第1節 吉林省延辺朝鮮族自治州についての基本的紹介とその特徴
人口の高齢化は21世紀における最大問題であり、人類社会発展の主たる特徴である。中国も例外ではない。中国は1990年10月に高齢化社会に突入し、60歳以上の高齢者の人口が総人口の10%を超え、65歳以上の高齢者人口が総人口の7%を超えた。1999年のセンサスによると、総人口11億3000万のうち60歳以上が1億3000万人いて11.5%を占めている1。これは中国の人口史上における画期的な出来事であるのみならず、世界全体の人口状況の変動にとっても見逃してはならない大事件であると言わざるを得ない。
中国はこれまで人口問題の解決に取り組む際に、ただひたすら人口数の爆発的増加をいかに抑えるかということに莫大な精力を注いできた。しかし、1980年代に入ると、人口高齢化が中国社会に近づき、高齢者人口の増加やそれに伴う高齢者の扶養問題が、中国政府または一般国民の間の大きな関心事となっていた。
高齢者の扶養に欠かせない経済条件と言う側面においては、中国はまだ発展途上国の一員に過ぎず、先進国ほど完備された社会保障制度やハードとソフトの両面ともかなり進んでいる高齢者介護のシステムを確立しているわけではない。従って、中国は先進国がかつて経験してきた高齢者問題より、もっと厳しい試練に直面しているに違いない。中国政府としては、人口数の急激な増加を防ぐため引き続き計画出産に代表される人口政策を堅持し推進して行く同時に、少子化の進展に伴い深刻化を増している高齢化問題に対応するために、様々な政策と措置をとらざるを得なくなった。
その中でとりわけ近代的社会保障制度の構築は、先進国の辿ってきた曲折の道からも分かるように、決して一朝一夕の努力で完成できるものではない。高齢者の扶養において、中国は今まで社会保障制度の確立を完全に無視してきたわけではなかったが、新中国の誕生から文化大革命時期までの近代国家建設の挫折や高齢化問題に対応する社会基盤の未整備と言った社会状況は、社会保障制度の整備と改善を怠らせたことは否定できない事実である。それは主に以下二つの方面から現れている。
第一に、都市住民の老後保障には年金保険制度が用意されていたとはいえ、その適応範囲は国有企業、大型集団企業、政府機関といった非常に限られた部門の従業員と職員をカバーしていただけで、他の数多くの住民はこの保障制度から漏れて、老後生活を自己貯蓄や家族扶養に頼らざるをえない状況だった。
第二に、農村住民の老後生活には、極少数の身よりのない高齢者を除く以外は、国は年金保険を中心とする社会保障制度の確立に一切取り組んでいなかった。つまり、新中国の誕生から数十年間にわたって、農村住民の老後生活はほとんど国の社会保障制度と無関係で、ひたすら自己扶養や家族扶養のみに頼ってきた。
20年ほど前までは、老親扶養の強い意識と習慣がこの問題をカバーしてきたが、若者の流動が激しくなった最近は、その習慣が動揺している。さらに、一組の夫婦が両親4人の世話をしないといけない時代では、この習慣を守るということは物理的に不可能となっている。このような状況の中で1996年の「中華人民共和国老年権益保障法」2第1章第6条では「老人の合法的権益を保障するのは社会全体の共同責任である」ことを指摘し、介護の社会化の第1歩を踏み出した。
一方、高齢者扶養の側面から見る場合、家族による扶養という伝統は、社会の要請を満たすものであり、中華人民共和国憲法49条に「成年の子女は、父母を扶養・援助する義務を負う」と明記されている。王文亮(2001:93)は,「老年権益法」において,次の3つの点で家族扶養が賞揚されていると指摘している。第一に,老年権益法第1条は,敬老、養老の美徳の発展を強調し、「老人の扶養は主に家庭を頼りにする」として、家族扶養を基盤としている。第二に、社会保障、家族保障、自己保障という三者が相互補完の関係であること。この三者はそれぞれ独立かつ相互補完する部分として並列されており、内容的にも高齢者のすべての権益を成している。第三に、物質的保障を強調するのみならず、情緒的保障も重視すること。物質的保障はもちろんのこと、情緒的保障についても大変具体的な内容を定めている。例えば、第2章第10条は「扶養者は高齢者に対して生活上の介護と情緒的慰撫といった義務を果たし、高齢者の特殊な需要を考慮すべきである」と定めている。このように,老人権益保障法には,社会福祉サービスを進めているが、家族扶養に頼らざるをえないという中国の高齢者扶養の現状が如実に表れている。
こうした中国における特徴,すなわち社会的な高齢者保障の整備が標榜されつつも私的扶養を軸とすることが奨励されてもいるという流れの中で、人々は具体的にどのような老親扶養の仕方を選択するのだろうか。このような状況を人々はどのように受け入れているのだろうか。あるいは,どのような問題を人々は経験しているのだろうか。
基本的な予想として,人々は無理をしてでも扶養を全部家族でまかなおうとしている可能性がある。親孝行の観念は現在でも基本的であるし、「養児防老(子を養うのは老後のため)」という考え方は多くの人々にとって意味を失っていない。そうした意識は,法の中でもはっきりと賞揚されているように,護られているのではないか。その結果,人々は経済的援助,精神的慰撫,身体的介護といったあらゆる面で,多少の無理があってもできるだけ家族によって行なう選択をする可能性がある。しかし,その一方で,「無理」が大きすぎて,過剰な負担を経験する人もいるかもしれない。施設の利用が抑制されてしまうか,極端な場合には心理的なストレスから老人虐待が起きてしまうこともありうる。
本論文は,このような視点に立って,実際に老親扶養を行なっている人々への調査を行なう。
中国の老親扶養について、費孝通は西洋社会と対比しつつ中国式の老親扶養をフィードバック型と称している。中国は長い間農業社会であった。今でも、農業人口は全人口の3分の2以上を占めている。「父母在、不遠遊」(両親のいる間は遠くへ行かない)という言葉があるように、かなり長い歴史において、子供が老親と同居するのは中国の伝統的家族風景であった。家族のむつまじさを大事にし、老人を尊敬し、両親に親孝行するのは絶対的なものであった。「孝行」は農村文明の最も発達した中国の伝統文化の重要な側面であり、中国文化のルーツである。このような長期で濃厚な伝統文化の影響により、中国人は老親を扶養する習慣を身につけ、このような観念は中国農村における老親扶養の文化の基礎である。
儒教の重要系典『礼記』「祭義」は次のように語っている。「孝には三つあり、大孝は親を尊び、其の次は辱めず、其の下は能く養う」。つまり、親に対する孝行には三つのレベルがある。第一に、親を尊ぶこと。即ち、人の上に立ち、頭角を現し、祖先の名を揚げることである。これは『孝経』が言っている「身を立て道を行い、名を後世に揚げ、以て父母を顕わす」に相当する最高の親孝行である。第二に、最高の親孝行ができなくても、せめて祖先と父母の家柄や名義を傷つけないことに努めること。第三に、老親を扶養、介護するのは、最も基本的かつ当たり前の親孝行である。
要するに、中国の長い歴史において親孝行の内容は極めて広範囲のものに展開されていた。子は親に対して、扶養・介護の義務を十分に果たすのみならず、敬愛の情を持ち、礼儀を尽くし、また親から受け取った身体を心がけて守り、親を心配させるばかりの冒険や私闘を避け、社会の中で努力して名声を揚げて、親を喜ばせ誇らしく思わせるなどに集約される。これらはすべて孝子の果たすべき義務であると規定されている。その中で老親扶養は、概して言えば、物質的養体と精神的養志という二つの側面に大別される。
1、物質的養老
伝統社会では養老は主に家族に頼り、家族は高齢者を扶養しなければならない。扶養は中国では「贍养」と言う。漢字は表意文字であるから「贍」の偏は「貝」である。古代は貝殻を貨幣として使い、中国は周時代から貝殻を使い始めていた。
「貝」を「贍」の部首とするのは、高齢者を扶養するにはまず金銭と物質が必要であるため、子はお金を出さなければ親の扶養はできない、ということを意味する。また「贍」の右上部は「檐」(家の軒を意味する)字の右上部であり、つまり養老は住宅問題を解決しなければならないことを意味する。その下には「言」字であり、言語、精神、思考等に関連する。人間は言語を通じて考えを表し、お互いに感情を交流する。つまり、高齢者の扶養には、経済上の扶養と生活上の介護のほか、情緒的慰撫も必要不可欠である。「贍」字の構造を全体的に見れば、高齢者を全面的に扶養する事と解釈できる。
こうした伝統的家族倫理は、いまなお中国の現実社会に生きている事は否定できない。1993年11月に北京市内20歳以上の男女1920人を対象として実施したアンケート調査によると、全対象者の中で、97%が子供は老親を経済的に扶養すべきだと考えている。そのうち7%が条件付(できる時)であるが、そのような強い扶養意識は、今日の中国社会にとっては非常に喜ばしいことであるとされている(中国社会科学院社会学研究所婚姻家族研究室、アジア女性交流・研究フォーラム 1994)。
親にお金をあげるのは伝統的孝行の影響なのか、それとも別の理由によるものなのか。ある調査資料によれば、「自分が親にお金をあげるのは親孝行のためである」と答えた調査対象は3割を超える。他にほぼ同じ割合の調査対象者は、それは自分の責任であると答えた。90%以上の調査対象は親に対して、伝統的に孝行をしなければならないと答えた。反面、そうした行為は自分の心理満足のためであると答えた人は僅かで、北京は7.5%、上海は11.3%、広州は3.2%に過ぎない(郭・劉 1997)。
2、情緒的養老
現在中国では「養老」と平行して「安老」という言葉もひっきりなしに使われている。それは言うまでもなく『論語』に出る「老者安之」という孔子の言葉に由来するものであり、高齢者に物質面の安定のみならず、情緒面の安定も保障しなければならないことを意味する。
中国古来における情緒的養老は、具体的に以下のようなことを強調していた。
@親の意思に従うこと
A親を怒らせ憂得させないこと
B礼敬を以て親に仕えること
現在中国も、高齢者の情緒的慰撫も大変重視するようになり、新聞、テレビを始め、マスコミは度々関連話題を取り上げて大いに提唱している。その主な原因はやはり高齢者は物質的生活水準の向上に伴い、情緒的欲求が高まっているところにある。
加齢によって生じる情緒的問題のうち、孤独感は非常に普遍的なものである。しかも、年齢をとればとるほど孤独感も深まる。1997年8月5から15日、天
都市部では高齢者独居の比例がますます高まっている。子供たちは遠く離れて、または仕事が忙しいため、親と交流する機会が少なくなリ、さらには数ヶ月に1回の割合で面会し、あるいは電話をかけるだけである。したがって、現在中国都市部の高齢者はかなりの孤独感を感じている。彼らは物質的生活の欲求が満たされると期待する一方、子供からの情緒的慰撫も渇望している。この種の情緒的慰撫は高齢者にとって絶対必要であるし、親は自分を一所懸命扶養してくれたから、親への情緒的慰撫は子供の親への恩返しでもあると思われる。このような意識が欠けていたら、親扶養の義務を自主的に果たすことは不可能である。中国の老年権益保障法は、高齢者扶養にあたって高齢者に経済的扶養、生活上の介護、情緒的慰撫を提供し、高齢者の特殊需要を考慮すべきであると規定している。
近年、老親が親不孝の子供を告訴するケースが全国で多発している。そのうち、経済理由でなく、子供が全然会いに来ないという理由を訴えるものも多い。老親は子供が常に会いにきてくれることを望むが、子供は仕事が忙しいという理由で実現しなかったため、法廷に持ち込まれるようになった。しかし、従来裁判所は扶養関係の案件を審理する場合、一般的に物質的養老の段階に留まって、情緒的扶養に立ち入らない。したがって、現段階で情緒的扶養問題は、道徳範囲内で法廷外の関連方面の協力で解決するほか方法がない。こうしたことは、情緒的慰撫がいかに重視されているかを示すとともに、世代間のギャップの存在も示している。
台湾の人類学者は現地の漢民族の家庭構造を研究する場合、高齢者扶養の方式を家庭構造と家庭生活に対する理解のかなめと見なしている。例えば、王興氏は亀山島漁民家庭の類型を考察するにあたって、現地の養老方式には五つの類型が存在していると指摘した。
@半月あるいは10日間を単位に、親は順番に各息子のあるいは孫の家で食事をする。つまり、輪番制である。
A両親が別れて、各一人の息子に扶養される。
B親は一人の息子に扶養されるが、ほかの息子は毎月現金あるいは米を提供する。
C親は独居し、自分で生計を維持する。
D親は貯蓄があり、自分の家で食事もするが、息子たちの家に出向いて食事をすることもある。
謝継昌氏は台湾南部の凌
第一類は「輪番制」であり、第二類は固定扶養である。第二類は更に次のような四つのケースがある。
@親は一人の息子の家で食事し、費用はほかの息子たちに均等に負担してもらう。
A親は一人っ子に扶養される。
B二人の息子は各自両親の一方に固定的に扶養する。
C息子は死亡し、あるいは他の理由で扶養できない場合、孫に扶養される。
第三類は親は未婚の子女と一緒に食事する。あるいは息子は結婚しても親や弟、妹と別居しない。
第四類は親は独居し、生活費用は息子たちが共同負担する。
王偉は「多様化する居住形態の中における老親扶養」の中で、江蘇省太倉県の居住形態を同居家族、非完全同居家族(完全同居家族に対し、親子世代が同じ敷地内に一緒に住んでいるが、食事は別に取る場合と、食事は一緒にするが住まいは別々である家族のこと)、輪番家族(複数の子供世代が存在し、親世代が固定の子供世代と同居せず、一定の期間で複数の子供世代を変えながら同居すること、この場合、複数の子供世代がいることが前提となる)、別居家族に分けた。さらに、上述したような居住形態においての老親扶養の形を細かく以下の五つに分類した。
@親世代は子供の内の既婚一人と同居して、生活を共にする。
A親は一定の期間を単位として子供世代の家を回って食事をする。
B親世代は完全に子供たちと別居し、子供たちは共同でその生活の費用を負担する
C親世代は子供世代と同じ敷地に居住し、食事や家計は別々にするが、農業生産や家事・育児の面で助け合っている。
D親世代だけで暮らし、息子たちから何の援助も受けずに、老夫婦二人で自給自足の生活を送る。
先行研究は、農漁村を対象にした調査なので、そのまま本研究に適用されない部分もあると考えられるが、高齢者扶養の方式をとらえるための基本的な枠組みとして参考にしたい。3つの研究の中では、王偉が対象とした江蘇省太倉県が、比較的発展した沿海部の農村であり、延辺州との接点も多いと考えられる。王偉によれば、居住形態は大きく同居家族、非完全同居家族、輪番家族、別居家族に分けることができる。
他の2つの研究も参照しながら同居家族においての扶養形態を細かく分けると、以下のような形が挙げられる。@親世代は子供の内の既婚一人、あるいは一人子と同居して、生活を共にする。A両親が別れて、各一人の子供に扶養される。B息子が死亡し、あるいは他の理由で扶養できない場合、孫に扶養される。C親は一人の息子に扶養されるが、ほかの息子は毎月現金あるいは米を提供する。
一方、非完全同居家族における扶養形態には、親世代は子供世代と同じ敷地内に居住し、食事や家計は別々にするが、農業生産は家事・育児の面で助け合うというケースがある。
輪番家族においての扶養形態には、親は一定の期間を単位として子供世代の家を回って食事をするというケースがある。
