第2章 インタビュー結果と考察

 

1、調査概要

 現在自立生活をしているFさんと、その家族にインタビューを行なった。家族構成は父、母、姉、Fさん、弟の5人である。インタビューは細かい質問項目は設定せずに、基本的には自由に話してもらい、インタビュイーの話を基に流れに沿ってこちらが詳しく知りたいことに関して質問する形式を取った。

 Fさん一家のインタビューを行なった時点での属性(年齢、職業など)は次のとおりである。

 父(T・Fさん):69歳/新聞配達支店の店長

 母(J・Fさん):67歳/清掃会社の商品集配(月に3,4日)

 姉(T・Kさん):45歳/婦人服売り場の店員/既婚

 F・Fさん   :42歳/女性/脳性マヒ 1級

 弟(K・Fさん):36歳/会社員/未婚/親と同居

インタビューの日にちと場所については、Fさんは現在自立生活を行なっている家で9月13日、19日、10月3日、11月25日、12月16日の計5回行なった。父、母、弟はFさんの実家で11月3日にそれぞれ行なった。なお、弟のインタビューでは全般的に、父親のインタビューの後半では母親が同席していた。姉は飲食店において11月5日に行なった。

 

インタビュー結果を次に見ていくが、Fさんのライフヒストリーの流れを基に構成していくことにする。

 

2、幼少期

2−1、医師からの告知

Fさんは早産で生まれた。両親によると自宅での出産であった。脳性マヒになったきっかけとして、高熱が一週間ほど出続け、横疸が長く続いた。父親によると生後100日経っても首が据わらなかったとのことである。体が小さかったこともあり、母親はしばらくFさんを外に出さなかった。生後半年経ってから行った3ヶ月検診で、股関節が外れていると言われて市民病院に行く。そこで脳性マヒの専門の医師であり、この後Fさんの主治医となるS先生から脳性マヒだと言われる。そのときの医師とのやりとりを「治るものか聞いたらね、訓練すればある程度良くなる、治るとは言わなかったわね」と母親は述べていた。また母親が病院で聞いてきた診察結果として、脳性マヒということが分かり、「先生は、まず小学校へ行く時分にはちゃんと歩けて、普通の子と変わらないという」ことを聞いたと父親は述べている。

障害者手帳は2歳のときに発行された。

 

2−2、リハビリ通い

母親によると「今にほら歩くようになっても歩けないようになるから」とのことで、3,4歳まで今でいうリハビリ、その当時でのマッサージのために市民病院に通っていた。また母親によると通院を始めて1,2年後から家でも自力で体を動かすように訓練するよう医師から言われ、するようになったとのことであった。そして4,5歳のころに医師から「ひとりで動くから来なくていい」と言われ、病院でのリハビリを終える。そのあとは今でいう自助努力という形になり、そのことに関してFさんは「自分で努力してやれるところまできたから。ということはもうあきらめなさいということ」と述べている。

 その後は歩行器を使って歩くようになる。歩行器で歩き始めたときは1人遊びが多かった。1人でぶらぶらしていると、母親にどこ行くのかと追いかけられたこともあった。このとき家だけで歩行器に乗せて歩く練習や自分で食べられるような練習をし、病院に検診に行っていたと母親は述べている。

 また小学校に上がる1年前に、C学園では入るためには歩けないとだめということで、月に1回、歩くリハビリに1年間通っていた。しかし、歩けるようにはならなかった。

 

2−3、家族構成の変化

またFさんが生まれたときは父親の兄弟も同居していたため、10人以上の大家族だった。次第におじたちが結婚して家を離れ、祖母も次男と暮らすことになり、Fさんが5歳のときに弟が生まれてようやく「家族で落ち着いた暮らしが出来るようになった」とFさんは述べている。また、姉も大家族から核家族の状態になったことに関して「初めて親子4人で、こぢんまりと過ごしたという感じかな」との思いを抱いたということであった。

 こうしたことになった要因として姉は次のことを述べている。父親の弟が3人ほど立て続けに所帯を持つことになり金銭的に厳しくなったため、Fさんの母親も働くようになった。その当時としては孫の面倒を祖母が見るというところがあったが、Fさんの祖母は「こんなからだの子はね、面倒見られない」といったようなことを言ったという。そのことで父親が怒ったことがきっかけとして大きくあるとのことであった。そうした中で、母親の妹のKさんが近くに住んでおり、その家にFさんを預けて母親が働きに出ていたことがあった。姉は最初そのことを知らず、学校から帰ってくるといるはずのFさんがいないことについて、祖母にFさんがどこに行ったのかを問い続けた。2,3日すると祖母からFさんが母親の妹の家に預けてあることをようやく聞かされた。そのとき姉は次のような態度を祖母に取ったとのことである。

 

(姉)「何でKちゃんの家にFちゃん預けなくちゃいけないの。何でFちゃん家にいないのって私がすごく怒った記憶があるのよ。(中略)私が随分なんかね、おばあちゃんにくってかかったような記憶あるわ」

  

姉が祖母を責めた理由として、母親の妹のKさんには息子3人がいたが、Kさんが息子と比べてFさんが手のかからない子だと言っていることが挙げられた。

 

(姉)「男の子(Kさんの息子)3人いて、で、うちのFがこうやってほら、あの、座って1人でちょこんと遊んでいるでしょ。なんて楽なのかしらって言ってね。(中略)手のかかる子じゃないね、うちの子と比べたら全然手がかからんわって(Kさんが)言って」

 

2−4、外出

外に出ることは好きだったが基本的に歩けなかったため、Fさんは近所の子が遊んでいるのを乳母車に乗って見ていた。また姉とは住んでいた借家の大家がいる2階にテレビを見に行ったり、外でままごとをしたりしていた。姉は、自分自身が小学校3,4年ごろに学校から帰ってきて同級生と遊ぶときに、Fさんが1人で家にいるような状態になるのは「かわいそうだから」ということで同級生と一緒にFさんが乗った乳母車を押して遊びに行っていたことを挙げている。姉は「うちの妹が歩けなくてもしゃべれなくても別に、それはそれで普通だと思っていたもん」と述べ、また周りの友達もみんな同じような感じであったとのことであった。父親の兄弟と同居していたときは、Fさんはおじたちに遊んでもらっていたこともある。

また4,5歳のときに百貨店に行きたいと親に言っていたことがある。当時は街に障害者を出すことにとても抵抗感がある時代であったが、Fさんがあまりに行きたいと言ったために、親が根負けして出かけた。父親によると親の側でも「家の中に閉じ込めておくということじゃなくって外へ出すように出すように、あっち連れて行きこっち連れて行きしてね、うん。外へ出すことを、私らも考えていたしね」とのことであった。

 

2−5、お父さん子

またFさんは小さいころは父親が大好きで、父親といることが多かったとのことである。父親もFさんが幼いときのことを次のように述べている。

 

(父)「あの子にはね、そやねー父親としては、十分出来なかったかも知れないけれども、小さいときは、あの子は父親っ子で、もう私の膝から離れないくらいに、お風呂入れるにしてでもなにするにしても全部私がやっていたからね」

 

2−6、家族でFさんの入る施設探し

姉によるとA養護学校に行くことが決まる前に、施設に預けるために石川県や福井県の様々な施設にドライブがてら家族で行っていたとのことであった。姉はその当時は「私はね、妹はそういうところに行くものだと思っていた」とし、「今から思ったらとんでもないところ、私、ずっとやっぱり、親と見に行っていたね」と述べている。

施設の見学で姉は「お父さんあそこだめだわ。環境、すごくいいところだけど、看護婦さんもなんか冷たいから私ここ嫌だわ」と意見を言っていたとのことである。

そしてA学園で重度の身体障害者を受け入れることになったことが分かると「すぐ近くじゃない、あーそれはいいわって言って、子供心に、そこならいいんじゃない」と親と共に言っていた。

 

考察

 Fさんが生まれた当時、Fさん自身や両親も語っていることだが障害者は街に出ることがめったになかった。しかしFさん自身外出好きであったこともあるが、両親が外に出すことに積極的であったことが見受けられる。

 そうした中で姉や近所の友人と外に出かけることもよくあった。そこでは姉を含め、両親がFさんの存在をありのままに受け止めていることがうかがえる。また周囲の姉の友人達も同様である。

 Fさんも特に歩行器を用いるようになってから頻繁に外に出たり、出かけたいところがあれば連れて行ってもらえるように親に頼んだりと家族の中にとどまることなく、外との交流に関心が高かった。

 

 

3、養護学校時代

6歳のときにFさんはA養護学校に入学した。小学校に行く年の1月から入り、3月までは保育を受けていた。このA養護学校はFさんが通っていた市民病院に併設されており、発起人はFさんを脳性マヒだと診断した医師のS先生だった。

 

3−1、入るきっかけ

Fさんは養護学校に入れる可能性が低かったが、その医師がいたため入学することが出来たということであった。一緒に入学した人の中では股関節脱臼の人が多く、脳性マヒの人は少なく、5人ほどだった。

母親はS先生から養護学校が出来ることを知らされたとき、学業をしたらどうかと薦められる。そこで入学させることを決めた理由として次のことを述べている。

 

(母)「親の教えられることって、限度あるしそうでしょ、ね。(中略)だから知能どうもなかったから、ならそこで勉強させるわ。例え、体が都合悪くてでもね。例え家に1人ぼっちでいてでも、テレビを見ても分かるし、新聞も読めるし、本も読めるし、ね」

 

姉はA養護学校に子供をいれることになったことに関して親たちは「こんな近いところに出来た」という喜びが強かったのではないかと述べている。その理由として姉が見る限り周囲の親たちみんな明るく、Fさんの親も明るかったことを挙げている。

 

3−2、A養護学校に行った初日の出来事

父親は最も印象に残っている出来事として、A養護学校に行った初日のことを次のように述べている。

 

(父)「今日からA養護学校へ入れようということで、本人はそんなこと全然親から離れるという気持ちじゃなかった、いやそんなこと分からないからね、うん。そして、A養護学校へ連れて行って、その日私らが・・朝から連れて行って夕方、帰るときに一緒に帰れるものだと本人思っていたから、ところが置いていくということになったときに、とにかく、私の体から離れない。もうね、泣いて泣いてね。それが、一番印象に残っているわね」

 

3−3、中学校時代

中学2年までは、学校では同じ学年でも、勉強が出来る人と出来ない人というような能力主義的な形でクラスが分けられていた。しかし、中学3年になるときにこれで終わりということで、みんなごちゃ混ぜにして2クラスに分けようということになった。「そのときが、その中学校3年の1年間が一番楽しかったよね。色んな人とごちゃごちゃっとやれて」とこのときの思いを述べ、その理由として、寮ではFさんが出来ないことを手伝ってくれる人がこのころはいなくなっていた。けれどもこの3年のときだけ学校では頼むと手伝ってくれる人があったことが挙げられる。

 

3−4、高校入学時

Fさんが高校生になるときに高等部が出来た。

高等部を親たちが作ろうとした理由について母親は次のように述べている。

 

(母)「家に来たらもうそれで終わりなのよ、今までしたこと全部水の泡になるじゃない、そうでしょ。そこまで教育受けてきてね、家でねえ、あの、不自由な体で家でぼーっといるなら、ね、今までしたこと全部水の泡じゃない、ね。やっぱりそれを何かに生かすことやっぱりしないと、ね」

「15,6歳といったらね、男も女もだけど、やっぱりほらあの、成長期のね、あの、変わり目というものかな、ね。(中略)あの大人の体になるためにやっぱり、色んな障害あってそれによって、あのー、今まで丈夫やった子がね、あのうつ病にかかったり、ね、色んなその変調期だから」

 

そのことに関してFさんは「親たちが、やっぱり中学校出て、心配じゃん。中学校出た時点で、他の施設に行く。受け入れ先があるかどうか、とか色々あって、うちの母親とか当時の父兄がなんか作ってくれって言ったらしい」とのことである。また「まだ子どもだから、そんな大人の中に入れたくないっていうのがあったらしくて」と高校を作ろうとする親たちの気持ちを示唆している。

