第2章
高齢期におけるライフイベント
現在多くの研究では65歳以上を高齢者の定義としている。その理由としては、現在日本の社会保健制度が65歳以上を高齢者として定義していることがあげられる。しかし、65歳という年齢は暦上の年齢であることから、このような定義はあくまでも暫定的であり、一つの指標に過ぎない。平均寿命の延びにより、65歳になっても多くの人がある程度健康で、今後高齢期の開始年齢を引き上げることもあるであろう。また、高齢者とひと括りにいっても、実際の年齢よりも見かけや身体機能が若い人もいれば、その逆の人もいるように、誰もが一様に老化が進行するわけではなく個人差がある。それは高齢者に限ったことではなくどの世代にも言えることである。
しかし、一般に高齢者と呼ばれる65歳以上の人達には、他の世代の中でも特に共通したライフスタイル、ライフイベントがあり、共通の生活環境、意識、問題といった「社会的性格」を持っている。
一般に高齢者は、「心身の健康の喪失」、「経済的基盤の喪失」、「家族や社会とのつながりの喪失」、「生きる目的の喪失」を経験しやすいといわれている(谷口 1993:127)。特に「家族や社会とのつながりの喪失」は、定年退職を契機とした同僚・上司・部下との人間関係の喪失、子供の巣立ち、配偶者の死による家族の喪失といった社会関係の変化によるものである。「生きる目的の喪失」はその変化と関連して、社会への貢献の場を失うこと、子育てや子供の教育が終了するなどを契機に起こりやすい。
従って、加齢に伴う身体的心理的変化には個人差はあるが、高齢期には以上のような出来事はある程度共通して起こるもので、高齢者の「社会的性格」にも一様の傾向があるものと思われる。本章では、高齢期のライフイベント、特に定年退職と家族の変化を取り上げ、高齢者の「社会的性格」の特徴について述べる。
2.1 定年退職
2.1.1 生きがいの喪失
現在日本では、多くの人が60歳で一応の定年を迎える。その後、何らかのかたちで仕事を続ける人もいるが、おおむね65歳で職業生活を引退する。「老年期(65歳以上)は、長年にわたり従事してきた仕事からの引退を契機としてはじまることが多い。」(谷口 1993:122)とあるように、定年は人生の中の節目であるが、多くの退職者にとっては大きな社会的事件である。定年後は、中心となる生活の場が職場から家庭となり、義務的な仕事がなく毎日が日曜日という状態が続くなど、生活環境が大きく変化する。そこで改めて人生の意味を問い直した時、はたして自分から仕事を取ったら何が残るのかという壁に突き当たる。ここで問題となるのが、定年後の生きがいである。森は、日本における退職者の生きがい問題について次のように述べている。
「現在、日本社会の課題となっている高齢者の生きがい問題の中心は、日本の男性の
高齢者が自らの時間とエネルギーの多くを費やし、肯定的な自己を保つ作業に励んでい
た日常生活世界である職業社会の定年による喪失である。職場における日常世界は、相
互行為が一定の枠組みの中で組織化されたものの積み重ねである。その組織に属する個
人は、自己肯定の度合いを最大限にするように努力し、自己に否定的な影響を与えるも
のを排除しようとする。長年勤めた職場には、安定した世界が作り上げられているので
ある。定年退職と言う変化は、その様な日常世界を人から急に奪い取る。この「喪失」
はあらたな活動で単に時間をうめる事により取り返せるものではない。今までと同じよ
うな質の肯定的自己を維持する日常生活を作り上げなくてはいけないのである。つまり、
退職後の適応問題は、何か活動をする事だけではなく、活動を通じてどのように人間関
係を作り出せば自己にとって意義深く、報いのある有益な世界を作り出せるかの問題な
のである。」(森 2001:95)
定年退職において重要な問題点は、自己肯定つまり生きがいの喪失と、職縁の喪失による社会とのつながりの喪失である。なぜこのようなことが問題となるのか。生きがいの喪失についてゴードン・マシューズは以下のように述べている。
「男性が30年も40年も自分のためではなく会社のために生きてきたとすれば、退職
後、自分を見つけるのは不可能かもしれない。つまり、彼は会社のために自分を使い尽
くしてしまって、帰って行く自分はもう残されていないのかもしれないのだ。・・(中略)
数多くの日本人は自分の属する集団に献身するように強要されてきたので、自分の人生
からその集団が消えてしまえば、帰って行く自己は残っていないのだ。」(マシューズ
2001:85)
このようにマシューズは、基本的に個人主義が尊重される社会の中で若い頃の生きがいの組み立てにおいて自分自身を捨てる必要がなかったアメリカの高齢者に比べ、日本の高齢者は退職後の生きがいを見つけるのが困難であると、日本社会とアメリカ社会の違いについて触れている。(同書:85−86)職縁の喪失の問題について藤田は、一般に、日本の職場組織は官僚型で人間関係はタテ型が多く、さらに、年功序列で定年時には権限をもった地位にいる場合が多いが、このような人が権限のない対等な関係で結ばれている家庭や地域といった「ヨコ社会」へ移行するとなると、新たな人間関係を築くのに勝手が違い戸惑うことになる、と言っている(藤田 2001:120−121)。このように、日本の企業体質が定年後の適応を難しくさせている原因の一つだと言われている。
2.1.
