第4章 考察

 第4章では、これまでの分析からわかったことをまとめていくことにする。

 

第1節 漫才独自のルールがある理由

 第3章・分析から漫才には一般の会話とは違うルールがあることがわかった。これは一体なぜなのだろうか。

 理由は、漫才が2重の談話構造を持つからであると考えられる。演者間の構造A、演者と観客全体の構造B、この両方の構造の中で同時に漫才を進めてゆかなければならないのである。そのため、一般の会話で使われるルールだけでは対応しきれず、漫才独自のルールが生み出されたと考えることができる。

 しかし、漫才も会話で行われている。そのため、すべてが漫才オリジナルのルールというわけではなく、細かい部分で漫才用にルールが変更されているのである。例えば、演者と観客で話し手の交替が何度も起こるところや、会話の開始や終結の仕方など、大きな流れとしては一般の会話のルールと変わりはないのである。しかし、演者の発話と被って観客の笑いが発生するというように、一般会話にはないようなことが漫才では起こっているのである。

 次節からは、第3章での分析をもとに漫才独自のルールについてまとめていくことにする。

 

第2節 漫才の流れ

 まずはじめに、漫才がどのような流れで進んでいくのか、ということについて考える。分析からわかった漫才のおおまかな流とは、

1、漫才の内容を作る大トピックの導入

例)「○○がやってみたい」や「最近こんなことがありまして…」など

2、小トピックを繰り返す

「ボケ→ツッコミ・笑い」という小トピックのやり取りを繰り返す

3、漫才の終了

例)「いいかげんにしろ」など

以上のようになっている。漫才のはじめに、これから終始一貫して話す話題、大トピックが導入される。そして、大トピックの話題を基に、小トピック「ボケ→ツッコミ・笑い」を繰り返して話を進めていく。小トピックが繰り返され、漫才自体が終わりに近づくと、「いいかげんにしろ」などの終結の言葉を用いることで漫才を終了させているのである。

ここで重要なのは、「小トピックの繰り返し」である。小トピックとは、大まかな漫才の内容を作る大トピックを基にして導入されるものであり、「ボケ→ツッコミ・笑い」という一連のやりとりが1つの小トピックを組織している。この構造は以下のように定式化することが出来る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【小トピックの流れ】

 

上記の図のように小トピックにおいて、演者がボケるのは小トピックが終了に近いことを示している。なぜなら、「ボケ」がその小トピックにおいてのオチだからである。そして、漫才でも一般の会話のように、トピックの語り手はどこがトピックの終わりかということを聞き手に示さなければならず、また聞き手はトピックの終わりの場所において話し手に対してトピックのオチに対する理解を示さなければならない。通常ではその一連の作業を1人の話し手が行うのだが、漫才ではオチを話すボケがトピックの終わりを示すのではなく、ツッコミがその役目を果たしている。そして、一般の会話でもトピックの話し手は聞き手がオチを適切に理解することを期待しているように、漫才でもそれをあてはめることができる。つまり、ツッコミを入れるということは暗にオチに対する理解を観客に求めている行為なのである。一般の会話ルールでは、トピックのオチに対する理解は、聞き手が類似した第2の物語を作りだすことによってなされるが、漫才の場合、オチに対する理解は笑うことによってなされているのである。

要するに、演者がボケることが小トピックのオチであり、ツッコミは小トピックの終わりを観客に示すと共に暗にオチに対する理解を求め、それに対して観客は笑いで答えているのである。この一連の流れが1つの小トピックを形成しているのである。

 

 

 

第3節 本論文的にみるボケ・ツッコミの役割

 さて、漫才、といったら「ボケ」と「ツッコミ」である。第3節では本論文からみたボケとツッコミの役割について考えていくことにする。

 本論文の意見を述べる前に、他の研究では「ボケ」「ツッコミ」はどのような定義がされているのかみていきたい。金水によると「会話の原則を何らかの形で外してしまう、これがボケである−−中略−−その会話をもとの進路に戻す役目がツッコミである。」とされている。(金水 1992:76)また、井上は「ボケは正常ではないこと、普通ではないこと、人並みではないこと、ありもしないこと、隠れた本音などを表現する役割を担う。ツッコミは、その反対で、正常、普通、人並み、建前などを代表する。」(井山 1995:52)とされている。確かに、漫才では、ありえないような話をするのはボケであり、それに対してツッコミがツッコミを入れることで話がまともになっていることを思い浮かべれば、これらの定義は当たっているといえる。しかし、本論文で分析してきた、会話分析的な視点からボケとツッコミをみたときにはこれらの定義とは少し違う見方ができるのである。

