第1項 「外的自己」と「内的自己」の矛盾した英語学習欲求
人々が動機づけを語るとき、“なんとなく”という漠然とした気持ちで英会話学校に通っている場合が多い。“なんとなく”続けている英会話だが、人々の奇妙にも映る行動を、津田(1990: 117)は「私達が知らず知らずのうちに、英会話に駆り立てられている、ということを意味する。私達の意識は操作され、『英会話』へと引きずりこまれている」のだと指摘し、そのような状態を「英会話症候群」と名付けた。「英会話症候群」とは、津田(1993)によれば、「外的自己」と「内的自己」という相反する自己を内に秘めている状態をいう。二分する自己とは、欧米に対する“憧れ”と“反発”という相矛盾した感情を抱いた自己を意味している。欧米文化や英語をペラペラ話せることに対する“憧れ”を持った「外的自己」は英会話学校にこぞって通う人々の表面的態度であり、一方、「内的自己」は深層心理では欧米や英語を嫌悪しており「英語アレルギー」を患っているというものである。(注3)
さらに、英語に対する態度は男性と女性とでは度合いが異なる。英会話学校に通っているのは殆どが女性であり、英会話産業を支えているのは女性であるという事実からも分かるように、男性に比べて女性の方が英語に対して好意的な態度と“憧れ”の気持ちが強く働いていると考えられる。英会話学校は男性と女性にとって、それぞれに対して異なった役割を果たしていると考えられる。
そのことについて津田(1993: 26)は「多くの日本女性の英語への関わりが、情動的であるのに対し、日本人男性は、より機能的、道具的に英語と関わっている。社会人になっても英語に磨きをかけようという男性は、英語が必ずしも好きなのではなく、仕事で必要だから不承不承学んでいるという人が大半ではないだろうか」と述べている。男性の方が女性に比べて、会社の中で試される機会が多いと考えると、男性の場合、英会話学校に通うことはもはやキャリアアップのための手段と捉えていることが多いと考えられる。
女性は男性に比べて英語でペラペラ話せることに対する“憧れ”を強く抱き、なぜ英語を学び続けているのかという目的については趣味程度であったり、自分を磨くためといった自分への投資としての意味づけがなされている程度で、キャリアアップは二の次、三の次であることが多いという事実からも頷ける。女性に対してはある種の“気楽さ”があるのかもしれない。
一方で、男性は競争社会の中で出世を望むとなれば「英語ができることは必須条件だ」という意識があり、「競争と勝敗と生活がかかっているビジネスマンにとって、英語を使っての国際交渉は、憧れとか崇拝といった感情の入る余地のない、いわば『戦場』に出向いているようなものである」(津田 1993: 26-27)ということから、男性にとっては仕事上のツールとしての英会話であるという意味合いが強いと考えられる。男性にとっては英語がペラペラになれることの延長線上には「出世」があるが、女性には“夢”と“幻想”は与えることはあっても多くの女性にとって英会話学校に通うことは「社会的な成功=立身出世」を収めるための手段ではないことが多いと考えられるのである。
インタビュイーの語る英語に対するイメージと学習態度、動機づけとその要因、彼女たちの語る自己像などから、女性が英会話学校に通い続けることをどのように捉えていて、どのような意味を持つのかを考えたとき、この津田氏の理論は果たして有効なのだろうか。一貫性が全くないような語り方の印象を受けた箇所については、客観的に考えたときには我々の目にどう映るのだろうかということを考えたい。