2長期化する定年後
中村は、人間の生涯全体Lをl1(年少人口・就学人口期間)、l2(生産年齢人口として企業組織に属している期間)、l3(定年退職から死にいたるまでの「余生」)の三つに分け、ライフサイクルの変化について述べている。
「Lそのものが現在に比べて短かった時代には、l2が全生涯の中で量的にも質的にも
圧倒的な重みをもっていた。(中略)l1はl2の「準備期間」、l3は現役としてのl2を
終わった後の「余生」として位置づけられ、そのいずれもがに引き寄せて付随的に意味
付けられてきた・・」(中村 2001:187)
平均寿命が今よりも短かった時代、退職後は平均して数年で死を迎えており、文字通りの「終身雇用」であった。しかし、長寿化の進展によりL全体におけるl3の期間が平均20年の時代となった現在、新たな意味づけをもつこの時期が、「単なる「余生」とは異なる「もう一つの人生」としてどう生きるかが改めて問われることになる」のである(同書:188)。だからこそ、会社組織や子育てなど社会的義務から開放され、自分のためだけに残された第二の人生をいかに充実したものにするかが、人生全体の満足感へと大きく影響する。
2.1.
3余暇の増大
長寿化によって「余生」という時期が人生の中で期間の面、価値の面から見ても比重を増した。そして定年後あるいは子育て終了後の余暇の時間も「余った暇」どころか、「もう一つの人生」として意味づけられるようになった。「余暇」は、「人が労働ならびに家族、社会に対するさまざまな義務から解放されたあとに、自己の自由意志によって行う活動」と定義されている(谷口 1993:113)。谷口は、「高齢化社会を間近に控えて、人生の後半期を充実した生活にするためには、一生涯にわたる自己啓発の活動があらゆる機会を通して継続的に行わなければならない」とし、余暇教育の重要性を述べている。高齢期には、仕事や趣味、友人との付き合いなどを通して得られる社会活動の生きがいは少なくなり、家族が生きがいの中心となりやすい。それをできるだけ「家族中心の生きがい」から「仕事・余暇・社会活動型の生きがい」へと転換し、高齢まで維持してゆく努力が重要となってくる。そこで必要となるのが、相互に啓発し共感し合う同世代の仲間との交流である。(同書:112−117)
(財)自由時間デザイン協会は、自由時間・余暇を通じた他者との交流が自分自身の存在を確認する要素を持ち、さらに生活全体を楽しむことに寄与するという結果を明らかにした上で、「余暇縁による心のネットワーク」の形成が高齢者の余暇活動に必要だと提言している。「余暇縁による心のネットワーク」とは以下のように定義されている。
「地縁・血縁・職場縁のような拘束的な関係や、利害関係、また義務的な相互扶養関
係等ではなく、実利につながらないが、自由時間・余暇における活動や交流を通じて、
お互いの存在や生き方・考え方を認め合い、お互いの不安・不満・不調を尊重し、常に
自分自身が誰かから気にかけられている存在であることを実感できるような、緩やかで
自主的・選択的な直接・間接の関わりを想定している」。(自由時間デザイン協会,2000)
人間は体力や記憶力など身体的能力は加齢とともに減退してゆく。一方、社会的役割・責任や知力などの精神的、社会的能力は、かなりの高齢になるまで豊かに持続されていることが今日までの科学的研究によって実証されている(谷口 1993:114)。高齢期の重要な課題は、生きがいや仲間を見つけ、学習活動による自己啓発や余暇縁による交流を通して、張り合いのある生活を送ることである。
2.2 家族構成の変化
2.2.1 高齢期と家族構成の実態
近年、高齢化の進行とともに世帯の高齢化が進展している。高齢者(65歳以上)のいる世帯についてみると、昭和50年では8,495千世帯で、その内65歳以上のもののみの世帯率は13.6%であったが、昭和60年に9,499千世帯(23.1%)、平成7年に12,695千世帯(34.4%)、平成12年は15,647(39.9%)となっている。(三浦 2001:55)
