第2章 先行研究の整理
「健康」という言葉が、「身体の良好な状態」を指すものとして日本語に登場するのは、1862年に英語のhealthの訳語としての用例が最初であるとされる。
この「健康」という用語は、仮名垣魯文の『安愚楽鍋』(1871)や福沢諭吉の『文明論之概略』(1875)に登場し、明治初期には作家や自由民権運動の思想家によって使われ始めたという(池田・野村・佐藤 1997)。しかし、明治期においての身体の状態を表す言葉としては、江戸時代から用いられていた「養生」、また長与専斎が『荘子』から引用した「衛生」などのほうが、より一般的であった。「養生」の一般的な意味としては、「ある行為を避けることを通して、災厄から逃れ、身体の良好な状態を維持する」という考えであり、古典的な健康観が当時の人々にとって支配的な健康概念であり続けていたと考えられる。
健康観といえば、必ず挙げられるのが貝原益軒の『養生訓』(1713)という古典である。[i]
『養生訓』の特徴は、経験に基づいた健康維持の考え方のほかに、「五思」(たとえば、食事の際にはそれを与えてくれた人びとや状況に思いをはせるべきであるという理念など)に代表される、健康維持における道徳的側面の強調である。また、中国や朝鮮との比較を通して、日本の風土や人びとの体質の独自性や優越性についても強調している(池田・佐藤 1995)。
さらに、健康について語るこの著作には、一貫した理論が見られる。それは、「病気にならないためには○○をしないこと」という表現である。健康を妨げる特定の行為、食物や療法を回避したり制限したりすることによって、健康が維持されるという発想なのである。それら禁止事項における表現は個別具体的であり、「○○しないこと」という内容はきわめて数多くの指示から構成されている。
ある行為を避けることを通して災厄から免れようとすることは、世界のさまざまな民族や文化において広くみられる。このような考えに基づいた健康観は、「養生の健康観」と呼ばれている(池田・野村・佐藤 1997)。
禁忌を遵守することが健康を維持するのだという健康観は、禁忌を破ることに対する恐怖と表裏一体に形成されている。そこからは現代的な健康観、たとえば、栄養価の高い食物を摂取し、積極的に運動するなどという、健康を積極的に獲得しようという発想は生まれにくい。「養生」とは、いま持ちうる生をいかに、損なうことなく保ちうるかという技術論だからである。
このように、養生の健康観からみると、健康の維持のためには、人びとがそれに溺れると害のある習慣を避けることが重要となる。貝原益軒は、それらを辛抱すべきものだと説き、過度の飲食、性交、菓子や嗜好品に加え、感情の起伏などは放っておけば自然に発露するものであるが、これらは身体における「気の充実」を妨げ、ひいては病気を生み出すことにつながるという。この辛抱するという行為はまさに、先に述べたように基本的には守るべき道徳観念であるといえる。
天地・父母から与えられた身体は病気もせず元気で生活でき、天寿を全うすることができる状態にあり、それを健康な状態だととらえている。そして、その与えられた健康を乱さないことが大切であると考え、それをいかに乱すことなく保ち続けるに関心を向けることになる。したがって、与ええられた健康を養い、それを維持することが養生の健康観の主眼なのだといえる(上杉 2000)。
健康を維持することに主眼を置いた「養生の健康観」とは正反対に、近代から現代にかけての健康観は、積極的な努力を通して健康を達成しようとする健康観である。
池田と野村と佐藤(1998)は近代的な健康観の萌芽を、「衛生」という言葉にみている。池田と野村と佐藤(1998)によれば、1875年に近代的な言説の文脈に「衛生」という術語が「文明的」と同義的な意味合いで使用されているという。この「衛生」という言葉の意味するところは、「健康を積極的に目的とする装置・社会制度・システム」であったのだ。明治政府が推し進める衛生政策は、これらやペストへの恐怖をてこに、「不衛生」は排除されるべき悪であると定義されると同時に、「衛生的であること」はそれ自体が文明的であり価値であるという一種の啓蒙教育政策が行われたのである。
また、池田と佐藤(1995)は、近代的な健康観の萌芽を1931年以降の総力戦体制における健兵健民づくりキャンペーンにみている。