別居家族においての扶養形態には、次のようなケースがある。@親は独居し、自分で生計を維持する。A親は独居し、生活費用は息子たちが共同に負担する。B親は貯蓄があり、自分の家で食事もするが、息子たちの家に出向いて食事をすることもある。
本論文は以上の内容を参考にして、調査を行った。
中国の高齢化の特徴は大まかに3点があげられる。
まず第1点は高齢者人口規模の大きさである。99年には60歳以上の高齢者数は1.26億人で、21世紀はじめには1.3億人を突破、2025年にはほぼ3億に達すると予測されている。現時点ですでに日本の総人口に匹敵するほどの高齢者人口を抱えており、これは世界の高齢者人口の5分の1に相当する。中国の総人口は現在約13億人で、総人口の約10%を60歳以上人口が占めており、今後20年で20%を超す勢いである(北京日報 2000年5月17日)。
第2点は、低い経済レベルでの高齢化の進展である。世界銀行によると98年の中国の購買力平価換算一人当たりGNPは3051国際ドルで世界順位は132位で、この数値から中国は未だに低所得国家に位置つけられていることが分かる。産業化の過程で時間をかけて高齢化が進行してきた他の先進国とは異なり、中国は国全体の経済水準が低い状態のまま多くの高齢者を抱えることになったのである。このため国家財政への負担をいかに軽減するかが、実は中国の抱える高齢者問題の当面の最大課題であり、高齢者扶養は全面的な社会化ではなく、私的扶養を軸とすることが奨励されてもいる。
また第3点として、後期高齢者の増加が今後かなり増大すると予測されることが挙げられる。2000年10月に行われた中国21世紀老年学会では、21世紀半ばには80歳以上の後期高齢者数は現在の7倍、少なく見積もっても8000万人に達すると予測されている。(深セン商報 2000年10月20日)
さらに、中国でも、高齢化問題への関心の高まりと同時に、老人性痴呆患者の増加がとりあげられるようになり、最近では介護問題の深刻化が叫ばれている3。この病気への一般的な認識度が低いことから、早期発見や正しい介護と結びついてない状況が深刻になっている。福祉施設や専門家数の絶対的な不足もあり、家族が追い込まれている状況などの報道も増えている。
これらは社会保障制度改革が推進される中で取り上げられるようになった新しい現状である。
市場経済の導入に伴い国有企業改革が推進される中、これまで企業(単位)が所属者の人生を丸抱えしてきた「単位社会」のあり方を変え、教育や医療、福祉を切り離していく方針転換が行われ、社会保障制度改革は必然の流れとしてクローズアップされてきた4。
社会保障制度改革とは、具体的には被雇用者の養老保険・失業保険・医療保険を社会化し、これまで国と企業の全面負担だったものに個人負担を導入する方針への転換である。その流れを受け、社会保険制度の導入が積極的に推進されてきたのが90年代後半である。養老保険(年金)については、2000年に入り、地域間経済格差による近年の人口移動増大への対処や、支給金額の地域間格差の縮小化などを狙い、社会化を図るという新たな段階にある(人民日報 2000年3月11日)。年金の支給方法が、銀行や郵便局への振込みを通して退職者に支給されるようになったのも、そうした新たな段階に大きく関与している。
しかし中国の高齢者問題の大きなポイントは、都市と広範な農村部の社会保障の適用格差にある。現在、都市部では社会保険の導入が推進されているが、多くの農村在住高齢者は社会保障の適用枠外に置かれたままの状態にある。
経済発展の地域間格差が拡大しているように、年金支給をはじめとして、高齢者問題でも地域間格差は増大の一途を辿っている。都市部においても大学教員や行政官僚など公務員の場合は国が後ろ盾として存在し、堅牢な<離退休制度>5(日本でいう公務員の年休制度)に支えられているが、膨大な赤字を抱える国有企業の場合、高齢者の年金が大きな財政負担としてのしかかり、歴史の長い大型国有企業ほど、多くの退職者を抱えるため、年金支給問題は深刻である。さらに近年、国有企業改革によるレイオフ失業者6が増加し、その基本的な生活保障費はほとんど国と企業によって負担されているため、それが年金支給財源をさらに圧迫するなどの悪影響を及ぼしている。
中国における養老保険(養老年金)は、現在3種類に大別できる。「城鎮企業職工養老保険」「機関事業単位職工養老保険」「農民養老保険」である。保険加入率はあまり芳しくない。
社会保険に関しては、人口政策の結果として若年層が減少し高齢者人口が増大していく中で、特に都市部において保険加入が魅力あるものとして参加者を増やすことが可能かどうかという問題がある。一部都市では貯蓄型生命保険に人気が集まり始まっているという情報もあり、加入者の増加如何が鍵を握ることになると思われる(新華ネット2000年10月28日付速報)。
また農村部では、社会保険制度の定着が個人の経済的な豊かさと関係している。すなわち、一方で貧困状態が続いていて保険加入が促進できない現状があり、その結果として、社会保障の基盤ができていない農村部では、伝統的な出産観念が強いことも手伝って、人口抑制が遅滞する。人口抑制が進まなければ農村は貧困状態から抜け出すことは難しく、こうした一連の悪循環が延々続くことになり、農村部が社会保障の枠組みから遠いところにあるという根本的な問題は解消されないまま、高齢者人口が増加する21世紀半ばまで引き続く危険性もはらんでいる。
中国の82年憲法や80年の新婚姻法では、計画出産の義務が明確に個人に課せられている。出産義務を明文化する一方、これらの法律では高齢者の権益保護がうたわれている。
具体的には、80年婚姻法では総則第2条で「婦女、児童及び老人の合法的権益を保護する」事が明記され、50年の旧婚姻法にはなかった「老人の合法的権益」がもりこまれている。また第3章第15条では、親子間における養育・扶養の義務を明記し、一方が義務を怠った場合、子女は親に、親は子女に対し、養育費や扶養費を要求する権利が具体的に明文化されている。
現在、婚姻法は新たに修正案が人民代表大会常務委員会に提出されている。この修正案では重婚・離婚・家庭内暴力などについてかなり具体的な内容がもりこまれる見通しであるが、高齢者扶養に関して新たに修正が加えられるのは以下の3点である。まず「負担能力のある孫世代も父方、母方双方の祖父母の扶養義務を負うこと」、さらに高齢者の再婚を子女が干渉するケースが多いことから「子女の父母に対する扶養義務は父母の婚姻関係の変化によって変わらないこと」という内容ももりこまれる。さらに高齢者虐待や遺棄などの案件が少なくないことから、「高齢者を遺棄したものに対して被害高齢者は人民法院に扶養費の負担を求める判決や裁定を請求でき、また犯罪行為のあるものに対しては刑事責任を追及できる。また村民委員会や居民委員会に対し調停を依頼することができる」という内容がもりこまれる見込みである。
85年に制定された相続法では、第2章第13条において、扶養義務と相続の関係に関して次の条文がもりこまれている。すなわち「被相続人に対し主な扶養義務を尽くす、あるいは被相続人と共同生活をしていた相続人は、遺産分配時に相続分を多くすることができる」、「扶養能力があり、扶養条件を備えた相続人が扶養を尽くさなかった場合、遺産分配時分配しない、あるいは少なく分配しなければならない」のであり、扶養義務を十分に果たしたかどうかが遺産分配時に考慮されるよう規定されている。
96年には「老人権益保障法」が施行され、さらに高齢者の権益保護がうたわれている。この法律ではまず第1章第2条で満60歳以上の公民を法律が適用される「老人」と規定し、第5章第43条において、「老人の合法的権益が侵害された場合は、被侵害者ないしその代理人は関係部門に処理を求め、あるいは法に依拠して人民法院に提訴する権利を有する」事が明記されている。またこれに関しては刑法第183条に「扶養の義務を負いながら扶養を拒否し、情状の悪質なものは5年以下の有期懲役、拘留または管制に処する」という罰則規定がある。
この法律が制定された背景には、特に農村部で高齢者虐待や遺棄についての報道が続いたこともあり、第2章では特に高齢者を住まわせる住居や老人の請け負っている田畑や畜産などの世話を含め、かなり具体的に扶養義務が細かく明記されている。また夫婦間の扶養や兄弟姉妹間の扶養義務についても明記されており、高齢者の扶養が放棄されないよう配慮された内容がもりこまれている。
この法律の内容で注目すべき点は、第1章第6条では「老人の合法的権益を保障するのは社会全体の共同責任である」ことを揚げながら、第2章第10条において「老人の養老は主に家庭に拠るべきであり、家庭成員は老人を関心し、世話をすべきである」と明文化している点で法律そのものが家族による私的扶養を強調する内容をもっていることである。また第2章第11条では、扶養義務を持つ子女だけでなく、子女の配偶者も義父母に対する扶養義務の履行に協力するよう明記されている。
中国はこうして社会保障制度改革を進めながらも、高齢者扶養を全面的に社会化していく限界をみこし、「社会主義的な」私的扶養を強化する方向をとっているのである。
高齢者の私的扶養を提唱する中国では、高齢者福祉施設数もまだ少なく、そこに入居する、あるいはさせることそのものに対し、まだ抵抗感が強い7。
中国には数種類の福祉施設があるが、基本的にこれまでは扶養義務を負う子女がなく、経済的に困窮している高齢者を対象に設置されて来た経緯がある。北京や上海などの大都市では福祉施設の数も比較的に多いが、伝統的に私的扶養を柱としてきた中国では、特別な庇護の必要な高齢者のみをケア対象としてきた。また地域による経済格差も大きいため、全国的にみれば、こうした施設数は高齢者人口に比べて少ない。99年における全国の高齢者福祉施設の総ベッド数は90万床で、90年に比べると33.5%増え、年平均4.2%の伸びを見せている。国有の社会福祉事業単位は1228、うち<社会福利院>(短く<福利院>とも呼ばれる)が1009ヶ所である。
<福利院>は総合性が高く、多くが医療設備を備えている。主に都市の労働能力、経済収入、扶養義務者のない高齢者、及び扶養義務者がいても費用を自己負担し、院による集団扶養を求める高齢者が入所しており、現在入所者は6万人をこえている。<敬老院>は都市と農村それぞれに設置されているが、主に集団所有制企業や地方自治体によって運営されている。敬老院は小規模なものが多く、農村における高齢者の集団扶養と言う性質が強いが、全国では設置率70%にとどまっており、そうした福祉施設がまったくない地域も30%程度ある。
他にも費用の自己負担が可能な高齢者を収容対象とする<養老院>、主に農村の病気などにより自立生活が困難な高齢者を対象とする<護理院>、一戸単位で居住し、基本的に自立生活が可能な高齢者を一棟に居住させる<老人マンション>などがある。
現実問題として、高齢者数が増加すれば、それだけ要介護高齢者も増加する。子女の数が少なくなり、特に一人っ子同士が4人の父母を扶養する時代になると、とても私的扶養のみでは支えきれなくなってくる。実際に都市部などでの要介護高齢者数の増加を見ると、今後の課題としてヘルパーなどの需要が高まることが考えられる。
中国では高齢者扶養の全面的な社会化を図ることは現実的ではないという立場から、近年新しく創出されたのが「社区服務」という概念である。これは小さな地域コミュニティでのボランティアを中心とする「支えあい」理念を軸にしたもので、高齢化の進行が早い上海などでは<包護組>などの形で90年代半ばにはあらわれていたものである。
熱心な地域では、比較的元気な前期高齢者やレイオフ失業者などを中心にボランティアグループを作ったり、日本などでも一部地域で取り入れられている「時間貯蓄システム」や高齢者の自宅に24時間体制の通報システムを設置したりといった、高齢者向けボランティアの開設とネットワークづくりへの取り組みが始められている。こうした体制の整備についても今後ますます地域間格差が拡大していくものと予測される。
中国は昔から「尊老愛老」「養老扶老」という伝統があり、老人の扶養は従来家族が行ってきたが、近代化と経済発展の波に乗り農村青年が都市へ流れ、老人は農村に取り残されるようになった。
都市部では核家族化が進み、直系三世代以上の家族の割合はおよそ18%で、二世代家族が65%以上を占めている。住宅事情もあり、子どもと同居する老人は減少し、老人扶養機能は明らかに弱まりつつある。老人たちは、若い頃から老後の生活準備として貯蓄できるような条件が整っていなかったため、日常生活が困難であるばかりでなく、老後の生活保障、医療・保健・介護、家族関係、婚姻、生きがいなど生活のあらゆる面が社会問題となっている。
高齢者扶養の側面を見た場合、家族による介護の伝統は、社会の要請を満たすものであり、中華人民共和国憲法第49条に「成年の子女は、父母を扶養・援助する義務を負う」と明記されている。また老年権益法第1条では敬老、養老の美徳の発展を強調し、「老人の扶養は主に家庭を頼りにする」として、家族扶養を基盤としている。社会福祉サービスを進めてはいるが、家族扶養に頼らざるをえないのが実態である。
家族における私的な高齢者扶養機能の維持は、直系家族が相対的に安定していなければならない。しかしこの直系家族は、高齢者の増加と家族機能の弱体化により、伝統的介護・扶養機能も弱体化してきている。特に全人口の70%を占める農村における高齢者問題は、今後もっとも深刻化することが予想される。老親を抱える家族の精神的、経済的負担をサポートするため、住民の主体性による社区服務(コミュニティサービス)、社区志願者(ボランティア)活動など、地域福祉活動を強化発展させていくことと、経済的生活をいかに支えるかが切迫した課題となっている。
延辺朝鮮族自治洲(略称延辺)は中国朝鮮族の主な集住地である。朝鮮族は昔から、礼儀、教育を重視する上、清潔な民族であり、中国で名高い。自治洲は1952年9月3日に成立されたので、この日は伝統的祭日になっている。
延辺は中国東北吉林省の東部にあって、ロシア、北朝鮮と境を接している。三国境界になっている都市は琿春市である。ここは距離的に言えば、中国から北朝鮮、ロシア、韓国、日本まで一番近い所でもあり、日本海まで5kmしか離れていない。
総面積は42700平方キロメートルであり、6市2県を管理している。 6市というのは延吉市、琿春市、図門市、敦化市、龍井市、和龍市で、2県とは安図県と汪清県である。人口は220万人、その内朝鮮族85.4万人で39.7%占めている。漢民族は57.4%、その次は満、回、モンゴル、壮族などの少数民族がいる。州都の延吉市は人口33万人で、 朝僑などを含めればもっと多くなる。その他、龍井、和龍、図們市などに朝鮮族が多数居住する。
朝鮮族の多数は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)出身者とその子孫であるので以前は北側との交流が中心だったが、1988年のソウルオリンピック、1992年の中・韓国交樹立などの影響で近年は韓国との交流が急増している。しかし 韓国企業の中国進出や、朝鮮族の韓国への出稼ぎ者の増加にともなって、さまざまな問題も浮上してきている。
図1
(1)人口の激しい流動
@農村から都市へ
1980年代、中国の改革開放後、中国朝鮮族は国内市場を舞台に、冷麺、犬肉、餅、キムチなどを売り物に中国の大都市、沿岸部に進出し、その数は約20〜30万人、朝鮮族人口の6分の1を占めている。
A海外への進出
