第1章 障害者と家族の先行研究
1、親の視点
ここでは主に障害児・者の親の視点に立った先行研究を見ていく。
1−1、「悲嘆の過程」に対する批判
ここでは石川、要田の論考を通して障害児と家族の関係において、従来多く述べられてきた理論への批判を見ていく。
要田は「障害児と家族をテーマに扱った研究においても、親および肉親を“悲劇の主人公”として捉え、その悲劇からいかに救出すべきかを議論の前提としたものが一般的である」(要田 1999: 17)と指摘している。
また「親による子供の障害の受容に関して、〈悲嘆の過程〉と呼ばれる古典的理論がある」(石川 1995: 26)が、この考え方においては「障害児の親たちは最初は一様に衝撃を受け強い悲しみや怒りを感じるが、やがてそのことに慣れ、悲しみはその慣れと共に鎮まっていく、と述べているにすぎない。悲しみは鎮静化しても、子供の障害を「不幸」「発達の遅れ」「克服すべきもの」「劣等生」などとする認識枠組や価値観の変容については何も言及されていない」(石川 1995: 26)と石川は述べている。
また石川はこの「悲嘆の過程」の問題点として「もし認識枠組や価値観は変わらないのであれば、たとえ〈悲嘆の過程〉の最終過程である再起の段階にいったん到達しても、進学、卒業後の進路の問題、「親亡き後」の問題など、新手の深刻な問題が顕在化し切実な問題となるごとに、この〈悲嘆の過程〉は繰り返されることになる。障害児の親たちは〈悲嘆の過程〉という無限ループを永久に回る「不幸」な存在なのだということになる」(石川 1995: 27)ことを挙げている。また要田は「障害児の誕生に対してショックを受けたとしても、「慣れる」ことによって悲しみは癒える、ということにすぎない」(要田 1999: 20)とこの論理に対して述べ、「「健全者」としての親の立場」(要田 1999: 21)に立って論じられたものであると批判をする。
1−2、自立生活運動で批判されてきた親
日本の自立生活運動の特徴として「脱施設」とともに「脱家族」が訴えられてきたことが挙げられる。(要田 1999: 173-174)その中で障害者は「施設や家族ではなく地域で、他人に介助を依頼して生活することを主張」していく。(土屋 1998)
では家庭内そして親のどのような面が障害者に対して問題として立ちはだかったのか、またそれに伴っての「脱家族」の主張について見ていく。
石川は障害児を子供に持った母親は「同情や哀れみの対象となる社会的地位」(石川 1995: 35)におかれる「「障害児の親」を拒否することで存在証明を守ろうとしていたのを止めて「障害児の親」として適切にふるまうことによって再び存在証明を達成しようとするのである」(石川 1995: 36)としている。「障害児の親」として適切にふるまうことにおいて「愛情を注ぐことと監視すること」が重要視される。その背景として「障害児の親は子供に関わる一切に対して責任を負わされている」ことと、「母親には障害を持つ子を産んでしまったという罪責感がある」ことが挙げられる。(石川 1995: 36-37)この罪責感を持つことに関して岡原は、「「障害」が社会や個人から否定的にのみ価値づけられている」ことと、「「障害児」を出産した母親に、障害の原因が現実的にも、象徴的にも帰属される」状況の中で、母親は必要以上に子供との閉鎖的な空間を作り出してしまうと指摘している。(岡原 1995: 85)また閉鎖的空間が作られる中で「無限の愛情を表すには、無限の行動が必要である。この場合、無限の行動は子供のすべてを配慮して、微に入り細に入り介入していくこととして具体化される。(中略)親は子供を囲い込んで、すべてを自分の監視下におき、責任を取ろうとする。(中略)さらに、そこで行われる全ての行動や介入が「愛ゆえに」という言説で正当化されてしまう。まさに、愛ゆえの「出口なし」である」(岡原 1995: 93)と岡原は述べている。
そうした中で「ほかの社会関係の可能性を切ってもなお、家族のなかでのみ解決を目指すとき、あるいは、家族以外の解決の可能性をまったく探らないときすなわち家族が閉ざされるとき、親も子も、“生”きられなくなる」というような「親子心中」の問題性を要田は指摘している。(要田 1999: 151)