さらに、健康増進の考え方は、もともと1946年にWHO(世界保健機関)が提唱した「健康とは単に病気でない、虚弱でないというのみならず、身体的、精神的そして社会的に完全に良好な状態を指す」という健康の定義から出発しているという見方もある(健康・体力づくり事業財団 2000)。1950年代にクラークとレベルらによって疾病の一次予防の中に健康増進が位置付けられたという。この時期の「健康増進」は、感染症予防における一般的抵抗力の強化や、健康教育によって感染機会を避けることを意味していた。1970年代になると、健康増進は、疾病とは対比した理想的な状態、すなわち健康を想定し、それを更に増強することを意味する概念的な定義がなされた。一方、米国のHealthy Peopleで応用された際には、個人の生活習慣の改善を意味していたという。しかし、1980年代に入ってからはこれらの健康観は再度捉えなおされ、個人の生活習慣の改善だけでなく、環境の整備を合わせたものとして改めて提唱され、現在に至っている。
いずれにしても、積極的に健康を増進していこうとする健康観、ここでは仮に「獲得の健康観」と名づけるが、「獲得の健康観」が政府による近代化政策と戦争による富国強兵などを経て強力に主張されるようになったのは間違いないだろう。しかしながら、第1節でも触れたように、現代社会において健康増進の手段として重要視されるのは、レクリエーションや身体運動、特にスポーツなどである。実際には、人々の間にこのような健康観が広まるようになるのは、軍国主義や戦争期を経た第2次世界大戦後だと考えられる。
先に述べた軍国主義的な立場ではなく、個人の体力づくりや健康増進という観点からスポーツの効用が説かれるようになったのは、1960年代後半のノルウェーのトリム運動だとされている(池田・佐藤 1995)。[ii]
日本においては、1964年の東京オリンピック開催の前後の比較的早い時期にトリム運動が紹介されている。1964年以降は毎年10月10日が体育の日と制定され、この日に身体運動を行うことが政府の主導によって国民行事化されたことになる。これは1964年の「国民の健康・体力増強対策について」の閣議決定および、翌1965年の「体力づくり国民会議」の設置によるのものである。1978年には厚生省による「国民健康づくり計画」が発足し、「健康・体力づくり事業財団」が設置された。また、スポーツ振興政策においては、有能な選手を育てるというエリート中心の政策が一貫していたが、1988年に文部省体育局スポーツ課が「生活スポーツ課」と「競技スポーツ課」に二分され、スポーツの大衆化がいっそう進んだ。このような政府主導による健康維持、体力増進政策は今日まで続いている。たとえば、200年から政策がスタートしている「21世紀における国民健康づくり運動」(通称「健康日本21」)においても、明確な国民の健康増進運動が推進されており、この政策から2004年度より「健康増進法」が施行されたことは記憶に新しい。
つまり、日本の近代的健康概念の形成は、人びとの消極的健康概念(「養生の健康観」)に対して、国家と医療専門家が「衛生」という近代医学的な積極的健康概念を制度的または文化的仕掛けとして強制することから始まったが、この強制により、消極的な「養生の健康観」は、積極的により良き身体状態を追求する「獲得の健康観」へと転換を始めたといえる。
ここにようやく、現代的な健康観、積極的により良き身体状態を追求するという意味での「健康」という言葉が使われだすことにつながるのである。
さて、ここまで身体を害するものを排除する「養生の健康観」から積極的により良き身体状態を追求する「獲得の健康観」という言葉にいたる変化と社会の動向の関連性を見てきたが、日本全体の健康観が変化し多様化したのはやはり戦後にかけてであることがわかる。次の第3節では社会の変化とわれわれの健康観がどのように関連し変化してきたのかということに注目した、2つの先行研究を紹介する。
第1項 瀧澤論文
瀧澤論文[iii]の特徴は、近年さまざまな側面から「健康ブーム」が語られ取り沙汰されていることを取り上げ、実際は「健康ブーム」がここ近年においてのみ見られる現象ではないことを実証しようとした点にある。瀧澤が取り上げた素材は、大衆向け健康雑誌(大衆健康雑誌)の動向である。滝沢によると、「日本の大衆健康雑誌自体の成立の展開をみると、それは(健康ブームは)[iv]けっして近年に特有の現象ではなく、比較的長い歴史展開を持っている。むしろ、近年の盛行は、そのような歴史的展開の一過程であり、その展開のうえでの変容とみるべき」という(瀧澤 1996:129)。
