第2章 先行研究の整理〜生涯学習参加者の姿をつかむ〜
まず生涯学習に関する文献を探すにあたり、国の政策や、地方の取り組みといったハード面に関するものは省くことにした。そのようなことよりも、生涯学習に抱くイメージや理想像、参加動機などに関する、主に生涯学習参加者に関するものに注目し、4つの視点を抽出した。
第1節 イメージの生涯学習
まず、私が気になったのは学習者が「生涯学習」というものに対してどのようなイメージを抱いているのかということ、そして文献では生涯学習がどのようにイメージされているかであった。
「生涯学習」という言葉に注目した記述が以下にある。
「生涯学習という言葉は、政府など、機関が押し付けているだけで、現場にいる人は『生涯学習をしている』とは実感していない、また、言葉自体を使っていないのではないか。」(平鍋 1999 :233)
これに関して、私もそうなのではないかと考える。巷では生涯学習の通信講座があり、「生涯学習」と付いた施設もある。しかし、「生涯学習」のために何かをするという人が多くいるとはあまり思えないのだがどうなのだろうか。何をするにしても「自分がやりたくてやる」という方が適切だと考える。
講座の雰囲気や学習者の講座への取り組みの中に自然と生涯学習という言葉が出てくるのだろうか。そして学習者たちは、生涯学習という言葉を意識しているのか注目したい。
第2節 交流を求める生涯学習
次に、私は講座に参加する人たちというのは、もちろん自分のしたいことをするために講座に来ているとは思うが、それ以外の目的として「交流」「友達作り」に重点を置いている人がいるのではないかと考えた。
須永は「生涯学習に参加する人は『○○をやりたい』『交流を持ちたい』という両方の気持ちから参加してくる」(1999 :209)と述べている。また、白石も大人が学ぶことについて「職場の対人関係とは異なる人間との交流・人脈形成への期待も高い」(2000 :61)と述べている。
講座に参加する人は、おそらくそのような気持ちを持っているだろうし、私ももし自主的に何かを始めるならば、心のどこかに「友達ができたらいいな」という思いを持つと思う。生涯学習活動において「交流」とは唯一の動機ではないかもしれないが、主要な動機のひとつではないかと考える。学習者は交流ということをどのくらい重視しているのか、講座参加における交流の重要度を見ていきたいと思う。
第3節 「お金」と「時間」の生涯学習
次に、実際に何かの講座や地区のサークルなどに参加するとなると、すぐに始められる場合もあると思うが、大抵の人は「お金」や「時間」といったものと折り合いをつけなければならないのではないだろうかと私は思っている。
しかし、特に金銭面に関して白石は「かつて幼児や学童の学習活動であったピアノ・エレクトーン・水泳・絵画・運動のために成人が消費を惜しまない」(白石2000 :63-64)と述べている。何かを始める上で、「お金」というのはおそらくある程度は考える問題だと思うが、生涯学習活動の中での「お金」や「時間」のことはどのくらい考慮されるのか。
また、現代の中高年者に関することではあるが、臼倉(1999)は、彼らは「時間」「お金」「意欲(やる気や行動力)」の『三つの宝物』を持っているのだと述べている。この三つの宝物はどれも大切なものであることは違いない。それでは、『三つの宝物』の中でも「意欲」は多くの人が持っていると考えられるので、「お金」や「時間」とはどのように付き合っているのか、学習者の日常生活と関連付けながら考えていく。
第4節 「自分さがし」と生涯学習
最後に私がいちばんに興味を持った生涯学習活動参加者の姿に関する論述を紹介しようと思う。生涯学習と「自分さがし」の関連性である。これから紹介するものには一部、若者論について述べたものがあるが、私は生涯学習活動参加者の姿にも似たものがあるのではないかと思い、今回紹介することにした。
「生涯学習やボランティアなどの自己決定活動によって『本当の自分』を見つけようとする人が増えている。彼らにとっては、それらの活動は『自分さがし』の一環である。そこでは、仕事をしているときの自分、主婦業に専念しているときの自分とは異なる自分を見つけることができると考えられる。」(西村:2000 126)
この論述に従うと、「自分さがし」をする人は普段とは違う自分を見つけたい、見てみたいという思いを持つ人が多いといういうことになる。私は、「自分さがし」をする人には次の構成要素があると考える。