1990年代、中国朝鮮族は国内舞台での活動に止まらず、海外への進出でその活動舞台を急速に広げ、韓国を始め、日本、ロシア、米国、カナダ、オーストラリア、ヨーロッパ、中近東まで進出し、その数は約30万人、朝鮮族人口の6分の1を占めている。図表2は最近5年間の延辺州から韓国と日本への出国者数を示すグラフであるが、年間出国者数が少ないときも(1997年)5,930人、多いときは(2000年)は36,861人である。これらの出国者のなかで、親戚訪問・観光に海外に行く人は多数帰国するが、研修・留学・就職などで出国すると、帰国する人はわずかである。現在、韓国に滞在している朝鮮族は約15万人、日本にも約3〜5万人いると言われている。短期間でこれほど大量な人口流出は世界でも稀な現象だと言える。
(延辺朝鮮族自治州が発行する『政府文献』より)
(2)人口流出の影響
@農村社会の崩壊危機。1980〜1999年の20年間、農業人口が54.2%から37.8%に減少した。これは戸籍上の統計数値であって、実際には戸籍を農村に残したまま都市部で第3次産業に従事する人数もかなり多く、農村人口の比率はさらに低い。農村地域の若者、特に若い女性が多数流出しているため、農村労働力の不足と農耕地の荒廃、農村人口の年齢構成・性別構成のバランスが崩れ、人口の老齢化が急速に進展し、男性が結婚できず、伝統的な農村社会は崩壊に向かっている。
A人材不足。朝鮮族の人材(特に高学歴)が国内大都市・沿海部、そして海外に大量に流出しているため、延辺地元の企業は優秀な人材が確保できない。
B民族教育レベルの低下。民族学校の数が急速に減少し、小学校数が1980年の約1300校から1999年の659校に半減し、中学校は同時期に241校から173校(28.2%)まで減少した。また民族教育の質の低下により、多くの朝鮮族の子供は民族学校から一般学校(漢族学校)に入学または転校しているという。
人口高齢化というのは人口年齢構成の老化程度を表すもので、つまり、子供の人口、労働年齢人口が総人口に対する比率が減り、高齢人口が総人口に対する比率が上昇することを示している。国連の規定によれば、通常0−14歳の児童の人口が総人口に占める割合が30%以下になり、60歳以上の老人人口が総人口の10%あるいは65歳以上の老人人口が総人口の7%以上を占める、又は若者に対する高齢者の割合が30%以上の国家と地域を「老年型国家」あるいは「老年型地域」と呼んでいる。
表1、人口老齢構造の類型を区分する規準
指 標 |
青年型 |
成年型 |
老年型 |
延辺(2000) |
0-14歳の人口(%) |
40以上 |
30-40 |
30以下 |
17.2 |
60歳以上の人口(%) |
5以下 |
5-10 |
10以上 |
10.4 |
65歳以上人口(%) |
4以下 |
4-7 |
7以上 |
6.5 |
高齢者と若者の比率(%) |
15以下 |
15-30 |
30以上 |
37.8 |
(出典 延辺州の全国人口センサス資料)
最新の人口統計数値によれば、2000年末まで延辺朝鮮族自治州の総人口は2209646人である。その中、0−14歳までの児童の人口は380849人で総人口の17.2%を占め,60歳以上の人口は229505人で総人口の10.4%を占め,65歳以上の人口は144264人で総人口の6.5%を占めている。高齢者と若者の比率は37.8%である。上述した国際で通用されている人口老齢構造の類型を区分する規準からみると、2000年延辺州人口年齢構造は、65歳以上の人口が総人口に占める割合が標準より0.5%少ない以外に、その他の数値はすでに規定数値を超えている。ここから、延辺州はすでに高齢化社会に突入したと判断することができる。
(1)人口高齢化の発展が早く、高齢化のスピードが人口増加スピードをはるかに超えている。
延辺州の人口増加率は1953年から1964年までは3.1%、1964年から1982年までは2.1%、1982年から1990年までは1.3%、1990年から2000年までは0.6%だった。しかし、同期60歳以上の老齢人口の増加率はそれぞれ2.1%、2.9%、2.8%、4.4%だった。ここから分かるように、1964年前までは延辺州の人口増加率が老齢人口増加率より高かったが、1964年以来は延辺州の老齢人口の増加率は人口増加率をはるかに越えていただけではなく、その差は年々大きくなる一方である。特に90年代に入ってからは、延辺州の60歳以上の人口は10年間で8万に近く増加し、これは過去30年間に増加した総数の1.3倍である。以上から分かるように、延辺州の人口高齢化はその勢いが鋭く、スピードが速いだけではなく、その増加率は人口増加率をはるかに越えている(延辺朝鮮族自治州政府文献)。
(2)高齢化人口の地域分布が不均衡である。
目前の延辺州高齢化人口の地域分布の状況から見ると、都市に住んでいる60歳以上の人口は21.6万人で、都市総人口の10.2%を占めているが、農村総人口の中で60歳以上の人口が占める割合は20.9%にも達している。ここから分かるように、都市の総人口に占める高齢者人口の割合は農村より10%も低く、これは農村の高齢者人口が多く、かつそのスピードが速いことを説明している。その主な原因は農村の青年と少年たちが大量に都市に流入するのに対し、農村の老人たちが田舎を固く守っているからである。
(3)高齢者に対する考え方、家庭観の変化
中国では「養児防老」(子供を育て、老後の不安を防ぐ)、「三・四世代同堂」(三・四世代大家族のこと)が伝統的な家庭観であり、子供より高齢者を大事にすることが一種の美徳であった。しかし、高度な経済成長とともに生活スタイルや家庭観の変化が大きく、「核家族」、「三人家族」が増えている。特に都市部においては、独居老人の増加、女性の就業の一般化等により家庭内扶助が困難になりつつあり、虐待など高齢者の権益が侵害されるケースさえ度々発生している。
(4)様々の不均衡の特徴が現れている
一つは女性が多く男性が少ないことである。2000年、延辺州の229505人の60歳以上の老人人口の中で、女性は122910人で、全体の53.6%を占めていた。その中、14243人の80歳以上の高齢者人口の中で、女性は8604人で、全体の60.4%を占めていた。次は、配偶者に死なれた人が多く、見回りの子供が少ないことである。資料によれば、配偶者に死なれた高齢者は全体の78.6%を占めており、その中でも女性の場合は92.3%にまで達している。大多数の高齢者は配偶者に死なれただけではなく、兄弟たちにも死なれている。三番目は、老後生活を子供に頼る老人が多く、社会保障の支持を得る老人が少ない。調査によると、延辺州の70%以上の老人の生活費の主な出所は子供からであり、年金をもらっている老人はわずか17%しかなかった。四番目は、暇な時間が多く、精神文化生活が少ない。大多数の高齢者の精神文化生活は単調であり、一番多い暇つぶしの方法はテレビを見たり、ラジオを聴いたりすることで、全体の50%を占めている。常に文化活動に参加したり、スポーツを楽しんだりする人は極めて少ない。
調査は、延吉市で老人マンションを経営している筆者の知人の紹介によって、実現した。概要は以下のとおりである。
・調査
・調査地域:中国延辺朝鮮族自治州の延吉市、龍井市、敦化市、図们市
・被調査者:30代、40代の中年層を中心に、7人に対し調査実施。すべての人が朝鮮族である。
・場所:インタヴュイーの自宅か職場
・時間:40分から60分程度
・言語:朝鮮語
インタヴューは、老親扶養の経験と、それに関連するトピックについての考え方を聞くものだが、インタヴュイーたちが自分と家族の歴史を自由に語ることを重視した。そのため、このインタヴューは、ライフヒストリー・アプローチによるものだといえる。インタヴューの内容はすべて録音し、朝鮮語で文字起こしをしてから、日本語に変換した。
― 周りの目が気になって親を老人ホームに送れません。
プロフィール
A氏、女性。1973年生まれで今年32歳。大学を卒業してから現在に至るまで8年間小学校の漢語教師として勤めている。1996年今の夫と結婚し、3歳の娘がいる。夫は延辺州公正処の経理として勤めている。
家族構成
私の父は兵隊でした。30年近く軍隊生活をしました。最初は大連で、その後は黒竜江省、遼寧へと回りました。最後私たちは遼寧から延辺に戻ってきました。父の故郷は龍井です。父は「落ち葉は根に帰る」と話しながらどうしても龍井に戻ろうとしました。1978年私たちは部隊について延辺に戻ってきました。その当時政府は父に延吉と琿春のなかで一つ選ぶように言いましたが父は聞かなかったのです。その後父は龍井防疫所に入り、10年近くセンター長として勤めました。完全に転業したのです。父が入ったばかりのとき防疫所には何もなかったが、父の手によって今のように建設されました。そのあと、父はまた衛生学校(看護婦を養成する専門学校)に転職し、校長として勤めました。そのときもまた最初からスタートしたのです。私が彼のことを話し出すのは、お父さんは本当にすばらしい人物だと思っているからです。父は一生小学校4年しか卒業できなかったのですが、ものすごく頭のいい人でした。父は16歳のときから軍隊生活を始めました。当時村では十数人がお父さんと一緒に軍隊に入りましたが、最後に出世したのはお父さんを含めて2,3人しかいませんでした。その中の何人かは未だに、漢語が読めないし、書けないです。最初、私の父も漢語が全然読めませんでしたが、部隊で勉強をしたのです。父はいまわの際にも勉強するのをやめませんでした。彼は文学方面ですばらしい成果を上げただけではなく、なかなか弁が立ちました。数学問題もよく解けました。私に解けなかった高校の問題も彼には解けたのです。お父さんは本当にすばらしい人でした。だから私は先に彼のことを話し出します。
私の家は姉妹が四人います、私は三女です。私の一番上の姉は今年39歳で、元々は龍井の信用銀行で働いていましたが、5年前韓国へ出稼ぎに行きました。義兄も姉と同じ銀行で働いていましたが、現在は延吉市の小学校で校長として働いています。二番目の姉は1993年に結婚しました。正直に言って私の家は家計がよかったのです。姉が当時付き合った人は、軍隊から帰ってきた一般の労働者でした。銀行で働いていた姉とはあまり似合わなかったが、その人は当時党員だったし、人柄がよかろうと思って両親は二人の結婚を認めてあげたのです。しかし、その人は心の狭い人だったらしいです。普段からも喧嘩が多かったが、姉はそんなことを私ら家族の前で口にしなかったため、私たちは姉の夫婦のことについてよく分かっていませんでした。その日は、姉の銀行で年末決算があったため帰りが遅かったそうです。その件が原因で二人の間には大けんかになり、離婚するまでに至ったのです。その後姉は人の紹介で、自分より5歳上の韓国の男性と知り合い、1997年にその男性と結婚しました。今は、韓国で生活しており、5歳の娘もいます。私は三番目で、下にまた妹がいます。妹は今年27歳で、専門学校を卒業した後地元の病院で看護婦として働いていましたが、三年前に韓国に留学しました。母は今年63歳で、工商銀行で働いていましたが、今は退職しています。
父の死
父は2001年4月に亡くなりました。1996年私が結婚するその年、お父さんは胃に痛みがあったため病院に行って胃カメラをしてもらいました。すると胃の中に瘤が発見されたため医者さんから一ヶ月後の再検査を勧められましたが、お父さんはあまり気にしていませんでした。ちょうどそのとき北朝鮮に住んでいる父の二人の兄から生活に困っているという内容の手紙が届き、5月お父さんは生活用品を持って北朝鮮に渡りました。中国に戻ってきた後、再検査を受けましたが、そのとき、瘤はすでに大きくなり、お父さんは胃癌末期だと診断されました。7月お父さんは11時間にわたる大手術しました。99年肺から再び瘤が発見され、また手術を受けました。その手術は6時間かかりました。2000年、瘤は肝に移り、2001年お父さんは肝癌で亡くなりました。三回の手術で全部20万元ぐらいの治療費がかかりました。治療費は主に両親の貯金でまかなわれましたが、足りない部分は韓国にいる二番目の姉が出しました。手術のあと、昼も夜も看病が必要でしたが、昼は主にお母さんと私、妹がやり、夜は主に私の夫と一番目の姉の夫がやりました。現在、お母さんは一人で生活しています。もともとは龍井に住んでいましたが、2年前延吉でマンションを購入し引越ししてきました。お母さんは貯金があるし、月に1200元ぐらいの年金をもらっているので、経済的には何の困難もありません。
夫側の家族構成
夫は一人息子です。縁かも知れないけど、夫のお父さんも兵隊でした。30年近く海軍生活をしていたのです。1990年、彼のお父さんは軍隊から戻り、政府は彼を民政部門に配置しました。1995年、糖尿病で入院しましたが、病院側の誤診で急に亡くなりました。そのとき、私と夫はまだお互いに知らない状態だったので、私は夫のお父さんに会ったことがないです。聞いた話ですけど、当時彼のお父さんは妻に内緒で4万元ぐらいの貯金をしたらしいです。しかし、急に亡くなったためそのお金は、未だに下ろせないままです。姑は今年65歳で、今は龍井で一人暮らしをしています。一般労働者から退職したので、年金は月に400元くらいしか出ていないが、家を賃貸している収入が月に700元くらいあるので、生活上何の問題もありません。
居住状況
私が現在住んでいる延辺市内のマンションは完全に自分たちの努力で購入したマンションです。お父さんがいくらか出してくれる予定でしたが、私が結婚したその年、お父さんが病気にかかったため、両親からは一元ももらっていません。2000年私たちは60平方メートルのマンションを買いました。そのとき姑が一人暮らしをしていましたが、今のマンションを購入しながら、将来老人を扶養するために何かを考慮したことはありません。結婚したばかりのとき、1年間くらい姑と一緒に暮らしたことがあります。私の姑はかわいそうな人です。小さい時に父母を亡くし、大きくなってからは舅と結婚しましたが、舅は青島で軍隊生活をし、姑は地元で、一人で子育てをしていたため、父母の愛も夫の愛も十分に得られなかったのです。夫は親孝行の心がけのある人です。親孝行のできない人は人を愛することもできないと思います。私は彼のこの点が好きだったのです。私は姑と一緒に暮らすことを望んでいますが、姑は自分で生活できるうちは子供に負担をかけたくない、将来動けなくなったときに面倒をみてくれればいいとおっしゃっています。
老親への主な扶養形式
現在、私たちには面倒を必要としている老親が二人います。姑は夫が一人息子だから面倒をみてあげないといけないし、私の母は身の回りに世話をする人が私しか残っていないから、面倒をみてあげないといけないのです。しかし、二人とも自分のマンションを持っているし、経済収入があるので、経済的には何の援助もしていません。
私の母は健康で、一緒に買い物に行ったりすると私の方がついて行けないくらいです。それにもし病気にかかった場合は、既に保険に入っており、銀行が医療費を全部払ってくれるので、一銭もかかりません。姑は健康状態があまりよくありません。生まれつきの心臓病に、胃炎も持っています。医療保険には参加しましたが、普段の医療費は全部自分で払っているみたいです。とは言っても、一人で十分に生活できるし、今までは看病を必要としたことはありません。
