第2項 「本当の自分探し」の旅
“なんとなく”英語を学んでいる状態は、何かに操られているかのようでもあり、さらに特徴的だと思ったのは仕事上のツールとして英語を日常的に使用するためといった道具的動機づけを持たないという人が多いような印象を受けた点である。ここから何か特徴的な現代人の生き方のようなものが垣間見えないだろうかと考えたわけである。
津田(1990,1993)は、何かに操られてでもいるかのように人々がこぞって英会話教室に通う様を「英会話症候群」と名付け、男性と女性にそれぞれ矛盾した自我を植え付けることになったと述べている。男性は英語に対してより機能的、道具的な捉え方をする傾向があるのに対して、女性は欧米を崇拝し、英語でぺらぺらになれることに強い“憧れ”を抱く傾向があると津田(1990)は述べている。どちらも心の奥深くでは英語や欧米に対して嫌悪感を抱き、英語を毛嫌いしているが、その度合いについては男性の方がより強く現われ、女性はといえば男性と異なり欧米崇拝度や英語に対する捉え方が感覚的であり、より強い“憧れ”を抱く傾向があるといわれている。
女性の場合、それが例えばOLを辞めてまで留学する女性たちに見受けられるように、男性をはるかに凌ぐ勢いで熱心に英会話学校に通い、あるいは仕事を辞めて海外留学をする生き方を選ぶ女性の数は多く、今となっては、抵抗感は薄れ、そのような選択をすることが“潔い”とまで感じられるようになってきたと思われる。それは、長年勤めていた会社を辞めて日本社会を飛び出す女性の姿が逞しくもあり、また何かを探し求めているかのようでもある。
その“何か”を浅野(2002)は「本当の自分」であるとし、めまぐるしいサイクルでモノが溢れる現代においては「自分らしさ」の基準というものが図りにくく、私達は例えば英会話学校に通うことで「本当の自分探し」の旅の一過程にいるのだと述べている。
浅野(2002)の「自分らしさ・本当の自分探し」はどのような概念から生まれたキーワードなのだろうか。浅野は「本当の自分探し」について、「目指す場所にけっしてたどり着くことのない旅であるかもしれないが、その過程で、人は多くの豊かさを手に入れることができるかもしれない」(2002: 48)と述べている。その背景には、日本が1970年代以降、高度消費社会に移行したことによって、モノの急速な流行サイクルに影響を受け、自己は変化しやすくなり、個人のアイデンティティ(注4)が構築しづらくなったと指摘している。例えば、近代以前の社会に見られたような身分や家柄、続柄によって「私」という内的な指針と社会的な位置づけが明確に定められていた時代においては、「本当の自分」について問うことは無意味なことだった。しかし、そのような伝統的な制度は徐々に崩れていき、「私」を覆っていた社会的規制は取り払われ、日本は70年代以降、高度消費社会に移行した。そのような特性を持つ社会においては、「私」という輪郭はより曖昧なものとなっていったのである。高度消費社会とは「商品が機能よりもブランド名や表現されるブランドイメージといった記号的な特性の方が重要視される社会」(浅野 2002: 46)のことをいう。私たちは、例えば、高級ブランドを消費することによってそれらに付与されたイメージを利用して「個性やその人らしさを表現」(浅野 2002: 47)しているのだといえる。消費対象となるのは単に高級ブランドなどの物の消費にとどまらず、英会話学校や留学も物としての形こそ持たないが、「みな記号としての意味を前面に出して」(浅野 2002: 46)ひとつの商品として売り出されている。1980年代以降、「自分探し」はメディアでも取り上げられるようになり、「本当の自分探し」は現代人の生き方をあらわすひとつの象徴的なキーワードとなった。「本当の自分」自体、形のないものであり、本当に存在するかしないのかも定かではないものを追い続けていく“旅”であるとするならば、そういう点で英会話学校に通う人々の行動形態にどこか“漠然”としたものを感じざるをえないのも当然だろう。
また、浅野(2002)によれば、「本当の自分探し」を続けることは十分に現実的なことであり、その旅の過程で“意図せざる収穫”を得ることができるかもしれないと述べている。このような場合、英会話学校に通い始めることよりも、むしろ通い続けていくことの方に重要度が置かれていると考えられる。英会話学校に通うこと、留学することは必ずしも明確な目的に支えられているわけではない。「本当の自分探し」には、ここにはない別のどこかへ“何か”を探しに行くという意味が含まれている。つまり、英会話を“なんとなく”習い始めて継続して続けていられるのも、OLが会社を退職して留学することも、“何か”を探し求めている旅の過程に位置づけられているに過ぎず、その旅の過程で、人々は思いがけない収穫を得ることができるかもしれないのである。
実は、漠然と“なんとなく”続けているのは英語にしろ、ヨガにしろ、ダンスにしろ、ピアノにしろ、「本当の自分探し」の旅の一過程に過ぎないのかもしれない。本当の自分が見つかるまで旅は続けられる。もしかしたら一生見つからないかもしれない。現代に生きる人々は、「本当の自分」に巡り合うために出口があるかないかも分からない長いトンネルの中を出口があると信じてひたすらに進み続けているようでもある。そういった意味で、「本当の自分探し」は「終わりのない旅」だといえるだろう。「終わりのない旅」を続けていくことは自分をさまざまな環境に追い込むことによって自分を試し続けていくという意味で、「自分への挑戦」でもあるように思われる。
果たして、インタビュイーたちにとっての「本当の自分探し」の旅はどのような意味を持つのであろうか。「本当の自分探し」の旅を続けていく過程で得られる、インタビュイーたちにとっての“意図せざる収穫”とは何であろうか。この点については、後の章でインタビュイーの語りから考察したい。