一方、高齢期家族の世帯形態も近年において変化している。『高齢社会白書(平成14年版)』によると、昭和50年以降の高齢期家族の世帯構成は、三世代世帯が最も多く、次が夫婦のみの世帯、単独世帯の割合が最も少なくなっている。しかし、三世代世帯は年々実数では増加の傾向にあるがその反面で、高齢者世帯全体に占める割合は実数とは逆に大幅な減少を示している。これは夫婦のみの世帯や単独世帯の実数および割合が年々増加の傾向にあるためである(内閣府 2002:80)。このような世帯の単身化が進む背景については、平均寿命の延び、少子化などにともなって生じた家族周期の変化が主な要因としてあげられる。例えば、大正期の女性と平成期の女性の家族周期を比較すると、大正期の女性達は出産と育児を終えると一生が終わっていたのに対し、平成期では出産と育児では人生の半分が終わるに過ぎず、その後まだ人生の後半40年が残っている。男性に関しては、大正期では定年後の期間が6.1年しかなかったのが平成期には17.6年にも延びている。(染谷 2000:2−5)
核家族世帯(夫婦家族)の増加はこのように高齢夫婦が健康でともにそろって生活ができる期間が増大すると、子との同居を必要とあまり感じなくなってきている。子供夫婦側としても高齢夫婦が健在なうちは別居する「一時的別居形態」をとる傾向にあるために生じると考えられる。確かに1995年における高齢者の居住形態(親子の同居・別居形態)を「国民生活基礎調査」で見ると、「前期高齢層」の65歳〜69歳、70歳〜74歳では別居と同居が約半数の割合である。それに対して「後期高齢層」の75〜79歳、80歳以上では別居よりも同居の割合は年代が上がるにつれて高くなっている。これは、老親の加齢にともない、どちらかが一人暮しになった時や介護が必要になった時に同居にふみきる「晩年型同居」によるものと考えられる(清水 2000:20−24)。
このように子供の同居・別居志向は老親の扶養の必要性と大きく関係している。しかし安達は、従来からの家族社会学の観点である、扶養される高齢者・扶養するその家族という位置づけ、また「高齢者の幸福は子との同居生活にある」ということを当然視し、「家族から離れられない高齢者」を前提とした考えでは、高齢者の家族生活が多様化している現在の状況を十分に捉えることができないと指摘している。そして「『個としての高齢者』をとらえる考え方にこそ、多様な高齢者像を探り、高齢期の家族生活の多様化という現状を分析する方法を見出す糸口がある」というように、高齢者と家族は「個と個の関係」としてとらえることが必要だと述べている。(安達 1999:16−21)
先述したように、高齢夫婦が若く健在のときは別居し、何らかの不都合をきっかけに同居する「一時的別居形態」を選択するのが近年の傾向であるが、これも親子の扶養関係が前提となり導き出された結論である。しかし、これだけでは高齢夫婦のみの世帯や単独世帯が急増している説明として十分ではない。というのも「子供の方には現実生活の中での利害損得を考慮する傾向を認めることができる」(高橋 1993:77)とあるように、同別居の選択は子供の都合に左右されるので、「一時的別居形態」の増加は子供の立場を中心とした解釈であるからだ。また、扶養を必要としないから別居をする、扶養が必要となり同居するという、機能的な見方で近年の家族形態の傾向をとらえるだけでなく、家族関係に対する考え方そのものの変化に目を向ける必要がある。そこで安達のいう、「個と個の関係」に着目し、その中で特に高齢者の立場から家族関係に対する意識の変化を見てゆく。
2.2.2 高齢者の家族観