私たちは常に二人に電話をかけています。二人とも経済的に困っていないので、経済的援助はしていません。老人が病気にかかった場合も、私も夫も仕事をしないといけないので、看病をすることはできない場合が多いです。ただ電話で「病院に行ってみてください、点滴をしてください」と頼むくらいです。私たちが仕事で職場を離れないので、老人が自分で病院に行かないといけないときが多いが、その時が一番つらいです。
姑は龍井で一人暮らしをしているので、私たちは毎日電話して健康状態などについて聞いたりしています。週末には子供をつれていくときもあります。行って一緒に外食したり、買い物をしたり、公園に行ったりしています。姑を私の家に迎えて一緒に食事をすることも多いです。母は私たちと近いところに住んでいますので、晩ご飯を一緒に食べることが多いです。母は性格が明るいし、見た目にも年をとって見えません。祝祭日には二人とも私の家に迎えて一緒に過ごすときが多いです。今までは両親に特にしてあげたことはありません。ただそばにいてあげただけです。将来、もし老親が動けなくなったらそのときは家政婦を雇うつもりです。老人ホームも私は賛成です。
親からの援助
今まで大きい援助はもらっていませんが、今使っている家電の中で洗濯機以外のものは全部結婚するとき両親が用意してくれたのです。結婚するとき姑からは何ももらっていません。でも、この件について私は何の不満もありません。当時姑が厳しい生活をしていたということを知っているからです。結婚してから2年半くらいは賃貸マンションで暮らしていました。今まで裕福な生活をしてきた私にとっては、慣れない部分もありましたが、我慢するしかありませんでした。その後、今住んでいるマンションを購入しました。私が1万元を出して、残りは全部夫が用意しました。夫はおとなしい性格で、あまり話をしない人です。その後、夫から聞きましたが、マンションを購入するとき姑が2万元出してくれたそうです。でも、そのお金はこの何年間で全部返しました。今親がマンションを用意するのは当たり前だと思っている人が多いが、私は親子の間でもお金の計算ははっきりしたほうがいいと思っています。
今の扶養方式を選んだ理由
主な原因は姑が私たちと同居するのを反対するからです。姑は一生静かな環境で暮らすことに慣れているから、自分で生活できる間は一人で暮らすことを願っています。子供に負担をかけたくないという姑の思いやりかもしれません。もし経済的に困っていて、住む家がなかったら同居するしかなかったかも知れませんが、私の場合姑も母も自分のマンションを持っています。これもこのような生活スタイルを選べる条件となったと思います。姑が今住んでいるマンションはオンドル8の部屋なので、毎日オンドルを炊くのも大変です。近いうちに、私の家の近くて床暖房式のマンションを購入するつもりです。私も老親が自分で生活できる間は同居しないほうがいいと思います。どれだけ仲のよかった関係だとしても姑、嫁という名をつけると矛盾が発生するのは防げないです。
老親扶養で感じた負担
姑の方では負担を感じたことがありません。姑には私たちしかいないので、姑の全部は私たちのために残しているのです。
母には娘が4人いても3人は韓国に行っています。姉と妹はたまに母にお金と服などを送ったりしています。金額から見るとたぶん多いと思います。私はお金はあげていないけど、母の身の回りの面倒を全部見てあげています。悔しいときもあります。やるべきことは全部やるが最終的に文句を言われるのも私です。母は姉から送られてくるお金の金額は覚えているが、私がここで母の世話をするのは覚えてくれないのです。母のマンションの内装をするとき、材料を買ったりすることは全部私がやりました。でも、母は私と合わないときはよく「お金も出してくれないくせに、、、」と言います。母は冗談で話し出したかも知れませんが、私には気分の悪いことです。でも、やるべきことはやらないといけないです。
老人扶養について
子供として果たすべき義務だと思います。孝心のない人はどんなことに対しても熱情を出せません。孝心は人を評価するに当たって一番重要なことです。
老人虐待について
私は老人を扶養するのは当たり前のことだと思っています。私は小さいときから老人のことが大好きでした。私の父もこの面で私たちに模範的役割を果たしました。私の母方のおばあさんは78年中風にかかりましたが、私の家では幸せな生活を送っていました。お父さんもおばあさんによくしてあげたし。しかし、その後、親は息子が面倒を見るべきだという考えもあったし、おばあさんは吉林市にあるおじの家に行ったのです。老人虐待の傾向を持っているおじとおばは中風にかかったおばあさんに食事を与えなかっただけではなく、大便、小便の面倒も見てくれなかったのです。私はそんなおじとおばのことを今でも憎んでいます。自分が親を虐待すると子供たちもその影響を受けるのです。私のおじも中風にかかり、子供たちに虐待され亡くなりました。受けて当然な懲罰を受けたのです。
養老院について
私の2番目のおばさんは老人ホームで亡くなりました。子供たちが地方に住んでいたし、おばさんも年をとってひざが動けなくなったので老人ホームに行ったのです。月に700元でした。老人ホームの条件はよかったのです。生活用品が全部そろっていたし、食事も与えられ、普段の面倒もみてくれました。洗濯、部屋の掃除なども専門の人がやってくれました。だから、私は老人ホームに行くのを賛成しています。しかし、今の中国にはいまだに伝統観念の影響が強く残っていて、子供がいるのにそんなところに送られると不孝だと思われがちです。私はこんな考え方には反対です。老人には自分なりの生活方式があって、老人ホームに行くと、子供に気を使わず自分なりの生活ができると思っています。また、老人ホームには多くの老人がいるので、一緒にお話したり、買い物に出かけたり、ゲームをしたりすることができます。子供と同居する場合、昼間子供たちが仕事に出かけるから、老人は一人で暮らす時間が長いです。でも、中国は保守的な国だから、私に母と姑を老人ホームに送れと言われても、私にはそれができません。なんと言っても人は社会という大家庭の中で暮らしているから。しかし、将来私自身は老人ホームに入るつもりです。私の子供がどう思うかは分からないけど。老年大学に通ったりして、外で活動するほうが家に閉じこんでいるよりは精神的にも身体的にもいいと思います。姑は私が老人大学に通うように説得しても行かないのです。たまに野菜を買いに出かけるだけです。今にも、私たちの秋の野菜とかは全部姑が送ってくれています。
自分の老後について
私には今娘が一人います。子供は多ければ多いほどいいと思います。私はまた一人生むつもりです。これは私が年を取った後の一番の財産なのです。私が扶養を必要とするときになったら気軽に老人ホームに行けると思います。ひとつの家庭に子供一人しかいないので、夫婦一組で四人の老人の面倒を見るのは無理です。私は旦那さんと二人とも生きているうちは二人で生活するつもりです。もしその中の一方が亡くなったら老人ホームに行きます。一緒にいると矛盾が発生するだけです。生活費はたぶん年金をもらえると思います。
中国の保険制度に私は賛成できません。中国の保険制度は先進国とは違って、系統化、法律化されていないし、抜け穴も多いです。中国の保険は一旦被保険者に何かあった場合には、八方手を尽くして、保険金の額を減らします。外国の場合、もし老人が道路に倒れているとすぐに病院に運ばれると思います。彼には保険証があって、自分のお金を使うからです。しかし、中国の場合、誰も病院に運ぼうとしないでしょう。病院に運んだ人がお金を払わないといけないときが多いからです。この方面で中国は遅れていると思います。特に医療保険はあるべきだと思います。私は条件があればマンションを買って賃貸しようと思っています。冒険する必要もなく、安定した収入が得られるからです。
― 親の面倒を見るのは子供の責任です。
プロフィール
B氏、女性。1953年の生まれで今年52歳。文化大革命時代に中学校を卒業してからずっと農業に従事していた。1976年に現在の夫と結婚し、二人の息子がいる。25年間炭鉱で共産党書記として働いていた夫は現在定年退職し、鹿の飼育に専念している。
夫側の家族構成
私は6人兄弟の中の三番目で、上に姉二人、下に妹二人と弟一人がいます。父は1996年に肝臓癌と診断されてから一週間で亡くなり、母は2000年77歳で亡くなりました。父は一生田舎で農事をしてきた純朴な農民であり、母は中国の伝統的な農村女性でした。
夫と二人の息子と一生に農事をしてきた一番上の姉は今小さな商売をしているが、あまり豊かなほうではありません。二人目の姉は六人の娘と末っ子の息子を育てています。娘たちはみんなお嫁にいき、息子は今高校で勉強しており、夫婦二人は農事をしています。
私の四番目の妹は夫と二人の息子と一緒に北京で個人経営をして10年、今その固定資産は100万元に達しています。現在も生産を広げているそうです。弟一家は娘一人と息子一人で、娘はもう嫁に行き、今小学校教師として働いているし、息子は現在大学に在学中です。弟は四番目の妹のおかげで、北京で小さな商売をしていて、豊かなほうです。一番下の妹は私の夫が働いていた炭鉱で会計士をしています。彼女は夫と結婚して一人の娘を育てながら幸せな生活をしてきましたが、1998年に夫が交通事故で亡くなり、其の時に二番目の娘を妊娠していました。その時から5年後、妹は他人の紹介で決まった職業はないが心の優しい今の妹婿と再婚して一人の息子を産みました。
私の両親が生きているうちには祭日や親の誕生日の時に兄弟みんなが集まって楽しい時を過ごしたけど、現在は一年一回集まるのも難しい状況です。ただ、一番下の妹の息子が一ヶ月一回ぐらい我が家に来るだけです。
夫側の家族構成
主人の実家も私の実家に負けないほど大きな家庭です。私の舅は今年74歳で、姑は70歳、二人とも元気です。舅は一歳になる前にお父さんとお母さんを亡くして、親戚の家を回りながら可哀そうに育ってきました。そのためか、子供に対してはとても愛を注いでいます。もちろん嫁の私に対しても同じです。一生、土と戦ってきた方たちなので子供たちの勧めにもかかわらず、三年前までも2haの畑を耕していました。私の夫は6人兄弟の中の一番上で、下には三人の弟と二人の妹がいます。一番上の弟は息子と共に吉林でオートバイ専門店を経営していて生活は豊かな方で、息子は結婚して子供も生まれました。二つ目の弟は一人娘を、一番下の弟は娘二人を育てています。二人とも自分で小さな牧場を経営していて経済的には心配なく過ごしています。一番上の妹の夫は炭鉱を経営していたが運営上の問題で破産してしまいました。現在は豚、牛、鶏などを飼育しながら生活しています。二つ目の妹は結婚して5年目に離婚し、息子とともに暮らしています。だから、舅と姑は息子より娘たちが心配で嘆息したりします。両親が末っ子を結婚させた後、農事に従事したり、牛を飼育したりしながら何年間一生厳命に貯めたお金は一番上の娘が全部借りている状態です。
夫との結婚生活
夫と結婚してもう30年、その間夫と二人の息子の愛の中で時は流れ、知らず知らずにもう50歳を越えました。改革開放が実施されていなかったそのとき、父は村長として、そして隣の村の共産党書記として活躍していました。仕事のせいか、父は外にいる時が多く、会議も多かったです。年上の姉二人が嫁に行き、下の妹、弟がまだ小さいため、私が我が家の主な労働力でした。集団で働いていたため、毎日やった仕事量を点数として、年末に合計しました。そして、毎1点ごとにお金を換算してくれたのです。そのとき、若い女性の中で、私の点数が一番高かったです。其の時には、本当に寝起きたらまた新しい力ができて仕事をすればするほど楽しかったです。私がよく働いていたせいか、媒酌人たちがよく訪ねてきました。でも、不思議だったのは父が私を嫁に行かせる気味がまったく見えなかったことです。嫁に行きたいと父に言うわけもないし、どうしたらいいかと自分で悩んだ時もありました。それから、何年後、私も年取った女性の行列に入りました。そのときは25歳になっても嫁に行かない人は少なかったのです。今は25歳で結婚したら不思議に思うぐらいだけど、昔はそうではなかったのです。その間、四番目の妹も結婚しました。後で分かったことですけど、父は自分としての考えがありました。其の時には結婚相手を探す標準が今と違い、家庭成分(階層上の位置)さえよければ、他の条件はあまり考えなかったのです。私の夫の実家は代々貧農で我が家は中農でした。成分問題のため、父は仕事上のストレスが多かったです。悩んでいるとき、用事で我が家を訪ねてきた私の舅が私を気に入り、縁を結ぶ考えを示したそうです。私より1歳年上の夫は16歳に軍隊に入り、8年間の長い間軍隊生活をしました。年取った女と言われながら、顔も見たこともない自分の夫になる人が部隊から帰るのを待ちました。そして、夫が帰ってから一ヶ月ぶりに、顔も何回しか会わせなかったまま結婚式を行いました。
長年の結婚生活を振りかえってみたら、私は本当に幸せな女だなぁと思います。やさしい夫に、大人しい息子二人。上の息子は一昨年結婚し、今年はかわいい孫まで生まれました。
経済状況及び住居情況
夫と結婚してから、二部屋しかない家で9人の家族が暮らしました。生活が貧しくて新婚の私たちに新しい部屋を準備してくれることができなかったため、姑は夫と夫の弟たちが一緒に寝ていた一つの部屋を仕切ってわが夫婦と弟たちがそれぞれ休むように作ってくれました。その年の秋に、お金を配ってもらった舅と姑は私たち夫婦のために20平方メートルの家を貸してくれました。そして、1985年には夫と相談し、貯めたお金で今住んでいる家を建てようと思いました。我が家は三つの部屋で、総合面積が90平方メートルの中国伝統的な家です。一つの部屋は私たち夫婦が使っており、他の二部屋はそれぞれ息子たちが使っていました。現在、上の息子は結婚して外で暮らしているし、下の息子は大学を卒業して海南省のTCLという電気製品会社で勤めているため、二部屋は空いています。
私たちが暮らしているところは花鹿の故郷と言われ、多くの家で花鹿を飼育しています。この地理的に優位な条件を利用して、1999年退職した夫は鹿を飼育する考えを示したのです。長男と合意し大きな事業に取り込みました。まず、家の東側にある空間を利用し、300平方メートルの鹿繁殖場を作り、翌年には雄の鹿一匹と雌の鹿五匹を買ってきました。2001年から毎年5匹ずつ増え、初めの二年間は返済のため生まれた鹿を売ったけど、一昨年からはそのまま育てています。現在、ここの鹿の値段は高くなり、一匹に7,8千元です。専門家の話によるとこの20年間は鹿の値段が5000元以下にはならないそうですので、我が家の毎年の収入は2万元以上になります。そして、鹿を飼育する以外の時間で、蜂も飼育するため、私たち夫婦は豊かな生活を送っています。
老人扶養に関して
父は私が小さい時から、年寄りを尊敬し、子供を愛するのは我が民族の優秀な美徳だと教えてくれました。そして、両親は私たちのいい手本になりました。父のお兄さんが家族を連れて北朝鮮に移民してから、父は20年間ずっと祖母の面倒をみてあげました。そのおかげで、おばあさんは92歳まで生き、母も郷の優秀な嫁に選ばれました。おばあさんが亡くなってから何年後、外祖父が亡くなって、父は外祖母を我が家に迎えました。このような両親の影響で、両親の面倒をみるのは子供として当たり前のことである同時に、子供の責任だと思えるようになりました。私たちの周りには育ててくれた両親の面倒を見ない子供たちがいますが、将来、彼らの子供たちも見習うのではないかと心配です。自分を育ててくれた親の恩も分からない彼らが国のために何ができ、そしてその人間性はどうでしょうか?