 Fさんは高校に行くのは無駄だと考え、作業所に行って手仕事を覚えたほうがいいと思っていた。また高校に行くことになるのなら「1ランク上、っていう感じ」がしていて「優等生の、養護学校」というイメージがあったB養護学校に行きたいという思いがあった。そしてほとんど行くことに決まっていた。しかし、主治医である園長が「まだ出たらだめって言ったのよ。どこにも行かせないみたいなこと、ようはまだ手放せないって言ったらしいのね。どうなるか分からないから」と言い、また親も「まあ近いほうがいいじゃん」ということでA養護学校の高等部に入ることとなった。母親自身によると、A養護学校の高等部に「仲間も皆ね、そこにいると言ったものだから、それならFだけね、あちこちね、振り回すこともないでしょ」とのことであった。

 高校のとき、2年間ほど歩行器を使わないで歩いていたことがあった。そのきっかけはリハビリの先生から歩行器を使うか歩くかどっちにするか聞かれたことがあり、そのときにFさんは歩くと答えた。しかし、そのことで卒業2ヶ月前に股関節が外れそうになってしまっていたため、股関節の手術をし、高校は卒業したが治療の為に寮に1年長くいた。

 

3−5、寮生活

 養護学校に通っていたときはずっと寮生活であった。寮はFさんのような脳性マヒの人が少なく、「普通に生活出来る人ばっかりでしょ。(中略)ペースが違う。ペース合わせるのが大変というのは思っていたね。それも嫌な面だったけどね」、また「一番辛かったのは、やっぱり生活のテンポが違うっていうのが一番辛かったね。もう余裕なかったもんね」としている。Fさんは寮生活で一番辛かったこととして、他の人と生活のテンポが違うことを挙げた。そこには寮で集団生活が重視されていたところがあったこともある。

 寮の部屋にいても面白くなく、ベランダに出て通りを歩いている人にあいさつしたりすることがあった。

また寮では集団生活の中で1人になれないことが多く、「24時間、監視されているわね」といった中で、1人になりたいときには病院の裏に行くこともあった。病院の裏にいると、職員に「目の届くところにおれー」と怒られることもあった。ときどき教師や看護婦といった職員を鬼ごっこの鬼に見立てて、寮生活している園児達が色んなところに逃げ回って怒られることもよくあった。

 また寮にはお菓子持ち込み禁止であったが、寮では夕方6時のみに出されるお菓子しか食べられず、それだけでは足りないため、みんなこっそりお菓子を持ってきては食べていた。一度持ち物検査されたときには全員がお菓子を持っていた。また病院の近くのお店にこっそり食べに行く人もいた。

 寮の部屋は3人部屋、8人部屋、16人部屋とあった。Fさんは中学校3年まではぺースが他の人と合わないということで3人部屋におり、一緒にいた人も脳性マヒの人だった。

しかし、中学3年のときにFさんが友達と一緒になりたくて8人部屋にしてほしいと言って、暴れたそうである。看護婦や保母にはひんしゅくをかったが、その後は8人部屋になった。

 また立ったままでは洋服の脱ぎ着が出来なかったFさんは生理の後始末が出来ないだろうということで、子宮を手術で取ったらと言われたことがあった。そのことに関して主治医のS先生に親が相談したところ次のように医師に言われたとのことである。

 

F)「取ったら体調崩すから、うんやっぱり、ホルモンのバランスとかも関係してきて体調崩すから、取らないほうがいいって言われたのね。で、その当時そういうことを言う医者は、やっぱり珍しかったね。(中略)で、その先生がいてくれたおかげで、やっぱり子宮取らなくってすんだ」

 

 姉はFさんが小学校4,5年生のころにあった出来事について述べている。姉はこの年ごろについて「普通人間が成長していく過程で、第一段階みたいなね、大人っていうかこうなんか脱皮する段階」とし、子供達が夜中に一斉におなかがすくと言い出して親がびっくりしたことがあったということを挙げている。そうしたことで親が食事の量を増やすように要請したことがあった。また、1人が「やっぱり家に帰りたい」と言うとみんなが言い出すといった状況もあったことが述べられた。

 

3−6、外泊と面会

 養護学校に入った当初は、家に帰れるのはお盆やお正月で、4泊5日とされていた。Fさんが入った当時は親の面会も許されていなかったが、親から苦情がきたため、月に1回面会が出来るようになった。そして次第に月に1回の面会から月に1回の外泊、最終的には月に2回の外泊と月に一度の面会が可能になり、毎週親に会えるようになっていった。

寮での面会そして外泊の日が少なかったことについて母親は次のように述べている。

 

(母)「親子離れさせるのに、学園も、あの、結局ほら家帰ったら学園共同生活するのが嫌でならないでしょ、子どもたちみんなお互いに不自由だから。自分のこと思うようにならないし。(中略)親が帰った後ね、1人が泣いたらみんなが泣くんだって、うん。すると結局、看護が大変ということでしょ、うん。黙らすまで、子供達をなだめおわるまで、寝かしつけるまで、ね、うん。だから、そういうのがひどいから、子どもにも早く慣れさせるために、その頻繁に会ったらなかなかね、そういう自立心とかそういうものが芽生えないからって言って」

 

 面会や外泊の様子に関して家族は次のように述べている。

 (父)「日曜日の日だけ、朝から例えば用事あってでも、なにがあってでも、体を空けておくようにしてね」

(母)「面会に行ったときは、1日体空けていくから、ね、そのときに、あのー、Fと一緒にね、散歩したり、ね、うん。そのときは、息子はまだ小さいし、ね、うん。だから息子は後から立ってくるぐらいでね、それで話相手にもならないしね、うん。だからお姉ちゃんとFはほら近かったから」

 

 母親は弟が幼くFさんと一緒に遊ぶということはなかったとしている。その一方で姉とは家に帰ってきたときや面会に行ったときに一緒に遊んで過ごしていたと述べている。

また家にFさんが帰ってきたときのことに関して姉の発言を見てみる。近所の子どもたちとも一緒に外に出ていたことが述べられている。

 

(姉)「わざわざやっぱりね、Fが帰ってくるのがもうやっぱり分かる。あ、Fちゃん帰ってきたねって。んーそれならどっか遊びにいこ、天気いいしー」

「近所の子たちももうみんな、うちの妹が帰ってきているのが分かってたら、じゃあそしたらFちゃん乳母車に乗せて遊びに行けばいいやんって言って」

 

Fさんが月に1,2度の外泊のときに家族でどのように行動していたかについて姉の発言を通して見ていく。Fさんが帰ってくると「その日はもうもう家族5人で行動」し、夏は海水浴に行ったり、よくドライブに行っていた。また地元に大型のスーパーが何軒もあったのでそのどこかに行き、「何か一つ好きなもの買ってくるとか」していた。弟が中学校に入るとクラブ活動のために一緒に行動出来なかったり、姉も用事で行けないときがあると親子3人で行動するようになる。雨が降っているときは仕方がないので家にいるということが多かった。兄弟3人で遊ぶということもあり、そのときの様子は次のように語られている。

 

(姉)「3人で遊ぶって言ってもほら結局、妹はああいう体だから妹を中心に行動しないといけないから、遊ぶ範囲がもう限られてしまっているでしょ。ゲームとか、ね、テレビを見るとか。だから私も、妹と弟を乳母車に乗せて、散歩行ってきまーすって言って、そういうのも、いやーちょくちょくあったよ。そしたらあの乳母車の中で、2人してじゃれていたわね、うん」

 

また銭湯に行ったときの様子を次のように述べている。

 

(姉)「小さいときに銭湯に行くでしょう。家にお風呂なかったから。(中略)やっぱりね、A養護学校の寮でお風呂入っているときはほんとうにいもあらうようにしか風呂入らんから見てみてよ、あかいっぱいでるよ」

 

姉はFさんが家に戻ってくる日はなるべく家族で行動するようにしていたことに関して次のように述べている。

 

(姉)「日ごろ、一週間できなかった分を、言っていたから。それでバランスは取れていたんじゃないかな、うん」

「土日はもうF中心でもうずーっと何年もそれでまわってきていたから、うーん。それがもうごくごく当たり前の生活サイクル、出来ていたからね」

 

 週末にはFさんに合わせて行動していたことについては姉は次のように述べている。

 

(姉)「それなりにだから私らも、休みなったらどこか行けるっていう、うん。Fと一緒にどこか行けるというそういうのがあったからね。(4秒沈黙)かえって、ああいう時代に家族でもう毎週どこか行っている家ってあんまりなかったと思うよ、うん。そういう意味ではちょっとFに感謝しないとね」

「大人が思うほどしんどくもなかったし、うん。結構楽しかったよ」

 

姉は夫の家族での行動と照らし合わせて「うちの旦那に言わせたら私たちのほうが、どこでも家族で行動しててるわね、うん」とも述べている。

 

またたまにしか家に戻らないFさんが家族をどのように見ていたかを、姉は次のように述べている。

 

(姉)「ある意味Fは、うちの家庭のいいところしか多分見てなかったと思うわ、うーん。ほかに色々、あのー夫婦げんかとか、ね、親子げんかとか、うんそういうのもあったけどそれはあんまりあの人は見ずに、ずーっときたと思うわ、ある時期までは、うん。だからうちの家族はすばらしいと思っていたらしいからね、ある時期まで」

 

3−7、Fさんの体調

Fさんは体調が変化することが多かった。体調不良でも家に帰れるのは1泊2日であった。しかし家に帰るとその短期間の間に治ることもよくあった。

 

F)「多分家に帰ると安心するんだろう。ま、精神的なものもあるのだろうけど。安心して痛くなくなるとか、あったりするんだろうなーとか思っていて。帰れるときはいいけどね、帰れないときはひどかったね」

 

だが病院と併設ということもあり、家に帰りたいと言っても帰らせてもらえなかったこともあった。夏になると、体温調節が出来ず、熱が出っ放しということがよくあった。そのときのことを次のように述べている。

 

F)「それでね、個室に入れられて寂しい思いした。で、それと同じ症状の人がいたのね。同級生で。その人がね、やっぱり家帰ると熱が下がるのね。私もそうだったんだけど。でね、ある日ね、その人が熱出して、帰ってもいいって言われて帰っちゃったの。それでね、そのときにね、私1人じゃん。私も帰るーってわめいてね。でもね、やっぱり帰れなかったの。(中略)なんかそれからやっぱり、調子悪くなったのかな。精神的にね」

 

3−7、寮での職員の対応

 Fさんは養護学校の校長であり、寮の園長であった主治医のF先生については「甘い先生」であり、親に会いたいと言うと会わせればいいのではというような人であったとしている。そうした中で子供たちを見ている職員が厳しくなった面があるとFさんは述べている。

 また、園長はみんなから「お父さん」と呼ばれており、Fさんも信頼をおいていた。学園では、研修医が主に主治医となって子供達を診ていた。園長はそうした先生に任せきりな面があった。 

 実際に寮で子供達の対応にあたっている職員の様子や、職員に対してFさんの取っていた行動に関しては次のように述べられる。 

 

F)「職員によって、看護婦によって、言うことが違うとか。対応が違うとか。結構あったの」

 

 その中でやつあたりしてくる看護婦がいたりしたことで、「そういうのはすごく敏感だったよ。もう、看護婦の顔色しか、見てなかったもんね」とも述べられる。また「なにもしなくても怒られるっていう状態だったから。ただ行動が遅いっていうだけで、怒られる」ということがしばしばあった。

 

F)「社会に出たらそんなに甘くないって、それはよく言われたよね。(中略)それ、中学3年までかな。寝そべってあのうつ伏せに寝てしか字書けなかったのね。で、そういうの社会に出たら、そんなことして字は書けないとかって、わけの分からないこと言われて無理矢理机の上で字書かされるようになったりね。そうしたら自然と字書かなくなるでしょ。ノートも取らなくなるでしょ。それでね、そのときはまあ友達のノート、写させてもらったりしていたけどね」

 

 また「助け合いの精神を崩しちゃうのよ、職員が」といった面があった。職員は「出来ないことでも、やらなきゃいけない」と言うことがあったが、Fさんはどうしても出来ないことがあると周りの人に手伝いを頼むことがあった。それに対して職員はFさんだけに怒るのではなく手伝った人まで怒ることがあり、孤立した状態になってしまったことがあった。そうした中で、出来る人と出来ない人がそれぞれにかたまってしまう状況が作り出されていったが、職員は分断させるような対応しかとらなかった。FさんはA養護学校にいたときは「仲間っていうのは、ないと思っていた」と述べている。

