第1章   問題関心

 

 お笑いが好き。

このことが、漫才をテーマに卒業論文を書く基になっている。思い起こせば私のお笑い好きは中学生のときから始まっている。その頃は、俗に言う、第4次お笑いブーム(注1)であり、ボキャブラ天国がきっかけとなって爆笑問題やネプチューンなどがブレイクした時代である。その後ブームは終息したものの、近年になって再びお笑いブームが復活し、毎日のようにお笑い芸人がテレビに出ている。そのおかげで今まではお正月の特番ぐらいでしか見ることのできなかった漫才やコントなどがテレビをつければ見ることができるようになっている。これは、私にとって大変喜ばしいことである。

そんな私は、お笑い芸人を尊敬している。

そのわけは単純明快、人を笑わすことができるから、である。それも何もないところから、自分たちの作った話だけで、自分たちの知らない人たちを笑わせているからである。もちろん、私たちの普段の生活でも誰かを笑わせる話をすることはある。例えば、「○○先生が転んであせっていた」という話でも、話し手と聞き手で○○先生に対する共通認識がないと、ただ「ある先生が転んであせった」という事実を述べたものになってしまう。この話が面白いとしたら、話し手と聞き手が「○○先生はいつも偉そうにしている」という共通認識を持っており、「偉そうなのに」のに「転んであせっていた」というギャップに笑うのではないだろうか。

このように、普段、私たちが話している笑い話というものは、話し手と聞き手にある程度の共通の知識があるからおもしろいのであり、同じ話を第三者にしたところで笑ってくれはしないであろう。つまり、一般人の私たちが、共通の知識がない第三者を笑わせることは至難の業であると考えられるのである。そして、それをやってのけるのが“プロ”と呼ばれるお笑い芸人たちである。

では、彼ら・彼女らはどのようにして私たちの心をつかみ、私たちを笑わせているのであろうか。そこで、本論文ではお笑いの中でも「漫才」に注目することにした。ご存知の通り、漫才とはボケとツッコミのやり取りの中で笑いが生まれるものである。今までにも漫才を資料とした先行研究はあるものの、それらは主に演者の側から分析したものがほとんどであり、演者と観客の両方から分析したものはあまりない。しかし、漫才とは、演者と観客という2つの要素がそろって成り立っているものではないだろうか。演者が面白いことを言って観客が笑う、それこそが本来の漫才の形であり、演者だけで漫才は成立しないものなのである。つまりは、演者側からの分析だけでは漫才のすべてを把握することはできないものであると私は考えている。

また、会話で成り立っている漫才には、会話ルールのように、「漫才ルール」というものがあるのではないだろうか。私が昔読んだ漫画、『サザエさん』の中でこんな話があった。

ある日、サザエさんとカツオ君は漫談を聴きに来ていた。そこでカツオ君以外の全員が大笑いするのであった。笑いどころがわからないカツオ君は、サザエさんに笑った理由を聞くことでやっと笑うことができたのであった。しかし、その間にも演者の話は進んでおり笑いどころもなにもないところで大笑いするカツオ君に対して周囲は驚いた表情をする、というものである。

 これは、観客が演者の用意した笑いどころ以外で笑う、ということがどれだけ変であるかということを示している良い例であるといえよう。漫才でも、演者の用意した笑いどころ以外で観客が笑うことはほとんどない。では、なぜ演者の用意した笑いどころ以外で笑いが発生するという事態が起こらないのであろうか。それこそ、漫才のルールが働いているからではないだろうか。演者も観客もそのルールを暗黙のうちに了解することで漫才が滞りなく進んでいるのではないかと私は考えている。

 以上のことを踏まえ、本論文では演者と観客の両方について会話分析の手法を用いて分析を進める。その中で、漫才では、どのように笑いが生じているのか、演者はどのようにして観客に話を聞かせているのか、ということに注目する。最終的には、演者と観客の関係を分析し、漫才のルールを見つけることで、漫才師たちが用いている漫才の戦略を解き明かしていきたい。