夫の親を養う方法
親を養うのは私たちの大切な責任です。私は夫と相談し、兄弟がいくらか生活費を出す情況の下で、我が家で親の面倒を見ようと思っていました。でも、夫の親は二人での空間が必要だと言っていました。私自身が嫁をもらった今になってその考え方が理解できます。私たちも長男夫婦と一緒に生活しないで、一週間に一回ほど会うから、会うたびに嫁が自分の娘みたいに可愛く思われます。たぶん、嫁も同じ考え方を持っているでしょう。
それで、兄弟が集まって、家族会議を行い、親が二人とも生きているうちには子供たちが毎月幾らか生活費をあげようと合意しました。合意の結果、夫の妹たちは家庭情況がよくないため、祭日などにお小遣いをあげること、普段の生活費は息子四人で負担することにしました。私たちが生活しているここでは、病気にかからない場合は、一人当たりの最低生活標準が250元ぐらいです。だから私たちは息子一人一ヶ月200元を出すことにしました。生活費は一年分をまとめてお父さん名義の通帳にいれ、両親の意向で私が管理することになりました。夫の両親は農事をやめ、一年間2000元で畑を貸し出すことにしました。しかし、何年前から、お米の値段が高くなり、政府が農民の農事に対する熱情を出すために、幾らかの補助金を払ってくれました。それで、我が兄弟は再び畑を取り戻し、失業した炭鉱の人が多い優越条件を利用して畑の仕事を再開することにしました。二番目の息子以外に、みんな近くに住んでいるため、順番に春の種まきから秋の収穫まで仕事の管理をしました。一年間の人件費は3500元ぐらい、種と肥料の料金を合わせて5000元で十分でした。農事を再開してから両親はその収入によって生活ができたため、私が預かっている通帳のお金はそのまま残っています。両親は子供たちからの生活費と農業収入で現在、心配なく元気に暮らしているが、退職金や医療保険金がないため、将来病気になると、私たちはその医療費を生活費以外に等分するように決めました。夫の兄弟たちはどんなに忙しくても両親の誕生日やおぼん、そしてお正月にはみんなが集まって楽しく過ごしています。勿論、家族それぞれ美味しい食べ物を準備するのも忘れていません。このように、兄弟がいつも会ったりするため、感情も深くなります。
この後、両親の身体状況が悪くなったり、そのうちの一人が亡くなったりすると、両親の意見を尊重するもとで、親を養う問題ももう一度相談する予定です。
自分の老後生活
私の年齢層の人たちはみんなそうだけど、現在二重身分の情況にいます。上には親がいるため、親を養う責任があり、下には家庭を作った子供がいるため、子供たちに養われる生活もできます。
私は現在退職金もなく、医療保険にも参加しなかったが、夫は幾らかの退職金があり、病気になったら80%の医療費を補助できます。今、私たち夫婦はまた若くて、元気だし、夫が経営している鹿の飼育も景気がいいため子供たちの助けを受けなくても豊かな生活は可能です。
一昨年、息子が結婚するときには新しい生活に使ってくださいと2万元をあげました。そして、子供たちに、また私たちは若いから後10年間はあなたたちに迷惑をかけないから、あなたたちも私たちに頼らないで頑張って自分の道を開拓してねと伝えました。長男夫婦も私たちの意見に賛成する気味で、去年にはローンでマンションを購入し、毎月給料で幾らかを返しながら、一生厳命に生活しているようで嬉しく思っています。
また私たちに残った責任とは次男を結婚させることですけど、彼にも長男と公平に生活費を少しあげる予定です。私の友達をみたら、子供が結婚するときに自分の全部をあげて最後には子供たちに頼って生活しているが、私は息子たちに大きなお金を上げなくて、私たちに労働能力があるうちに頑張ってお金を貯めて老後を過ごすつもりです。でも、力がなくなれば、子供のそばに行くしかないでしょう。息子たちもいつでも両親を養う準備ができていると冗談を言ったりしています。しかし、私たち夫婦が一緒にいる間にはどこにも行きません。本当に動けなくなったら、家政婦さんを雇います。もし、夫が一人になったら退職金もあるので子供たちが心配しなくても大丈夫だけど、夫が先に旅立ったら私が子供たちに迷惑をかけるかもしれないから、頑張ってお金を貯めなければなりません。
老人ホームに関して
周りの人たちを見ると、年寄りになったら老人ホームに行きたいという人が多いが、私はあまり行きたくありません。子供がなかったら別の話になるが、いろんなところから来た人が集まって生活するなんて考えてみるだけでも嫌になります。今は老人ホームの環境がよくなり、一人部屋で手洗いなども付いているし、掃除してくれる人もいるそうですが、子供たちの関心には比べられないでしょう。
― 親を養老院に送る人には納得ができません。
プロフィール
C氏、男性。1939年生まれで今年65歳。五人兄弟の中の唯一の大学卒業生。大学を卒業してから去年退職するまでずっと党学校に勤務。最後の5年間は校長として活躍。大学を卒業した翌年現在の妻と結婚し、息子と娘がいる。妻は同じ大学の後輩。妻は高校の先生だったが、二年前に退職して、現在は自由な生活を送っている。
家族構成
両親は二人とも農村の出身で、父は地元の中学校で国語の先生をやり、母は農業に従事していました。父は母より一歳年下で、頑固な人でした。母は優しくて話の少ない静かな人でした。子供は多く、家庭収入は少なかったため貧しい生活を送ったが、両親とも私たち兄弟の勉強を一生懸命支えてくれました。私の家は五人兄弟で私は長男です。下に弟一人と妹が三人います。三人の妹はみんな成績がよかったが、文化大革命が起きたため、途中で勉強をやめるしかありませんでした。弟と妹三人はみんな農村に残り農業をやっています。父は中風で9年間苦労しましたが、22年前に亡くなりました。父の医療費はほとんど私が出してあげました。父が亡くなってから母が一人暮らしをしていたので、20年前私の家に迎えてきたのです。娘と息子がいるが、二人とも結婚しています。娘夫婦は北京で仕事をしています。今は息子夫婦、孫と一緒に住んでいます。
居住状況
今住んでいるマンションは120平方メートルで、1996年に購入しました。寝室は三つあって母、私たち夫婦と、息子がそれぞれひとつずつ使っています。親を扶養するのはこのマンションを購入した大きな原因であります。前住んでいたマンションは60平方メートルぐらいあったが、子供二人と母親と暮らすには不便でした。子供たちは大きくなるにつれて意識の変化が激しかったので前のマンションは不便でした。子供たちは一人部屋をほしがっていたのです。これもマンションを購入した原因のひとつであります。そして、もともとは四階か五階のほうがほしかったが、老人が気軽に外出できるようにするために二階にしました。母は今年84歳だが、今までは健康で医療費はあまりかかっていないが、栄養剤とかは常に飲んでいます。農村からきたので年金もないし、医療費も全部自分で負担しないといけません。
老親への主な扶養形式
私たち夫婦の退職金で一緒に暮らしています。母には経済収入がないので生活費は全部私が出しています。弟と妹たちが母の生活費を出そうとしたが私が全部断りました。祝日とか母の栄養剤とかを弟たちが買ってきますがそれが全部です。息子夫婦は月に一定の生活費を出しています。母は今までは健康だったので介護とかはしたことはありません。精神的な慰撫は特にやっていません。ただ一緒に暮らしているだけです。朝鮮族には長男が親を扶養するという習慣があるので私も親の面倒を見るのを当然だと思っていたし、母も私たちと一緒に暮らすのを当然だと思っています。たまに妹の家に行かせる時もあるが、一日もたたずにすぐに戻ってきます。自分の家がやっぱり一番らくだと思っているみたいです。
老人扶養で感じた負担
老人と一緒に暮らしていると負担はけっこうあります。私から見ると三つの方面があります。一つは経済的負担です。今の若者たちが老人扶養を嫌がっている主な原因は経済的負担が大きいからだと思っています。特に老人に経済的収入がない場合、同居する子供の支出が増えるのは当たり前だと思います。次は居住条件であります。私の場合は部屋が三つついているので前よりよくなったが、部屋が一つしかついていないマンションで親と同居するということは大変なことです。三つ目は観念の違いです。私の家は80代、60代、30代、10代四つの世代が一緒に暮らしているが、観念上の矛盾が多いです。私と母の間は私が理解しようとしているので問題はないが、親と息子夫婦の間は観念の違いで矛盾が発生するときが多いです。おとといのことでした。北京にいる娘からお菓子が送られてきたが、賞味期限が切れていました。息子夫婦は賞味期限が切れたのでそれを食べてお腹を壊したりすると倍のお金がかかるから捨てようと話し出し、母は見た目に大丈夫だし、腐ってもいないからまだ食べられる、ものの無駄使いはいけないと主張し、両世代の間に矛盾が起きました。私が「このお菓子は広州で生産されたものなので、賞味期限一ヶ月というのは広州の気候に合わせたもので、吉林省の場合は一ヶ月ちょっとすぎても大丈夫だろう」と調整してあげて両世代の矛盾はやっと解けました。このような小さな矛盾は常に起きています。私の嫁は朝8時半出勤なのに、8時にやっと起きて朝ご飯も食べずに出かけるときが多いです。私たち夫婦には若者たちのこのような生活習慣が理解できるが、母は朝ご飯の用意をしない嫁のことに納得がいかないみたいです。今の若者たちが老親扶養を嫌がっているのには経済的理由、居住問題などいろんな原因があるけど、一番重要な原因は観念上の違いだと思います。
老人扶養にあたっての希望
人口高齢化に伴い高齢者が多くなり、老人問題が大きな社会問題になっているのを政府も認識しているはずです。政府が経済的方面で老人に優遇政策をとってほしいです。もちろん今も切符を買うときとか、映画をみるとき、老人には割引してくれることもあるが、これはなんといっても少ない金額上のことで病院に入院したり、外国に旅行に行ったりなど出費の多い方面では何の優遇処置も設けられていません。このような社会福祉方面で政府が改革を行ってほしいです。
老人扶養について
人間はみんな年をとっていくのです。老人を扶養するのは子供としての義務で老人扶養の義務を果たさなかったり、老人を虐待したりするのは人間としてやってはいけないことです。誰にも年を取って老人になる日があるのです。私が親によくしてあげると私の子供も私が年をとった後私によくしてくれるのです。
養老院について
養老院はいいと思います。でも、私はご飯の食べられる程度であれば親を老人ホームには行かせません。私も仕事の関係で何回か老人ホームに行ったことがあるが、行くたびにその老人の子供たちはみんな何をしているかと疑問を感じます。設備が普通の家庭よりいい老人ホームもあるが、そこで老人たちは寂しい生活を送っているのです。そこには人倫はありません。年をとってからはやはり子供、孫たちと一緒に暮らすほうが精神的にも快楽を感じることができるのです。私は今でも老人ホームに親を送る子供をみると納得が行きません。子供がいなくて面倒を見てくれる人がいない場合は仕方ないが、、、
老人虐待について
老人虐待が起こるには経済的原因が大きいが、人格レベルが低い問題もあると思います。社会が発展していくと、老人虐待現象も減っていくと思います。ゆっくり解決していくべきです。
自分の老後について
私たち夫婦の年金を合わせると月に2000元以上あるから、老後の生活費について心配はありません。将来は妻と二人で生活するつもりです。もし、もっと年をとって動けなくなったら家政婦を雇って面倒を見てもらおうと思っています。老後の医療費のために少し貯金はしてきたが、もしそれで足りない場合は子供たちに頼むしかありません。私が彼らを、育ててあげたからそれくらいしてもらうのも当たり前だと思います。
― 老後はできれば子供と一緒にいたいです。
プロフィール
D氏、女性。1956年生まれで今年48歳。高校を卒業して22歳のとき現在の夫と結婚し、15歳の娘が一人いる。布団会社で働いていたが、会社が倒産し、今は小さな店を経営している。夫は去年の10月から韓国に出稼ぎに行っている。
家族構成
私は農村出身で、両親は農業に従事していました。兄弟は六人いますが、上に兄が二人と姉が二人、下に妹が一人います。父は7年前に、母は去年に亡くなりました。両親は二人とも一番上の兄が面倒を見ました。7年前、父が病気で亡くなったときは、私の家も家計が苦しかったので、何もやってあげることができませんでした。去年、母の病気と葬儀のときは5000元ほど、兄の夫婦に渡しました。19年前、親戚の紹介で今の夫と知り合い、その翌年に結婚式をあげました。結婚するとき、実家の両親が家具、家電、布団などを用意してくれましたし、夫のほうでも生活用品などを準備してくれました。夫は5人兄弟で上に姉が四人います。四人の姉と夫はお父さんが違う兄弟で、姑は37歳の時病気で夫を亡くし、四人の娘を連れて再婚し、私の夫が生まれたそうです。再婚した夫は性格が悪く、四人の娘にもよくしてくれなかったので、息子が生まれてしばらくしてから別れましたが、それ以来、お互いに連絡が切れたそうです。姑は一人で苦労しながら子供たちを育て、結婚までさせてあげたのです。
現在の生活状況
今住んでいる家は60平方メートルくらいで、私が結婚する前に姑が息子のために建てた家です。結婚してから今まで、18年間その家で姑と一緒に暮らしています。夫は専門学校を卒業してから自分で小さな自営業をやっていましたが、2000年に自営業をやめて韓国に出稼ぎに行きました。韓国に行くときの費用は人民元で7万くらいでした。去年に帰ってきて私が今経営している店を買ってくれた後、10月にまた韓国に行きました。二度目に韓国に渡ってもうすぐ一年になりますが、まだお金は送ってきていません。今私が経営している店は、売り上げはあまり多くないが、三人で生活するには充分です。今家で出費が一番大きいのは中学校二年に通っている娘で、授業料、塾の費用、教科書代などいろいろ合わせると年間8000元くらいはかかります。これから高校、大学に進学するにつれて、費用はもっとかかるとは思っていますけど、娘が望んでいるならどれだけお金がかかっても勉強はさせたいと思っています。夫が韓国に出稼ぎに行ったのも、娘を勉強させるためです。
姑との18年間
結婚してから今まで姑と一緒に暮らしてきましたが、一回もけんかしたり、矛盾があったりしたことはありません。18年間私はずっと村の模範嫁、姑は村の模範姑と選ばれました。姑は今年85歳ですが、健康で、性格も明るいです。年をとっておばあさんと言われるだけで、考え方などは私よりも新しいです。若いときから一人で商売をやりながら過ごしていたので、知り合いが多く、人生の経験も多いので、今も昼間とかは多くと若い人たちが姑の所に遊びに来ています。去年から店のため私は昼間ずっといないので、姑が一人でいるときが多いです。店に遊びにきたり(店から今住んでいる家までは歩いて5分くらいの距離)、庭に野菜を栽培したり、家畜を飼ったりしながら暮らしています。結婚したばかりの時は、私が布団会社に勤めていたので、食事の用意、部屋掃除、洗濯などほとんどの家事は姑はやってくれました。娘も幼稚園に行くまでは、ほとんど姑が面倒をみてくれたので、私は仕事に専念することができたのです。現在、姑は年をとり、同年代の老人と比べると健康なほうですが、前とはやはり違います。今、家の家事はほとんど私がやっていますが、たまに姑が助けてくれるときもあります。姑は農村出身で、固定して職業に従事しなかったため年金はなく、医療費も出ていません。今は月に100元くらいの栄養剤を飲んでいますが、費用はほとんど私たち夫婦が負担しています。近くに娘が四人住んでいますが、姑は娘の家にはあまり行っていません。姑と娘との関係も良好で、姑は娘をとてもかわいがってくれているし、娘も姑にとてもなついています。夫もいつも姑のことを気にし、韓国から電話するたびにお母さんによくしてあげるよう私に話しています。姑は若いとき苦労して五人の子供を育てましたが、今はそのおかげで楽しい老後を送っています。
老人扶養について
父母はいろんな苦労をしながら、子供を育てているので、その父母が年をとったあと扶養するのは、子供として当たり前のことです。
養老院について
各家族の事情によって養老院に対する評価も違うと思っていますが、私はあまり賛成できません。老後に面倒を見てくれる人がいない場合、養老院はいい選択かも知れませんが、子供がいながら、養老院に行っている老人たちを見ると、気の毒だなぁという感じがします。
老人虐待について
子供としてやってはいけないことだと思っています。両親が自分と家族のために一生をかけて頑張ってきたことを考えるとき、そんな親を虐待する人には人格的に問題があると思います。
自分たちの老後について
まだ先のことで、よく考えたことはありませんが、できればやっぱり子供と一緒にいたいです。頼れるか頼れないかはそのときにならないと、良く分かりませんが。老後どんな選択をしても、やはり自分たちに経済的基礎があったほうが心強いと思っています。今は老後のために少しずつお金を貯めていく以外に、保険にも参加しようと思っています。