 

3−8、自殺の思い

 Fさんは20歳までA養護学校の生活が続いた場合、自殺しようと考えていた。その理由としては寮生活において他の人とペースが合わないことや、体調不良が大きくある。一度寮生活の中で実際に自殺をしようと考えたこととして、腰が痛くて動けなくなったことが挙げられる。そのときに医者も看護婦も何の対応もしてくれず、痛み止めの薬ももらえなかった。そうした状況が一週間ほど続いた。しかし、両親との面会日になっていた日曜日になり、親が来たとたんに看護婦の態度ががらりと変わり、薬をもらえたということがあった。

また、高校のときにまわりに恋人がいるという人が1人もおらず、恋愛が出来る可能性がないなと思ったときに「これで人生終わりかって思った」のだという。また「こんなのさー面白くともなんともない」と思ったときにこのまま終わるのなら早く人生が終わったほうがいいと考えたという。

 母親は「年代に応じて、同僚ともめごともあっただろうし、私たちが知らない色んな辛いこと、やっぱり経験してきていると思うわね」という気持ちを述べている。

 

3−9、夜にFさんが寝ている様子を見に行く

 両親はA養護学校にFさんが入ってから、時々夜にFさんの様子を見に行っていた。そして、Fさんが寝ている部屋の窓の外から様子をうかがっていたと両親は述べている。

 

(父)「毎晩夜、家内と2人で、Aの寮の窓、外から、様子を見に行くのよ」

 

 また様子を見に行ったときに一度Fさんが体調を崩しているのを見たことがあり、そのときは母親がしばらくFさんに付きそうということもあった。

 

(母)「私たち親の知らないね、病気していたことあるかもしれない、うん。いちいち親に連絡しないもん。医者が横についているから、お医者さんも看護婦も、市民病院に入院しているのと同じ状態になっているから、うん。それがたまたま、あーどうしてるかねって言って見に行ったときに、酸素吸入して点滴してるの、カーテンのすき間から見えたの。あれどうしたのだろうかと思って、窓たたいて、そして中入れてもらって、あのとき、風邪だったか、肺炎の一歩手前だったかな」

 

母親はこうした出来事があったことに触れ、「家帰りたいだろうと思うわ」ということを述べている。

 家族で夜に様子を見に行ったこともある。姉は両親2人だけで度々Fさんの様子を見に行っていたことがあるのだろうということを指摘していた。姉が家族で行っていたときのことについて次のように述べている。

 

(姉)「ときどき見に行って、Fちゃんあそこのベッドにいるやん、うーん。そして安心して帰ってきたことも、記憶にあるわ。(中略)帰りに、やっぱりあそこで良かったね、あんな石川県や福井のあんな遠いところにやったら怖くて夜、顔見に行こうと思っても見に行けなかったねって言って、そんな話しながら帰ってきたのも記憶にあるわね、うん」

 

両親または家族でFさんの様子を夜に見に行っていたことはFさんにあまり言っていなかったと姉は述べている。Fさんが15,6歳ごろに「夜こっそりと、のぞきに行っていたのよ」と言った。その理由として姉は次のように言われていたとしている。

 

(姉)「やっぱりね、のぞきに来ているっていうのが分かったら親を探すから、うーんだからやばいやばいやばい言って。あの顔見たらね、やっぱり里ごころついて絶対Fちゃん泣いて家帰るって言うからだめよ。それはやっぱり言われていたから」

 

ところで子育ての関わりでは、仕事で東京に数年行ったりしていたことで父親は「もうほとんど家内に任せっきりみたいになってしまった」と述べている。             

 また姉はFさんが寮生活する中で当時近所でいち早く乾燥機を買ったことを語っている。

 

(姉)「家には真っ先にね乾燥機がきたの。やっぱり、病院生活しているものだから一週間分の洗濯物。ある程度洗濯物がたまっているものだから、それを家に持って帰ってきて洗って、それを、干してまた、乾かして持っていかないといけないの。そうしたら冬なんかとてもじゃないけど乾かない。だから、乾燥機買って。(中略) あとやっぱり病院生活しているからFの物がたんすの中にあふれていたわ。やっぱり親心でそんな、ほつれたものとか、ゴムのきれかかっているものなんか持っていけないでしょ。だから、次から次に、ちゃんとした物持たせないといけないと思って」

 

考察

 Fさんがずっと寮生活を送っている中で、家族と会えるのはほぼ週に1回程度であった。Fさんと家族が会えるその日はなるべく家族5人でいるようにし、ドライブや海水浴、ショッピングに出かけるということがよくあった。姉が述べているが、週末にはFさんを中心に行動するようにしていた。

 Fさんが家族といられる時間が少ない中でFさんのために出来るだけのことをしようとした両親の強い思いがあるのではないだろうか。

 またFさんの側でも特に寮生活で周囲の人と生活のペースが異なるということや、体調が不良になっても家に帰れないという状況において、寮生活で辛い思いをしていた。Fさんはこうした状況の中で自殺を考えていた。寮生活で様々な辛い出来事がある中で家に帰ることはFさんにとって精神的に安らげるものであった。

 Fさんが進学していくことに関しては特に母親の考えが反映されている。そこには身につけた能力を生かすことを探すことや、複雑な年ごろであることへの不安感といったものが挙げられている。またFさんが指摘していたように大人の世界に入れることへの不安も大きくあったことも考えられる。

 

 

4、更生施設

4−1、更生施設に入ることになった経緯

19歳のときにA養護学校を出ると、FさんはC更生施設に行くことになっていた。更生施設に行くことを決めた理由として母親は社会情勢として養護施設に入れるという方法しか取れないということと、主治医のS先生に次のようにアドバイスを受けたことを挙げた。

 

(母)「S先生と、学校の先生たちと相談して、Fちゃんは、重度の養護施設入るような、ものでもないから、更生施設行って5年間ね、ちょっと機能訓練しながら、なにか、仕事身につければいいからと言って」

 

また母親はS先生にアドバイスを受けた理由とFさんに更生施設に行くことを薦めた理由として次のことを述べている。

 

(母)「ちょうどね、傷つきやすい年齢にね、大人と子どもの境目の年齢に、楽なこと覚えたらもう自分で、なにごともすること嫌になると思った。だめでないかと思ったの。だからここで、小休憩したら、次の段階もうないと思ったもので」

「養護施設入ったら、そこで、一生人のお世話になることになるから。それならちょっとでも役に立つ更生の道あるものならと思って、それで更生施設入れたの、あの子」

Fさんとしては家に帰りたかったが、親に説得されてC更生施設に行くこととなる。

                                                                                                                                 

F)「家に帰りたくって帰りたいって親に言ったけど、その当時やっぱりね、家に帰っても、なにもしなくなると思われていたのね。自分ではそういう意識はないよ。親とか、周りからは、家に帰ったらなにもしなくなってなにも出来なくなると、頭から思われていたのね」

「結局うちの親からは、あんたは子どもの世界しか知らないから、大人の世界を体験してきなさいって、言われて行ったの」

 

FさんはC更生施設に行くけれども「私家に帰りたいから、5年は我慢するよ。だけど5年経ったら、家に戻るよ」と親に言う。そこには家に帰りたいという強い思いがあった。

 

4−2、施設生活

Fさんは一期生として入った。更生施設の状況についてFさんの発言を見ていく。

指導員が福祉大学を出た人ばかりが採用されてきていたことと、まだ入所者が少なかったために、規律がないに等しい状態であった。その状態についてFさんは次のような思いを抱いていた。

 

F)「もう自由なの。結構入った当時は面白いなと思ったんだよね。規律もないから、すごく開放的で、好きなことやってられるなって。あとA養護学校と違って、結構重度な障害の人がいるから、生活のリズムも合っていたのよ。それにびっくりして、おーこんなゆっくりな、生活ペースなのかとかって思っていて。楽だったね」

 

A養護学校では仲間はいないと思っていたFさんは、この更生施設に入ったときに「障害者同士の仲間」というものが初めてわかったと述べている。その背景として、「どうして仲間を作らないんだ」と言われたことや、自分では出来ないことを他の人に手伝ってもらってもなにも言われなかったことが挙げられる。入所者同士で外に遊びに行けることもあり、日曜日に出かけたりすることもよくあった。

Fさんは更生施設に入った20歳ごろに車椅子に乗るようになった。手押しの方が小回りがきくということで、電動に乗る練習もしていたが手押しの車椅子を使うようになる。車椅子は手でこぐのではなく足でこいで移動をしていた。そのきっかけとして主治医にこのまま歩いていたら股関節がだめになるからやめなさいと言われたことがある。

施設の生活の中においては好きな人ができてその人と両思いになるが、付き合い方が分からずにいる中で三角関係になる。本気で付き合いたいという思いがある中で、「出たら本気で付き合える」と考える。また、「やっぱり施設の生活とか人間関係が、もう嫌になったのね、施設での人間関係が」ということもあり、そしてちょうど5年が経っていたこともあり、C更生施設を出る。

 

4−3、家への思い

養護学校や更生施設から週1回家に帰っていたときのことに関してFさんは「自分の居場所がない」、「お客様」状態であったと述べている。Fさんが帰ってくるときはなるべく家族は時間を空けるようにしていた状況について「たぶん兄弟犠牲にしているわ」、「振り回されているな」といったことを感じていたこともあった。

 

4−4、家族側から見たFさんの施設生活

更生施設にFさんがいたことに関して家族の発言を見ていく。

父親はFさんが帰りたいと言っても、「そんなことを言ってもだめよ」となだめていた。しかしトイレが自分で出来ないといった状況で施設の担当から嫌味を言われたりといったことがあったことを述べていた。そのような中で「そこにいるのが嫌になってくる」ということを指摘していた。

姉は先天的に障害を持つ人たちの中にいたFさんが、更生施設で大人になってから障害を持つようになった人たちの中に入ったことに関して「いい意味で大人になっていく、うん。だから良かったんじゃないの、あの人もああいうところにしばらくいて」と述べている。また、社会で生活してきた人たちの話を聞いたことで、1人で生活してみようという気持ちになったみたいだということも述べている。将来いつかは1人で生きていくということを考える意味では更生施設にいたことが「いいきっかけ」となったのではないかと述べている。

 その一方で姉はFさんからこのようなことを聞いていた。それは夜中に行動する人がおり、「私頭おかしくなるわ」と姉に言っていたということである。養護学校のころは周りに合わせることが当たり前という面があったが、更生施設では人それぞれに自分の世界があり、その中で動いているというところがあった。また集団生活において人間関係の間に挟まるような中で人間関係がわずらわしくなってきたことも述べられている。

姉は施設も整っていることから「あんたずーっとおればいいやん」と言ったことがある。Fさんは先の述べた状況の中で「嫌やわ。そこにおったら頭おかしくなる」と姉に述べた。

 母親は更生施設が嫌になった理由として次のことを指摘している。それは更生施設での訓練を行なったが進歩せず、嫌になったというところがあるのではないかということであった。また、母親は詳しいいきさつは聞いていないが、なにかトラブルがあったことを推測していた。

 

4−5、Fさんが施設を出ることを許した理由

これらのような中でFさんが更生施設を出ることを許した理由としては次のように母親は述べている。

 

(母)「ほら大人と、もう色んな年齢層の中に生活していたから、だいぶそれなりの、判断力ついたかなと思ったし、家に来たいと言ったから、それなら家に来たらと」

 

またFさんが4,5歳ごろから家に全くおらず、一週間に一度ぐらいしか家に帰ってくることがなかった中で、「家族との交流って全然ない状態じゃない。一週間に一度会うとか、ね、お互いにいいところだけ見せていてさ。だから、家に来てね、家の中見るのもいいだろうって」と考えたということもある。

また歩きにくくなったり、体調が悪かったりと、二次障害の傾向が見られたことも母親は理由として述べている。

 

考察

 更生施設に入る大きなきっかけとして、養護学校の高等部進学と同様に母親の考え方が強く出ている。ここでは、仕事につながる可能性を導き出したいという点が挙げられる。また家にいると怠惰な生活を送ってしまうのではないかという気持ちも強くある。

 このようにFさんの母親は、特に更生施設を出る時点までの節目ごとにどのような進路をとるかについて考えをめぐらせて年齢に応じて母親が最も良いと思う方法をとっている。主治医のアドバイスもその中で重要なものとして働いている。