母親が持つ罪責感に対して障害者は「自分達を「あってはならない存在」とする通念を再生産するものだと察知し、懸命に親の愛情をけっとばそうとする」。(石川 1995: 38)その中で障害者達が批判したものは「子供を差別・排除する社会の現場監督、エージェント」としての親であった。(石川 1995: 35-38)
要田は「脱家族」を志向することで障害者は自らの生を肯定するアイデンティティを確立しようとしていると指摘している。(要田 1999: 36)
また岡原は障害者の「脱家族」の主張において、家族を全否定したり、家族との関係を完全に立ち切るのではなく、家族の内部の深い情緒関係によって障害者と親が閉鎖的な空間を作らされてしまい、社会への窓口を失うことがもっとも問題視され、それを回避しようという意志の現われなのであると述べている。(岡原 1995: 96-97)
岡原は自立生活で主張される脱家族の意味するところとして「第一に、障害者が独自の人格として周囲との対等な関係を作りつつ、自分の責任で自分の望む生活を営むということ。第二に、彼らが真の意味で社会に登場し、障害を持って生きることの大変な側面を家族という閉鎖的な空間にのみ押しつけないようにすること。第三に、障害を望ましくない欠如とし、障害者を憐れむべき弱い存在としてのみ理解するような否定的観念を排すること。第四に、愛情を至上の価値として運営されるべき家族、といった意識がもたらす問題点を顕在化すること。第五に家族関係の多様な在り方を示すこと」(岡原 1995: 99-100)を挙げている。
1−3、子供の側に寄りそう親の姿
石川は「悲嘆の過程」を批判した上で「障害のある子供を育てるという体験を通して親たちが自分の価値観、枠組、存在証明の方法を変更し〈健常者の論理〉から少しずつ自分を解放していくことで〈悲嘆の過程〉の無限ループから脱出していくということを、フィールドワークで得た知見および存在証明の理論、家族と愛情についての理論を根拠に論じる」(石川 1995: 27)ことを行なっている。
その中で「最近では、障害児を持つ家族を取り巻く環境は少しずつ好転してきている。障害児を持つ親たちを経済的、心理的、社会的にサポートする社会福祉制度、医療・リハビリテーション機関、親の会等のネットワークがある程度整ってきている」(石川 1995: 44)と指摘し、「だがじつは親たちは、何よりもほかならぬ子供たちの「助け」によって〈悲嘆の過程〉というループから脱出していく。親たちの罪意識や負い目や羞恥は、「障害児」というスティグマをよそに屈託なく生きる子供たちと正面から向き合う体験を通して少しずつ消えていく。親が子供を救うのではなく、子供が親を救う作用がそこには働いている」(石川 1995: 45)ことが母親の言説から見えてきたこととして述べている。
また「「障害児の母親」となった女性には、子供とたえず行動をともにせざるをえなくなったことで、かえって社会のエージェントを脱するチャンスが訪れる。対照的に子供と関わらない父親は、職業労働の領域で通用している社会の既成の障害者観をいつまでも引きずり続ける。(中略)けれども、障害児の父親たちの中にも、家族への経済的な貢献という既成の父親役割を相対化し、子供とともに生きるという新しい「親性」を身につけようとするケースが徐々に増えつつある」(石川 1995: 50)という子どもに寄り添う父親の姿についても言及している。
そして石川はこのような親の変化を通して「これまでの障害者運動は親を過小評価しすぎてきたのではあるまいか」(石川 1995: 56)との指摘を行なっている。
要田は「健全者の論理」といった「私たちの日々の生活のなかには、「障害者」と「健全者」を区別するしくみ、そしてさらに、「障害者」を周縁に追いやることをとおしてのみ「健全者」が中心にいることができるという、「健全者」による「障害者」への差別のしくみがある」(要田 1999: 18)ことを挙げている。そのような中で「障害児をもつ親たち−障害児の側からみれば差別する主体であると同時に、他面では世間から差別される対象でもある存在−が自らの内にある「常識」と障害児がいる「現実」のなかで」(要田 1999: 18)、「健全者の論理」から「脱健全者の論理」へ移行する親の姿を描いている。
まとめ