 結論から先に言えば、本論文からみたボケとは、「笑いを生み出す原動力」であり、ツッコミは、「笑いをコントロールするもの」であるということができる。

 ボケは、小トピックの中のオチであり、笑いを生み出す働きをしている。観客の笑いを生み出すということは、ボケは常に観客に対して働きかけているのであり、いつでも観客に聞かれていなければならないのである。

 一方ツッコミは、小トピックの終わりを示すとともに、そのオチに対する理解を観客に求める行為である。ツッコミを入れるということは観客に対して、ボケで発生した笑いの笑うタイミングを指示する働きを持っている。また、ボケを基にそれに対してツッコミを入れることで、ツッコミ自身が笑いを生み出す場合もあり、ツッコミは漫才の中で観客の笑いを上手にコントロールする働きがあるといえる。

いままで説明してきたように、さまざまな働きを持っているツッコミは、働きかける内容によって、観客に聞かれなければならない場合と聞かれなくてもよい場合がある。では、図でその違いを説明することにしよう。以下は「合図としてのツッコミ」と「意味のあるツッコミ」の図である。

 

【合図としてのツッコミ】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【意味のあるツッコミ】

 

まず、「合図としてのツッコミ」から説明をすると、小トピックの中のオチであるボケはいつでも観客に対して笑いを働きかけている(観客方向矢印)。そのボケにツッコミが入る(ボケ方向矢印)と同時に観客に対しても暗に笑いの合図(観客方向点線矢印)を送っているのである。この場合、ツッコミは合図として用いられているため、観客に笑いのタイミングさえ指示をすれば、極端な話、その後のツッコミは聞かれる必要はないのである。つまり、ツッコミはボケと観客をつなぐ仲介役をしているといえる。

それに対して「意味のあるツッコミ」ではツッコミ自体に笑いの要素が含まれているため、きちんと観客に聞かれる必要があるのである。しかし、ツッコミが笑いを生み出す場合でも、前提となっているのはその前のボケであり、それがあってはじめてツッコミの笑いが成立するのである。ツッコミが笑いを生み出す場合にも、ボケが笑いのベースとなっているのである。

 このように、ボケだけではオチはあるものの、観客に対して笑いどころを指示できないしまりのない漫才になってしまい、ツッコミだけではオチがなく、笑いを生み出すことができない漫才になってしまうと考えられるのである。漫才においてボケとツッコミとは互いになくてはならない存在であり、お互いの足りない部分を上手に補って成立しているのである。

 

第4節 発話の被るもの・被らないもの

 第3章第4節で観客ターンを分析した際、発話と笑いが被らない潜在的完結点タイプのものと発話途中で笑いが発生しているものについて触れたが、なぜ発話途中に笑いが発生するものと、発話後に笑いが発生するものがあるのだろうか。本節ではそのことについて考えてゆく。

 では、発話と笑いが被らない潜在的完結点タイプから例を見てもらおう。

 

 例19 南海キャンディーズ

16 し (間)しゃべる岩(1)

17          HHh

18    子どもって時に残酷よねーうんー

19    h h h                 hhhhhhh

 

 例20 南海キャンディーズ

77  山 なまはげのコントを広げれる自信がない(1)

78                                        HHh

79 山 医者とナースでいこう?

80    h h h h h h h h h h h

 

次に発話と笑いが被っている、意味のあるツッコミの例を見てもらう。

 例21 タカアンドトシ

21 タ=あ、段差=

22 ト=気ぃ遣われてんじゃねえかよー(間)

23         hhhhhhhhhhhhh h h

 

 例19と例20の下線部に注目してほしい。潜在的完結点タイプでは笑いの意味を含んでいる言葉の後に続く言葉が短いことがわかる。例19のしずちゃんの(16)の発話「しゃべる岩」はそのものの言葉に笑いの要素が含まれている。また、例20の山ちゃんの発話(77)も下線部の「自信がない」の部分に前の言葉がかかっており、その言葉があってはじめて笑いの要素を含むようになるが、この場合も後に続く言葉が短いのである。

一方、例21の意味のあるツッコミの場合ではトシの(22)の発話「気ぃ遣われてんじゃねえかよー」で、観客の笑いは“んじゃねえかよー”と被って発生している。この言葉で笑いの意味を含んでいるのは“気ぃ遣われて”の部分であり、そのあとに“んじゃねえかよー”という言葉が続いているために、観客の笑いと演者の発話が重なってしまうものと考えられる。

