第1節 「役に立つ英語」教育の広がり
今や、英語は人々にとって非常に身近な言語の一つとなった。日本では、義務教育課程で最低3年間、高校に進学すれば合計6年間も英語を学習している。さらに、大学へ進学するとなると、単純に考えて、約10年間もの歳月をかけて英語を学ぶことになる。こんなにも長い年月を経て、私達が習得できた英語力は一体どの程度世界に通用するものなのだろうか。
昔から、日本人の英語力は、読み書きはよくできても、特にコミュニケーションを図る上で必要不可欠な発話する部分で能力が足りないという指摘をされてきた。読み書き中心で英語力をつけてきた日本人にとっては意思疎通の点で劣っているといわれてきた。それは、例えば、初めて海外旅行に行った際、もしくは日本で外国人に道を尋ねられたときに、自分の英語力がいかに乏しいのかを実感し、悔しさと後味の悪さだけを残して、「今まで自分が受けてきた英語教育には一体何の意味があったのだろうか」と多くの日本人は愕然とした気持ちにさせられるわけである。
そこで、近年、従来の義務教育の一環で行われてきた英語教育のあり方に一石を投じようと、これまでの読み書き中心の学習も大切にしながらも、これからは話す・聞く中心の学習へとその比重を移していこうという流れに変わってきている。
第1章でも少し触れたが、文部科学省が提案した「『英語が使える日本人』の育成のための戦略構想」をはじめとして、構造改革特区制度により群馬県太田市に国語以外の授業は全て英語で行われる小中高一貫校の「ぐんま国際アカデミー」が開校する(注1)ことになっており、全国各地で実践的な英語教育が盛んに行われている。また、朝日新聞とベネッセ未来教育センターが共同で実施した教育改革に関する保護者の意識調査の中で、「小学校の英語学習の導入」が86.7%と、8割以上の支持を集めており(注2)、子どもを持つ親にとっても、英語教育に対する興味関心度は高いことが分かる。学校英語教育の観点からも、「役に立つ英語」教育が今後ますます重要視されていくことだろう。
現代において、義務教育課程においてなされてきた英語教育の変革の時を迎え、「使える英語」教育へとその比重を移していく中で、「使える英語」教育を論じる際に、引き合いに出され、批判されてきたのが読み書きを重んじてきた従来の英語教育や受験英語に代表されるような「役に立たない英語」である。英会話学校は、そのような従来の「役に立たない英語」教育では提供できなかったメリットをたくさん兼ね備えている存在として、いつの時代も人々に支持されてきた。
「役に立つ英語」教育が人々に重要視されるようになったことにより、英会話教室は社会の中でどのような存在となっていったのだろうか。英語教育の観点から津田(1990,2000)の論述を参考に述べる。
津田(2000)によると、「受験英語」は「役に立つ英語教育」を正当化する役割を果たしている。つまり、「学校で行われている英語教育=役に立たない受験英語」というイメージを作り上げておいて、「役に立つ英語」への欲求をかき立て正当化しているのである。もう一つは、学校の英語教育はもちろんのこと、学校教育全体への不信感をつのらせるという問題である。学校はつまらない、生徒の求めているものを与えていないという不満の一つの捌け口として、「受験(学校)英語」を批判するのである。もっと具体的には、批判の矛先は、日本人の英語教師に向けられるのである。
受験英語の存在は、「役に立つ英語」を求める要因でもあり、「役に立つ英語」は「役に立つ」という実利的で即物的なイメージを伴うということから、「役に立つ英語」が受験英語の存在によって引き立つわけである。津田(2000)は、受験英語批判の中でもっとも多く取り上げられるものとして「文法・作文・翻訳」があり、それらが「役に立たない」とされている現状について触れている。そして、「役に立つ英語」論者たちは、忍耐と知性を要する作業に対して「役に立たない」というイメージを作り上げて攻撃し、「役に立たないのだからやらなくてもよい」という一連の議論が、文法中心の学校英語教育がいかに「役に立たないか」という錯覚を我々に与えていると指摘している。
また、津田(2000)は「受験英語」批判の象徴として、日本人の英語教師を挙げている。
日本人英語教師は、もちろんネイティブ・スピーカーでないから、発音一つとってもネイティブ・スピーカーよりは劣るのは仕方のないことである。しかし、「受験英語」批判が染み付いている学習者たちは、この先生たちを「受験英語」「役に立たない英語」の象徴として批判的に不満を持って見てしまうのである。(中略)生徒は、先生を「役に立たない」「ネイティブ・スピーカーでない」「受験英語」の先生と見なしており、「役に立つ」「本物の」英語の先生としては見てはいないからである。つまり生徒たちの頭の中には、ネイティブ・スピーカーが権威として存在しているので、日本人の先生を権威の弱い存在として、あるいはあまり信頼できない存在として位置付けているのである。(津田 2000:76−77)
事実、文部科学省は「『英語が使える日本人』の育成のための戦略構想」の中で、英語教員の資質向上のため、英語教員が備えておくべき英語力の目標値をTOEIC730点、TOEFL550点、英検準一級程度に設定している。また、2003年度からは5ヵ年計画で中学・高校の全英語教員6万人に対し、集中的に研修を実施するとしており、海外への研修希望の英語教員に対して支援制度を設けるとしている。つまり、よりネイティブ・スピーカーに近い英語の先生が求められているわけである。
言うまでもなく、「役に立つ英語」、実践的な英語を学ぶことのできる英会話学校は、特に女性に大人気である。実際、私が調査した英会話学校に通う女性の生徒数は男性の2倍であったし、全国的にみても女性の方が英会話学校に熱心に通っている傾向が見られる。なぜ女性に英語を好む傾向があるのかはここではひとまず別として、英会話学校が現在の日本の中で社会的にどのような位置づけがなされているのだろうか。
まず、日本において英会話学校は、「学校の英語教育の『裏文化』として」(津田 2000: 79)の位置づけだといわれている。ここでいう「裏文化」というのは、「英会話学校にはホンモノの英語を話すネイティブ・スピーカーがいて、“役に立つ”“通じる”英語が学べる」(津田 2000: 79)という、学校教育の中では得られないメリットを兼ね備えている教育施設という意味を含む。
英会話学校のCM、広告、教材すべてにおいて“すべてネイティブ・スピーカーによる”というセリフをよく耳にする。ホンモノ志向な私たちにとってはなんとも魅力的な、しばしば耳にする“モノにする”ためであるとか、“生きた”英語が海外に行かずして日本においてしかも気軽に学べるというような宣伝がさまざまな広告媒体を通して頻繁になされている。英会話学校は、学校では得られないもの、例えば“役に立つ”“実用的な”“通じる”“外国人の先生とたくさん話せる”といった、まさに「学校英語」「受験英語」にはない独自性を人々に提供することで、その存在価値を出しているのである。
津田(2000: 79)は「『生の役に立つ英語』を提供しようというのが英会話学校であり、受験のために役立つ教育を提供しようとする塾と同じような役割を果たしている」とし、さらに、「そういう意味では、英会話学校は、学校の英語教育を批判しながら、それを補完する役割を果たしている」(津田 2000: 79)と述べている。
英会話学校は人々にとって“使える”“実用的な”“生きた”英語を手っ取り早く学ぶことのできるところなのである。そして、英会話学校は、「いつの時代も、『英会話』は善であり、歓迎すべきことであり、奨励され続けてきた」と津田(1990: 116)が述べているように、現在もなお、幅広い年齢層の人々に広く受け入れられているのである。英会話学校は「学校英語=“役に立たないもの”」で「英会話学校=“実用的”」だという構図の下で、その存在価値を出しているのである。