― 親と同居するだけが親孝行だとは思いません
プロフィール
E氏、女性。1963年生まれで今年41歳。専門学校を卒業した後延吉市で幼稚園の先生として勤務。1986年22歳の時、親戚の紹介で知り合った今の夫と結婚。現在は高校3年生の息子がいる。結婚した後成人大学入試(日本の編入試験と同じ)に合格して学士の資格を取得。1998年今勤務している幼稚園の院長となり、徹底的な改革を行って、当時極普通だった幼稚園を今の一流の幼稚園として再建した。夫は州政府部門に勤務。
家族構成
夫は三人兄弟で、娘二人に息子一人がいます。私の夫は末っ子。一番上の姉は日本で就職して、そっちで住んでいます。二番目の姉は、私と同じく教育部門に勤務しています。私たちは1986年5月に結婚し、その年の12月に舅が病気で亡くなりました。現在は姑と一緒に暮らしています。
居住状況
現在住んでいるマンションは3LDKで、120平方メートルくらいあります。1994年夫の職場から分配されたマンションです。引越しするのに老人を扶養するためとかいう前提はありません。今のマンションがなくても姑には自分のマンションがあります。結婚してから現在まで姑と一緒に暮らしてきたし、姑を自分の家族ではないと思ったことはありません。
姑の事故
姑は今年72歳。6年前に不慮の事故で植物人間となり、視力まで失いました。姑も教師という職業に勤めていました。姑と一緒に働いていた人たちは今みんな月1000元以上の年金をもらっているが、私の姑は病気で所定の退職年齢より早めに退職したため、月に600元ちょっとしかもらっていません。医療保険には参加しましたが、保険会社で指定されない病院にかかったので保険金はもらっていません。保険会社で指定した病院で治療を受けたら経済的には節約できたかもしれないが、1999年12月、姑に事故が起きたときは病状が危なかったので、お金のことなんかは考える余裕もなかったです。延辺でいちばんいい病院に入院させ、治療を受けました。当時治療費は10万元以上かかりました。姑に元々少し貯金があったし、私の夫も二回外国に行ってきたので貯金ができていたから、医療費は借金せずに全部自分のお金で払うことができました。また、日本にいる姉も母の治療費は全部自分が払うと言い出し、努力してきましたが、なんと言っても嫁に行った娘は他人なので私たちはそのお金を断ったのです。現在姑は八ヶ月以上入院していますが、私たちはこのことを日本にいる姉には内緒にしています。話すときっとお金を送ろうとするからです。
姑の看護
親を扶養するには、経済的とか身体的とか精神的とかなど理論的な話は要りません。舅は私が結婚した後すぐに亡くなり、1986年結婚してから現在まで姑と一緒に暮らしていました。姑が事故にあう前までは、もらった給料を全部姑に渡し、姑から小遣いをもらっていました。1999年12月、姑が不慮の事故で植物人間になりました。映画を見終わって帰宅する途中映画館の階段から落ちたのです。最初入院した時は、昼晩護理員(初級衛生技術者)を雇いました。一日の料金は50元だったです。最初日である12月3日の手術費用が1万元でした。病院の応急室に一ヵ月半いたが、二日間特別病室にいたときの料金は一時間に70元でした。夜はもちろん私と二番目の姉が面倒をみました。退院してから今年一月までは家で看病したが、最初の三ヶ月間は昼の護理員、夜の護理員、家政婦など三人を雇っていました。三ヶ月過ぎてからは家政婦一人を雇っていましたが、姑は大便、小便の世話を含めたあらゆる面で人の手を必要とする寝たきりになってしまったため、家政婦一人ではやりきれないです。夜は私と夫が看病をしてあげました。自分で動けないので30分に一回程度で寝返りをさせてあげないといけないし、ご飯も一口一口食べさせないといけません。前の見えない姑は昼と夜が分別できませんでした。夜の二、三時に起きて「ラジオつけてくれ」とか「お腹がすいた」とか言ってくるのです。最初は話すことができませんでした。治療を続けて一年くらい経ってから発音はできるようになりましたが、全部無駄話でした。「私誰ですか」と聞くと、娘だと答えたり、嫁だと答えたり、孫だと答えたりしました。今でもこんな状態が続いています。最初入院したとき病院では生きる可能性は極めて少ないと判断しましたが、六年経った今も姑は生きています。もちろん、その間治療はずっと続けてきました。今年2月からは病状が少し厳しくなったので入院して治療を受けています。私も夫も毎日会社が終わってからはお見舞いに行っています。
老人扶養について
老人を尊敬し親孝行をするのは朝鮮民族の優秀な伝統です。しかし、社会はいま高齢化になっており、家族による老人扶養は不可能になりつつあります。私は核家族に賛成します。老人と同居するのは、子供に負担になるだけではなく、老人にとっても負担です。一番簡単な例を挙げます。一日中仕事して疲れた体で家に帰ってきた嫁はすぐに横になりたいが、目の上の人がいるのでそうするにはいけません。姑もまた体が悪いので横になったままにいたいけど、一日中仕事した嫁が帰ってきたので横になったままにはいけません。このような犠牲は別居の場合にはしなくていいのです。また育った環境の違う両世代が一緒に暮らしていると、矛盾が起きるのは当然のことです。矛盾の発生を防ぎ、家族が仲良く暮らして行くためには、その中の一方が犠牲をしないといけないが、このような犠牲は必要のないものです。私の世代の人にはこのような犠牲ができたが、今の若者たちには難しいと思います。また、このような犠牲を強いるのは、彼らの自由を奪うのでもあります。
私はいつも回りの人たちから「いい嫁、いい妻、いい母」とか女性強者だと褒められているが、私はこれらの称賛の言葉に同感を示すことができません。これらの称賛の言葉の後ろについてくる私の犠牲がどれだけ大きかったはたぶん誰も理解できないと思います。私が姑と二十年近く同居してきて一番悔しいことは子供の教育です。私の息子は今高校三年生だが、未だに何もできません。中学校に行くまでは何でも姑がしてあげたのです。一人しかいない息子の子供だから可愛いのは当然だろうと思うけど、子供には一定の年齢段階で身につけないといけない課題があります。姑も退職した教師ではあるが、なんと言っても年寄りなので、姑のこのような行動に私は賛成できなかったが、反対することもできなかったです。反対すると敢えて姑に勝とうとする礼儀のない嫁になり、家庭内矛盾が発生するからでした。二十年間我慢して得たものも多いが、失ったものはもっと多いです。老親扶養は子供の義務で果たさなければならないが、必ずしも一緒に住むのが親孝行ではないと思います。別居していても親孝行する方法はいくらでもあると思っています。
老親扶養から感じた負担
自分の子供がいて、自分の夫がいて、自分の仕事がある状況の中で、自分の生活の一部を犠牲として老人扶養に当てるということは簡単な事ではないと思います。負担を感じていないというのはうそだと思います。出勤のため家を出ようとしているとき、家政婦さんからの呼び声が聞こえます。「金先生、先生の姑がまた大便をもらしましたよ」私は仕方なく、靴を脱いでその片付けに取り組ます。このようなことは私にとって一回、二回あったことではありません。身体的、精神的の疲労を感じたのも一回、二回だけではありませんでした。
老人虐待について
子供としてやってはいけないことだと思います。でも、私たちの日常生活の中で、充分にありえることだと思います。私の姑は植物人間になってから、自分で自分の食べる量を調整することができなくなりました。一回は過食して一日四回も布団を汚したことがありました。その日、私は姑に三食食事を与え、四回姑が汚した布団を片付けたが、自分は一日中何も食べることができませんでした。結局私は教師という自分の身分さえ忘れて夫に向かって叫んだのです。「私の母でもないのになぜ私がこんな苦労をしなければいけないの?」もしそのとき私が教師ではなく、極一般の主婦だったら、その気持ちを姑に向けたかもしれません。自分で経験したことのない人にはたぶん理解できないと思うが、虐待は充分にありえると思います。もちろんそれには人格問題もあると思います。
自分たちの老後について
私の夫婦は二人とも国家公務員なので年金はあると思います。もし私たちが、運よく二人一緒に死ぬと一番いいが、そのようなことは起こりにくいと思います。夫婦の中の一人が先に亡くなると、残りの一方は養老院に行こうと思っています。子供は私の夫婦を扶養するために生まれたのでなく、私たちを扶養する義務もないと思います。何回か養老院に行ったことがあるが、そこの生活環境はあまりよくありません。この問題を解決するのは政府のこれからの課題だと思います。そして、私が入る時代になると、解決できると信じています。
― 老親の話し相手のために家政婦を雇いました。
プロフィール
F氏、男性。1961年4月14日の生まれで今年43歳。専門学校を卒業した後1980年9月から現在まで龍井市審計局(会社の経理を監査する部門)に勤めている。仕事関係で今の妻と知り合い、2年間の交際を経て、1986年に結婚。妻も1961年の生まれで、1998年勤めていた会社が倒産したあと、ドイツに出稼ぎに行っている。高校二年に通っている18歳の娘がいる。
家族構成
私は龍井市太陽村で生まれました。両親は農民に、農業に従事していましたが、1972年に父が病気で亡くなりました。母は私が専門学校を卒業してからずっと私と一緒に生活しています。私は五人兄弟で、上に姉が三人と下に弟一人がいます。両親は考え方が古かったので、私と弟は都市の親戚の家に送って勉強させ、三人の姉は地元の小さな学校に通わせました。私は専門学校まで、弟は大学まで通うことができましたが、姉三人はみんな中学校までしか通うことができませんでした。当時私も大学まで行きたかったが、父が早く亡くなったし、家計も苦しかったので専門学校を選び、大学への道を弟に譲りました。弟はみんなの期待とおり優秀な成績で中国人民大学に入学し、今は妻と娘三人で、日本で生活しています。一番上の姉は中学校を卒業した後、地元の男性と結婚し、今も太陽村で農業をやっています。娘と息子がいますが二人ともすでに結婚しています。二番目の姉も中学校を卒業した後、龍井市三合という村に嫁に行き、今もそこで生活しています。三番目の姉は今韓国に出稼ぎに行っています。妻は四人兄弟で娘三人と下に弟が一人います。お父さんはもう亡くなり、お母さんは今息子と一緒に暮らしています。
居住状況
1995年の年末勤めている職場から今住んでいるマンションを分配してもらいました。大きさは108平方メートルくらいあって、寝室が三つついています。母と家政婦、私たち夫婦、娘がそれぞれ一部屋ずつ使っています。妻、娘との三人暮らしだったら、寝室が二つついている三、四階の家を選んだはずですが、母と一緒に生活しないといけなかったので寝室が三つついている一階の家にしました。
母の状況
母は今年80歳で、一生きつい農業に従事していたし、私たち兄弟を勉強させるためにあまりにも苦労したので、同じ年齢層の老人よりはふけて見えるし、健康状況もあまりよくありません。自立がやっとできるぐらいです。農業に従事していたので、年金はなく(中国では農民には年金制度が適応されていない)、医療費も全部自己負担になっています。医療費として年間1万元くらい必要だが、そのほとんどは日本にいる弟が送ってくれています。2001年には心臓病で一年に三回も入院したことがありますが、その費用は3万元を超えていました。治療費はほとんど私と弟が用意し、看病は姉たちがやってくれました。
老親への主な扶養方式
経済的に独立することができてから今まで、母と一緒に暮らしています。私は息子だし、長男なので、母が私と一緒に生活するのは当たり前のことです。母も私と一緒に生活するのを望んでいたし、兄弟たちも私が母を扶養するのを当然のことだと思っています。母の面倒は兄弟五人が力を合わせてみています。普段の生活費は主に私の夫婦が出していますが、大きな出費がある時、例え入院したりするときは、弟夫婦からお金が送られてきています。農村に住んでいる姉たちからは毎年お米とか冬用野菜が送られてくるし、韓国に出稼ぎに行っている姉からもお金とか衣類、保健用品などが送られてきています。私は母を扶養するにあたって、精神的慰撫という面で、力を入れています。常に母の健康状態についてたずねているし、週末には娘、母と一緒に近くの公園に散歩に行ったりしています。仕事が終わってからはできるだけ早めに帰宅して母のそばにいてあげたり、祝祭日には姉とその子供たちを家に呼んで、母を喜ばせたりしています。2001年、母が心臓病で入院治療を受けてからは、家に住み込みの家政婦を雇っています。家政婦さんには洗濯、食事の用意、部屋掃除などといった家事もやってもらっていますが、私が家政婦を雇った一番大きな目的は母に話し相手を探してあげるためでした。そのために特に年をとっている家政婦さんを雇っています。母を養老院に送ると経済的にはもっと安くなるし、私の生活ももうちょっと楽になったかも知れませんが、母には養老院での寂しい生活は送らせたくありません。一人で私たちのために苦労してきた母には、家族のそばで楽しい老後を送ってもらいたいです。母を扶養しながら困難とかも感じたことはありますが、早く夫を亡くし、一人で子育てに頑張ってきた母の苦労に比べると何でもありません。負担だと思ったことは一回もありません。
妻の母もいまその息子と一緒に暮らしていますが、娘も同じく子供なので、私は妻の母にも毎月生活費を送ってあげています。生活費を少し節約すれば済む金額などで、特に負担だとは思っていません。
老人扶養に当たっての希望
私の母の場合は子供が五人もいるし、五人が力を合わせて母の面倒を見ているので、希望などは特にありませんが、面倒を見てくれる人のいない老人には、社会が積極的に働きかけて幸せな老後を送れるようにしてもらいたいです。
養老院について
今、延辺にも敬老院、光栄院、老人ホームなど数多くの老人向けの施設があります。これらの施設は子供のいない老人とか子供はいるが扶養義務を果たしてくれない老人にとってはやはり必要だと思います。特に高齢化が進む中、これらの施設の増設は必要不可欠だと思っています。養老院の社会的役割はとても大きいと思っています。
老人扶養について
別の人たちはどう思っているか分かりませんが、私は子供として老親を扶養するのは当たり前のことだと思っています。
老人虐待について
子供はもちろん子供としての理由があって老親を虐待するとは思いますが、親が自分のために苦労したことを考えるとき、これは人間としてやってはいけないことだと思っています。
自分たちの老後について
私は年金があるはずだし、妻も老後のため人寿保険(日本の生命保険にあたる)に入っていますので経済的には問題はないと思っています。私は娘しかいないので、将来には養老院に入るつもりです。娘が常に会いに来てくれればそれでいいと思っています。
― 子供たちは私を扶養するために生まれたのではありません。
プロフィール
G氏、女性。1956年生まれで今年48歳。高校を卒業した後、母との入れ替わりで製紙工場に入ったが、景気がよくなかったため1994年リストラされる。現在は自営業をやっている。25歳のとき現在の夫と結婚し、いまは20歳の娘と16歳の息子がいる。夫は1999年に韓国に出稼ぎに行ったが、まだ帰っていない。
夫との結婚と現在の仕事
24歳の時友達の紹介で今の夫と知り合い、翌年に結婚しました。当時夫は軍隊から帰ってきたばかりで、農業に従事している田舎の両親と一緒に住んでいました。今はあまり重要視されていないが、私が結婚する当時は戸籍が問われる時代だったので、両親は農村戸籍である夫との結婚を必死で反対しました。結婚してから夫は、父の紹介で父の知り合いの工場で働き始め、戸籍も都市戸籍に変えてもらいました。結婚当時、19平方メートルのアパートを借りていましたが、一年後には両親、兄の夫婦が住んでいる敷地内に引越し、三つの家族が同じ敷地内で暮らしました。94年仕事が無くなってからは、前から少しずつやっていた北朝鮮との商売を本格的にやりはじめ、三年間の間に十回以上も北朝鮮に渡りました。95年に夫の職場から70平方メートルくらいのマンションを分配してもらい、翌年に引越ししました。引越しするときに、三年間稼いだお金で家具、家電などを全部新しいのに変えました。市の中心からは離れていましたが、30分おきに市内行きバスが走っているので、大きな不便は感じませんでした。97年にはロシアに出稼ぎに行きましたが、職場からレイオフされた夫が韓国に出稼ぎに行くことになったので、私は帰国して子供たちの面倒を見ることにしました。今年7月に夫から送られてきたお金と娘(2002年高校を卒業した後、日本に留学しましたが、今は学校を辞めてアルバイトだけに専念している)から送られてきたお金を合わせて、延吉に130平方メートルくらいのマンションを二つと90平方メートルくらいのマンションをひとつ購入しました。学校の近くにある一番大きいマンションは中を六つに仕切って、学生たちに賃貸していますが、その収入が月に1000元ぐらいあります。もう一つは私たち家族が住んでいて、90平方メートルのマンションには来年から店をだすつもりです。今は賃貸しているマンションの管理と店のオープンとのため、忙しい日々を送っています。