以上のことより、漫才において発話と笑いが被るかどうかということは笑いの意味を含む言葉の後の長さが関係しているということができる。このことから、観客たちは笑いの意味が伝わってすぐに笑っているのである。そのため、ツッコミもすぐに入れなければならないと考えられる。

 

第5節 それぞれのコンビの色

前節までは、漫才に共通して言えるルールについて主にみてきたが、本節では今回分析したコンビの特徴について述べていく。漫才はそれぞれのコンビの色がとても反映しており、今回分析対象とした漫才師は5組であったがその中でも大きな違いがみられた。

 まず、千鳥・タカアンドトシ・アンタッチャブルの3組は「合図としてのツッコミ」が多く見られたコンビであった。このタイプはボケ役がわかりやすいボケをしなければ成り立たないコンビである。また、笑いを取るのはボケでツッコミは笑いのタイミングを指示する、というボケとツッコミの役割分担ができているコンビだと言える。漫才では多いタイプの漫才師であり、わかりやすい王道的な漫才を繰り広げているといえる。

 一方、南海キャンディーズは「意味のあるツッコミ」や「解説タイプ」が多いコンビである。ボケ担当のしずちゃんのみならずツッコミ担当の山ちゃんも笑いを生み出しているという、ツッコミも笑いをとるコンビなのである。そして、第4章第3節でも説明したように、ツッコミが笑いをとる際に前提となっているのはボケであり、山ちゃんの笑いを支えているのは“しずちゃんの動き”なのである。では、以下の例を見てほしい。

 

 例22 南海キャンディーズ

33    ぶ、ぶぶぶぶぶぶぶぶぶー[と言いながら足でVサインを作る]

34       h h h h h h h h hhhh

35    平成16年だよー(2)

36                     HHh

37 山 しずちゃん、おてんばが過ぎるってー(間)

38  −h h h h h h            h h h

 

 

 例23 南海キャンディーズ

 [しずちゃん、頭にグーをのせ、舌を出してお茶目なポーズをとる]

147  山 おおー、俺、それ漫画でしか見たことねーや(1)

148   −h h h h h h h h h h h h h h hhhhhhhhhhhhhhh

149  山 いいよ、だまって見とけよ

150    h h h h h h h h h h h h h h

 

 例22と例23は両方とも山ちゃんがしずちゃんの動きを解説することで笑いをとっている「解説タイプ」である。これらの例を見ると、しずちゃんの動きだけでもまばらな笑いが起こっていることがわかるが、山ちゃんのツッコミが入ることで観客の笑いがより大きくなっていることがみてとれる。このように、単独で見るとわかりにくいしずちゃんの動きに対して、山ちゃんが的確な表現で動きに意味を与えることによって観客の笑いを生み出しているのである。実際、約4分間の漫才で動きの場面が6か所あり、そのうち「解説タイプ」で笑いを取っているのは4か所もあるのである。これは、他の漫才と比べてみても大変多い割合である。

 南海キャンディーズの漫才は、意味の伝わりにくいしずちゃんの行動に対して、山ちゃんが的確な言葉でツッコミを入れることが特徴であり、それが「意味のあるツッコミ」や「解説タイプ」が多い理由となっている。更に、山ちゃんのツッコミでしずちゃんのおもしろさも再認識されるという相乗効果が生まれ、ボケのしずちゃんもツッコミの山ちゃんも両方おもしろい、という印象を与えるコンビなのである。

最後にPOISON GIRL BANDであるが、このコンビは他の漫才師たちとは少し違う手法を用いることで笑いを取っている。それが、「繰り返し」と「ソフトなツッコミ」である。「繰り返し」については第3章第4節第2項で説明をおこなったので、ここでは「ソフトなツッコミ」についての説明をしていく。では、例を見てほしい。

 

24 POISON GIRL BAND 吉田君の発話

157  吉 立浪の、頭が出てきたらあたりなの?

158  阿 もう1回引いていいよ

→159  吉 もう1回引いていいの?()

160          HHHHHHHH

161  吉 帽子を?