 一方でFさんが自身とりたい進路があったが、それよりも社会情勢や大人の意見が優先されている面が大きくあった。けれども家に帰りたいという気持ちが強くあったFさんは5年間は施設にいるが、それ以降は家に帰るということを親に主張した。

 養護学校の寮生活に比べると良かった面もあった。規則もほとんどない状態で自由であった。また施設では生活のペースが合う人もおり、気楽な面もあった。しかし集団生活が続く中で人間関係で嫌になることがあり、Fさんは施設を出たいという気持ちを強くもつ。そしてそのことや、恋愛関係にあった人との関係といったものがきっかけとなって更生施設を出ることとなった。

 家族側は更生施設での生活や経験は良いものでここで様々な経験をしたほうがいいという気持ちを持っていた。Fさんが家に帰りたいという気持ちは知ってはいたが更生施設にいる方がいいのではという思いを抱いていた。

 またFさんの発言で注目するべきものとして、養護学校時代を含めて週1回家に帰っていた状況を語ったものがある。家に帰ることがたまにしかない中でFさんは家に帰っても「居場所がない」といったことや「お客様」状態であったということである。また姉は、週末に家族で行動していたことに関しては当たり前な状態であったとしており、楽しかったと述べている。しかしFさんは兄弟を犠牲にしているという思いや「振り回されているな」といった思いを抱いていた。これらのFさんの考えは、親がFさんと会える数少ない機会だけでもなるべく家族と過ごそうとする中でFさん中心に動いていたこともあり、兄弟につき合わさせているといった意識からきているのではないだろうか。

 

 

5、在宅生活

Fさんが家を出た後に、両思いだった男性も施設を出て自立生活をするために手術を行なう。しかし術後に脳腫瘍が見つかり、亡くなる。落ち込んでいた時期にお酒が飲みたくなって親に買ってきてくれるように頼むが、買ってきてもらえなかった。そのときに初めて「家にいても、好きなことは出来ないな」という思いを抱く。25,6歳ごろに、足の筋を切る手術を行なう。また在宅生活を始めたころから二次障害が出てくるが、1年ぐらいはそのままでいた。しかし力が入らなくなってきていたこともあり、親が心配して主治医に相談しに行く。すると首の手術をしたほうがいいかもしれないという話になり、手術の出来る先生がちょうどその病院にいたので診てもらうと、すぐに手術をすることに決まる。そのときに、「父親が調子のいいことにさ、本人の意思も確認しないでと、はいはいと」返事をしたということであった。入院生活は29歳から30歳の間の9ヶ月にわたった。

 施設にいたころまでは自分の身の回りのことはほとんどしていた。しかし二次障害が出てくることで介護を必要とすることが多くなってきた。そんな中「ほったらかしだったの親が」とFさんは述べている。そんな中、施設から出たばかりのころについては「1人で、家にいるのが楽しかったからね」と述べている。一方で親がパチンコもしくは仕事に行っていることで昼ごはんが食べられないことがあった。

 

F)「まさか近所のおばさんに、頼むわけにいかないでしょ。家の中に入ってこられるんだから。人間関係も広くないし。頼れるのは親だけじゃん。そんなんじゃあ、面白くないという、もしここでなにかあったら私絶対に、死ぬわと思っていたのね。で、自立生活をしている人を見たときに、あ、急なときはどこに電話かけても、来れる人がいるんだと思ったのよ。でそっちの方が、安全じゃん」

 

 そうした状況の中でFさん自身、映画やカラオケに行ったりと外出し、夜1時、2時に家に帰ることもあった。しかしそうしたことに関して親は特になにも言わなかった。現在では、ほうりっ放しにされていたことに感謝しているとFさんは述べている。

 

5−1、入院生活

 29歳のときに頚椎の手術をすることになるが、この手術で「終わりなのかな」という気持ちを抱く。また、手術によって例え死んだとしてもいいかなという気持ちでいた。Fさんはこの手術の前に、施設で出会った好きな男性が亡くなったこともあり、再び死を考えるようになっていた。

 しかし手術後、手術した医師からはまた歩けるようになると言われる。けれどもFさん自身歩くのは無理だと実感しており、またリハビリの先生からは歩いたらだめだと言われ、歩かなくてもすんだ。またそのとき「机でやっている医師よりか、実践でやっている人のほうが分かっているなっていうのも、実感で分かったしね」とFさんは感じた。

このころにこれまでFさんの主治医であったS先生が引退され、手術の執刀医であった医師が、Fさんの主治医となる。Fさんは自立生活を始めてからもこの主治医に診てもらっている。

 また障害者手帳が発行された時点では2級だったFさんは、手術後は自分で床に座ることが出来なくなり、1級となる。

 

5−2、退院後の在宅生活

 入院生活を終えて、家で静養中のことである。

 母親の遠い親戚が、Dといって自宅を開放し、市民運動系の人たちが集まる場所にしていた。Fさんはそのような場があることを知って行くようになるが、そのきっかけとしては母親が次のように述べている。

 

(母)「家にばっかりいないでねえ、ちょっとみんなと色んな話聞くのに、年寄りから若いものからいるから、色んな話あるからまた面白いよって言って、誘いを受けて、私のいとこにあたる子が、Fちゃん、ちょっと遊びにきたらいいよって言って、誘いがあったのよ。(中略)じゃFどうする、ちょっと家にばっかりいるのもなんだし、またなんか、世間のねえ、話また聞くのに行くのなら行ってもいいよって言っていたの。ねえ、お母さん連れてってあげるからって言って。そしたらなら行ってみようかと言ったから行ったのよ」

 

FさんはこのDで「障害者」の地域問題を考える会1(以下障地問と略す)のYさんやTさんと出会った。そうした出会いの中でFさんも地元で会を作ろうとした。それは主に町に出ようというようなレクレーションを中心とした会だった。しかし、障害者は多く集まるが、健全者がなかなか集まらなかったり、来てくれても思うように動いてくれないということがあった。また集まった障害者の中でも中途障害者と先天性障害者との考え方が違っていたり、Fさんのように両親と、または家族と暮らすことが「嫌で嫌でたまらなくって」といった問題意識を持つ人がほとんどいなかったといったこともあり、1年ぐらいでなくなってしまった。集まってきた障害者は在宅生活を送っている人たちだったが、「親と一緒が安心。(中略)問題なければ楽だよね、親子関係。そういう人ばっかりで、1人でなにかしようとか、障害者同士でなにかしようとかって人はいなかったの」といった状態であった。

その後障地問の活動に直接関わるようになった。

こうしたことのきっかけとして次のようなことがあった。Dに行っていたときにYさんから「できんでいいが」2の上映を大学でするから見に来ないかと言われて、見に行く。そしてこんな風に、1人暮らしをするのかと思いながら映画の映像を見ていた。Fさんのその当時の思いを次のように述べている。

 

F)「私施設は、自由がきかないから嫌だったので、出た人なのね。でも、結構家でも自由にやらせてもらっていたからそのころはまだ、1人暮らしなんてしようとは思ってなかったし。まあ、弟が結婚して、家にお嫁さん入ったら、私家出なきゃいけないかなとまでは思っていたけど、ま、そのときはそのときで、施設に行くわって思っていたの。仕方ないやとかって思って。でもその、「できんでいいが」の映画見て、でもやっているのは男の人たちばっかりだよね。女の人っていなかったから、出来るわけないやって思っていて、で、そのうちにkさんと、Eちゃんが遊びにきて、で、町をぶらぶらしていたの。それで、Eちゃんの話聞いたのね。今は結婚しているけど、自立生活してたんだって。女性でもいるんだとかって思って、でもそのときもね、あんまりそういう生活したいなとは思ってなかったの」

 

母親と同様に父親もDFさんが行きたいと言うと、車で送っていくこともあった。父親自身もDの様子を見たり、集まりの話を聞いたりしたことがあった。

またFさんは在宅生活においてコンサートに出かけたりすることもあった。そんなときは母親がFさんの送り迎えをしていた。母親が車を運転出来ることに関しては「お互いに重宝しているわね」と述べている。

在宅生活をFさんが送っていたときの様子について弟は次のように述べている。

 

(弟)「家に、ずっといたときは、暗かったもんね。しずんどったもんね」

 

在宅生活の中で介護が必要になってきたことに関して母親は次のように述べている。

 

(母)「人の手借りるようになったのでしょ。あれはねあの、やっぱり・・家に5年間いたときに、ちょっと癖ついたのかもしれん。親悪いのよ、(中略)あのー手足しびれるようなってから、あんまり物事しないようになったの。(中略)A養護学校とか、施設入っていたときはある程度、自分で服なんか着たり、脱いだりしてたの。中学生ごろまで、高校のときもかな。トイレも自分でね、ズボンの上げ下ろしから自分でトイレ行ってたのよ。歩行器につながって、歩行器前において座って、ね、あの洋式の便所でね、やってたのよ」

 

姉は、Fさんの入院生活において足の手術のときは看病したが、首の手術のときには自分の家族のことで手一杯で、面会に4,5回程行くだけであった。手術のときは母親がつきっきりだったとしている。またFさんを母親がずっと見ている中でFさんのからだのことと介護の方法について家族の中で一番知っているのが母親であり、姉はそれらに関してそろそろ母親から習ったほうがいいという意識を持っている。

 

考察

 Fさんは在宅生活を始めたころは1人で家にいることを楽しんでいた。その一方で二次障害が出てきている中、昼間に親がいなくて昼ごはんが食べられないといったことが度々あった。在宅の場合に親しか頼める人がいないという状況で、なにかあれば死ぬといったこともあるのではないかという危機感を持つようになる。

その一方、外出に関して親は止めるといったことはなく、自由に出かけることが出来た。また親が車で送り迎えをしてくれることもよくあった。また母親からも入院生活を終えたFさんに様々な人と交流出来る場であるDに行くことが薦められる。そこから障地問の活動の参加が始まるきっかけともなる。

また姉から入院生活などで母親がFさんの面倒を見ている中で、介護やFさんのからだに関して一番知っているのが母親であることを指摘している。また母親から教えてもらおうと考えており、介護に関する意識の高さがうかがえる。 

 

 

6、自立生活

6−1、自立生活を行なうきっかけ

Fさんは自立生活をしようと決めたきっかけとして次の四点を挙げている。まず一番の原因として親子関係、特に父親との関係がまずくなったこととし、その最たる要因として父親との金銭トラブルを挙げている。また両親の離婚騒動がある。この二つの状況から、家を出ることを考えるようになり、もし両親が離婚した場合に母親と暮らそうと考えていた。三番目に在宅時のころの上の発言にもあるように安全度が高くなって、家族と住んでいるときよりも良い生活が出来るのではという思いもあった。四点目としては、弟が結婚することを想定したときに、施設に行くことを考えた場合に人間関係ができていたこともあり、「寂しいというかむなしいというか」といった思いがあり、自立生活をすることを決意した。

そうした中で障地問の会員のKさんがそのとき住んでいた家を出るという話が出てきたこともきっかけとしてあった。

Fさんが自立生活を行なうと言い出したときは、特にその理由やきっかけについて親は聞いていない。姉はFさんが更生施設にいたときに好きな人がいたことも、その方が亡くなったことも知っていた。これらのようなことがあった中で「1人になりたかったんじゃないかと思う」と述べている。それまでの生活では1人きりになれる環境があまりなかったことも姉は挙げている。

 母親はFさんが自立生活を始めるようになってから、Fさんから自立することを決めた理由を聞いていた。

 

(母)「お父さんちょっとほら、どじったもので、家顧みなかったことがあったから。(中略)私が先に家出たら、お父さんとお母さん別れたら、お母さん私のところに来たらいいわと思ったから、私先に出たのって言ったわね。(中略)でも結局お母さん、別れなかったよって言ったのよ。そしたら、いいよもうってFが」

 

こうした話があった中で母親は次のようにも述べている。

 

(母)「きっかけはやっぱり家のもめごとがあるんじゃない。あの子やっぱりそれで、なにか感じたのじゃないかな、うん。後から、私なりに想像してるのだけれど、うん。これという原因はっきりとあの子言わないもん、うん。ただ自分で自立してみようと思ってるんだって言って」

 

また母親はFさんが父親にたいして信用をあまり持っていないことについて知っているようであった。

 