その根拠として、「大衆健康雑誌が大衆の健康や医療に対するディマンドを反映させて編集・発行されているとの前提に立てば、その雑誌群の成立過程や内容・特徴などを分析することによって大衆の中に潜在する健康意識や保健行動を構造的に析出することができる」と述べている(瀧澤 1996:129)。それを元に、第二次世界大戦後に焦点を絞って日本における大衆健康雑誌の成立と展開、構造的特徴と方向性を検証している。
具体的には、瀧澤は戦後をおおよそ3期に分けて検討している。第1期を1945〜1970年、第2期を1970年代前半〜1980年代前半、そして第3期を1980年代後半〜現在であり、この3期の間には大衆健康雑誌の質的変化があったことを挙げている。その点については、以下、1期ごとにみていくことにする。
(1) 第1期(1945〜1970年)―大衆健康雑誌の戦後第一世代
この時期に発刊された代表的な雑誌は『保健同人』であった。『保健同人』の特徴は、結核療養を中心とした紙面づくりにあるという。結核が社会問題として大きな関心がもたれた時代に、このころ一般的ではなかった最新の外科的治療と科学的療法を紹介し、『保健同人』は、結核療養における画期的な啓蒙雑誌であったといえる。また、『保健同人』は、孤立しがちな療養者を積極的に紙面に登場させた点も画期的であった。
その後、60年代から社会全体の医療制度が向上するにつれ『保健同人』の他にも『健康ファミリー』など大衆健康雑誌が登場するようになる。ここで重要なのは国民全体の栄養状態の向上や抗生物質の登場、BCG接種など医療制度の向上によって、社会の関心が結核療養から日常生活の中での健康がクローズアップされるようになったことである。成人病[v]やガン脳血管疾患などである。つまり、ここではじめて、健康問題が大衆化し、一人一人の健康に注目が集まるようになったといえるのである。それとともにこの時期の健康雑誌は、科学的根拠に基づいた健康情報に加え、読者中心の紙面づくりを重要視しはじめたのである。読者の中心の紙面とは、読者の健康上の不安に対するQ&Aや読者投稿などで、これらは、現在の一般的な大衆健康雑誌の重要な要素であるし欠かせないコーナーでもある。
ただ、瀧澤は第1期を健康ブームとはみておらず、第1次健康ブームは70年代前半以降であるとしている(瀧澤 1996:136)。
(2) 第2期(1970年代前半〜1980年代前半)―第二世代
一方、70年代以降の代表的な健康雑誌といえば、やはり『壮快』だろう。1974年に創刊された『壮快』は、第1期に生まれた健康の大衆化がいっそう進み新たな特徴を生み出していた。それは、民間療法や大衆健康法との急接近にあったといえる。これが、瀧澤の言う健康ブームの根幹である。第二世代の雑誌群に取り上げられたのはたとえば「世情をにぎわせた『クロレラ』『紅茶キノコ』『〜酵素』などの健康食品や『ぶら下がり健康器』などを用いた健康法はもとより、ジョギングなどの正統的な運動法」であり、これらの健康法は「雑誌記事の常連記事であった」という(瀧澤 1996:136-137)。『壮快』を筆頭に、第二世代の雑誌群は第一次健康ブームを巻き起こし自らもそれに便乗しながら発行・販売部数着実に伸ばしていったというわけである。
ブームの背景には、大きく分けて二つの理由があるという。一つは、成人病問題に関連した医療不信や科学不信にあるという。このころ、国民の健康課題として高血圧や動脈硬化、糖尿病などの慢性疾患に第1期にも増して注目が集められるようになってきた。これらの慢性疾患は通常「成人病」とも呼ばれ、生活習慣やライフスタイルに発祥の起因があるとされ、「一定の期間の治療によってほぼ治癒が期待できる急性疾患とは異なり」、「大衆にとっては漠然とした予後への不安を催される」という(瀧澤 1996:137)。それがゆえ、「第二選択」として現代医療と関係がない民間療法や大衆健康法に接近するようになったというのである。また一方で、60年代から顕在化しつつあった公害被害によっての科学不信が起こり、無農薬や無添加など「自然」や「天然」を希求する雰囲気が高まっていたこともブームを牽引した背景にあるという。