親の視点で語られている研究では、ほぼ障害児と親の関係性が注目されている。特に母親と子どもの関係について述べられている。こうした中で親はまず社会的に求められる障害児の母親の姿であろうとし、子どもと閉ざされた空間を作り出すことが挙げられている。その空間で母親は子どもに愛情を注ぎ込みそして子どもの行動を制限していく。しかし母親は子どもと常にいる中で次第に障害を否定的に捉えないようになり、子どもをありのままで受け止めようとするようになったことが注目すべき点として取り上げられている。そこには子どもの側に立つ母親の姿がある。
親の視点から描かれた研究では母親を中心に語ったものが多い。また関係性においては障害児との関係が主である。もちろん親側の変化が取り上げられているが、自立生活をしている障害者がそれほど多いとはまだ言えない現状では、自立という時点に注目することで見えてくる親子関係があるのではないかと思われる。また親子関係の点で父親の言説があまり取り上げられていない。けれども家族の関係性を考える中で母親だけでなく父親の言説を見ていく必要性があると考える。
これらの点から、本論では母親だけでなく、父親の言説にも注目する中で親と子どもの関係性を見ていく。また子供側が自立という大きな転換を迎える中での親の意識に注目することで浮かび上がってくることを取り上げる。
2、子供の視点―自立を通して見る障害者側の論理―
まず土屋(1998)が行なっている、これまで見てきた研究に対する批判的検討を見ていく。
これまでの先行研究において注目すべき点として「岡原の論考を除いて「当事者」の言説や言明を取り入れ、これを主題として論じたものではないということである。もちろん要田、石川の論考において主題とされているのは、「親」の側の障害児に対する意識であり、親の側が「障害」に対する認識枠組みを変更していく過程を示したことの意義は、否定されるものではない。しかしながらこれらの論考から浮かび上がる、「障害者と家族」の関係は、ある側面、ここでは親の視点から見た一面にすぎない」と土屋は述べている。また要田と石川の「立論に基づくと、親の側の認識や、ライフスタイルを変更することによって、障害者と親(家族)の間の問題は解決されることになり、子供の側の「脱家族」という主張は必要ないということになる」とし、このことに対して親の認識や意識だけの問題としてとるのは楽観的ではないかとして、それだけでは解決できない問題が残されているのではないかとの批判を行なう。
これに対して土屋の研究では「聞き取りという手法を用いた、障害者当人の視点からの「障害者と家族」をとらえる試みとして位置づけられ」るものとしている。そして「介助」と「自立」をキーワードとして障害当事者が語る「家族」に注目し、従来の「障害者と家族」の研究においては見過ごされてきた側面が明らかになったとしている。「具体的には、当事者の視点からの介助に関わる問題構成が整理され、その問題に対して対処する方法を駆使しながら、親子、家族関係を維持する努力がなされていたことが示された」と述べている。
以下では土屋の研究によって明らかになっていった面を見ていくことにする。
まず、親子関係に介助という行為が介在する時に生じる関係性において、三つの問題が挙げられている。なおこれらは「介助される側が感じるという意味において「問題」とみなす」とされている。一つ目の問題として「閉ざされた空間で」について述べられる。このことについては「一人の人間の介助を一人が背負うという事態に付随する問題がある。この場合介助される側は「逆らえない」、「行為主体として生きられない」、「自分が介助者の負担になっている」という関係が生じているという感覚を抱く。これは、第一に多くの時間を二人きりで「囲い込まれた空間」において過ごすことから生じるものである。こうした中で障害者は、介助者に依存することが多く、また逆にそうであるがために介助者に逆らえなかったり、行為主体となることが困難になったりする。これが親子の間で行われている時、ほとんどの場合は母親が介助を担っているということから、この問題はさらに助長される」といったことが見られるとしている。二つ目には「「親」の限界性」が挙げられる。ここでは「介助を担う存在が「親」であることに付随することがある。(中略)「身体規則」が親子の間で成り立たないという問題、もう一つは親が子どもの「性」を認めず、子どもは性的ケアが得られないという問題」があるとされている。