2回のインタビューでは、この11人の先輩たち、K隊長とのエピソードが幾度も語られた。
そして、三重県鈴鹿に移って間もない頃、特攻隊員としての希望の可否を問われる日が突然やってくる。Aさんの隊12人全員の前で特攻隊希望についてK隊長から説明がなされ、そして、3日間の猶予がAさんら隊員たちには与えられた。3日後、特攻隊希望の可否が問われるときがついにやってきた。朝、点呼を終えるとK隊長から特攻隊希望の可否が問われた。「“行くもの一歩前へ。”誰も動かないのいないですね。僕は友達と相談しなかったし、友達も僕に声をかけなかった。先輩たちが相談している様子も全くなかった。(中略)いわゆる自分の意思で気持ちを表現されたもんだと今でも思っています。そんなメソメソしている状態じゃなかったし、メソメソしているものは家に帰っとった。ここまできたらみんなどういうわけか腹がしっかり決まっとったよね。」とAさんは語る。
Aさんと同室の先輩たちは特攻隊員となった。特攻隊員となってからも訓練は同じように続けられた。ある日の訓練中、小学生の運動会を狙った銃撃があったという情報がAさんに伝わった。Aさんはすぐ様、飛行機に乗り込み、銃撃を行なった敵機を追った。しかし、その敵機には追いつかなかった。基地へ戻ると、命令を待たずに飛び立っていったAさんに別隊の隊長が、叱責として殴りかかってきた。その罰は、常軌を逸するものであった。何度も何度も顔面を殴られ、鼻血が流れた。そんな状況からAさんを助けてくれたのは先輩たちであった。絶対的である上官に歯向かい、Aさんを厳しい罰から救ってくれたのだ。
しかし、敗戦の色が濃くなってきた7月末から8月にかけてAさんの先輩たちは、次々と飛び立ち亡くなっていった。Aさんは、先輩たちが飛び立っていく際の様子を語る。それは、「出発前夜の人間模様」「帰ってきた特攻隊」と題され語られた。Aさんによるそれらのエピソードの語りは私がインタビューを行なった際に初めて語られたものではなく、それまでに学校や講演会などで幾度も語られたエピソードであった。
先輩たちが飛び立って行く様子をAさんは、「この人たちは様々な人間模様を残った後輩のちっぽけな私の前で見せてくださいました。」と語る。
Aさんから語られた「帰ってきた特攻隊」のエピソードを例に挙げる。このエピソードはAさんと先輩とK隊長が登場するエピソードであった。
特攻出撃していったAさんの先輩がいた。その先輩は、自らの妻へと宛てた手紙を隊へ残るAさんに預けていた。ある朝、その先輩は他2機を連れての計3機で出撃していった。しかし、基地を飛び立ち間もなくして、その先輩だけが再び基地へと戻ってきたのである。残りの2機は、Aさんの先輩から上空で無線を受け、基地へと再び戻ることを了解し、上空を旋回しながら、ある理由で戻っていったAさんの先輩の到着を待っていた。
で、その(手紙の)中身はもちろんわかりませんけども帰ってきてすぐに隊長に、「どうしたんだ?」珍しいですからね。「何しに来たんだ?」「さっきAくんに預けた手紙の中にふるさとに残っている女房に俺が死んでも俺を本当に愛しているならば一生節を守って生き抜いてくれ。誠にすまんけどよろしく頼む、じゃぁなって書いたんですけども。今、上でそんな可哀想なことができるかと思って、迷ったんですけども、部下に了解を得たら了解了解と許してくれたので帰ってきました。」「ほぉ、優しい男やな。お前のようなやつを死なせたくないな。Aくん。」「はい。」「ちょっと手紙書き直すらしいからな渡してやれ。」「はい。」で、みかん箱の中からもってきて。「先輩殿。」そして、破って、バーって書いて。ほんでふーって、でっかい息して、ほんでまだやっぱりねー、まだ若いですからね。あの方は22くらいだったかねぇ。僕らの一番先輩だったけど。奥様は何歳かわかりませんけど。僕は一番年下でしたから。優しいし、葛藤が、離陸した直後から奥さんのことやっぱり思ったんでしょうね。で、結局、「Aくんすまん頼むな」って。わかりましたって。僕は後から切手貼って出せばいいわけですから。中身も何書いてあるのか話を聞いてわかってしまったんですけど、そんな素晴らしい先輩でしたね。「また、行きます。2回もすいませんって。」「お、行けって。」もう隊長は涙いっぱいだった。「お前みたいな優しい男死なせたくないな。だけど特攻隊だから帰ってこれないしな。人間爆弾だしな。」そんなことをね。今の戦争を知らない子供たちに話ししてどんなプラスがあるかわかりませんけど。そういう尊い命が失われて61年前に戦争が終ったんですよね。朝焼けのきれいな空に三機編隊でだんだん小さくなって消えていったんですよね。帰ってきたけど帰ってこなかった。この方は飛び立って一辺帰ってきたけど、また飛び立って帰ってこなかった。
Aさんは、それぞれの登場人物になりきり、そしてナレーションも加えながら、演技を交えて先輩とのエピソードを語る。K隊長の「お前みたいな優しい男死なせたくないな。」という言葉が非常に感動的であったとAさんは語る。「出発前夜の人間模様」では7人の先輩特攻隊員の出発前夜を細かく語っていた。出発前夜の先輩との関わりについて「最期の晩何かなさりたいのを応援してあげたくて仕方がないわけなんですよね」と語る。Aさんも8月18日に出撃が決まっていたため、先輩から「後から来いよ。靖国で待ってるぞ。」との会話を交わした。Aさんと先輩たちとの関わりは確かにあったのだ。
しかし、先輩との約束は果たされなかった。昭和20年8月15日、三重県鈴鹿の特攻基地でAさんは終戦を迎えた。
第2節 Bさんの戦争体験
本節では、Aさんとは異なる、戦争体験をほとんど語ってこなかったBさんの戦争体験に焦点を当てる。
昭和17年5月1日、Bさんは予科練習生として土浦海軍航空隊に入隊する。予科練への入隊理由を以下のように語る。
飛行兵っていうとみんなのあの憧れの的だからみんな志願したわけだ。(中略)その頃、私は、あの横須賀海軍工廠設計部で製図やってたと。軍属(1)で。同じ海軍にいるんだったら軍属より予科練のほう良いと思ったし、調度今で言う高等学校の昔の工業学校の夜間部に通っていたので、2年生で昔の専検、今の大検とってしまったので学校に行く必要ないし、んで、予科練にいったと。
飛行兵は当時の「憧れの的」であった。Bさんもその予科練に憧れた少年のうちの一人だった。当時、Bさんは、横須賀海軍工廠設計部で戦艦大和等の製図に携わっていたが、同じ海軍にいるのならば「軍属より予科練のほう(が)良い」と考え、入隊を希望する。