もう一つの理由は、第二世代の雑誌や紹介される健康法が、大衆にとって極めて受け入れられやすい条件を具備していたということである。つまり、生活に密着し、実行の簡便さが強調されていたということである。たとえば、「『押す(もむ)だけでぴたりと痛みが止まる〜』『一日〜分間〜するだけでみるみるやせる』」などという謳い文句もさることながら、「自らの生活を悩ます不快な慢性疾患が日常生活の中での簡単な動作や運動、あるいは食品の摂取で治癒ないし軽快するとなれば、大衆の多くはそれを実行する」だろう(瀧澤 1996:138)。
さらには、これらのブームに乗ってさまざまな健康法が商品化されたという。漢方薬や健康食品、健康器具などである。つまり、健康意識の高まりとともに消費という社会現象が有機的に結びついたのもこの時期の健康ブームを牽引した大きな理由ともいえる。
ここで特筆すべきなのは、この時期に健康観は大きな変化を遂げたということである。大衆の健康形成が消費に依存して展開されてきたということは、すなわち、個人の健康を物(商品)の購入やサービスの消費によって実現しようとする高度消費社会を強く象徴する現象であったということであろう。おそらくこのあたりが、身体を害するものを排除する「養生の健康観」から積極的により良き身体状態を追求する「獲得の健康観」という言葉にいたる大きな変化の象徴なのかもしれない。
(3) 第3期(1980年代後半〜現在)―第三世代
大衆における「健康の商品化」を促進した第二世代の雑誌群は1990年以降、ポストバブル期を経て新しい局面を迎えたという。
第三世代の健康雑誌の性格は、ほぼ二分された。一つは、第二世代の継承型である。つまり、民間療法や大衆健康法が充実した健康雑誌である。もう一方は、第一世代が担っていた医療に関する正確な情報を読者に伝達する役割を踏襲した型である。
このように、第三世代の健康雑誌の特徴は、医療情報の充実にある。その理由のひとつに、医療への急速な関心の高まりがあったと指摘している(瀧澤 1996:140)。この時期に社会の注目を集めていたのは、医療不信に加え、ターミナルケアやインフォームドコンセントなど患者と医療従事者との新しい関係を模索する動きであった。さらに、脳死や遺伝子、生命倫理など新しい最先端の医療技術が次々と発表されるという状況にもあったからであるという。
瀧澤論文の特徴は、社会的な健康課題の関心事の変化と大衆健康雑誌の展開は有機的に連動しているととらえていることだと考えられる。また、瀧澤はおよそ70年代あたりを健康ブームの始まりだと仮定しており、主に成人病など日常生活に起因する慢性疾患の登場によって、国民の漠然とした健康不安が健康ブームをさらに強固なものとしたといえる。さらに、それらが消費社会と有機的に結びつき、「健康の商品化」が起こったといえる。つまり、瀧澤のいう現代的な健康観とは、「健康」=「消費」という図式であると考えられる。
では、もう一つの論文の著者である津田は、戦後社会の変化とわれわれの健康観がどのように関連し変化してきたと分析しているのだろうか。
第2項 津田論文
津田[vi]は、戦後を2つの期間にわけそのおのおのに健康ブームがあったと分析している。戦後第1次ブームは1950〜60年代前半、戦後第2次ブームは1970年以降である[vii]。
(1) 戦後第1次健康ブーム(1950〜60年代前半)
前項で紹介した瀧澤とは異なり、津田は終戦直後というより終戦から少し経った戦後1950年以降を健康ブームと考えている。
津田は戦後の健康ブームの起こりの背景には、「『大東亜戦争』の惨敗」があるとし、「日本国民を物質的貧窮のどん底に突き落とすとともに」、「かわりに戦勝国アメリカに象徴される物質文明の進歩主義、科学技術の合理主義、それにデモクラシーの平等主義を第一理想とする」生活観の流入があるとみている(津田 1997b:503)。ゆえに、戦後第1次ブームを象徴するのは、西洋医学に基づく大衆保健薬やビタミン剤、抗生物質、ホルモン剤などの氾濫であった。
これらの背景には、終戦後の国民の深刻な栄養不足を食糧供給の遅れを栄養学や工業技術によって補わざるをえないという深刻な状況があったからである。当時の健康ブームは、国家的に推進されていた「栄養改善運動」と呼応して始まったものとも考えられるのである。つまり、国家によるうえからの健康ブームともいえるのである。ただ、これらの健康ブームは、単なる国家プロジェクトにとどまらず、世界的な新薬の合成ラッシュに加え、それにともなう技術革新や海外技術導入による近代的な大量生産体制の確立、マスメディアを通じた広告宣伝の激化、そしてメーカー主導の大規模な販売活動の実現によって大衆全体をターゲットとしたマスセールスの仕組みを定着させ、国民全体を巻き込んだ社会現象ともいえるのである。