6−2、家族の反応

 まずFさん自身が述べている家族の反応について見てみる。父親は反対した。しかしFさんは父親の反対にたいして父親の言うことは聞く気はなく、「あんたそんなこと言える状態じゃないじゃない」とつっぱねた。母親はFさんが述べていることだが、Fさんが障地問の会に行くときに送り迎えしていたこともあり、Yさん達がどのように生活しているかといったことを知っていたとため反対はしなかったとしている。姉はこのときには結婚して自分の生活があったこともあり特になにも言わなかった。弟は「だめだったらすぐ帰ってくればいいじゃん」と言ったとのことである。このことに関して弟が結婚したら家を出ようという気持ちがあったFさんは、それを聞いたときにほっとしたと述べた。

 

 Fさんは自立生活をするということを親に話したときはけんかをするようなこともなく、Fさん自身「また帰ってくるかも」と言っており、家を出たいから出るので協力をしてほしいと言ったということを述べている。

 Fさんから自立したいということを聞いたときの家族の気持ちをそれぞれの発言から見ていく。

母親は話を聞いたときは最初「不安」だった。障地問の活動に参加するときにFさんを送り迎えしていたが、実際にどんな考えを持った人たちの集まりかよく知ってはいなかった点が大きい。そして最初の時点では「あんたなに冗談、出来るわけないわって。だからそんなあんた無理やわ」と言っていた。しかし将来親がいなくなることを考え、次第にFさんの自立について考えるようになる。

 

(母)「やっぱり、Fを信じてね、Fの判断を。ならやらせてみようかと思って。それで、もしだめだというのなら、そのとき私らまだ50代だったからね。そんなものいつでも帰ってこいと、ね。あんた1人ほどどんと面倒見てやろうという感じだから。(中略)もしもどうしても、だめだったら、帰ってきたらと言って、いつでもうち待っているからって言って」

 

父親は最初反対した。そこには「自立させてだいじょうぶかな、やっていけるかな」という不安に思う面もあったが、Dでの様子を見て「なんとか、いけるかな」と感じる。また、家に1日中1人でいるという状況は「かわいそうだ」と考えるようになり、Fさんが自立生活をすることへの気持ちの強さを感じ、やらせてみてもいいかと考えた。

 

(父)「それならばいっぺんやらせてみてだめならば、また、戻ってくればいいという気持ちで」

 

姉と弟は反対したり不安に思うことなく、Fさんの決意を積極的に受け入れた。

 

(姉)「あんた1人で暮らすって、あんた大丈夫かと聞いたら、私には考えがあるのよと言うから。それで色々聞いたら、あの、そんな遠いところで1人住まいするわけじゃないし、うん。うちの母親からFが1人暮らしするって言うんよって聞いて、1人暮らしってあんた大丈夫なのって聞いたらFのことはこうこうこうでヘルパーさんも雇うし心配いらないって言うんだって。ならまあ長く続くか続かないか分からないけど、うーんあのしたいって言うのならやらせてみたら、やってみてだめだったらまた、家族で住めばいいじゃないって言ったのよ」

(弟)「1人暮らしするのならしたらいいんじゃないかっていう感じだったもんね」

 

6−4、自立生活の準備

 市役所での生活保護の手続きに関しては障地問のメンバーのYさんとKさんが一緒に行ってくれた。 

Fさんは自立生活をすることが決まってからの気持ちに関して次のように述べている。Fさんは自立生活を始める1ヶ月ほど前まで「実感がなかった」とのことであった。その理由として在宅時に親に放りっぱなしにされていたことを挙げている。

また1人暮らしをするのが怖かったFさんは家を出たいと思ったときに女性と暮らしたいと考えた。初めのころは1人暮らしが不安なため一緒に住んでほしいと思い、2人の女性に声をかけるが断られてしまい、結局1人で生活を始める。

 

6−5、自立生活のスタート

 自立生活は33歳のときに始める。

 

6−5−1、介護

始めた当時は女性の介護人が4,5人いた。またkさんという女性が自立生活を始めた当初、ほぼ1日中いてくれた。自立生活を始めて1年ぐらい経ったころは7,8人の介護人がいた。多いときは10人ほどおり、学生で来ている人数が最も少ないのは現在かもしれないと述べられていた。学生には夕飯の介護についてもらうのが主である。以前は寝るまで付き合ってもらっていたがいつのまにか夕飯だけになっていたとのことである。Fさんは介護は濃い人間関係だから、合う・合わないで決めるとのことである。その理由として「健全者と障害者の違いってさ、健全者は隠せるよね、自分の生活を」ということをFさんは述べている。また、寮生活や施設での生活の中で人間関係には敏感になっているため、合う人しか入れないそうである。Fさんは嫌なこと嫌、来られないときは来られないと言える関係でいたいと考えている。ヘルパーは自立生活を始めた当初から入っており、最初は週に2回、今は週3回来る。ヘルパーがする内容としてはFさんをふとんからおこし、ご飯を作って食べさせ、その後かたづけや掃除、洗濯がある。これらを朝9時半から11時半の間に全て行なう。

またFさんは生活を始めたころ、近くに知り合いに住んでもらって色々と頼っていた。現在でも知り合いの女性が隣に住んでいる。

障地問では4年前から専従3の職員をつけている。その理由として介護人探しすることにも人が必要であるということや、それまで障地問の事務所が機能していなかったので、機能させるために常に人がいる状態を作ろうとしたことが挙げられる。

専従をつけなかったころは「自分の生活中心」であったが、つけるようになってからは専従は障害者と行動することが基本となるため、専従に合わせて動くといった状況も出てくるようになった。

 

6−5−2、一軒目の家

大家さんが斜め向かいの家に住んでおり、夜遅くに帰ってくると窓からその様子をのぞかれるといったことが2,3回あった。Fさんは「いつも監視状態だった」とその状況について感想を述べている。また大家さんが家を壊すと言ったこともあり、二軒目の家を探すことになる。

 姉はこの家が「結構汚かったのよ」とし、Fさんが住むときにカビだらけのお風呂を掃除した。そうしたことについて、「そういうところはやっぱりね、肉親が行って、きちんとしてきたけど」と述べている。

 

6−5−3、二軒目の家

 最初は県営住宅か市営住宅にあたるまでの期間のみ住もうと考えており、そちらのほうに申し込みをしていたところ、当時は障害者で介護が必要な人の1人暮らしは対象外となっていた。そこで県営住宅をあきらめた旨を不動産屋に伝えたところ、期間限定で住むと言ったときは嫌な顔をされたがそのときは笑顔で喜んでいたということである。

現在でも住んでいる二軒目の家では大家さんとの関係も良く、家を改装することにしたときも、お金が市役所から出るということもあってか、すんなり了承をえられたということである。この家は住んで7年目になる。

 

6−5−4、自立生活を始めてから1年後

Fさんは自立生活を始めたころは家に帰るということもなく、1人暮らしをがんばっていた。しかし、無理がきかなくなったころに一度ぶちぎれたことがあったという。その理由を次のように述べている。

 

F)「やっぱり家のほうがね、自由だったのよ、私にとっては。好きなときに好きなところに、行けたの。ということは母親がやっぱり車の運転出来るし、父親も運転出来るわね。うちの家族はみんな運転出来るのよ。そしたらあのー、映画に行くにしてもさー、送ってもらって迎えに来てもらえばいいわけでしょ。だから、映画行く、コンサート行くってなったらやっぱり送ってもらって、また終わりぐらいに迎えにきてもらって、そういうことが結構出来たからね、結構どこにでも行っていたのよ。自立生活をし始めたときって、なんかほらやっぱり人手がないっていうのもあるから、思うように動けなかったのよね」

 

そして自立生活を始めて1年ぐらいのころに、Yさんに「話が違うじゃん、家にいた方が自由じゃん」、「こんなんなら施設にいたほうがいい」と言ったことがあった。

しかしそれをきっかけにあまり考えることはしないようにしようとFさんは思い、ちょくちょく実家に帰るようにしたそうである。帰ることで気分転換になるとFさんは述べている。今でも週末は、用事がない限り、実家に帰っている。帰っている間の介護は母親がしている。また弟もFさんがやってほしいことを頼むとやってくれる。

Fさんが自立生活を始めて1年は実家に行かなかったことに関しては姉が次のように述べている。

 

(姉)「1人で生活するときはね、やっぱりすごい決心でね、ことを起こしたから。だから、それに自分も耐えんなん慣れんなんと思って一所懸命だったんじゃない、うん。だから、おいそれと、実家に帰るとか、そういうこと言っていたら、初めから、1人で生活出来ないっていう。そういうかたい決意があったと思うのよ」

 

今現在Fさんが週末に実家に帰っている状況について姉は次のように述べている。

 

(姉)「弟がお嫁さんもらうまで、(中略)あのーあえて言えばあの子が1人で住んでいるところはあの子の仕事場みたいな感じでしょ。(中略)なんか手足伸ばしてでろーんとしたいという、そういうところが実家だと思うから。(中略)いまだに弟独身だからFは助かっているのかなーとか思って」

 

自立生活をしたことに関してFさんは、生活を始めて3年ぐらいしてから良かったと感じるようになった。その理由として、二軒目の家を自分で探して決めた家だということもあり落ち着けることと、そうした中で居場所があることを実感できたことが挙げられる。またFさんは「自分だけでいろいろなことが出来る家。自分の思うように出来る家、場所」という点でも落ち着けると述べている。

 

6−5−5、全国青い芝の会4との関わり

 Fさんは高校のころに青い芝に関しては「すごい人たちがいるな」と思い、またその当時ニュースで流れていた神奈川のバス闘争を見たり、本を読む中ではその活動を肯定的に捉えてはいなかった。

関わるきっかけとしては、障地問のYさんに青い芝の話をされたことが挙げられる。その中でFさんは行動綱領5の一つである愛と正義を否定するに関して最初よく分からなかったとしている。しかし具体的に愛に関しては親の愛情、エゴイズムの愛を否定するのであって男女関係の恋愛は否定しているのではないと言われる。また正義に関しては例え悪いことでも数が多ければそちらが正義になることに関して否定すると説明され、半分ほど納得する。それと同時期に在宅生活を過ごしているときに九州で行なわれる全国大会に参加することになる。全国大会に出たときの感想として、青い芝は脳性マヒの人しか入れないがその中でも色んな状態の人がいて「色んな生活があるんだな」と実感し、またやっぱり1人で自立生活をしていくためには、こうした青い芝の会での運動が必要だということを改めて実感し、納得したことが大きくある。

青い芝の活動には1人暮らしを始めてから本格的に関わるようになった。

 

6−6、現在の家族との関わり

6−6−1、兄弟に対しての思い

 Fさんは兄弟との関係性について将来も含めて次のような思いを抱いている。

 

F)「普通一般的な家族で障害者のいる家族は、多分兄弟がいたら、親とかがやっぱり、自分が亡くなったら、兄弟に面倒見させようとか考えるらしいのね。で、私はそれは、間違いだと思っていて、そんな兄弟に面倒見てもらえるわけもないと思うし、やっぱり個人個人の生活とかあるから、面倒見てもらうとかそういうのはしたくないの」

 

Fさんが6歳から養護学校の寄宿舎にいたこともあり、ふつうの兄弟にあるような一緒に遊んだり、けんかしたりといったことが抜けていることもあり、接点がないことを述べている。 

そうした中で「遠くの親戚より近くの、他人」という感じがするそうである。

また兄弟に負担をかけるようなことをすると、障害児を母親が殺すという「子殺し」が起きることにつながりかねないという思いをFさんはもっており、「距離を、おいたほうがいいんだよ」とFさんは述べている。

その一方で兄弟側は次のような思いを持っているとFさんは述べている。

 

F)「そんな口に出しては言わないけど、親が亡くなったら、結局やっぱり面倒見ないといけないと思っているらしくて、親は別にそんなことを兄弟には多分言ってないと思うんだよ。そういうの聞いたことないし、でもなんか、そういうプレッシャーとかあるみたいだから」

 

6−6−2、親との関係

 母親との関係として今はFさんは「私、愚痴の聞き役だと思っているから」と述べている。父親に対する母親の愚痴を聞いているとのことであった。父親とはあまりしゃべらない。また母親が家族の中で一番Fさんの介護を行なっており、家族の中で一番親密な関係がある。