当時、工業学校の夜間部に通っていたものの2年で専門学校入学者検定試験に合格し、工業学校へ行く必要がなくなったためのこのタイミングであった。初回インタビューでは、Bさんの妻に、如何に予科練が当時の憧れの的であったかを語らせる場面もあった。
予科練入隊試験では、筆記試験、口頭試問と通過し、三次試験では、全国から2000人が土浦航空隊に集められ、5日間にわたって適性検査が行われた。毎朝、スピーカーで不合格者の名前が読み上げられ、日に日に人数は少なくなっていった。そして、Bさんは見事試験を通過し、予科練に入隊が決まる。
予科練入隊後は、中学校普通教育の他に軍事訓練、軍事教練が行われた。通常3年で卒業が認められる予科練であったが、Bさんが属する予科練18期生は、より現実味を帯びた戦争が押し迫ってきていたため、授業時間が延ばされたものの卒業までの期間が1年次は6ヶ月間、2年次は1年間、3年次は6ヶ月間の計2年間と短縮された。Bさんは、昭和17年5月に入学、昭和19年3月に卒業の1年8ヶ月間であった。
予科練卒業時期には、個人個人に差があり同期全員が同時期での卒業ではなかったという。
1年次修了の際、予科練生を操縦員と偵察員に区分するため、予科練習生に実際の操縦を行わせ適正を見極める「適正飛行」が行われ、Bさんは、偵察員に区分された。予科練時代は、「徹底的に詰め込まれた」とBさんは語る。通信の訓練では一字間違える度に一発殴られていた。地元高校とラグビーの試合をした際、Bさんチームは試合に破れ、模範訓練生を務めていたBさんは、樫の棒で立ち上がれなくなるまで臀部を殴打された。気合が入っていないと何かしらに理由をつけて「イギリス海軍伝統」と称された一晩水に浸した太いロープで殴られることもあった。
昭和19年3月予科練卒業後、Bさんは飛行兵として次の段階へと進む。Bさんが「予科が抜けてくるわけだ。飛行練習生になるための予科なわけだから」と語るとおり、Bさんは飛行練習生として徳島海軍航空隊に配属される。徳島海軍航空隊では飛行練習生として天測や航法の訓練を6ヶ月間受けた。当時の飛行機には、現在のようにレーダー等は搭載されておらず、天測、航法が非常に重要なものとみなされていた。当時を「みっちり」訓練を受けたと振り返る様子からは、訓練時当時の緊張感が伝わってくるものであった。
そして6ヵ月後、飛行練習生を卒業する。卒業すると多くの飛行練習生は第一線部隊の戦地へと赴任していったが、Bさんは違った。Bさんも多くの練習生と同様に戦地への赴任を希望していたが、徳島航空隊での偵察教官を命じられる。300人を超える二個分隊の中で僅か6人だけが徳島航空隊に残る結果となった。
教員として選ばれた理由を、軍隊長が見物に来ていた爆撃の授業の際、「鉛筆の芯程の的」に連続して着弾させたために残されたのだろうとBさんは語る。
徳島航空隊で練習生を卒業し、同航空隊で1ヶ月間程偵察教員を勤めた後、高知航空隊への転勤命令が下る。「ここはひどかった」とBさんは語る。2ヶ月間の練成教育。寝る時間はほとんどなく、朝から晩まで、毎日が訓練漬けであった。2ヶ月間の練成教育が終わると、またその半分程が戦地への転勤命令を受けるが、Bさんは、再び偵察教員として徳島航空隊へ戻される。その後の昭和20年4月、搭乗員教育は中止され、Bさんは、1ヶ月ほど学生と共に防空壕づくりをしていた。搭乗員教育を中止した後のことをBさんは次のように語る。
日本が負けるという実感という――負けるという確信とは言わねぇな――思ったのは、20年の4月に教育、飛行訓練中止。そりゃ出てこないもの負けるに決まってるよな。消耗していくだけだもの。後継ぎがいないもの。あのあたりにはもう、われわれはそう思った。(でも)思ってない人もいたの。最後まで。あの狂信的な、右翼みたいな人たち。
Bさんは「日本は負ける」と感じていた。搭乗員教育が終わった背景をBさんは、「(搭乗員教育)中止というよりは練習機を飛ばすガソリンがないわけだ。だからどうしようもないわな。」と語る。飛行機がない、ガソリンがない、そして搭乗員教育もなくなった日本に勝ち目はないと感じていたのだった。
昭和20年5月、Bさんは転勤命令を受ける。721航空隊、攻撃708飛行隊、それが、神雷特攻部隊であった。当時、第一線部隊であった第5航空艦隊の721航空隊は707航空隊と708航空隊で編成され、Bさんは708飛行隊の二中隊に配属された。Bさんは、配属が決まっても特攻隊だとはわからなかったという。しかし、「帰ってきたものはいない地獄部隊だ」という戦友の言葉によって、特攻隊であることを理解した。その後、徳島航空隊の戦友たちはBさんを不憫に想い送別会を開いてくれた。しかし、その後の話ではあるが、特攻隊であるBさんは生き残ったものの、徳島航空隊でBさんを送別してくれた戦友たちが、練習機「白菊」で特攻し、亡くなっていったという。
Bさんは、石川県小松基地にて神雷特攻部隊の訓練を受ける。安宅小学校を宿舎としていた。神雷特攻部隊は、爆弾「桜花」を搭載した一式特別陸上攻撃機で、桜花搭乗員1人、機長1人、偵察員2人、通信員2人の6人で編成され、Bさんは、偵察員であった。毎日、日本海から沖縄まで訓練を兼ね偵察に向かった。沖縄では砲弾が飛んでくる中の飛行だった。Bさん自身も被弾の経験があり、現在もその傷は生々しく存在する。当時を振り返り、「沖縄ではね、飛行機で飛んだときは、砲弾飛んでくる中飛んだけど、ただその時はおっかないもないし、嫌だもないし、死にたくもないと。ただ夢中だと」と語る。
特攻隊に来ても日本に勝機があると感じることはできなかった。しかし、特攻隊にいた時期は、階級も上がっていたため、Bさんにとって訓練以外は、割とのんびり過ごす事ができた。戦友たちと宿舎近くの神社に通い、よくそこに寝転び騒いだという。そこで、日本が負けるとは口にしないものの、負けるという実感が皆にはあったという。
理屈から言って勝てるわけねぇもん。教育やらないのと、飛行機がなくなる。日本の空は毎日B29飛びまわってるし。自由自在に日本全国。ほんで俺たちはいつものようにB29が来襲、搭乗員退避っていう命令が出るわけだ。飛行機に慌てて乗って、日本海の沖合、はるか、日本海の真ん中辺りまで逃げるわけだ。帰ったかって思う頃に帰ってくるわけだ。航空退避やってね。そういう時代だもん。
B29は日本の空を飛び回っているが、日本の飛行機はただ遠い沖まで逃げるだけであった。このエピソードからもBさんは、日本の敗戦が色濃いことを感じ取っていたのだ。