162   −hhhhhh

163  阿 うん

164   −hhhh

165  吉 あ、まあ、あたりだからね

166    h h h h h

 

 

 例25 POISON GIRL BAND 吉田君の発話

168  吉 じゃあ、もう1回引いてさー今度落合監督が出てきたら?=

169  阿=ああ、もう、総取り=

170  吉=総取り?()

171             HHHH

172  阿 親の総取りだね

173    h

 

24・例25は阿部君が中日の選手の帽子を取ってだれが出てくるか、というゲームの説明をしている場面である。ここで注目してほしいのは、矢印の吉田君の発話である。例24でも例25でも吉田君の発話途中に笑いが発生していることがわかる。しかし、吉田君の発話の内容を見てみると、普通のツッコミのようにボケが言ったことを否定するような強いツッコミではなく、阿部君の言ったことに対して疑問を投げかけるようなツッコミなのである。例24では、立浪の頭が出てきたらあたりでもう1度帽子を引いてよいという阿部君に対して、吉田君は「もう1回引いていいの?」と疑問を投げかけている発言であることがわかる。同じように例25でも、落合監督が出てきたら総取りだ、という阿部君に対し「総取り?」と聞き返している。このような場合、普通であれば「そんなわけないだろう」というような、ボケの言ったことを否定するツッコミが入るはずである。しかし、POISON GIRL BANDではボケの言ったことをはっきりと否定するようなツッコミは少ないのである。

では、ツッコミ役の吉田君がボケである阿部君の話を否定しないとどのようなことが起こるであろうか。それは、ツッコミがボケの発話を否定しないことで、ボケの発言がツッコミによって修正されずに、ボケが持ってきたトピックがこれからの話の小トピックとして採用されてしまうのである。そのため、ボケが自由にトピックの方向性を決定することができ、話が実際にはありもしないような変な方向に進んでしまうのである。POISON GIRL BANDの漫才を見ていると何の話をしていたのか、途中からわからなくなってしまうのはこのためなのである。そして、このPOISON GIRL BANDの例からツッコミには「ボケの発言によってずれたトピックの方向を直す」という働きがあるということが言えるのである。

以上のように、POISON GIRL BANDは「ソフトなツッコミ」と「繰り返し」というほかの漫才師には見られない技を用いて笑いを生み出しているのである。

 

第6節 POISON GIRL BANDにみるツッコミの役割

 今までの分析より、ツッコミには「トピックの終わりを示す役割」、「オチに対する理解を観客に求める役割」そして「ボケの発言によってずれたトピックの方向を直す役割」があることがわかった。ここでは、変わったツッコミをするPOISON GIRL BANDを例にしツッコミの役割について改めて考えていきたい。

POISON GIRL BANDのツッコミが変わっていることは前節でも説明したが、POISON GIRL BANDの漫才を見ていると、他の漫才とは少し違うことに気づくのである。それは、POISON GIRL BANDの漫才と他の漫才では笑いの起こり方が違うということである。POISON GIRL BAND以外の漫才では、笑いはツッコミと一緒に起こっているのだが、POISON GIRL BANDの漫才ではそのような規則性はあまりみられないのである。また、笑い声に関しても、大笑いよりも小さな笑いやパラパラとした笑いが多いのである。この違いは、やはりPOISON GIRL BANDに特有の「ソフトなツッコミ」がもたらしていると考えられるのである。

普通のツッコミには、先ほども挙げたとおり、「トピックの終わりを示す役割」、「オチに対する理解を観客に求める役割」そして「ボケの発言によってずれたトピックの方向を直す役割」があるといってきた。では「ソフトなツッコミ」にはどのような働きがあるのだろうか。両者を比較することでツッコミの役割について考えていきたい。

まず、「トピックの終わりを示す役割」であるが、この機能はソフトなツッコミも持ち合わせていると考えられる。なぜなら、吉田君のツッコミが入ることで笑いが発生するからである。小トピックの中で阿部君のボケがオチとなり、そこに吉田君のツッコミが入ることで観客の笑いが起こる、ということはそのオチに対する理解は得られているのであり、それはトピックの終わりを示すものであると考えられるのである。

次に、「オチに対する理解を求める役割」であるが、これもソフトなツッコミを入れることで笑いが発生していることから、この機能もあると考えられる。しかし、ソフトなツッコミは笑いの発生位置が普通のツッコミとは違うのである。普通のツッコミであれば、ボケの発話に対してツッコミを入れると同時に観客の笑いが起こるが、ソフトなツッコミの場合には、ツッコミの途中に笑いが発生しているのである。阿部君の発話は完全にボケたものであり、笑いの発生の仕方としてはツッコミと一緒に起こってよいはすであるのに、ソフトなツッコミの場合にはツッコミの途中に笑いが発生するのである。このことより、ソフトなツッコミとはオチに対する理解を観客に求めてはいるが、普通のツッコミのように反応がすぐに返ってくるものではないといえる。