1、現状に満足しておらず、自分の中に何かが足りないという認識がある 2、講座参加にあたってそれそどの強い目的意識はない。
以上の2つである。
まず、1、現状に満足しておらず、自分の中に何かが足りないという認識があるについて考えていく。
このことを考えるに当たり、伊藤の「『癒しの生涯学習』を考える」(1997)より、癒しと生涯学習についてまとめてみる。
育毛や結婚、美容など非常に幅広い意味でカウンセリングという言葉が使われるようになったことに表されるように、カウンセリングの意義と必要性が認められてきた。これは、様々な悩みや病気を癒したいという人間の欲求の表われではないか。「失恋した女性は習い事に走る」というようなことは「癒しの生涯学習」を端的に表している。現代社会において、心を癒したいという欲求は当然のことであり、またそれが学習の目的になる場合も少なくない。
現状に何かしらの物足りなさがあり、癒しを求める。それが学習への動機づけとなることが述べられている。
また「みんなぼっちの世界」では、芳賀は「本当の自分探し」として、次のことを述べている。以下は引用である。
「この『本当の自分探し』を支える心理は、一種の変身願望であると言える.若者たちの中には、日常、何ともなしに『寂しさ』や『空しさ』を感じており、どうしても今の生活に満足しきることができない人も多い.言い換えれば、彼/彼女らは、自分らしさの存在は認めはするものの、今の自分が『自分らしい』とは思いきれないでいるのだ.今の自分(今の生活)には満足できないが、きっと『納得のいく自分』がどこかにあるに違いない.こうして『本当の自分』を追い求める旅が始まることになる.」(芳賀 1999:31)
やはりここでも満足できない現状があることで、「本当の自分」を求めようとしている人がいるということが分かる。今よりも満足したいという思いが、「自分さがし」に向かわせるということをよく表している。
次に、2、講座参加にあたってそれほどの強い目的意識はないことについて考えていく。
芳賀は以下のように述べている。少しまとめてみた。
自分の感覚や感情を基準に、自由に生き方を選べる環境においては、人は自分の選んだ生き方に満足し続けることは難しく、「今のままで良いのであろうか」といった考え方は基本的にこの社会が要求していることでもある。「今の生活に安住してはいけない。それでは進歩というものは生まれない。安住する人間は怠け者である。」という言説は明らかにひとつの生き方に満足することを非難している。ここから「自分らしさとは今の自分の暮らしではなく、もっとよりよいものではないのか」という疑問が生じることは容易に想像できる。(芳賀:1999 26)
今の自分に満足できないことははっきりと分かっているのだが、一方で「自分らしさ」や「本当の自分」を見つけることへの目的イメージが漠然としている。どうすれば「本当の自分」が見つけられるのかが分からないのである。しかし、「本当の自分はどこかにいる」と思い、例えば英会話を習ってみる。
そこには、「英語を話せるようになりたい」というはっきりとした具体的な思いよりも、「英語を習えば『本当の自分』『自分らしさ』を見つけられるのではないか」という思いのほうが強く存在しているのではないだろうか。そして、英語が駄目ならばまた違うものに挑戦する、とっかえひっかえな取り組みだと考えられないか。よって、今自分が行っている活動がどのような目的のものなのかがはっきりと説明されないのである。それが「強い目的意識がない」ということにつながるのである。
また、三輪(2002:123-124)はシリル・フール(Houle,C.)の理論を用い、このように記述してる。以下は引用である。
「シリル・フール(Houle,C.)は成人学習者のタイプは、目標志向(目標達成の手段として学習を位置付ける)、活動志向(友人を見つけるなど、学習の活動の中から何かを得ようとする)、学習志向(知識の獲得自体に意味を見出す)の三タイプに分けられるとする。」
今の場合だと、活動志向が最も近いと言えそうだ。強い目的意識こそないが、学習活動をしていく過程で何かを得ることができればいいという思いを持ち、「自分さがし」をする人がいるのではないか。しかし、場合によっては「自分さがし」そのものに価値を置いているとすれば、目標志向と言うことも可能であろう。
以上、いくつかの論述を参考にしながら、「自分さがし」をする学習者像を考えるにあたっての2つの構成要素を紹介した。それぞれの構成要素に関しては、調査結果をふまえて、後の分析で触れていくことにする。