 母親は今だに帰ってこいと言ってくるそうである。そうした中で 「共倒れになるって考えないんだろうね、親はね」とFさんは思っている。そしてここでも「子殺し」の危険性と心配をFさんはしていた。以前から母親に「死んだらすぐに迎えに来る」と言われていることがその要因であり、長い時間一緒にいると「一緒に死のう」ということになってしまうという点でFさんは怖さを感じている。最近では母親に対して「あんた勝手に死なれよ」と発言するようになった。Fさんは「子殺し」の問題について「家族で抱え込んじゃう」危険性を指摘しており、解決策として「地域ぐるみで」関わることを挙げている。また、今の生活に慣れたこともあり、実家に帰って生活をすることは出来ないと思っている。家に帰って介護してもらうということに関しても毎日親がするとなると「親もからだ持たないでしょ」と述べている。またFさんが週末に帰っているときに全面的に介護を行なっている母親が腕が痛いと言っている現状がある。そうした中で、来年あたりで週末に家に帰ることも終わりかなといった気持ちを抱いていることが述べられた。しかし親はそういったことはまだ考えなくても良いと言っており、Fさんを介護することが「生きる支えみたいだからね」とFさんは感じている。

 また両親によると、Fさんが五福の家にいるときに、電話連絡をとっているとのことであった。母親が度々Fさんに電話をかけて連絡をとっている。Fさんが用事で県外など出かけるときは母親に連絡が行き、父親は母親から間接的に聞く。

 連絡なしにFさんがどこかへ出かけたりといったことに関して父親は本人は気楽かもしれないが親はいつも気にしているといったことを述べている。

 

6−6−3、家族側からのFさんの自立生活の捉え方

 母親は今の時点での考えを次のように述べている。

 

(母)「私とFだけの世界だけでないしねえ、その子のことばっかり考えていても始まらないしね。それで身体でも壊したらそんなの大損害だもの。だから私はもうその日さえ暮らせればそれでいいの」

「親が元気な間って言ったらおかしいけど、現時点で、Fには嫌になったらいつでも帰ってくるといいよとは言ってある。(中略)そのときの状況によってあの子が判断すると思うよ。(中略)あくまで本人の意思にね、歩み寄って、そしていいほうになるように、みんなで知恵出しあって、やるしかないなと思うからさ。だから、いつかはこういうときが来るということを家族が思っていれば、うん。そうすればそんなときがきたときに、ぱっと対応出来る知恵が、気にしてなかったことではないから、いつかは、あるかもしれないなと思っているから、何かまたいい知恵出るかな」

 

  父親はFさんの隣の家に知り合いの健常者の女性が住んでいることで「安心」してはいる。その一方3人の子どもの中で一番手をかけたのがFさんなので、「とにかく親として、気にはかかるわけ」と述べている。そして、万が一Fさんが病気をしたときのことを心配していた。現在でもFさんの自立生活の決意を聞いたときと同様の気持ちを持っている。    

 

(父)「いつでも戻ってでもいいようにという気持ちはあります。(中略) 体が不自由やからねえ、人の迷惑にならんようにと思いながらいるけども」

 

 姉はFさんが1人暮らしを始めた当初の様子を次のように述べている。

 

(姉)「最初はやっぱりなにかあったら、ずっと考えていることが多かったけど、うーんやっぱりほら、不安だからだと思う。(中略)口もこぼせないからじーっと考えていて、言葉数はそんなになかったね」

「別に、1人暮らししたからって言って、あの人、さびしいとかあんまりそんな愚痴ることもないし。大変なのは覚悟の上だからって言っていたから。あんたつくづく肝据わっているわねって言ったら、へっへーって笑っていたけど」

  

またFさんが長く自立生活を続ける中での様子について「たくましくなってきたわ」、「あの人も1人暮らしねー、自信がついちゃって」としている。そして今の自立生活を見ている中で次のような実感を姉は持っている。

 

(姉)「 友達、たくさんたくさん作ってFの周りに、あの出来るということはほんとにいいことだなと思っているわ、うん。肉親の出番がこのごろないような感じでね。でもそれぐらいが一番いいんじゃない」

「仲間の人たちが、取り囲んでくれているから、実をいうとほんと安心、うん。特にだんだんうちの両親なんか年老いてくるからね、なんかそういう意味でー。ひとまずFちゃんはFちゃんでちゃんと、自分で自分の生活をやっているっていうのがやっぱり一つ、未来にむけての重荷みたいなのがちょっと軽減しているからね」

 

 姉は「ああいうハンデを背負っているから親と一緒に住まないといけないというものでもないし」と考えている。それは、健常者である場合に置き換えられ、嫁にいった場合や、他県の大学に進んでその地にそのまま就職するという状況が出てきた場合に、「それこそ親と離れているよ。一つ屋根の下には住んでないよ」ということが挙げられた。

姉は将来のことも含めてFさんの自立生活について次のように評価している。 

 

(姉)「Fがなにも出来なくて、親と一緒にずっと何十年も家にいたからどうのこうのって言うよりも、あの子はあの子でちゃんと、友好関係といったものを自分でちゃんと作って、自分なりにちゃんとね、肉親とかに関して、負担をかけない生活をきちんとやっているから、そういう意味で、いいんじゃないの。だから私も、Fのことはときどきふっと気にはなるけど、うん、でも別にそんな、切羽詰った、そういうマイナス志向にはならないからね。(中略)いずれは多分、あの面倒見なくちゃいけないかもしれないけども、何かの形で。(中略)なにもしないでほーっと1日家で車椅子に座っているよりは、あそこ行ってこっち行って、そういう変化のある日々を過ごしているからそっちのほうがよっぽどいいと思って。(中略) ある意味楽しみだね、今度どういう行動起こすのかなと思って」

Fはもう食事から下の世話まで全部人の手借りないといけないでしょ。そういう意味でうちの母親、父親がやっていたらやっぱりそれだけ、気がめいってくると思うのね、うーん。だからそういうところの、精神的な負担というものをやっぱりなくしてくれたのだから、結構あんた、親孝行な娘じゃないの」

 

Fさんが自立生活を行なうことを初め、様々な活動をしていることに対して姉は「うらやましいわ」という気持ちを抱いている。その一方でFさんにはどんどん好きなことをすればいいと思っている面もある。

 

(姉)「そうだね、映画も見て、コンサートにも行って、何でもやれるものは全部やってしまえばいいわ。出来るのだったら。(5秒沈黙)いいわ。ねえ、せっかくの人生だもの、自分の思ったとおりにもしやれるのだったら、うん、送れるのだったら送らないと損だわ」

 

弟はFさんが自立生活をすることを選んだことに関して、「いい道を選んだ」、「あの人はすごいよ。(中略)あんな体で、ようは自立している」という思いを述べている。また、在宅生活をしていたときのFさんの様子を振り返って次のように述べている。

 

(弟)「自立して良かったよ。あのまま家にいたらどうなっていた。家にいてもなにもすることないし・・この先どうなるのかなとかって、思ったこともあったけど。(中略) 周りに友達いっぱいいるやんね。ここだったら1人だったものずっと、うん。外出て、正解だったと思う、うん」

 

6−6−4、現在実家に戻ってきたときの介護の状況

 帰ってくるときは金曜日に帰り、土日と滞在して、月曜の朝に帰るというのがおおむねである。介護に関しては全面的に母親が行なっている。

 

(母)「家来たときは、全面的に私がやるわね、ご飯食べさせるのも、寝起きさせるのも、うん。風呂に入るときは、お父さんと2人で共同作業。私があの子の上半身持ってお父さんが足持って、入れたりあげたりだけ。あとからだ洗うのとかはみんな、椅子があるからそこで私がして。それであったかいときなら、私服着せてやるけど、真冬になって寒くなったらね私風邪ひくから、お父さんにお願いしているの。そしたらお父さんが、服からおむつからしてくれる。(中略)普通のお父さんそんなことしないと思うわ」

 

また実家に帰ってきたときは母親と近くの大型スーパーに必ず出かけている。

現在の実家は平成4年から住んでいる。玄関にはスロープがついている。Fさんのための個室というものはないので、帰ってきたときは居間にいて、寝るのも居間で、母親と一緒に寝る。母親によると、家に帰ってこいと言う母親に対してFさんは、物置のような状態になっている場所にFさん用の部屋を作ってくれれば家に帰ると言っているとのことである。

 

6−6−5、Fさんの家を訪ねる

姉と弟はFさんの家を訪ねることに関しては次のように述べている。

 

(姉)「ちょっと空いたときに、ならFのところでもちょっと顔出そうかなと思ったら、玄関の戸が閉まっているし、また留守かとか。(中略)案外私ね、Fには言ってないけど、会おうかなと思ってたまーにね、行ってね、やっぱり空振りが結構あるのよ」

(弟)「週1回帰ってくるから、別に改めて行こうとは思わないしね」

 

 弟はFさんが住んでいた一軒目の家には行っていない。今の家にはFさんが実家に帰るための送り迎えをするときにほんのたまに行く程度である。

 

6−6−6、「家に帰らない」という話が出たことに関して

 

(母)「先月だったわ、お母さん私もしかしたら11月から家帰ってこないかもしれないってFが言っていたのね。お母さんただ、お風呂だけ心配だから、忙しくても、お昼に帰ってきて、お風呂入って、次の日の朝に帰ってもいいから、お風呂だけ一週間にいっぺん、入りにきたらって言っていたのよ。それでも分からないって言っていたわ」

 

考察

 自立生活をFさんが始めるきっかけとしては、家庭内での問題がきっかけではあるが緊急のときの安全性の確保という点も大きかったと思われる。また同時に家族の中に関係性が閉ざされ、問題が家族内にのみ内在する状況を回避していた面もあったと考えられる。

 Fさんは自立生活を始めて1年後から週末に家に帰るようになる。現在の自立生活の状況に比べて、自由に行動が出来る面では家は居心地の良い場所である。また家に帰ることで気分転換が出来るということも挙げられる。週末家に帰ったときには母親が全面的に介護を行なっている。現在のFさんの大きな不安なこととして、年を重ねていく上で介護をすることが辛くなっていくであろうということがある。さらに「共倒れ」また「子殺し」といった問題が出てくる可能性をFさんは挙げている。

母親から死ぬときはFさんと共に死を選ぶというような発言がときどきされる状況の中、物理的に距離をとっていることでFさん自身の安全性を確保していると思われる。自立生活を続けていることでFさんの不安要素は取り除かれている。しかし母親がFさんに帰ってこいと言っていることを見ると、家族がFさんのこと全てを見ようとすることで、Fさんが考えているような危険性よりも、面倒を見ることに対しての意識が高いと思われる。また父親からもいつもFさんのことが気になり、またFさんに帰ってくるように言うことはないが戻ってきてもいいという発言がある。こうした中で兄弟との関係でも負担をかけないように、「距離をおいたほうがいい」とFさんは話している。

Fさんが家に帰ってくることに関して意識が高いのはFさんが自立生活を始めようとしたときの発言とそれに対しての家族の反応にもつながるところがあるだろう。Fさんは家を出ることに協力してほしいと述べ、また「家に帰ってくるかも」といったことも言っていた。

家族側の思いを見てみると、両親は最初自立生活をすることに難色を示している。しかしとりあえずやるのならやらせてみようという気持ちを家族全員が持つ。また弟以外は続けるのが難しければまた家に戻ってくればいいという考えを持っていたことが見られた。

 自立生活している状況を兄弟がどのように考えているかを次に見てみる。姉は親が介護するということに関して言及している。それはFさんが全面的に身辺介護を必要としている中で両親が介護を行なっていたら精神的に辛くなるということを挙げている。けれどもFさんが自立生活していることで両親の精神的負担が軽くなっているということも述べている。また、仲間が多く出来たことで肉親の出番がなくなっていることを挙げ、「それぐらいが一番いい」ことだとしている。また弟は「いい道を選んだ」と述べている。在宅生活でのFさんの様子に不安を感じていた弟は、多くの友人がFさんのまわりにいるような現在の状況がある中で自立生活をして良かったと考えている。

 両親は出来ればFさんに家に帰ってくるように考えている。しかし兄弟側ではFさんの自立生活を肯定的に受け止めているといったFさんの自立生活に対する見方の違いが両親と兄弟の間に見られた。 

 

 