最後に、「ボケの発言によってずれたトピックの方向を直す役割」に関しては、ソフトなツッコミはまったく機能していないといえる。これは、ソフトなツッコミの特徴である、ボケの話を否定しない、ということが大きく関わっているといえる。普通のツッコミはボケの持ちだしたありえない話を否定するため、その都度小トピックは修正され、話としてどんな話をしていたかわからなくなるほど大きく脱線することはない。しかし、ソフトなツッコミはボケの話を否定しないために、ありもしないような話がそのまま小トピックの話題として採用されてしまうのである。そのため、話が実際にはありもしないような方向に行ってしまうのである。

このことから、ソフトなツッコミには普通のツッコミと同じ部分もありながら、話を否定しないという性格から、特有の働きがあるのである。しかし、ソフトなツッコミがツッコミとしての機能を完璧に果たしていないからだめなのではなく、ソフトなツッコミがあるからこそ、POISON GIRL BANDの漫才が成り立つのである。実際POISON GIRL BANDはM−1グランプリ2004で6位になっており、ソフトなツッコミはPOISON GIRL BANDというコンビの色なのである。

 

第7節 発話と笑いが被ってもよい理由

ここまでいろいろと漫才のルールについて考察をしてきたが、第7節では、漫才が一般会話と大きく異なる点、なぜ発話と笑いが被ってもよいのかということについて考えていく。

それは、今までの分析からもわかるとおり、ツッコミが観客に対して笑いの指示をする役割があるからであると考えられる。もし、笑いの指示をするツッコミが無ければ、ボケのオチに対して観客はどこで笑ってよいのか戸惑ってしまうだろう。また、笑いの指示をするツッコミはボケの発言を否定するような発話しかしていないため、ツッコミ自身には笑いの意味が含まれておらず、構造A上で会話を進行する機能はあるが、構造B上では観客に働きかけていないのである。そのため、笑いの指示であるツッコミと観客の笑いは被ってもよいと考えられるのである。

さらに、「意味のあるツッコミ」の場合でも笑いの意味が観客に伝われば、その後の言葉は観客に聞かれなくてもなんら問題はないのである。

また、ボケの段階で笑いが起こる場合も観察されたが、それは、ボケの言葉に期待した観客の笑いであるといえる。以下の千鳥の例を見てほしい。

 

 例26 千鳥

58 大 さてはアロンボン、この国に入ったな、イズム、馬をひけ、丘に向かうぞ=

59                                              h h hhhhhhh

60 ノ=なんで丘に向かうんだ、お前(間)何でお前の登場人物全部丘に向かってくんだ?

61   HHHHHHHHHHHHHHHHhhhh

 

 例26は大悟が中世のヨーロッパの騎士になりきっている部分である。(59)の観客の笑いに注目してほしい。ここを見ると、笑いと(58)の大悟の発話が被っていることがわかる。この笑いが発生している理由は、“テンドン”が用いられているからであると考えられる。

“テンドン”とは以前にも説明したように、印象的な言葉を繰り返すことで笑いをとるものである。大悟はこの前にも「馬をひけ、丘に向かうぞ」と言っており、観客はその言葉に反応して笑っていると考えられるのである。観客は大悟の“馬をひけ”という言葉を聞き、次に“丘に向かうぞ”という言葉を期待して笑っていると考えられる。そのため、観客の笑いは“丘に向かうぞ”から始まっている。しかし、大悟の発話が終わり、(60)のノブのツッコミが入ると同時に観客の大笑い(61)が発生していることから、やはり、笑いのきっかけはツッコミであり、ボケの発話で発生している笑いは、その後のボケの言葉を期待した笑いなのである。

 これらのことから、漫才では発話と笑いが被っても話が通じるような会話の仕組みになっているのである。

 

第8節      漫才のかたち

分析から演者は様々な戦略を用いて漫才をしていることがわかった。しかし、その中でもっとも大切なことは意外にも観客とコミュニケーションを取ることであった。もちろん、漫才の台本自体がおもしろいことは言うまでもないが、演者たちはただ台本通りの漫才をしているわけではない。演者たちは観客とのやり取りの中で観客を笑わせるタイミングや自分たちが話し出すタイミングを肌で感じながら漫才をしているのである。つまりは、観客に合わせて漫才をしているのであり、だからこそ漫才はおもしろいのである。

また、このことは演者が観客を漫才の「参加者」とみなしているということもいえる。演者が観客を参加者とみなしているからこそ、構造Aでおこなわれる演者同士の話を、観客を含めた構造Bにも通じるようにするための、漫才独自のルールが存在するのである。

漫才独自の会話ルールが存在するということは、演者だけでなく観客がいて漫才が成立することを証明しているのである。