毎月、708飛行隊からは出撃者が出ていた。1回につき4機ほどの特攻機が出撃していたが、帰ってくる飛行機はひとつもなかった。出撃が決まると、搭乗員整列が飛行場の宿舎前に午後0時にかかる。そこには、黒板に翌日特攻する者の名前が書かれていた。8月14日の午後0時、搭乗員整列がかかり、行って見るとそこにはBさんの名前もあった。
出撃命令を受けた際の気持ちをBさんは、「諦め」と語る。
「あ、来たか」ってその程度じゃないかな。誰も死にたい人なんていないわけだけど。いずれ、自ら死んでしまおうってのもあんまりいなかったと思うな。諦め。生に対する。仕方ないと。「あぁ、俺の順番が来たな」ってその程度にしか考えないから。
実戦部隊にいれば、やっぱり、いつか死ななければいけないというのはみんな頭の中に降りているのさ。人を掻き分けて先に死のうっていうのは・・・うーん。でも、一応は、出撃命令ふられると他の連中もおめでとうとか言うわけだ。サンキューって言うほかない。
死にたいわけでもなく、生きたいわけでもない。飛行兵として実戦部隊に所属している以上、いつか死ぬのだという「諦め」があったのだ。しかし、「おめでとう」と出撃が決まったことに対し激励しにくる戦友たちには「サンキュー」と返す他なかった。これをBさんは、「男の意地」と説明する。内心は死に対する不安はあったのかもしれない。しかし、それほど強くも感じなかった。訓練中、嫌なことも度々あったがそれらを戦友と語り合うことはなかった。
出撃が決まると、出撃命令を受けた隊員たちは自由外泊が許された。Bさんは誰にも面会をする相手のいない数人の戦友たちと居酒屋へと向かい、「こてんぱん」に飲んだという。Bさんは、「全てのことを忘れようと思って」と出発前夜に「こてんぱん」に酒を飲んだことについて語る。
しかし、8月15日、出撃当日の朝、鹿児島鹿屋基地へと向かって飛び立つ直前、上官よりラジオ放送を聞いてからの出撃の命令を受ける。その、ラジオ放送こそが所謂玉音放送であり、Bさんは終戦を迎え、出撃は中止された。
第4章 それぞれの戦後
前章では、両者の戦争体験を紹介し、両者の戦争体験の違いを論じてきた。本章では、両者の戦後の活動を紹介する。
第1節 Aさんの戦後
終戦時、Aさんは三重県鈴鹿の特攻隊基地にいた。8月18日に出撃が決まっていたAさんであったが、8月15日、玉音放送での終戦をうけ、出撃は幻のものとなった。終戦からの約3ヶ月間はK隊長と共に戦後の残務整理に追われていた。特攻により亡くなっていった先輩の遺品を実家へと届けに行くK隊長の補助的な活動を行っていた。昭和20年10月、亡くなっていった先輩隊員への遺品を届け終えたK隊長は、Aさんに最期の言葉を残し自殺する。当時のことについてAさんは新聞の投書として書き残している。
北陸中日新聞,テーマ特集戦後50年,「あの日も朝から猛暑だった」,1995
昭和20年8月15日。陸軍少年飛行兵だった私は、三重県鈴鹿の特攻機地にいて、出撃の日を待っていた。終戦を告げる玉音放送のあと、国内外で多くの指揮官たちが「たくさんの部下を死なせて申し訳ない」と割腹、けん銃自殺で果てた。
だが、私たちのK隊長は死ななかった。「死ぬことも知らんのか!腰抜けめ!」と言う周りのば倒、ちょう笑など馬耳東風。戦友たちの遺品をミカン箱などに詰めて、彼らの実家へ届ける仕事に明け暮れておられた。超々満員の復員列車を乗り継ぎ、体中、鼻の穴までススだらけになりながら……。
そんなある日、「A君、“散る桜、残る桜も散る桜”だが、君はまだ16歳。死んではならぬぞ。君が今死んでも、だれも喜ばぬし、何の役にも立たぬだろう。とにかくご両親のもとへ帰りなさい。あとの生き方は君自身が考えればよい。おれに報告する必要もない。じゃ、達者でな」。これが、今でも骨身にしみているススまみれで“ひげむくじゃら”のK隊長の、慈愛に満ちた優しい最期の言葉であった。
10月の美しい月夜に、K隊長は壮絶に“散った”。「男の責任のとり方は、かくあるべきだ」と不言実行し、範を示して逝かれたその冷静さと崇高さ!あまりの衝撃に心臓に電流が走って凍り、ご遺体を前に夜が白むまで号泣した。
「死ぬことも知らんのか!」と誹謗していた周りの隊員たちも集まってきたが、声もなく、ただ頭を垂れて、長い合掌をささげていた。
11月初め、私は元の中学校の同級生のいる四年へ復学。翌年3月卒業。教職の道へ進むべく、迷わず石川師範学校へ入学した。K隊長の遺言に報い、幾多の英霊にわび、感謝する道と確信したからである。
終戦の日から50年。教職に就いてから46年。名もなく貧しい一教師であるが、K隊長のお言葉と、「A君、あとから来いよ。靖国神社で待ってるぜ!」と固い握手を交わしながら飛び立っていった戦友たちのことを、言葉を忘れたことはない。
終戦後間もなく、別隊の隊長達が次々と自殺していく中、K隊長は死ななかった。3ヶ月後、隊長として全ての残務整理を終えた後に亡くなったのである。Aさんは、K隊長の生き様を「責任のとり方は、かくあるべきだ」と尊敬の念を示す。AさんがK隊長への強い想いを示した部分といえるだろう。昭和20年11月、K隊長の遺言通り、地元石川県へと戻ったAさんは、同級生のいる旧制中学校の4年へ復学。翌年3月卒業する。その後の昭和21年4月、石川師範学校へ入学。教員の道を歩み始めたAさんであるが、教員の道を目指した理由を私が尋ねると「K隊長のあの言葉に道標があった」と語り始めた。
教師を目指したっちゅうのは、先程の隊長の言葉にあったように、「もう戦争はこりごりだという日本になってほしいと思ってる」と。戦争が終ったらすぐにそんなこと思っておいでるんかと感心して。で、今度は、それじゃ、戦争がこりごりだということは即平和だと。だから、戦争のない日本を作るためには平和な国にしなければならない。じゃあ、今度は平和な国の学校の先生になって、子供たちをできるだけ色んな面でサポートして、励まして教職の道一本で行こうと。隊長のあの言葉に道標があったんだと僕は思っているんですね。