7、将来に対する言及

7−1、親の考え

将来に対する両親の考え方を見てみる。

 

(母)「別に将来のね、計画とかそんなものはなにもない。親たち自身も、Fもないと思うよ。こんな時代だしこんな状況だし、Fもあんな体だからね、いつどうなるか分からないし。人間の体だからねえ、親もどうなるか分からないから明日のことも分からないからね。だからね、無責任な言い方だけど、今日さえ無事に生きてれば生活できればいいっていう考え方だから、私たち。だから将来は、問題にぶちあたることがあったときに、対応出来るだけの忍耐力さえ持っていたらなんとかならないかなってそんな感じだから」

「なにかことが起きれば、それでまたみんなで、話し合いをすればいいしね、うん。それで、全部話し合いをして、出た知恵でそれが最高ならそれでやるしかないしね」

(父)「今度かしらになる弟が、後取りがうまくやってくれればいいなと思ってはいるけども」

(弟)「姉貴(Fさん)の将来は特別考えてないね。(中略) そんなに深く考えてない」

 

母親は将来Fさんを含めた3人の子どもに対する願望を次のように語っている。

 

(母)「親の考えとしたら、兄弟の完全なるお荷物にならないで、一歩あいだおいて、ということは、やっぱり国の、助けをもらって、重度の養護施設に入るとか、ね、どうにもならないときは。結局ほら、親がいる間は子どもはなにかとやっぱり面倒見てくれると思うよ、ね。兄弟はね。そうだけどね、親がね、例えいても、年いったらもう何の役にも立たないもん、うん、だからそのときはやっぱり、子どもにFを託すことは託すよ。だけどあのー、全部責任持ってね、最後まで面倒見てやってくれとかそういうこと、私は子どもに言うつもりはもうとうないわね、うん。だからもし、私はFに、私の願望としたら施設入ってそこで国の世話になって、今の時代を想定したら。そして、月にいっぺんでもね、暇あったら顔見に行ってやってくれとか、ね。その程度の側面的援助っていうかね、心の支えっていうかね、忘れたころにね、ちょっと顔出して、私には兄弟いたんだと思える程度の生活を送らせたいというかね」

「強いて、FのことKあんたF頼むよとかね、お母さんになにかあったら頼むよとかそんなことはなにも言ってないしね。だから、(3秒沈黙)結局、親の姿見て、それとなく、なにか感じて、身につけばいいかなーと、意識しているわけでないけどね、うん。家の空気を見ていたら、あの子なりにそれが普通の家の空気だと思って、受け止めてくれないかなと思って。だからなにも強いて、ああしてこうしてということはなにも言ってないからね、うん。だから将来についても特別なことはなにも、そんな、うん」

 

7−2、Fさんが親に言っていること

母親によると将来に関してFさんは「お母さん私の将来のこと心配しないで」と言っている。しかし心配になると言う母親に「どうにもこうにもならなくなったら、私施設に入るから」とFさんは言っている。こうした話の中で母親の側がFさんの顔見に行かないといけなくなるじゃないと言ったところ、Fさんはじゃあ来るといいよと言ったとのことである。

また、父親はFさんから「本人がこの間も言っていたんだけど、あのーどちちがかけたら、家戻るって」と聞いているとしているが、母親には両親のうちどちらかが亡くなった場合、家には戻らず、施設に入るとFさんは話したそうである。Fさん自身もそうした場合は家に戻ってくるつもりはなく、放っておいてほしいと言っているとのことである。

また父親はどの時点でかということは定かでないが、戻ってほしいという気持ちを示していた。

 

7−3、介護の引継ぎ

姉はいずれ親が行なってきたFさんの介護を引き継ぐ必要性を考えている。

 

(姉)「そういう問題(弟の結婚)は今一番考えないといけない問題じゃないかな、Fにしても私にしても、うん。それとやっぱり親ももう70歳近くなってきたからね。これからがやっぱり正念場だと思うし、今まではずーっとこう、親に頼ってきた部分がすごくあるけど、これから先やっぱりね、うん・・ま、父親はあれとしてやっぱり母親がなんとかなったりしたらもうほんとにFの、体のすみからすみまでどういう状態かというのを一番熟知しているのは母親だから、それに変わる人って誰もいないから。これはちょっと私も、あんたが健康なうちにちょっと聞いとかないとねって私、母親にはちらっと言っていたことはあるのだけど、うーん。何年後のことになるか分からないけど、今唯一の、ちょっと心配ごとといったらそれかな」

 

7−4、国の福祉体制

母親と姉の発言から国の福祉体制に対する要望がうかがえた。

 

(母)「将来の託す希望っていったら、やっぱり国の世話になるよりほかにないと思うのよ、うん。そして後は側面的に兄弟2人ね、娘と息子がね、ちょっと手をかけてやってくれれば、うん。今のところ兄弟仲がいいからね」

(姉)「日本の福祉がどこまで踏み込んで、もうちょっとかゆいところに手が充分行き届くような制度をしてくれるということが、あれだけどね。(中略)ほんっとに、うちのFA養護学校に入ったころから見たらほんっとに福祉はものすごく目覚しい進歩で充実してきたけど、なんかもう一つだね。やっとバリアフリーだなんだっていって2,3年前からうるさく言うようになったでしょ」

 

7−5、弟が結婚することの想定

弟は現在未婚であるが、結婚することになる場合に関しては家族は次のように発言している。

 

(母)「(Fが)私、Kにお嫁さん来たら私もう家帰ってこないよって言って。(Fが)何でなのって、そんなの何で私いちいち帰ってこなきゃいけないの。私は何で帰ってきたらだめなのって、そこで押し問答だったけどね」

(父)「うまくやっていってくれることを、弟には、あの息子には頼まないといけない、それはそう思っている、うん。だから、暗黙の了解というか、弟自体それは分かっていると、私は見ては思っています。(中略) 無理に押し付けるとか、ああだこうだと言うことはまず今のところはないしね」

(弟)「あーそういう状況も考えたことあるけど、うん。(7秒沈黙)ま、Fちゃんなら来ないだろ。そんなことになったら。俺はたぶん来ないと思うけど、でも来てもいいけどね」

(姉)「土日になったら、家帰ってくるっていうのが、やっぱりあのー、弟にお嫁さんが来て同居したら、それが出来なくなるから、それがねうん、今のところあの子の一つの、問題点じゃないかな。(中略) お嫁さんと同居するということになったらやっぱりそういうのとかもね、あんまり出来なくなるというのを本人も、それはずっと前から言っているから」

 姉は実家に弟夫婦が住むことを問題として捉えている面がある。

両親は弟の結婚相手には何らかの形でFさんに関わってほしいということを述べている。

 

(母)「やっぱりね、お嫁さんもらったときね、この子(F)のこと言わないわけにいかないしね、そんなの隠すこといつまでも隠せるわけでないしね、また隠す必要もないしね。(中略)面倒見てやってと言うのとねえ、またなにかあったら頼むわと言うのとね、すごく受け方違うでしょ。面倒見てやってと言ったらまあ全面的にほら自分が背負うような感じするじゃない、ね。だから、また頼むわと言えばさ、自分に、出来るだけのことすればいいなと、思ってくれて、その意味を分かってくれる人がね、来てくれるならね、身体が丈夫であって。それで、ま、それなりに、十人並みの、素直さがあればそれで、姿かたちはどうでもいいわね」

(父)「結婚するということになって誰かがお嫁にきてくれる人がいれば、その人には頼まないといけない」

 

母親は弟さんが結婚していないことに関して、Fさんのことが関係しているのではないかという思いがあるが、実際弟にはそのことに関して聞いたことがないことを次のように述べている。

 

(母)「なんかこの子(F)のこと気にしていてねえ、お嫁さんね、この子にしようかという心決まらないのかって、聞こうかと思うけどね、そんなこと果たして聞いていいものか悪いものかねえ。考え方によって聞き方によって、悪知恵をつけさせるような気もするしね、そうでしょ。だから私聞くの怖いのよ、あの子に」

 

将来実家でFさんと一緒に住むということを仮定した発言が父と弟からあった。

 

(父)「本人が、もうどうしても、家に来ると言えば、それは大歓迎。それで私はもうほとんど、そのつもりでいたわけ」

「本人が、やっぱり下に弟がいるし結婚ということが控えてくるし。自分はというような気持ちもあったのかもしれない。そういうのは、私は、全然気にしてなかった」

 

 父親は弟さんが結婚することになった場合については上のように述べているが、このことをFさんとは話したことはないということである。

 また弟からはFさんの意思を尊重する発言がされている。

 

(弟)「別にいいんじゃないかな、ね。(中略)どうこう言うことじゃないわ。帰ってくるならいつでも帰ってきたらいいし」

 

考察

 将来に関しては仮定的になってしまうが、家族がどのような意識を持っているかということに触れていく。

特に母親、そして姉からは国の福祉政策の動向にも目が向けられている。現在の社会情勢として障害者の居場所として浮かび上がるのが家族や施設であり、この二つならば安定した生活を送ることが出来るのではないかという意識が働いていると思われる。

両親の思いとしては、まず母親はFさんのことを兄弟にまかせたいとしている。また現在最良の方法として考えているのが、Fさんが施設に入って兄弟が時々会いに行くというものである。しかし基本的にはそれほど具体的にしっかりしたビジョンを持ってはいないということであった。父親の方は跡取りとなる弟に全面的に任せたいという強い気持ちを持っている。両親は兄弟には言葉にして将来Fさんのことに関して言うことはないが、何らかの形で関わっていってほしいという思いを持っている。

また両親の発言からFさんには家に帰ってくることを続けてほしいという思いが見られる。父親はFさんに家に帰ってきてほしいという発言もしている。

 次に兄弟の意識を見ていく。弟はFさんが実家に帰ってくるようなことがあればそれでもいいとし、基本的にはFさんの意思を尊重するようであった。姉は母親が現在Fさんが実家に帰ってきたときに全面的に介護を行なっており、これまでそのような状況を身近に見てきた。そのような中で「Fの、体のすみからすみまでどういう状態かというのを一番熟知しているのは母親だから」と述べており、母親から介護の方法を学ぼうともしている。姉は将来Fさんの面倒を見るといった状況が出てきた場合の介護に関わる意識が強いといえる。

 ここでは家族の発言を主に見ているが、その中でもFさんは両親のうちどちらかが亡くなるということや、どうしようもない状態になっても施設を選ぶといったことを言っていることが挙げられている。そこからもFさんが家族と距離をおいて関係性を持とうとしている考え方が見えてきた。

 

 

8、全般に関する言及

8−1、Fさんと主治医の関係性

母親はFさんの長年の主治医となる医師に「信頼出来る先生だわ」と感じたきっかけとして、脳性小児マヒという診断が下ったときに「先生その病気治るんですかって聞いたの私。そしたらきっぱりと治らないって言ったの」ということが挙げられている。普通ならば治らなくても徐々に良くなるといったことや努力すれば治るといったことを言うのだろうと母親は推測し、その上で次のように述べている。

(母)「なんてひどい先生だろうかと思ったよ、でも後から思ったね。でもあれだけきっぱりと言えるっていうことはねえ、相当のやっぱり自信といったらおかしいけどね、やっぱり並みの医者ではないなと思ったね、そのとき」

 

またリハビリに関しても「リハビリすれば、多少の麻痺した神経は、戻るかもしれないけれども、治らないって言ったね」と述べられている。こうした発言から「その先生をやっぱり信用したわけそこで」としている。また、本を調べて治らないことが分かり、それならば「おなじことだと。おなじこと聞いてね、また傷心するよりか、聞かないほうがいいわと思って。(中略)だからただ一筋S先生の言うことだけ聞いてさ。だから、私その先生にほれたのよ、結局ね、うん」といった経緯を述べている。

 

(母)「市民病院一本、うん。そこでもう、そういうふうにきっぱりと言われたからね、私、この先生はいいなと思ったのね、うん。この先生に、やっぱり、Fを預けようかなと思ったのね」

 

そこには、色んな医者のところの意見をたくさん聞いて悩んでいるほかの親御さんを見ていることもあり、そのようにしてFさんの親が色々聞くのが嫌だったり、悩むぐらいなら1人の先生にという思いがあったと母親は述べている。

また養護学校時代における主治医との関係を次のように述べている。

 

