第2章 男性問題に関して

 

 この章では、「主夫」というものを分析するに当たって主要な観点となる「男性問題」及び、「主婦、家事労働」について述べたい。この二点の問題は、後にも述べる「男性受難時代」とも言われる現代においての「男性」や「主夫」というものに大きくかかわる問題である。そして、現実におけるこれらの問題が、テレビドラマというメディアにおいてはどのように描かれているか、ということを第4章の分析において捉えていきたいと思う。

 

1節 男性問題

 

 伊藤公雄は、「男性問題」は次の2つの意味を持ってくる、と述べている。以下に伊藤公雄が述べる男性問題についてまとめたい。1つは「男性問題が女性問題の裏表の関係にある」ことを理解すること。そして男性中心社会の変革は、女性がこの性による規制を変えようとしても、男性社会の中で利益を得、既得権を持っている男性の意識が変わらない限り、いくら制度や法律が変わっても根本的な解決は望めないということを認識し、「男らしさ」の古い鎧を積極的に脱ごうとして「自分らしさ」を追求する、という意味での男性問題である。2つめは、「男性受難時代」という言葉に示されているように、「男らしさ」のイデオロギーがゆらぎはじめたことに気づきながらも、「男性優位」の意識から脱出することができない不安を抱えた男性たちの時代という意味での問題である。伊藤はその指標として、1990年付近の中高年男性の自殺率の急増、強制猥褻事件の増加についても言及し、少年・青年たちのロリコン・コミックスブームや、1989年に発生した少年たちによる女子高生への監禁、レイプ、殺人、コンクリート詰めでの死体遺棄事件や、東京と埼玉をまたにかけた幼女連続誘拐殺人事件についても触れ、「男らしさ」のゆらぎがこうした現象として露出しているのではなかろうか、と述べている。また、どちらかといえば後者に属する男たちがまだ圧倒的であるといってよいだろう、とも述べているのである(伊藤公雄1993:171-174)。

 以上の二つの問題は、前者は現在の男性中心社会は男性の意識の変化がなければ社会体制の変化は望めない事、後者は変化を感じ取りながらも、依然として男性中心社会から脱却できない男性の迷いについてを表している。前者については、萩原(1997)は、「「主夫」や「育児」の体験記が本になったり(田尻1990など)、マスコミに取り上げられるくらいなのでまだまだ少数派である。例をあげれば、1991年に男性も取れる育児休業制度が成立したが、実際に制度を利用した男性は1%にも満たない。具体的な取り組みとしては遅々としているように思えるが、男らしさからの開放のためには、女性たちと同じように、この男性中心主義社会をいってみれば男性の視点で内側から批判的に検証する必要があるのだという気運は高まりつつあるといってもよいだろう。」と述べている。数字の多寡の差はあれ、現代においても当てはまることであろう。また後者についても萩原は、「1980年代後半の家族法の改正で男性による配偶者の扶養義務が廃止されたスウェーデンですでに社会問題化し、たとえば妻、子どもを養うことに男役割を見いだしていた男たちの中に役割喪失感がただよい、出口を見失ってアルコールや麻薬に走るケースが見られるという。救済センターとして「男性の役割を考える会」という組織も政府内にできている。」と述べている。

 

2節 主婦及び家事労働

 

農村などの社会においては、かつては男も女も生活するために働いていた。二世代ほど前の農村社会では女性も農業などの生産労働を行い、男性も垣根の修理や薪割りなど家事における出番は少なくなかった。近代以降は労働が職場と家庭に分化されることにより、職業と家事もまた分化されていった。萩原・国広は「主婦」という言葉が一般的に認知されるようになったのは、明治時代末期から大正時代において『主婦の友』(1917)や『婦人倶楽部』(1920)などのいわゆる婦人雑誌に登場するようになってからであり、それら婦人雑誌により「主婦」というものの役割が一般に意識されるようになった、としている(萩原・国広1997:7490

資本主義社会、高度経済成長期の到来により、いわゆるサラリーマン家庭が出現し始め、生産と消費の場が分離されるようになった。そして高度経済成長に伴い、総サラリーマン化、核家族化、電化製品や既製服による家事の合理化によって、主婦として女性自身が無償で家事をすることが一般的となった。無償で、と述べたが、大越(1996)は、イタリアのマルクス主義フェミニストのマリアローザ・ダラ・コスタは主著『家事労働に報酬を』(1972)を取り上げ、家事労働について以下のように言及している。ダラ・コスタは『家事労働に報酬を』において家事労働に焦点を絞り、女性労働の中心的搾取を論じた。従来のモノを生産し賃金を支払われる「生産労働」という可視的な労働の背後に、生命や生活の活性化に不可欠ではあるが、代償が支払われない「再生産労働」があること、そしてこの不可視の労働は、原則的にすべて女性に委ねられていたことを明らかにしたのである。さらに、資本主義の進展とともに、女性が市場へと参入すると、新たな問題も浮上するようになった。女性は再生産労働に加えて、生産労働にも行わねばならず、結果として二重搾取に陥ることとなるのである(大越1996:40-41)。NHKの国民生活時間調査(1995)によれば、主として家事をする女性の年間の家事時間は2,602時間であり、有職者の年間仕事時間2,193時間を上回った。国広(1997)は、「日本の男性は働きすぎだ」とよく批判されるが、家事労働も合算すると働きすぎているのはむしろ女性のほうだ、と述べている。

 

3節 第2章まとめ

 

 以上、「主夫」というものの分析において重要と思われる二点の問題について触れた。一つは男性自身の意識に関わる問題であり、もう一つはこれまでの社会において原則的に女性に課せられてきた家事労働についての問題である。第1章でも述べたとおりに現代社会においては「男性は外で働き、女性は家庭を守る」というこれまでの男女の形は、意識面での変化を迎えている。しかし、当の男性がその社会の変化に対して「男性中心社会」の中で築いてきた男性優位の意識のままであると、社会と意識のギャップにより、様々な問題を引き起こす可能性を内包している。また、近代社会において不可視の労働とされてきた家事労働も、その実情は、男性以上の労働を課せられる場合も存在するということが明らかになった。

 「アットホームダッド」においては、これら二点に関する主人公をめぐる状況は、エリートサラリーマンから主夫への転身と、まさに男性中心社会という状況からこれまでとは正反対の、家事労働中心の生活へ変化するのである。このような変化に伴う問題の表面化は、ドラマにおいてどのように描かれているのか、第4章で詳しく触れていきたいと思う。