内閣府「高齢者の生活と意識に関する国際比較調査」によれば、老後における子供や孫との付き合いについて、5回の調査データを時系列で比較した結果、「いつも一緒に生活できるのがよい」を支持する人が、近年ほど減少しているという(図2−1)。また、世帯形態別の結果を見ると、「いつも一緒に生活できるのがよい」を支持する比率は、三世代世帯が群を抜いて高い。一方、単身世帯・夫婦世帯・夫婦と未婚の子では「ときどき会うのがよい」を過半数の者が支持している。特に単身世帯では「いつも一緒に生活できるのがよい」を支持する人が極端に少なくなっている(図2−2)。
内閣府,2002,『高齢者の生活と意識 第5回国際比較調査結果報告書』,88頁
内閣府,2002,『高齢者の生活と意識 第5回国際比較調査結果報告書』,92頁
別居の理由が子供側にあり、高齢者が受動的に子供の都合に合わせるというよりも、高齢者がみずから主体的に一人暮しや夫婦のみの暮らしを選択する傾向にあるようである。安達は、増田吉光らの関西家族研究会によって1973年と78年に同じ対象者でおこなわれた調査結果はさらにその傾向を裏付けするとしている。子との別居の理由を、別居を当然と考える「積極型」、子との転勤などで残された「消極型」、子やその配偶者とうまくいかなかった「不和型」、家が狭いなど一時的に別居する「当座型」の4つのタイプに分類したところ、73年と78年のどちらの調査でも「積極型」がもっとも多くなっている。(安達 1999:109)
高橋は、老親の同居別居意識について「子供世代との同居による摩擦を避けて、できるだけ老夫婦の自立的な生活を望む傾向は強まっており、意識は明らかに変化している」と述べている。その理由については、老年期の生活を援助する諸制度が整備され、老後生活のすべてを子供に依存する必要がなくなっていることをあげている。(高橋 1993:77)また、安達は、近年では高齢者と子供夫婦はいつでも相互に電話で連絡がとれあい、遠距離でも自動車で訪問しあえるようになるなど、子家族などから孤立しなくてもすむような社会的環境や装置が整ってきたことが背景となっていると述べている。(安達 1999:109−110)
これまで日本は、老後の親の面倒は子どもが見るのが伝統的な家族の姿であった。その背景には、高齢者は「弱者」であり、夫婦のみあるいは一人暮らしの子家族から離れた高齢者は「孤老」というイメージが支配的であったからだ。しかし、最近では高齢者が子供に世話になる「依存」という形の付き合いではなく、「対等」の関係が望ましいという意識の変化が見られるようになっている。
2.2.3 子供の巣立ち・配偶者の死
高齢者が子供と距離を置いた気楽な暮らしを望むというのは、やや素気無くもある。しかし、いつの時代も家族の存在は心の支えであり、むしろ強い関心を寄せている。
高齢者の心の支えとなる人については図2−3に見られるように、もっとも大きな比率を占めているのは「配偶者・パートナー」(67.0%)と「子供」(51.4%)、つづいて「孫」(23.1%)となっている。高齢者にとっての「心の支え」としては、やはり友人・知人よりも身近な家族の存在が大きいといえる。また、男女別の比較では、「配偶者・パートナー」の比率は男性の方が高く、「子供」の比率は女性の方が高くなっている。さらに年齢階層別の比較では、とりわけ女性に関しては、「配偶者・パートナー」の比率は年齢が高くなるにつれて男性よりも著しく低下しているのに対し、「子供」の比率はいずれの年齢階層でも7割前後で安定的に推移している。(内閣府 2002:95−96)
しかし、先述の通り高齢期には子との別居や、配偶者の死を遅かれ早かれ経験することが多く、心の支えとなる人達と距離を置く、あるいは失うことになる。特に近年、子との別居は以前よりも積極的に選択されているので、心の支えである子供と離れて暮らす可能性は高いといえる。
内閣府,2002,『高齢者の生活と意識 第5回国際比較調査結果報告書』,94頁