「K隊長の言葉」がAさんにとって職業選択の大きな動機付けとして語られている。Aさんにとって戦後人生の大きな分岐点である職業選択とK隊長とは大きな関連を持っているのだ。石川師範学校では模型飛行機クラブを結成、青年団や弁論大会への参加を始めたのも石川師範学校時代からであった。昭和24年3月、石川師範学校本科を卒業すると地元中学校へ赴任。その後、国語、音楽、体育の教員として小、中学校で教鞭をとる。中学校では、剣道部の顧問として生徒を指導していた。学校でも時々、戦争体験を語る機会はあったという。石川師範学校時代より始めていた弁論大会では、昭和41年から昭和57年までの17年間、全日本弁論選手権大会を連覇、昭和31年には文部大臣杯全国青年弁論大会で優勝するなど数々の栄光をつかんでいる。現在の弁論活動は発表者として大会等への出場はしていないものの、大会の審査員や地元高校弁論部への指導など後継者の育成に力を入れている。
定年退職後も10年間は臨時教員として、小、中学校や高校での指導を務める。完全週休二日制が始まった平成14年からは、設立にも携わった地元子ども大学の講師として模型飛行機教室を開始する。模型飛行機を小学校の2、3年から作っていたAさんは、現在の模型飛行機教室について「平和な日本でこういうものを作って喜んでいる。格好よく言えば生きがいを感じている」と語る。初回のインタビューの際、実物の模型飛行機を持参し、冒頭から模型飛行機の話題を始めたAさんにとって現在の強い関心事のひとつに子ども大学での模型飛行機教室があるのだろう。小学校2、3年生から模型飛行機作りに携わり、戦時中の中学生時代は、作りたくても作れなかった模型飛行機。けれども、本物の陸軍操縦士として当時は空を飛びまわっていた。「昔は、空は僕らの墓場だった」しかし、現在は「平和な空ですから。だから、子どもたちとこういうの作って。」と現在と過去の「空」の違いを示すことで、平和な日本を強調する場面もあった。師範学校では模型飛行機クラブを設立し、教職時代も生徒に模型飛行機の作り方を指導していた。Aさんにとって「空襲警報もならない、B29も飛んでこない」平和になった現在の日本で模型飛行機を作り、子どもたちに教えることがAさんにとって「喜ばしいこと」であり、それが「生きがい」なのだろう。
Aさんは、「教員生活49年10ヶ月」と自身を語る。現役学校教員時代、石川師範学校の同期が校長や教頭など管理職に就いていく中、Aさんは管理職に興味を抱かなかった。
同窓会なんかしますと、僕はあの石川師範の同窓会の中で同期の同級生では校長や教頭になってない人は僕ひとりなんですよ。だから、Aらしいなって言う人もおったり。(中略)わしはこの方が楽やし、生きやすいし、そういうわけで僕は同級生の中で変わり者だっちゅうことをみんな知ってるわけです。(中略)今この歳になってそのことは全く僕の生き方について僕は、後悔していないんで。(中略)校長いうの僕ふさわしくないです。(中略)へなちょこの校長にはなりたくないですし。
Aさんは、一教師として終えたキャリアを「この方が楽」「生きやすい」「ふさわしくない」と語る。そして、定年退職後は、学校という職場から離れたものの現在に至るまで教える立場としての「教員生活」は続いているのである。更にAさんは、一般教員にこだわりぬいた理由をK隊長の言葉と重ねる。「隊長の言葉が僕の進路を決めた。だから、死ぬまでこの道をいこうと思って」とAさんは語る。K隊長の言葉で教職の道を志した。だから、管理職として学校全体を仕切るのではなく、現場教員として最後まで教壇に立ち続けることへこだわり続けていたと考えられる。
さらに、現在は生涯学習施設で講師として語る活動も行なう。現役教員時代から参加していた地元高齢者を対象とした生涯学習施設では、平成17年度までに計29回の講演活動を行なっている。講演テーマは「現代っ子に対する教育現場の明暗」「褒めてばかりでは子どもは凛と育たない」等、戦争体験者としての語りだけではなく、教育者としての講演活動も行なわれている。戦後は、新聞への投書も盛んに行なっており、投稿数は1000回を超えるという。
そして現在、Aさんが力を入れている活動としては「平和祈念の日」の制定である。「平和祈念の日」とは、8月15日の終戦記念日を国民の祝日として「平和祈念の日」にするべきであるといった提案である。計2回のインタビューで直接的な平和活動として語られた活動は「戦争体験を語る活動」「戦争体験を投書する活動」の他にこの「平和祈念の日」に向けた活動のみであった。Aさんの戦後の活動は、教育者としての活動を中核としたものであった。
第2節 Bさんの戦後
昭和20年8月15日は、猛烈に暑い日だった。終戦を告げる玉音放送は、「ガーガーガーガー」というノイズでほとんど聞こえなかった。終戦時、Bさんは石川県小松基地にいた。
8月18日、「無期限休暇」を与えられ、地元へ戻ることを命ぜられたBさんは、19日に地元岩手県一ノ関へと戻る。なお、戻る際に「軍服を着てはいけない」、「階級章を付けてはいけない」など多くの制約を与えられた。そのため、18日の夜には、仲間たちと共に飛行機や軍服などの戦時中使用していたものの多くを飛行場で燃やしたという。18日は当直下士官として隊員たちへの連絡や指示など多くの雑務をこなしていたため多忙だった。
8月19日、軍服ではない黄色い作業服を着て、岩手へと戻るためBさんは列車に乗り込んだ。人で埋め尽くされたその列車は、屋根にまで上っている人もいた。列車は19日の昼に出発し、一ノ関の実家へ着いたのは20日だった。地元へ戻ると、Bさんはすぐ様、職探しを始めた。「無期限休暇」と共に「就職先があれば就職してもよろしい」との命を受けていた。部隊解散は実質的な職無しの状態であった。それ故、食いつなぐためにも仕事を探さなくてはならなかった。
Bさんは、特攻隊時代の偵察員としての経験を生かし、次職として船舶の無線技師の仕事を職業紹介所で探していた。「一生懸命探していたがなかった」と語るBさんに、警察官の職が目の前に現れたのは突然だった。
連合国軍が盛岡に進駐してくるため、岩手県にも緊急警察官が設けられることになったのである。しかし、Bさんの警察官への応募は、地元駐在所に頼まれてのことだった。Bさんはそれを「仕方なく」と語る。応募した警察官の学科試験は、海軍時代の階級が判任官のため免除だった。その後、口頭試問を受けたがBさんは、「口答諮問はあったが、何も聞かれなかった」と語る。応募した時点で、既に合格が決まっていたのである。
Bさんは、昭和20年9月16日より、岩手県の警察官として勤務を始める。9月中に一度、退職金を貰うため小松へ戻ったこともあったが、それ以降は小松航空隊との関わりはなかった。警察官時代には、署長を務めるなど管理職として活躍した。管理職を目指した理由を以下のように語る。