家族構成
私の両親は二人とも労働者出身で、父は市の製紙工場で工場長として勤め、母は同じ工場の品質管理係として働いていました。そんなに裕福とは言えませんでしたが、同年代の友達よりは優越な環境の中で育ちました。私は四人兄弟で上に兄一人と下に弟二人がいます。父は一人娘であった私を特にかわいがってくれました。父は16年前肝硬変にかかり、入院治療を受けましたが、効果が出ず、病院で亡くなりました。母は十四年前、親戚を見送りに行ったとき事故にあい、上海の大きい病院に行って治療を受けましたが、今でも右足を自由に使えません。向こう側の間違いが大きかったので、治療費は全部だしてもらいました。今は私と一緒に暮らしています。
兄は今年51歳で、妻、娘二人との4人家族です。兄は1991年勤めていた会社を辞めて韓国に出稼ぎに行きましたが、1996年に建設中のマンションの3階から転落し、それからはずっと病院で暮らしたそうです。幸い命に別状は無かったが、今までやってきた精密作業ができなくなりました(兄は元々アーク溶接の仕事をしていた)。兄が事故にあった後、兄の嫁も看病のため韓国行きました。現在は兄の嫁が韓国に残り、生活費を稼ぎ、兄は帰国して次女の面倒をみています。長女は中国で、短期大学を卒業した後、日本に留学し、今は日本の大学で勉強中です。兄はみんなよりも先だって韓国に渡り、入院中にも会社から治療費、生活費をもらっていたので、一定の貯金はできていると思います。上の弟は今年46歳で、妻、娘との三人家族です。弟は延辺の特産物を扱う会社で社長をやっています。弟の嫁は日本に出稼ぎに行って、今年でもう七年目になるが、まだ帰っていません。その娘は去年優秀な成績で、上海のある大学に合格できました。私たち四人兄弟の中で上の弟の生活がたぶん一番裕福だと思います。下の弟は今年45歳で妻、息子との三人家族です。二人は結婚してから今まで市で経営する小さな会社に勤めていたため、貯金もできず貧しい生活を送っています。去年その息子が大学に行くときの費用も私と上の弟が半分ずつ用意してあげたのです。
夫側の家族構成
夫は三人兄弟で上に姉と兄が一人ずついます。夫は農村出身で、両親は一生農業に従事してきた素朴なかたでした。夫は舅と姑が年をとってから生んだ子供だったので、両親からも、自分よりずいぶん年が離れている姉、兄からもかわいがってもらいました。夫の両親は私と夫が結婚してから何年も経たないうちに、病気で二人とも亡くなりました。医療費は主に大学で教授をやっていた姉の夫婦が出して、看病は兄の嫁がやりました。私たちはその当時結婚したばかりで、貯金もできていなかったし、仕事で職場もはなれなったため、何もできませんでした。7,8年前までも兄の夫婦と私の夫婦がお墓参りをしましたが、今は兄の夫婦が離婚しているし、兄も病気で動きにくくなったため、清明(中国の祝祭日)と中秋には私の夫婦がお墓参りに行っています。舅と姑が病気になったとき何もしてあげることができなかったことが、いまだにも私を苦しませているので、毎年心こめてお墓参りに行っています。贖罪の心も込めて。
居住状況と母の病気
今は今年購入したばかりのマンションで、母と息子、家政婦4人で暮らしています。寝室が全部で四つあるが、母と家政婦が一部屋、私が一部屋、息子が一部屋、残りの一部屋は娘のために用意したのです。今年73歳になる母は、製紙工場の退職者で、月に700元の退職金がでています。もし事故に遭わなかったらそのお金で充分に生活できたはずですが、今の母には退職金だけでは足りません。週に2回くらいマッサージを受けないといけないし、薬も飲み続けないといけません。上海で手術を受けた後母は、人の助けがあれば少しずつ歩けるようになって退院しました。当時事故を起こした運送会社から、これから病気になったとき医療費を払ってもらうか一時金か二つの中で決めてもらいたいと言われました。私と上の弟は前者にしようと主張しましたが、母は一時金をもらってきました。そのお金で兄にマンションを買ってあげるつもりだったのです。
老親への主な扶養形式
私の父は娘、息子、孫たちと暮らすのを老後の楽しみにしていたみたいです。同じ敷地内に家を三つ建てて、私の夫婦と兄の夫婦を含め、全員で一緒に暮らしていました。でも、父のこのような楽しみは長続きできませんでした。弟二人が相次いで結婚し、分家したのです。父が亡くなった後、母は運送会社からもらった一時金と今までの貯金を合わせて兄にマンションを買ってあげました。長男夫婦に老後の面倒をみてもらうつもりだったのです。兄夫婦もこのことを承認し、新しいマンションに引越ししたのです。でも、兄夫婦と母との同居は長続きできませんでした。母と兄の嫁、孫たちの間に矛盾があったからです。その後、名義上では兄が母の面倒を見ていることになっていましたが、実は下の弟の夫婦と私たち夫婦が面倒をみていました。普段は重い介護を必要としないが、何回かは倒れて全然動けなくなったことがありました。でも、そのとき私は北朝鮮との商売で忙しかったので、下の弟の嫁が面倒をみました。一昨年兄は、韓国から帰ってきてから市の中心地に新しくマンションを購入したため、母が兄に買ってあげたマンションは賃貸して、母の医療費に当てています。夫が韓国に出稼ぎに行ってから、母はほとんど私の家で暮らしています。今年の2月、凍り道で滑って完全に動けなくなるまでは下の弟の嫁に頼んだり、昼の家政婦さんを雇ったりしながら過ごしましたけど、事故以来は今の住み込みの家政婦さんに頼んでいます。事故を起こす前までは食事も自分でできたし、トイレも人の助けがあればいけましたが、事故を起こしてからは食事もトイレも人の手を借りないといけない状態です。今はお風呂に入れるなど、一人でできない介護以外はほとんど家政婦さんに任せています。家政婦さんには母の介護以外に、たまに晩ご飯の用意、洗濯、部屋掃除などもやってもらっています。こっちで生活費を出してあげるほかに、給料として月に500元ずつ支給しています。母はきれい好きで、一般の人は気に入っていませんが、今回の家政婦さんは気に入ってくれているみたいです。家政婦さんも今の待遇にあまり文句はなさそうな感じがして安心はしています。医療費、生活費、介護費用などを合わせると母には月に1200元くらいの費用が必要となっていますが、母の退職金と、マンションの賃貸費用以外、兄と上の弟が月に200元ずつ、下の弟がつきに100元出してくれていますので今のうち経済的には困っていません。それ以外にも祝祭日には健康用品を持ってきたり、祝日にはお見舞いに来てくれたりしています。
親からの援助
舅と姑からは経済的には何ももらったことがありません。私たちが結婚する当時夫の両親も厳しい生活を送ったので、私たちに何かをしてくれる状況ではありませんでした。私たちも何もしてあげることができませんでした。父と母からは結婚するとき一定の経済援助をもらいました。特に夫の戸籍と勤務先の解決には父の助けが多かったです。その分夫も父の入院の時と母の病気の時看病に積極的でした。
老親の扶養から感じた負担
母に経済収入があるし、兄弟からも援助をもらっているから、経済的に問題とか介護問題などの面では、あまり負担を感じています。でも、夫の両親が病気のときはなにもやってあげることができなかったし、元々は兄が扶養するようになっている母を私の家で扶養しているので、夫と夫側の親戚に申し訳ないと思っています。兄の嫁が帰ってきたら兄弟でもう一度母の扶養問題を相談することにはなっていますが、結局的にはたぶん私の家で扶養することになると思っています。夫にどう説明するかが心配です。
老人扶養について
私の世代の人たちは老親を扶養するのは子供として果たすべき義務だと思っていたし、そうするために努力してきましたが、今の子供たちにそのようなことを求めるのはちょっと無理だと思っています。生活リズムが早くなるにつれて、今の若者たちは自分の生活をするだけでも精一杯で、老親扶養のために彼らの生活を犠牲するというのは、かわいそうだと思います。私にも子供が二人いますけど、わたしは子供たちの前で私の老後問題について話をしたことは無いです。私は自分の老後のために彼らを生んだわけではありません。子供たちに負担をかけたくないです。
養老院について
子供の負担も減らすことができるし、自由な生活も送れるので養老院はいいと思います。
私も母を養老院に送ろうと思って行って見たこともあるが、設備もあまりよくなかったし、専門の看護婦などもついていなかったのでやめました。それに母を養老院に送ることに兄弟たちもあまり賛成してくれませんでした。子供が四人もいるのに養老院に行くのは見た目にもあまりよくないとか言いながら。でも、私は将来面倒が必要となったときは、養老院に行こうと思っています。
自分の老後について
私たち夫婦は二人とも将来年金がないです。今は老後子供たちに負担にならないよう、一所懸命お金を貯めています。将来夫婦二人の力で生きていけないときは、養老院に行きます。夫も私と同じ考えです。子供たちには負担をかけたくないです。
ここまでは、何らかの方法で老親の扶養を続けている延辺州の七つの家族についてみてきた。これらの事例からは、扶養者の養老意識を読み取ることができる。では、老人扶養意識、自分たちの養老意識、養老院についてといった三つの方面から詳しく分析してみる。
老人扶養について
どのケースも老人扶養は子供として当たり前のことである認識している。老親扶養についての彼らの認識を詳しく見てみると、以下の通りである。
事例1のAさん:「子供として果たすべき義務だと思います。孝心のない人はどんなことに対しても熱情を出せません。孝心は人を評価するに当たって一番重要なことです」
事例2のBさん:「両親の面倒をみるのは子供として当たり前のことである同時に、子供の責任だと思います。私たちの周りには育ててくれた両親の面倒を見ない子供たちがいるのですが、将来、彼らの子供たちも見習うのではないかと心配です。自分を育ててくれた親の恩も分からない彼らが国のために何ができ、そしてその人間性はどうでしょうか?」
事例3のCさん:「人間はみんな年をとっていくのです。老人を扶養するのは子供としての義務で、老人扶養の義務を果たさなかったり、老人を虐待したりするのは人間としてやってはいけないことです。誰にも年を取って老人になる日があるのです。私が親によくしてあげると私の子供も私が年をとった後私によくしてくれるのです」
事例4のDさん:「父母はいろんな苦労をしながら、子供を育てているので、その父母が年をとったあと扶養するのは、子供として当たり前のことです。」
事例5のEさん:「老親扶養は子供の義務で果たさなければならないが、必ずしも一緒に住むのが親孝行ではないと思います。別居していても親孝行する方法はいくらでもあると思っています。」
事例6のFさん:「別の人たちはどう思っているか分かりませんが、私は子供として老親を扶養するのは当たり前のことだと思っています。」
事例7のGさん:「私の世代の人たちは老親を扶養するのは子供として果たすべき義務だと思っていたし、そうするために努力してきましたが、今の子供たちにそのようなことを求めるのはちょっと無理だと思っています。」と答えていた。
事例7のGさんのように、自分が老親に対する扶養の基準と、子供たちの自分への扶養の基準が違う回答者も存在するものの、少なくとも老親への扶養は自分たちの義務であるというのがみんなの共通の認識であった。
自分たちの老後について
老後についての七人の考え方を詳しく見てみると、以下の通りである。
事例1のAさん:「私は旦那さんと二人とも生きているうちは二人で生活するつもりです。もしその中の一方が亡くなったら老人ホームに行きます。」
事例2のBさん:「私たち夫婦が一緒にいる間にはどこにも行きません。本当に動けなくなったら、家政婦さんを雇います。」
事例3のCさん:「将来は妻と二人で生活するつもりです。もし、もっと年をとって動けなくなったら家政婦を雇って面倒を見てもらおうと思っています。老後の医療費のために少し貯金はしてきたが、もしそれで足りない場合は子供たちに頼むしかありません。私が彼らを育ててあげたからそれくらいしてもらうのも当たり前だと思います。」
事例4のDさん:「できればやっぱり子供と一緒にいたいです。頼れるか頼れないかはそのときにならないと、良く分かりませんが。老後どんな選択をしても、やはり自分たちに経済的基礎があったほうが心強いと思っています。今は老後のために少しずつお金を貯めていく以外に、保険にも参加しようかと思っています。」
事例5のEさん:「運よく二人一緒に死ぬと一番いいが、そのようなことは起こりにくいと思います。夫婦の中の一人が先に亡くなると、残りの一方は養老院に行こうと思っています。子供は私の夫婦を扶養するために生まれたのでなく、私たちを扶養する義務もないと思います。」
事例6のFさん:「私は娘しかいないので、将来には養老院に入るつもりです。娘が常に会いに来てくれればそれでいいと思っています。」
事例7のGさん:「将来夫婦二人の力で生きていけないときは、養老院に行きます。夫も私と同じ考えです。子供たちには負担をかけたくないです。」と答えていた。
2001年長春で行われた調査によると、自分の老後についての理想は子女との同居ではなく「夫婦二人の生活」だと答えたものが59%、ついで「高齢者福祉施設」が16%、子女との生活はそれより低く13%を下回った。また自分が自立生活不可能になった場合、誰に介護してもらいたいと思うかという質問では、51%の人が配偶者を筆頭に選択しており、ついで老人アパートや養老院などの高齢者福祉施設が25%、子女や孫、人を雇うというのはそれぞれ11%、10%であった(杜 2000)。今回の調査でもこれと似たような傾向が見られた。
今回の調査では、人々の自分たちの老後についての観点は大きく三つのタイプに分けられる。その一つはDさんのように、老後はできればやっぱり子供と一緒に暮らしたいと思っているタイプである。ただし、Dさんの場合も老後はひたすら子供に頼るのではなく、頼れなくなった場合のためにきちんと経済的準備を進めようと考えている。その二つ目のタイプは最終的に人の手が必要となったときは、養老院を希望するタイプで、A,E,Fさんがこのような考え方の持ち主である。三番目のタイプは、事例のB,Cさんで、彼らは家政婦を老後自分たちの介護の担い手として希望している。ここから、親の面倒を見るのは当然だが、自分の老後は必ずしも子供たちに面倒をみてもらうつもりではない、という傾向が読み取れる。「養児防老」という中国の伝統的な扶養意識は、延辺州の人々の中ではその土台が崩されつつあるのではないかと考えられる。
養老院について
七人の考え方を詳しく見てみると、以下の通りである。
事例1のAさん:「老人ホームに行ったことがあるが、条件はよかったのです。生活用品が全部そろっていたし、食事も与えられ、普段の面倒もみてくれました。洗濯、部屋の掃除なども専門の人がやってくれました。だから、私は老人ホームに行くのを賛成しています。でも、中国は保守的な国だから、私に母と姑を老人ホームに送れと言われても、私にはそれができません。なんと言っても人は社会という大家庭の中で暮らしているから。しかし、将来私自身は老人ホームに入るつもりです。」
事例2のBさん:「周りの人たちを見ると、年寄りになったら老人ホームに行きたいという人が多いが、私はあまり行きたくありません。子供がなかったら別の話になるが、いろんなところから来た人が集まって生活するなんて考えてみるだけでも嫌になります。今は老人ホームの環境がよくなり、一人部屋で手洗いなども付いているし、掃除してくれる人もいるそうですが、子供たちの関心には比べられないでしょう。」
事例3のCさん:「養老院はいいと思います。でも、私はご飯の食べられる程度であれば親を老人ホームには行かせません。私も仕事の関係で何回か老人ホームに行ったことがあるが、行くたびにその老人の子供たちはみんな何をしているかと疑問を感じました。設備が普通の家庭よりいい老人ホームもあるが、そこで老人たちは寂しい生活を送っているのです。そこには人倫はありません。年をとってからはやはり子供、孫たちと一緒に暮らすほうが精神的にも快楽を感じることができるのです。私は今でも老人ホームに親を送る子供をみると納得が行きません。子供がいなくて面倒を見てくれる人がいない場合は仕方ないが。」
事例4のDさん:「各家族の事情によって養老院に対する評価も違うと思っていますが、私はあまり賛成できません。老後に面倒を見てくれる人がいない場合、養老院はいい選択かも知れませんが、子供がいながら、養老院に行っている老人たちを見ると、気の毒だなぁという感じがします。」