(2) 戦後第2次健康ブーム(1970年代以降)
一方、戦後第2次健康ブームは第1次ブームと対照的に、科学主義や産業社会への批判から出発しているという。その背景には、相次ぐ薬害・薬禍による合成薬不信、環境汚染や食品添加物、インスタント食品や加工食品への不安など健康をめぐる社会問題があった。第2次健康ブームはこれらの社会問題に反発するかたちで、第1次ブームの科学技術信仰とは正反対に、反科学主義、あるいは自然回帰志向、土俗回帰志向として生成したのであった。
第2次健康ブームの特徴として特筆すべきなのは、瀧澤と同様「健康」と「消費」の密接な結びつきである。この時期の健康ブームの主役たちは、第1次ブームの合成薬から健康食品や自然派食品、漢方薬にとってかわり、津田はこの現象を「日常生活全般の健康商品化、あるいは日常生活批判の商品化」(津田 1997:511)と表現しているように、生活に密着したレベルの健康法がクローズアップされ、また、それらが続々と商品化されたのである。健康食品や医療にとどまらず、豆乳やポカリスウェット、ウーロン茶や健康サンダル、ぶらさがり健康器など「健康」の付加価値のついた商品(財・サービス)はとぶように売れたのである。
さらに特筆すべきなのは、マスメディアの影響力である。マスメディアによって紹介された健康法が発端となり、『にんにく健康法』(1973年)、『酢の健康法』(1973年)、『しいたけ健康法』(1974年)、『紅茶キノコ健康法』(1974年)など健康法を記した書籍が話題となった。これに並行して『壮快』(1974年)や『安心』(1983年)など民間療法や東洋医学に傾倒した健康雑誌が続々と創刊されるようになったという。
つまり、津田のいう第2次健康ブームは「健康」と「消費」の深い結びつきだけではなく、健康市場・健康産業とマスメディアの結びつきから拡大をも含んだ大きな社会現象であったことが伺える。
以上、瀧澤と津田両者の論文を時系列にそれぞれみていったが、それぞれにいくつかの重要な視座を提示しているように思われる。瀧澤と津田両者の分析には同様なものもあれば視点が異なるものも多数ある。第一に、戦後の混乱と西洋文化の流入による近代化政策によって、科学主義や西洋医学に基づいた健康ブームの起こり、第二に、「健康」と「消費」の結びつきである。第3章以降はこれら両者の分析を手助けとしながら、人々が語る健康、すなわち、「われわれが語る健康」がどのような意味を持ち、どのように変化しているのかという点に注目しながら分析を進める。
[i] 伊藤友信訳,1982,『養生訓』講談社.
[ii] トリムとは、「スポーツやレクリエーションを通して個人や集団の楽しみあるいは幸福感を満たすこととされている」。なお、トリムの英訳は「身体的適合(physical fitness)であり、日本語ではフィットネスという外来語と同じ意味」である(佐藤・池田 1995:275)。
[iii] 瀧澤利行,1996,「戦後日本における大衆健康雑誌の展開と構造−現代日本における健康文化の一側面」『日本保健医療行動科学会年報』11:128-143.
[iv] 括弧内は筆者加筆
[v] 生活習慣と健康で取り上げられるのは「成人病」である。成人病という言葉は1957年ごろに厚生省が作った行政用語であった(佐藤 2000:126)。ちなみに、「成人病」という用語は1996年12月、公衆衛生審議会で「生活習慣病」という用語に変更され、現在では「生活習慣病」という用語のほうが一般的である(佐藤 2000:126)。したがって、瀧澤が当該論文を発表したのは1996年6月であり「生活習慣病」という用語は使用されていない。
[vi] 津田真人,1997b,「『健康ブーム』の社会心理史 : 戦後篇」『一橋論叢』118:503-521.
[vii] 津田(1997ab)は、日本の歴史上健康志向が大衆的な規模で昂揚した時代は、1700前後の元禄〜享保期、1800年代はじめの化政期、1900年前後の明治末〜昭和初期、戦後の1950年代〜60年はじめの時期、そして1975年頃〜現代までと、五度にわたる反復があったとみている。しかし、今回本論文で扱うのは戦後のみであり、津田は戦後の2期の健康ブームを「第4次健康ブーム」、「第5次健康ブーム」と設定しているが、便宜上、それぞれ「戦後第1次健康ブーム」、「戦後第2次健康ブーム」とよみかえて紹介する。