組織の中にいたら大半の人がやはりいつまでも歳の若いのに使われるのやだべ?上に立ちたいだろ。ただそれだけのことさ。
戦中の特攻隊時代では、下士官教員として生徒に偵察法を教え、戦後、警察署長として組織のトップに立つ。組織の中に入るのであれば、当然上を目指すことがBさんにとって重要性を持つのである。
Bさんは、戦後、特攻隊時代また予科練時代の戦友との関わりは「雄飛会」のみであると答えてくれた。雄飛会とは、終戦後数年経って結成された予科練卒業生で集められた組織である。各県に支部を持ち、毎月広報誌「雄飛」を発刊している。雄飛会では、同窓生を集めた飲食会、総会等の活動をしている。しかし、Bさんは広報誌を毎月受け取るだけで、飲食会、総会等には参加していない。神雷特攻隊の同窓会「神雷会」にもかつては所属していたが、どの活動にも全く参加していなかったため「いつの間にかはずれていた」とBさんは語る。終戦直後は、戦友たちとの交流は一切なかった。その理由をBさんは、「暇がなかった」と語る。これは、職業上時間的な「暇」がなかったのだ。仕事をしている間は「今のことしか考えられなかった」とBさんは語っていた。
警察官勤務時代のBさんをBさんの妻は、「仕事一筋。家族でなくて仕事仕事」と振り返る。戦後のBさんは、毎日仕事に明け暮れ、子供と遊ぶ暇さえなかった。警察官という職務上、昼夜関係なく一日中職務に明け暮れていた。警察官退職後も、地元タクシー会社に74歳まで管理職として勤務。タクシー会社退職後の現在は、旅行やパチンコなど趣味の生活に勤しんでいるものの、戦後のBさんの生活は「仕事一筋」であった。
第5章 平和観とその実践
前章までにそれぞれの戦中、戦後の活動を紹介してきた。本章では、それぞれの平和観と平和活動の実践を検討する。本章の目的は、第6章「考察」へのステップである。以下二つの節に注目することで、次章をより噛み砕いて理解する上での重要な要素を挙げていく。
第1節 Aさんの平和活動
第3章第1節「Aさんの戦後」では、Aさんの戦後の活動を挙げてきた。本節では、前述した戦後の活動から、Aさんの平和活動を検討する。
平和活動としてわれわれが想像するものはどのようなものなのだろうか。第一に軍用基地でのピースウォークや非戦を唱えるデモ活動などいわゆる反戦運動と呼ばれるものが想起されるだろう。これらのものは、戦争の悲惨さや凄惨さを訴えることで非戦の方向へ仕向けていく活動であるが、これらの活動とAさんの平和活動とが、重なり合うものを始めに挙げていく。
これら戦争の悲惨さや凄惨さを訴える活動としてのAさんの平和活動を挙げるならば、第一に「戦争体験を語る活動」「戦争体験を投書する活動」、そして「平和祈念の日制定へ向けての活動」であろう。Aさんは、これまで教員として在籍した学校や各種講演会など、100回を超える戦争体験を語る機会があった。また、「戦争体験を投書する活動」は現在までに、投書した数は1000回を超え、その中で掲載された数600回程であった。しかし、場合によっては、新聞社より思想的に適切と判断されない投書も中にはあり、断りを受けることもあったという。記事は新聞社から依頼される場合もあり、その以来の数は100件を超える。
これらの活動は、Aさんが自ら体験した戦争を語ることでその悲惨さや凄惨さを訴え、過去を反省し、戦争のない世の中の素晴らしさを訴えかける活動として平和活動と呼べる。以下は、投書の例として「平和祈念の日」制定へ向けての記事と、インタビュー内で語られたAさんの想いが強く込められた部分である。
北國新聞,「「平和の日」の実現目指そう」,2003
8月15日の終戦の日を「平和の日」として国民の祝日にすればよいと、私は以前から提言している。この日がまさに滅亡のふちにあった日本民族が、新しい命を授かり、軍国日本から平和日本へと明るくよみがえった日であることを思うと、「終戦の日」ではあまりに軽く、冷たいし、過去への反省や教訓も伝わってこないといえよう。また、この日はちょうど旧盆である。墓参のために帰郷する人も多いし、「成人式」を行なう市町村も年々増えているという。
これまでにも多くの方が提言しているが、戦後58年を経てなお、ギクシャクした考え方と優柔不断な姿勢の日本政府が悲しく、憤りさえ覚えるのである。
先夜、「平和の日」が制定され、全国津々浦々に日の丸が朝は風にはためいている光景を夢に見た。私は決心した。残り少ないであろう人生を志を同じくする方々に呼び掛け、「平和の日」実現に向かってスタートを切ろう、と。
東京大空襲、3月10日にもう1回ありましたけど。あのときあれだけゆらいだ(被害を受けたのだから)内閣は「もう戦争は止める。」(と言うべきだった。)そしたら沖縄へもこなくてもいいし、広島長崎も全く死ななくてもよかった。後の祭りですけど。政局を誤ってほしくないという教訓を得たと思うんですよね。僕はそれをいつも思ってる。でも、取り返しつきません。僕は生き残ったものの一人として、僕だけ生き残ったわけじゃありませんけど、死ななくてもいい国民がたくさん死んでしまったのは政治の大きな失敗だと僕は断言したいわけです。もうあれからずっと。
以上のように、過去の戦争を反省することで戦争という過ちを繰り返させず、また、政府に「日本の政局を誤ってほしくない」という強い想いでの平和活動なのである。しかし、これら、戦争体験を語るまたは投書する活動以外にもAさんから語られた平和活動には、戦争体験を語ることを軸としない活動が幾つかあった。それが、「弁論活動」や「生涯学習施設での活動」であった。しかし、これら戦争体験を語ることを軸としない活動もAさんの中では平和活動として位置づけられている。
Aさんは、師範学校時代から弁論活動を行ってきた。弁論活動でのテーマは様々で、戦争体験を語るものも中にはあったが、大半がそれと関係をなすものではなかった。学校教員時代にはじめた生涯学習施設での講演活動も戦争に関するテーマを主に扱っているものではない。現在、生涯学習施設で開かれている模型飛行機教室や高齢者学級も戦争体験と直接的に関わるテーマを扱ったものではないが、Aさんにとってそれらは平和活動として認識されているのである。
これらのように戦争体験を語らないことが平和活動として認識されている一つの要素として職業選択の動機付けとして働いたK隊長の言葉の影響があげられる。Aさんは、K隊長の言葉で教職の道を志した。「戦争はもうこりごりだ」という言葉の中に平和を見つけ、教育者の道へと進んでいったAさんにとって、教育者としての活動は、平和活動としてのつながりをもつ。Aさんにとって、青少年の育成こそが平和活動の本体といえるものなのである。戦争体験に関わらないものを語る、伝える、また教える意義をAさんは、「この世の中を良くするため」と語る。