事例5のEさん:「夫婦の中の一人が先に亡くなると、残りの一方は養老院に行こうと思っています。何回か養老院に行ったことがあるが、そこの生活環境はあまりよくありません。この問題を解決するのは政府のこれからの課題だと思います。そして、私が入る時代になると、解決できると信じています。」
事例6のFさん:「今、延辺にも敬老院、光栄院、老人ホームなど数多くの老人向けの施設があります。これらの施設は子供のいない老人とか子供はいるが扶養義務を果たしてくれない老人にとってはやはり必要だと思います。特に高齢化が進む中、これらの施設の増設は必要不可欠だと思っています。養老院の社会的役割はとても大きいと思っています」
事例7のGさん:「子供の負担も減らすことができるし、自由な生活も送れるので養老院はいいと思います。私も母を養老院に送ろうと思って行って見たこともあるが、設備もあまりよくなかったし、専門の看護婦などもついていなかったのでやめました。それに母を養老院に送ることに兄弟たちもあまり賛成してくれませんでした。子供が四人もいるのに養老院に行くのは見た目にもあまりよくないとか言いながら。でも、私は将来面倒が必要となったときは、養老院に行こうと思っています。」
今回の調査から見ると、養老院についての延辺州の人々の観点は次のように分けることができると考えられる。一つは、養老院へ行くのに賛成と言い、自分も介護が必要となった時は養老院への入居を希望すると主張しながら、周りの目が気になって、養老院という選択肢を放棄せざるを得ないと言う観点で、事例1のAさんと事例7のGさんはこのような考え方の持ち主である。次は事例5のEさんと事例7のGさんのように、養老院に賛成しながら、現在の養老院はその設備が不備であるので、その選択は難しいという観点。三番目は、事例中のB,C,Dさんのように、養老院では一家団欒の楽しみなど味わうことができないため、できれば養老院には行きたくないというマイナスイメージの観点である。これらの三つはまた、後で説明する、延辺州の人々が家政婦という選択肢を受け入れるようになった原因の一つでもある。四番目は、養老院に賛成し、高齢化が進む中、養老院は重要な社会的役割を果たしているというプラスイメージの観点で、事例6のFさんはここに属する。ただし、自分の場合は、母に養老院での寂しい生活はさせたくないと言い、養老院ではなく、家政婦という選択肢を選んでいる。ここから、延辺州の多くの人々はいまだに、養老院という選択肢に不満、抵抗感を持っているものの、これはまた人々にとって老後の有力な選択肢となりつつあると考えられる。
第一節では、延辺州に住んでいる人々の養老意識を老人扶養、自分たちの老後、養老院と言った三つの方面から分析してみた。ここでは、このような扶養意識を持っている人々が実際の生活の中ではどのような扶養方法を選んでいるか、そのような方法を選ぶようになった条件、理由について簡単に触れてみることにする。
1、具体的な扶養方法
第二章の第二節で述べたように、王 偉は「多様化する居住形態の中における老親扶養」の中で、居住形態を同居、非完全同居、輪番同居、別居といった四つの形態に分けていた。今回の調査では、非完全同居、輪番同居といったケースはなかった。七つの事例は
別居(事例1,2)と同居(事例3,4,5,6,7)に分けられ、同居は又、家族のみによる扶養(3,4)と、家政婦を導入するケース(5,6,7)とに細かく分類することができる。
詳しく見ると、事例1は、親は独居し、自分で生計を維持する。事例2は、親は独居するが、子供たちから経済的援助をもらっている。事例3は、親は一人息子と同居し、生活を共にしている。事例4は、親は長男と同居し、生活を共にしている。事例3も事例4も親の扶養に当たって別の兄弟からの援助をもらっていない。一方、事例5、6、7は、親は子供と同居するが、そこに家政婦が導入されている。これは先行研究では触れられていないケースである。
2、選択の条件と理由
ここでは、別居(事例1,2)、つまり本稿での近くに住みながら面倒を見るという扶養形式が成り立つ条件、同居という扶養方式の主観的条件、家政婦という選択肢の背景という三つの方面を、事例の内容を踏まえながら分析してみる。
(1)今回の調査を通じて、別居(近くに住みながら面倒を見る)という扶養形式が成り立つ条件として、老親に経済的能力があること、子供たちが住む場所に困っていないこと、老親が健康であること、老親が別居を希望していることなどがあるということが分かるようになった。
事例1で扶養対象となっているのは、Aさんの母と姑であるが、母の場合月に1200元くらいの年金をもらっているだけではなく、自分のマンションも持っているし、韓国に出稼ぎに行っている三人の娘からも時折お金や服が送られてくる。それに国が医療費を100%支払ってくれているので、経済的には充分な余裕を持っている。姑は月に年金400元くらいの年金とマンションの賃貸費700元といった固定収入があるだけではなく、自分でマンションも持っているので、経済的には安定している。事例2では、Bさんの舅と姑は、年金はもらっていないが、農業の収入があり、自分たちの家を持っているだけではなく、子供たちからも毎月一定の経済援助をもらっているので、経済的には何の困難もない。
また事例1,2とも子供たちが自分の家を持っており、住む場所に困っていない。
事例1でAさんの母は健康で、一緒に買い物に行ったりすると私の方がついて行けないくらいであるとAさんは言っていた。姑の方は先天性心臓病をもっているものの、一人暮らしするのには何の不自由もなく、今まで看護を必要としたこともない。事例2の場合、両親は農業活動に従事するくらいで、健康である。
事例1、事例2とも親は子供たちとの別居を希望している。Aさんは「主な原因は姑が私たちと同居するのを反対するからです。姑は一生静かな環境で暮らすことに慣れているから、自分で生活できる間はひとりで暮らすことを願っています。子供に負担をかけたくないという姑の思いやりかもしれません。」と、Bさん「私は夫と相談し、兄弟がいくらか生活費を出す情況の下で親を我が家で面倒を見ようと思っていました。でも、夫の親は二人での空間が必要だと言っていました。」と述べていた。
(2)同居という老人扶養の主観的条件
第一に、「孝」の伝統文化が、同居という老人扶養の主観的条件をなすと考えられる。
家族が責任を持って老親を扶養するのは中国の伝統文化であり、人々の中に根差している。新中国が成立して50年経ち、改革開放も20年経った今でも、その影響はまだ強く残っている。調査に協力してくれた7人もみんな老親を扶養するのは子供として当たり前であるという認識を持っている。
第二に、一家団欒の楽しみを享受しようとする欲求は、このような老人扶養の精神的動力である。人間は社会のもので、物質的欲求だけではなく、精神的欲求も持っている。老人は孤独を恐れ、子供、孫たちと一緒に生活するのを楽しみにしている。これはまた老人扶養を家庭内で行うことを要求する。一家団欒の楽しみを享受するのは事例3のCさんが四世代同居という生活スタイルを選んだ主な原因でもある。事例3のCさんは「年をとってからはやはり子供、孫たちと一緒に暮らすほうが精神的にも快楽を感じることができるのです。」と述べていた。延辺州の多くの人たちはCさんと同じ考え方を持っており、これは又多くの人々が養老院よりも高くつく家政婦を導入してでも同居を選択する理由のひとつでもある。
政府の強力的な推進も、人々が同居という老人扶養の方法を取るのに一定の影響を与えていると考えられる。ただし、今回の調査で、そうした推進の痕跡を直接観察できたわけではない。
(3)家政婦という選択肢の背景
家政婦という選択肢は、先行研究のなかでは触れられていない分野で、これは今回の調査地として選ばれた延辺州の独特の現象である可能性がある。家政婦という選択肢が生み出されたきっかけとなったのは、1988年ソウルオリンピックと1992年の中韓国交樹立による韓国への出稼ぎ者の増加である。言葉の通用ということもあり、延辺州の多くの人々は韓国に出稼ぎに行っている。今回の調査でも、事例2を除いた六つの家族には全部家族メンバーの一人が外国に出稼ぎに行っているという特徴がある。このような背景のもとで、家政婦という選択肢は、ますます多くの人たちに受け入れられ、現在は延辺州の人々にとっては老親扶養の重要な選択肢の一つになっている。今回の調査で明らかになったように、延辺州の人々は家政婦による介護を老親扶養に導入するだけではなく、これは又、多くの人々にとって老後のための選択肢にもなっている。例えば、過去に家政婦を雇ったことがある、または、現在家政婦を雇っているE,F,Gさん以外に、A、B、Cさんからも今後の老親の扶養、自分の老後のために家政婦という選択肢を利用したいという意志を読み取ることができる。事例1のAさんは「将来もし、老親が動けなくなったらそのときは家政婦を雇うつもりです」と、事例2のBさんは「私たち夫婦が一緒にいる間にはどこにも行きません。本当に動けなくなったら、家政婦を雇います」と、事例3のCさんも「もし、もっと年をとって動けなくなったら家政婦を雇って面倒を見てもらおうと思っています」と述べていた。それでは、ここで家政婦による選択肢の利用を高める要因について、次の三つの方面から論じる。
要因1:主な介護労働力である長男の嫁9が就労している場合、あるいは、長男の嫁自身または家庭メンバーが出稼ぎに行っている場合に、家政婦を雇うことが多いようである。例えば、事例5の場合は、長男の嫁(Eさん)が有職者であり、被介護者の娘(Eさんの義姉)が日本で生活している。事例6では、被介護者と同居している嫁(Fさんの妻)がドイツに出稼ぎに行っている。事例7の場合は、長男の嫁(Gさんの義姉)が韓国に出稼ぎに行っており、同居している娘(Gさん)は有職者、その夫は韓国に出稼ぎに行っている状況である。このような状態で、もし扶養者あるいは被介護者のなかに施設への抵抗感を持っている人がいると、家政婦による介護は選ばれる可能性の高い選択肢となるのである。
要因2:兄弟間のネットワークおよび分担(輪番制)が期待できないこと
家政婦を雇っていたことがある、または現在雇っている事例5、7について分析してみると、事例5のEさんの場合兄弟は三人いるが、一番上の姉は外国にいるし、二番目の姉は仕事で職場を離れることができないため、老親への介護は分担が期待できない状態であった。事例7のGさんの場合も、3人の嫁のうち2人は外国に出稼ぎに行っているし、もうひとりは仕事に追われているため、介護の分担は期待できない状況であった。
要因3:施設への抵抗感
5章の第一節で触れたように、施設への抵抗感、不満感も家政婦という選択肢の一つの背景になっている。調査内容から見ると、施設への抵抗感、不満感には主に「周りの目」、「設備の不備」、「養老院の寂しさ」と言った三つがあった。例えば、事例1のAさんと事例7のGさんは「周りの目」が気になって、親の扶養に当たって養老院の利用を拒否していた。ただし、二人とも自分たちは老後養老院に行こうとしている。事例2のBさんは、今の養老院の設備はよくなったが、多くの人が集まって生活しているし、また子供たちの関心には比べられないから、自分の老後は養老院ではなく、家政婦を雇うつもりだと言っている。事例3のCさんは「わたしは今でも老人ホームに親を送る子供を見ると納得が行かない」と施設への抵抗感を示し、自分の老後も養老院ではなく、家政婦と言う選択肢を選ぶといっていた。それ以外にも事例6のFさんの場合は、養老院にはプラスイメージを持っているが、自分の場合は「母を養老院に送ると経済的にはもっと安くなるし、私の生活ももうちょっと楽になったかも知れませんが、母には養老院での寂しい生活は送らせたくありません」と話し、実際の生活の中でも家政婦を雇っている。また事例5のEさんと事例7のGさんからは設備の不備に対する不満を読み取ることができる。
先行研究が発見した輪番制は、兄弟間の空間的・時間的距離や、兄弟各々の生活状況といった条件がないと成立しない。したがって、流動化が進む現代中国(特に都市部)には合わない扶養方式だといえるかもしれない。延辺州の場合には、家族メンバーの就労状況(出稼ぎも含む)や兄弟ネットワークも活用できないと言った状況の中でどのような方法をとるのかという問題に人々は直面することになる。このとき、私的扶養を重んじる価値観が、施設への抵抗感という形でまだ根強く残っていると、経済的には不利だが家庭内介護を可能にする選択肢として、家政婦を雇うという方法が現実的なものになると考えることができる。
中国における特徴,すなわち社会的な高齢者保障の整備が標榜されつつも私的扶養を軸とすることが奨励されてもいるという流れの中で、人々は具体的にどのような老親扶養の仕方を選択するのだろうか。このような、疑問点の解決を目的に2004年9月から10月にかけて中国吉林省延辺朝鮮族自治州で、実際に老親の扶養をしている7人の人たちに聞き取り調査を行った。調査結果延辺州の人々は主に近くに住みながら面倒を見る方法、同居しながら家族が面倒を見る方法、同居はするが扶養に家政婦という選択肢を導入する方法(今回の調査地である延辺州の独特の方法)などで老親扶養をしていた。
私は当初,「養児防老(子を養うのは老後のため)」という考え方は多くの人々にとって未だ重要で、その結果、人々は経済的援助,精神的慰撫,身体的介護といったあらゆる面で,多少の無理があってもできるだけ家族によって行なう選択をする可能性があると考えていた。調査を行ってみると、親孝行の観念は今でも基本的であったが、「養児防老」の観念はその意味を失いつつあるように見えた。しかし、一方で、多くの人の語りからは、施設による扶養は受け入れられるようにはなってきているものの、抵抗感も未だに強く残っていることが分かる。このような中で、多くの人々が解決方法として利用し始めたのが家政婦の導入であった。この方法は、無理をしてでも家族メンバーだけですべての面での扶養を行なうというものではないが、あくまでも家庭の中で行うことを可能にする方法である。こうした方法が好まれるところに、私的扶養がゆらぎつつも人々の中に強固である、そうした現代中国の変化の一端を読み取ることができる。
註
1、中国では、世界統計とは違って一般的に60歳以上からを高齢者とみなす。
2、老年権益法あるいは高齢者権益保障法とも呼ばれる。本論文では用語として最もコンパクトで,なおかつ広く用いられている「老年権益法」という用語を以下では用いる。
3、
東方ネット8月28日付速報によれば、広東省には現在約45万人の老年性痴呆症患者がおり、うち広州市にはおよそ7万人がいるという。
4、
もともと福利厚生を社会化するというのは、国有企業の負担軽減策の一つとして打ち出されたものである。企業が担っていた年金をはじめとする福利厚生部門を社会保険化することによって企業負担そのものは軽減されるが、労働者個人の負担は増大することになる。
5、
中国の退職者は離休と退休の2種類がある。
6、
不況による操業短縮の処理策として、企業が労働者を一時的に解雇すること。中国では、解雇せずに一時自宅待機させる一時帰休制の意味として使われている。
7、
北京市の60歳以上人口は現在183・1万人で、すでに常住人口の14・3%を占めている。この高齢者人口に対し、養老院は316ヶ所、1・6万余床であるが、半数近くがあきベッドである。専門家によれば、多くの高齢者が自宅を離れることを敬遠するからだと説明されている。(中国新聞社 2000年5月11日)
8、
朝鮮の暖房装置。床下に煙道を設け、これに燃焼空気を通じて室内を暖める。
9、延辺朝鮮族自治州では、長男夫婦が親の面倒をみるべきだという認識が一般的である。これは又延辺州と中国ほかの地域との大きな違いでもある。漢民族の場合、親は末っ子と一緒に生活しているケースが多い。事例3のCさん、事例5のEさん、事例6のFさんの語りからこのような観念を読み取ることができる。
日本語文献
王文亮,2000,「国際高齢者年と中国高齢者社会保障」、『九州看護福祉大学紀要』
張紀潯,1998,「中国における社会保障システムと社会保険制度の大改革―養老保険、失業保険制度の改革を中心に」、『海外社会保障情報』
中国社会科学院社会学研究所婚姻家族研究室、アジア女性交流・研究フォーラム(編),1994,『現代中国における都市家族の意識と生活に関する研究―北京調査及びバンコク・ソウル・福岡との比較』アジア女性交流・研究フォーラム
中国語文献
謝継昌,1985,「輪夥頭制度初探」『中央研究院民俗学研究集刊』第59期
王ッ興,1986,「漢人的家観念与群体」『人類学論文選集』中山大学出版社
郭康健、劉錫霖,1997,「両世代人的関係:北京、上海、広州的比較研究」『青年研究』
王来華、白宏光、栗徳彰,1998,「老年生活保障与対社区的依頼―天
杜鵬,2000,『中国 誰来養老』鷺江出版社