(母)「役員会しようかとかいったら食事会とかあるでしょ。で、そのときに、色んなことね、普段思っていて気にかかったこととかさ、聞いたりして、うん。だから特別に先生のほうへね、ちょっと話あるので、お願いしますって言ってね、そういったときは、やっぱりほら、体の調子があまり思わしくなかったときとか。それと、面接の日とかだったらやっぱり、先生もちょろちょろとまわって、みんなの様子見に来ていたしね。またね、こまめなね、ほんとうに、実直というか、ほんとうに気のつく先生だったからね」

 

父親は「S先生に頼りっきりみたいになっていたからね」と述べ、そうしたことに関して「Fちゃんに関して、病気の内容を全部知っているから、うん。そしたらこの先生に病気のことは任せたほうが、いいかなと思ったから」としている。

またFさんの首の手術のときに関しても「それはもう先生に任せて」ということであった。

 

また現在の主治医との関係について母親は次のように述べている。

 

(母)「たまに行ったら、元気にしているのかって聞かれたら、うん元気にしています、それならいいけれど。また先生にちょっと、様子見てもらわないと思っているのだけどって言ったら、今寒いから雪解けてから来たらいいよ。そういう感じの、先生なものでね」

「今の間はそんな感じでFの体については、現在の整形に対しては、健康状態は、内科関係でない限り、市民病院の整形のK先生に、任せているような状態なの」

 

医者とのいい関係性について母親は次のように述べている。

 

(母)「10のものは10ともね、何でも好きなこと聞けるから、それで私も、何でも好きなこと聞けるからねえ、やっぱりそういう先生だったら楽だし心強いでしょ、ね。何でも腹のそこからねえ、何でも言えてアドバイスもらえるなら、そんないい先生いないと思わない、うん。だから、私がいなくなったら(Fが)どうするか知らないけど、私のいる間はもう、市民病院連れて行ってやろうと思っているのよ、運転出来る間はね」

 

8−2、兄弟仲

 両親は兄弟3人は仲がいいとしており、母親は兄弟げんかをしたことがないことも挙げている。その理由として「3人ともみんな1人っ子みたいな状態で育てているから」ということを挙げている。

 

(弟)「別に特別な関係でもないし。ほんとうの兄弟や、うん。ああいう体だからといって特別扱いした覚えはないのだけどね、俺」

 

 姉の子どものころの兄弟関係の発言では次のようなことも語られている。

 

(姉)「妹と遊んだ記憶も半分だけど、あとの半分といったら私、弟のお守りしていたことだものね、うん。結果的にはやっぱりそうなんだわ、うん。妹はやっぱり、ぽつんとA養護学校に行ってしまったから結局、その間っていったら私と弟。(中略)離れていればね、もう弟は弟でほら、もううちの母親にべったり」

 

8−3、会話について

母親はFさんが言語障害を持っていることに関して次のように述べている。

 

(母)「兄弟面会に行ったときは、Fはあのとおりほら、言語障害あるでしょ。今はまだ、うまくしゃべれるようになったけど、やっぱり人の中に出たおかげでね、うまいことしゃべれるようになったけど、あんまりしゃべれなかった」

 

 また「込み入った話はしてないわ」とし、言葉のやり取りはほとんどなかったとしている。また会話に関して自立生活を始めてからのFさんの変化を次のように述べている。

(母)「家から出てからよね、しゃべるようになったのは、うん。だからその点、人の中にやっぱり出して良かったなと思うわね」

 

 Fさんが端的にしか発言しなかったり、言葉数が少なかった中で次のような意識をもつようになったと姉は述べている。

 

(姉)「いつからか知らないけど、とにかく私が言うのじゃなくて、この子の言うことやっぱり最期まで聞かないといけないなというのはなんとなく、やっぱり分かってきて、うん。だから、最初はあれにするのか、これにするのかって聞いていたけど、どっちにするのあんたって言って、黙って聞いて」

 

8−4、周囲の反応

 ここでは母親がFさんを外によく出していたことに関して周囲からどのような発言があったのか、また障害を持つ子どもを生んだことに周りの母親がどのように感じていたかということを見る。その中で母親自身がどのような思いを抱いていたかも発言から見ていく。

姉の発言からは近所にはFさん一家がどのように映っていたかを見る。

 

(母)「ああいうような子を持っていたらね、みんな隠したがってね、表に出さないのね、うん。ずーっと家の中にね、真綿にくるんでね、出すことはそんなないわね。私はまたあんな子だからね、だからやっぱり色んなもの見せてやったり、聞かせたりしないとだめだと思ったからね。だから私、みんなね、言いにくいことだけどあんたこんな子持っていて、やっぱり嫌じゃないのとか言うけど、そんなこと別に思ったことない。人の中へね、連れて出るのも、あの恥ずかしいとかね、そんなこと思わないのかというようなこと聞くからさ、そういうようなニュアンスの言葉で言うけどね、私そんなこと思ったことない。私なおさらどこでも連れて行ってやると言うわね。そんなもの人にどう思われようといいわって思ってね、そうでしょ。あらーかわいそうにと思って見る人もいるしね。それからようね、あのー、どこでも連れて行ってあげて、一所懸命面倒見てるのはえらいお母ちゃんだなと思って見てくれた人もいただろうしね。あんなもんよく連れてどこでも出て、恥ずかしくないのだろうかと思う人とか、色んな見方の人がいるからね。だけど私は、頭能がどうもなかったから、色んなことやっぱり見聞させてやらないといけないなと思ったから、どこでも連れて行ってやったわね。そんなこと苦に思わなかったけどね。(中略)私、Fには言わないけどね、みんなね、あんな子もったら親がね、私が悪いって言うの。私が悪いからこんな子になったんだわとかこんな子供生まれたとかでね、親が子どもにそう言ったりしていたの。そしたらその子がやっぱりね、親をばかにしてね、誰がこんな子生んだんだと言って攻めるのね、うん。だから私ね、そんなこと何で言うの、こんなものはそれこそ、天命というか仕方のないことじゃない、誰の責任でもないじゃない。何でそんなこと言うのだろうかと思ってね。子ども自体も惨めな思いするし。親もね、子どもに気がねがあるって言うからね。(中略) あんた慌てて1ヶ月早く生まれてきたばっかりにこんな目にあったんじゃないって私言ったの。(中略) 絶対ね、親子ともども共倒れだとか、私そんなこと少しも口に出して言わない、お父さんも言わないしね、うん。だからあの人はそれなりに、どんな苦労、自分で思っているか知らないよ、言わないからね。だけど私たちの目から見たらね、あんがいのんびりとね、素直にね、そのまんま息していると思ったのよ、あの子ね。そんなひねくれたようなところもないような気もするけど、でもどうか分からないけどね」

(姉)「たいがい父親が、おんぶして、うん。大体うちの弟がちょろちょろしていたから私はもう、弟が迷子にならないように、ここにいなさいよって、私がお守り役、うん。(11秒沈黙)近所の人から見たら結構、まとまったねえ、仲のいい家族だというふうに思われていたんじゃない」

 

8−5、Fさんの生き方

 姉は健常者の女性、また自分自身の生活とFさんの生活とを比べて、自分には夫や息子という逃げ場があるとしている。しかしFさんには「あの子はね、そういうのがないから」と述べている。

 

(姉)「真っ正面からやっぱりね、生きていかないとだめだから、(中略)そういう意味でやっぱり友達がいっぱい増えて、うん、そうやって慕ってくれる人がいるっていうのはいいことだなとは、うん思っていたからね、うーん。下手したら、肉親よりか、頼りになるんじゃない。(中略)ときどきちょっとさびしいけどいいわと思って、うーん」

 

8−6、家族について

 姉の発言の中には父親に対する評価や弟とFさんとの接点に関するものがある。

 

(姉)「立派な父親でもないし、さしとて悪くもないし、うーん。でもうちの母親にしてみたら良かったのかもしれないよ、ある意味(障害児が生まれたという理由で離婚しなかったという意味で)(中略)そういう意味では父親の権限というか権利というか、そういうものを放棄しなかった分、良かったんじゃないの。(中略)うちの弟はあんまりー、気がついたらFちゃんはいっつも病院にいたという感じだから。あの人はあんまり記憶がないかもしれないね、うん」

 

8−7、Fさんの性格

Fさんの性格については姉が次のように述べている。

 

(姉)「あの子はやっぱり、ある意味、正確に見えるのだろうね。自分は動かないでどんと座って、周りの人が動いている動作、様子とかしゃべっている内容とか、そういうものじいっと、いっつも観察する立場だから。(中略) 体のハンデがあるわりに、一番大人なんじゃない」

「あの人もともと、性格的には結構男なのよ。切り替えは結構ね、早いしね、気持ちの切り替え。落ち込むときは、がーと落ち込むかもしれないけれども立ち上がったらもうなんのそのいうタイプの人だから、うーん。あんまりうじうじ言わないでしょ。すぱんと判断するときはすごくするし、うん。やっぱり声に出してしゃべってうじゃうじゃ言えない分だまーって考えているから。分かるものね、あ、なにか考えているな。ぼーとしていないなというのは、私分かるのよ」

「Fは小さいときからあんまり泣かなかったねあの人。まあまあそういう意味でも、我慢強いし、辛抱強いし、うーん。言葉でぎゃあぎゃあ言えない分、どうしようもないところがあるからそれなりの、知恵というか、そういうものがあったんだろうね」

 

考察

 ここでは母親の発言に焦点を当てながらそれぞれの事柄を見ていく。

まず一つ目に医師との関係性に注目する。Fさんの長年の主治医であったS先生と母親が知り合うのはFさんが1歳にもならないときである。そのときに脳性マヒであることを診断し、また「治らない」と断言した医師に信頼を寄せて、母親はS先生のところでFさんを診てもらうことに決める。そうした決意にいたるには、普通であれば治らなくても次第に良くなる、努力すれば治ると言われることがあるのに対して、S先生が治らないことをはっきり言ったことがある。また他の医者のところに行って同じことを聞いて傷ついたり、違う意見を言われたときに悩むよりかは、1人の先生のところへ行くことにしたほうがいいとの考えを母親がもったことも挙げられる。そして市民病院に通院する。そして手術をするときだけでなく、養護学校を出た後の進路といったFさんの節目でも相談をしている。S先生はA養護学校ができることになったときに入ることを薦めたりと、Fさんの進路に大きな影響を及ぼしているといえる。

 Fさんも気楽に何でも話せ、また話をきちんと聞いて的確に意見を述べてくれる医師に信頼を寄せている。この関係性は現在Fさんの主治医であるK先生との関係においてもいえることでもある。

 こうした関係は、まず医師が言葉をにごさずに正しい情報や的確な判断をその場その場でしていることがある。それはFさんが寮の職員から子宮を取ったらどうだと言われたときに、「ホルモンのバランスとかも関係してきて体調崩すから、取らないほうがいい」と言った医師の判断にも見ることが出来る。またS先生に対して両親が大きな信頼を寄せていたことが大きくあった。 

 次に母親の考え方と行動を見ていく。Fさんが幼いころは障害を持つ人はあまり外に出ることはしなかった。しかし母親は障害を持っているからこそFさんを外に出して、様々なことを経験すべきだという考えをもち、Fさんを外に出すようにする。そのことに対して 頑張っていると捉える人もいればネガティブに捉える周囲の人もいた。けれどもそういったことを言われてもあまり気にせず、それよりもFさんのためにすべきと考え、実行しようという意識を強く持っている。

 またFさんが障害を持ったことに関しても罪責感を持っていないことも言及している。

これらではFさんの母親の周囲にいた障害児の母親とは違う意識をもったFさんの母親の姿を見ることが出来る。

兄弟関係に関する発言ではFさんが養護学校と更生施設に行っていた間では、週に1回程度で会っているときは遊んでいたが、やはり共に過ごす時間は少ない。そんな中においては仲良く兄弟で遊ぶということが、特に姉とFさんにおいてだがある。けれどもけんかをするほど関係性は深いとはいえない。それには兄弟3人で過ごすことが少ないこともあったが、Fさんが言語障害を持っており、幼いころFさんは言葉数が少なかったこともあるのだろう。しかし姉はFさんが端的にしか話さない中でFさんがどうしたいのかということをしっかり聞くということをするようになっていった。また姉と弟はFさんを特別視するということはなく、ありのままの存在を受け止めている。