何か、この世の中をよくするために。それから、子供たちの実力を伸ばすことがあって、喜ばれることがあって、自分ができることがあったら、積極的に関わっていきたいなぁと。それが、世の中を潤すことにもなるし。新しい人たちの、子供でも大人でもいいんですけど、それが実践活動に移れば言うことなしくらいの嬉しさになりますね。大した事できませんけど。
戦争体験に関わらない投書や弁論活動、そして生涯学習施設での講師としての活動は、Aさんにとって、全てが「伝える者」としての活動の場なのである。さらに、新聞への投書や弁論活動については、「登山」に例え説明する。Aさんは山頂を「平和」に例え、「平和になるためにどうするかっちゅうたら、いっぱい平和への山登りの道はあるけども、僕は登れる道をいつも探していて。(山頂である平和へと)つながるに決まってますから」と語る。平和活動の道はたくさんある。しかし、Aさんにとって方法や場所は「伝え方」の問題なのである。「平和活動」を戦争体験の語りに限定するのではなく、自らができることに積極的に関わることで「子供たちの実力を伸ば」し、皆に喜んでもらう。それらが、「新しい人たち」の「実践活動」につながり、結果として世の中が良くなり「潤う」ことで成立するものこそAさんにとっての「平和」なのだろう。戦争体験者としての活動が、平和活動なのではなく、戦争体験を通じて志した「教育者」としての活動が平和活動の中核なのである。故に、Aさんにとって「平和」とは、戦争体験を語ることに限定されるものではなく、青少年や「新しい人たち」を育成していくことで達成される「平和」といった多様な側面を持つ。
ここで、Aさんの平和活動に関して注目すべき点が一つある。Aさんが認識する平和活動には前述したとおり二種類のものがあった。一つは、戦争体験に関わりを持ち、戦争の悲惨さ凄惨さを物語る平和活動(戦争体験者としての活動)、また、もう一つは、戦争体験との関わりを持たない平和活動(教育者としての活動)の二つの平和活動である。Aさんは、これら二つの平和活動を一つのものとして認識し、全ての「原点」をK隊長に求めていた。教育者としての活動である平和活動は、先程述べたように当然K隊長の言葉を影響の中心に置くものとして存在していることがわかった。しかし、政治的な信念が関わってくる部分では、K隊長というよりむしろ先に飛び立ち亡くなっていった先輩特攻隊員たちの影響を主として存在している。以下の語りを参照されたい。
僕の部屋は11人が逝っちゃったんです。僕が一番年下だったもんですから、一人。僕は8月の18日の午前3時、決まっとったんですけど、3日前に終戦になったもんですからね。だから、先輩たちが飛び立っていった様子を、「後からこいよ。」って。「靖国で待ってるぜ。」って。閣僚が公的参拝とか、私的参拝とか、なんとかしてやってるのは…。やっぱり、国が君たちは亡くなったのなら靖国神社へ祀られるのだって決めたのだから、「後から来いよ、靖国で待ってるぜ。」っていったんですから、今でも、本当言うたら、先輩たちは靖国で待っておいでると思うんですけども。8月15日にダメやとか。 (中略)先輩たちには、裏切って欲しくないと思いますね。個人的には。何を言うとるがやと言いたいくらいですね。
だから靖国神社参拝っちゅうのなんで公人や私人なん区別つけなならんがや。あそこに誰が眠ってると思うんや。堂々と行くべきだと思う。行くべきなのに早くせんなんだめや。(中略)私はまぁそういう風に毎年言ってるんです。なんでか、そんなこと言わんでもわかってる。約束、わし破った。申し訳ないなと思って。
つまり、Aさんにとって首相の靖国神社参拝問題について訴えることや政局を見誤った過去の過ちを非難することは、生き残ったものの「責任」と考えられるのである。インタビュー中、終戦時期に対して後悔の念を込めた語りが計7回もあった。東京大空襲は、昭和20年の3月であった。終戦の5ヶ月も前の出来事なのである。それは、終戦が間もなくであった7月下旬から8月上旬にかけてAさんの先輩が飛び立っていったことに関係するものなのかもしれない。先輩と誓った「靖国で会おう」との約束を破ったことへの申し訳なさを訴えるAさん。毎年終戦の日の8月15日には、靖国神社に参拝に行き、そして、首相の靖国神社参拝の是非に関して常に意見をしているAさん。それは、森岡(1999)が言う先輩たちへの弔いとしての平和活動がそこに存在し、生き残ったものの使命感を強めているのである。(森岡 1999: 7-10)これらのように、戦争体験を語る平和活動は、K隊長を中心とした影響の産物だけではなく、先輩特攻隊員たちを中心とした影響の産物としても語られ、現在も続く先輩たちとの強いつながりを暗に示している。
第2節 Bさんの一貫した物語への抵抗感
前章第2節では、戦後のBさんの活動を紹介してきた。戦後、Bさんは地元岩手県の警察官として働き詰めであった。Bさんは、平和活動に勤しむ時間的な余裕はなかったと語る。Aさんのように青少年を育成することが、そして戦争体験を物語ることが平和活動の実践であるとするのに対し、Bさんは積極的な語りの場を現在までに設けてきた機会はなかった。それどころか、妻や子供、孫にも自ら戦争体験を語ろうとはしなかった。Bさんの妻も、「今まで喋ったことないもん。孫たちが聞くようになってから話す。」と語る。Bさんが、戦争体験を語らなかったその理由を本節では検討する。
さらに本節では、自ら経験した戦争体験と一般に語られる戦争体験にBさんが違和感を示していることを主張し、Bさんが自らの戦争体験を語ることから遠ざかろうとするその構図を検討する。
初回のインタビューで、Bさんから「私のことを臆病だったって言いにくんのか?臆病だったと思うか?」と突然語られる箇所があった。それは、筆者である私がBさんの他に調査を行なっている人物がいることをBさんへ伝えた後のことだった。それまでBさんが、初回のインタビューで語ってくれた内容は、Bさんにとって人には語りたくない繊細で当時の心情をよく表した嫌な思い出の語りであったのかもしれない。それは、死が迫ってきた際の「諦め」の心情や敗戦を予感していたことなど、当時の繊細な気持ちを本音で語ってくれたということの表れとしても捉えることができる。それら、人には語りたくはない思い出を掻き集める作業が「戦争体験を語る」ということなのだ。
Bさんは、前述したように現在までほとんど戦争体験について語ってこなかった。語らなかった理由を、戦争体験を「思い出したくない」とBさんは語る。Bさんにとって戦争体験とは、思い出したくないほど暗く恐ろしい経験なのだ。「思い出したくないということは忘れていくと。意識が思い出したくないわけだから。」とBさんは語っている。
さらに、Bさんは、一般に語られる戦争体験とBさんが体験した戦争体験に違和感があるという。戦後の戦争を題材にした出版物や映画の話に触れた後、Bさんは以下のように語る。
俺は本当のことしか言わない。(中略)やっぱり格好良いこと言おうと思えば言えるけど。そんなことは思わなかったなぁ当時は。(中略)格好良いことを言うのは違うと思う。やっぱり本当に経験していない人がそういう風に美辞を並べて喋るんじゃないか。
当時を「格好良く」描くことをBさんは「違うと思う」と語り、違和感を示す。当時を振り返り「今のことしか考えられなかった」「夢中だった」と語るBさんにとって、戦時中はただそのときのことしか考えられない「思い出したくない」ほど必死なものだった。「格好良いこと」はBさんの経験した戦争にはなかったのだ。さらにBさんは、「やっぱり本当に経験していない人がそういう風に美辞を並べて喋るんじゃないか。」と語る。自らが戦闘員として経験した戦争は、一つのストーリーとして考えられるほど余裕があるものではなかった。「今のことしか考えられなかった」戦争体験を一貫した起承転結を持つストーリーとして語ることをBさんは「経験していない人が」と強調するように「戦争体験者」としてその接近を拒むのである。断片的な戦争体験を再構成し、ストーリー化させた戦争物語にBさんが違和感をもつ理由はそこにあるのだ。
しかし、ここに示唆される重要な知見は二つある。一点目は、ストーリー化されない断片的な物語の語りづらさである。Bさんは、現在の観点からストーリーを構成していくことに違和感を示している。そのため、Bさんから語られた戦争体験は、短編小説のような小さな過去の記憶の集まりとなっていた。Bさんからの「臆病だったと思うか?」といった問いは「格好良く」語れない、つまりは現在からの観点で一貫したストーリーを構成しない自分の戦争体験について、聴衆が好ましい捉え方をすることが難しい可能性があるという彼の予感なのかもしれない。Aさんや一般的に語られる戦争物語、出版物、映画のような、起承転結を持つ一貫したストーリーに比べ、Bさんが語る小さな過去の記憶が集められた戦争体験は、「落としどころのない語り」として聴衆から認識されるのだろう。そのため、一貫したストーリーとして構成されない物語は、構成された物語に比べ、語られにくい状態となり得るのだ。
二点目は、「体験者としての語りづらさ」である。真実により近い状況でその現場を経験したことのある体験者が本来語ることを許可される、または、語りを可能とするであろう戦争体験エピソードは、「体験者」であることによって、語りづらい状況に陥ることがある。それは、ストーリー化された戦争体験への抵抗とも呼べるものであった。Bさんの「本当に経験していない人がそういう風に美辞を並べて喋るんじゃないか。」という語りは、物語として作られた映画や出版物、そしてストーリーとして語られる戦争体験への抵抗であり、Bさんの経験した戦争の悲惨さや凄惨さをストーリー化することによる「語りきれなさ」を表すものであった。語らない「体験者」という立場で「非体験者」と一線を画すことによって、「語りきれないもの」を保持、保存させようとする「体験者としての語りづらさ」がそこにはあるのだ。
第6章 考察
Aさんの平和活動者としての自己を組み立てているその中核となるものが「K隊長の言葉」であった。Aさんは、「K隊長の言葉」と現在とのつながりを強調し、平和活動を行っている。一方でBさんは、今まで戦争体験を語ってこなかった。そして、当時を「思い出したくない」ものと語る。両者の語りと第1章「問題関心」で紹介した「<親の背中>が語るとき――沖縄反戦地主二世にみる平和の継承」(門野 2004)を比較し、幾つかの論点を検討することで、如何に平和活動を進める上で自己物語が重要と成り得るのかを検討していく。
門野は、平和活動へ参加していく第一の知見を「活動参加への起点が過去の体験ではなく、「今を生きる」中にあるのならば行動開始の可能性は常に開かれている」と捉えていた。これは、過去の出来事が、「現在の自己に適合するように再解釈され、自己の物語を構成要素として組み込まれる」といった意味での活動参加の可能性である。(門野 2005: 32-33)これは、現在行っている教育的活動を「平和活動」と捉えるAさんが、現在の観点からの過去の記憶を抽出する作業を行っていた点に認めることができる。前述してきたとおりAさんにとって、戦争体験とは、現在の自己を規定するものとして考えられる。
ここで、片桐の言う「自己の同一性が物語によって確保される」(片桐 2003: 38)という論点を踏まえて検討するとしよう。先程より再三述べたとおり、戦争体験と現在のAさんとの自己はつながりをもつ。過去から現在まで一貫した流れをもち、戦後から現在までの全ての活動をK隊長の言葉へと還元する。彼の物語は、現在まで行ってきた教員としての青少年育成活動や弁論大会、講演会等の意見発表活動、その全てがK隊長の言葉に「原点」をもつのである。Aさんの場合においても過去の自己と現在の自己とを関係づけることによって自己の同一性を確保するためには、何らかの形で物語ることが必要だったと考えられる。その自己物語は客観的な事実とイコールではなく、現在における特定の観点からの解釈の所産であり、それらに不可欠な物語は構築性を有するものであるといえる。(片桐 2003: 38,44-45)。
門野による第二の知見は、語り手が他者の物語を参照し、自らの物語の中に組み込んでいくというものであった。Yさんの場合のそれは、沖縄のガンジーと呼ばれる阿波根氏の物語であった。「平和の継承」をAさん、Bさん、両氏に当てはめるのであれば、「平和活動へ向かう動機」とでもいうべきものであろう。
Aさんの場合、Yさんの阿波根氏にあたるような存在はいない。しかし、むしろAさんの場合においては、プラースのいうコンボイがその機能を果たしている。戦中から現在に至るまで「K隊長の言葉」と共に活動してきたAさんにとって、「K隊長の言葉」は直接投げかけられたものであり、なおかつ、「死ぬまでこの(教員としての)道を行こうと思って」とあるように平和活動者としての道が、継続的に今後も続いていくことを示している。Aさんが「K隊長の言葉を何度も何度も僕は振り返るんですよ」と語るように、死のコンボイとの密接なつながりを物語りに組み込むことで現在の自己を組み立て、平和活動へ邁進していくことを可能にしているのである(2)。現在平和活動へと邁進するAさんの直接的かつ継続的なコンボイの存在、そして、「戦争体験を語りたがらない」Bさんから語られなかったコンボイの存在という点からも、コンボイは平和活動を邁進していく上で自己物語に組み込まれる重要な要素といえる。
門野論文の第三の知見は、「原点」の必要性である(門野 2005: 33)。これは、Aさんの物語にもよく当てはまる。Aさんの戦争体験から現在に至るまでの「平和活動の物語」をひとつに束ね、物語に一貫性を持たせているものは「K隊長の言葉」である。特にAさんの平和活動の中核部分である教育活動の「原点」は、職業選択の上で直接的な「原点」であった。第5章第1節「Aさんの平和活動」で注目したことであるが、Aさんの自己物語においては、戦後を生き抜いてきた「私」に決定的な影響を与えているのは、職業選択については、「K隊長」であるが、政治的な信念に関しては、むしろ「特攻隊の先輩たち」である。つまり、見方によってはAさんの原点は分散している。しかし、Aさん自身は、「K隊長」のみを「原点」として強調する。このように、見方によっては分散している重要な他者を一人に束ねて強調する仕方は、物語の迫力という点に関わっていると考えられる。幾つもの「原点」を持つ物語ではインパクトを欠き、聴衆は物足りなさを感じるかもしれない。あの人がいたからこそ、というひとつの「原点」を設定することが、聴衆のみならず自分自身に対する物語のインパクトを高め、平和活動にコミットする必然性を感じさせるのである。
以上のように考えると、本論文が門野(2005)を補強して主張したいことは、自己物語として一貫したストーリーが構成されることの重要性である。平和活動に邁進していくためには、それ自体を自己物語の一部として構成する必要があった。自己物語に組み込まれる「原点」が土台となる戦争体験と平和活動を一貫したストーリーとして関連付け自己物語として構成する。そして、自己物語の中には、さまざまな形で他者が組み込まれる。門野(2005)におけるYさんの場合は、阿波根氏の物語が組み込まれていたがAさんの場合は、他者たちはコンボイとして組み込まれる。
一方、Bさんの「一貫した物語への抵抗感」で示された「体験者としての語りづらさ」は、一貫したストーリー構成が平和活動の基盤として持つ重要性を逆の側から照らし出しているといえよう。戦争体験記として「学童疎開」や「学徒動員」を中心とした戦争体験の編纂・出版が盛んに行われている現在、戦争体験それ自体が「低年齢化」している。これは、戦闘員として第二次大戦を経験した戦争体験者が日に日に少なくなっていることを如実に表し、語られる戦争体験がより現実味を帯びないものとなっていることを示している(野上 2006: 220)。Bさんの場合、親族である私の依頼に応えて自己物語が語られたが、そうした「体験者としての語りづらさ」は、特異な経験である戦争体験を当たり前として過ごしてきた戦争体験者として自らの体験をストーリーとして描かず、むしろそれが当然であった時代を淡々と語る口調に表れている。自らの想いを経験していないもの達に理解してもらえるとは、彼らも毛頭思っていないのかもしれない。野上(2006)が言うように、戦争体験を子供や孫に話すことは彼らにとって、挫折と徒労の連続であり、そのことも重なって戦争体験は「閉鎖的な語りの空間」へと追いやられていってしまったのかもしれない(野上 2006: 235)。
おわりに
以上のように、平和活動者と非活動者を比較していくことによって、人々が平和活動へ邁進していく過程とそれらにより抽出される幾つかの知見を紹介した。戦争体験を「語る」そして「語らない」二人の人物が戦後それぞれの道へと向かい、懸命に自らの人生を開拓していったことは間違いのない事実である。それが、結果として日本を戦後復興へと向かわせる力となったのだ。青春を戦争と共に駆け抜け、戦後は日本復興の原動力となった両者。まさに、戦争に翻弄された両者の人生である。戦争を「思い出したくない」ものとするBさんと、「反省すべきもの」とするAさん、戦争が両者の価値観に大きな影響を産み落とす結果となったことは明らかなのだ。
現代を生き抜く上で、自己物語を構成していくことを求められる機会は少なくない。多元的な自己が指摘される現在にも関わらず、面識のない者の前で過去の生き様をストーリーとして説明し、連なったひとつの物語として完成されることが望まれている。過去の記憶から現在の観点で抽出された物語に新たな意味づけを加えることで現在の自己を理解し、過去を納得する。そして他人へと説明することを可能とさせる物語には、「過去の反省」を明確化させる大きな意味合いがあるのだ。現在の観点で過去を紡ぐことによって、われわれは未来へ向けての「スタートを切る」という意味で物語論的な自己の構築は、今後も営まれ、また注目に値するだろう。
注
(1) 軍属とは、軍隊に所属する武官や徴集された兵士以外の者を指す。軍属は、積極的に戦闘に関わるものではなく、文官及び雑夫の総称である。
(2) 森岡(1999)によれば、生き残った特攻隊員たちはライフコース上で「死のコンボイ」から緩やかに離脱していくことによって戦後の虚脱状態を乗り越え、現実に適応していくと説明される。それに対して、Aさんのケースでは、現在の自己物語を通して「死のコンボイ」とのつながりを継続的に保つことが、語り手の社会的な活動を支えている。
引用・参考文献
片桐雅隆,2003,『過去と記憶の社会学――自己論からの展望』世界思想社
門野里栄子,2005,「<親の背中>が語るとき――沖縄反戦地主二世にみる平和の継承」『ソシオロジ』(50)2: 19-35
野上元,2006,『戦争体験の社会学――「兵士」という文体』弘文堂
森岡清美,1993,『決死の世代と遺書――太平洋戦争末期の若者の生と死』(補訂版)吉川弘文館
森岡清美,1999,「死のコンボイ経験世代の戦後」『社会学評論』41(1): 2-11