ここでは一つ目の問題の要因としても挙げられる「「親の囲い込み」とも共通するが、「親にとってはいつまでも未成熟なままの子ども」の状態が続くということ、つまり親にとっては「育児・子育て」と「介助」の区別がつかないままに、成人した子どもの世話を続けていることから生じる問題であるといえる」と指摘している。そして最後に「親と他者の不協和」があるとし、「親と共に暮らしている家へ他者が介助者として入る時に生じる問題が挙げられる。一つは、親による他者の介入への抵抗である。(中略)もう一つは、実際に他者が何とかその空間に入ってきた時に、その他者の(子どもへの)介助行為へ、今度は親が介入するという事態が生じる。これは子どもとの親密な空間に、突然他者が入ってくることへの抵抗であるといえる」と述べている。
ではこれらの問題に対してどのような対処法がとられているのかということについて見ていく。
まず「閉ざされた空間で」における対処法として、親と共住し、親に介助してもらっている状態において、「権力関係が生じることに対しては「親でなくとも介助の手は得られる」ことを認識することによって、「精神的な親子離れ」を行う技法。行為主体になることの困難に対しては、「自己決定を行う」ことによって、自分の行動を主張していく技法。また「自分が負担になっている」という思いを抱くこと、依存関係に陥りやすいことに対しては、「親の時間を拘束しないこと」、具体的には親と自分のそれぞれの時間を持つよう、努力する技法などが採られていた」。親と共住し、親との間の介助を排除する状態においては移行段階にある人への聞き取りから「現在の行為主体になれない状況に関して、「自立を果たして、一人の大人として認めてもらう」ことを目指すと」語られ、「「家の中に介助者を入れての自立」を行うことが、親とよい関係を築く」ことになることが語られたことが挙げられている。親と離住し、親との間に介助関係がない状態では「親子関係から解除を排除することそのもの」が解決する手段であったことが語られたとされている。「「親」の限界性」と「親と他者の不協和」についてはほとんど技法は語られることがなかった。ここでは、親と別居して介助を物理的に排除するという技法しか提示されなかった。この二つは「閉ざされた空間で」とは異質な問題性を有していると土屋は指摘し、それは家族のアイデンティティに関わるものだとしている。「「親」の限界性」においては、「「家族」であるためには、その場所に「性」を持ち込んではならないと考えられていることである」ことがある。「親と他者の不協和」においては、「冒されてはならないものとして「「プライバシー」と「親密性」が位置されて」いるとし、「身辺的なことに関与する介助という行為は、家族という「親密さ」がある集団であるからこそ出来る、あるいはするものとしてとらえられている」ことが挙げられる。
そうした中で障害者は親子、また家族関係をよい状態にするために精神的な距離をとることを目指す。それは「家族の間に介助が介在することにより、家族との精神的な距離が上手く保てなくなるのである。(中略)「他人」とは違い、「結局気を使わないで言えちゃう」、「甘えが出る」という親子や家族の関係」から抜け出すことを目的としている。
まとめ
土屋は障害者の側、つまり子どもの視点から家族関係を見ていく。その中で注目されている点が自立と介助という点である。介助関係が介在する家族関係においては子どもである障害者が生きにくい状態があることが指摘される。そうした中で、各問題性に対して
それぞれどのように対処しているのかということも取り上げられている。障害者の生活拠点、介助に他者が入ることが出来るかといった状況でそれぞれ対処は違う。だが共通して言えることとして、精神的距離をとることが目指されていることが指摘されている。
本論では自立の面に着目して家族関係を取り上げていくが、土屋の研究から見られるように介助関係から様々な問題性が浮かび上がってきた。そのことからライフヒストリーという長い時間の中での家族関係を見ていく中でも、介助関係が着目する一つの視点として重要であると考える。様々な場面から家族の関係性を見ていくことを目的としているが、その中の一つとして介助関係にも注目して聞き取りを行なっていくことにする。
3、介助関係から見えてくる親子関係と自立
また土屋は次のような研究の試みも行なっている。
「介助場面に焦点化し、介助を行う側(母親)と受けとる側(子ども)、それぞれの当事者への綿密な聞きとりから、介助にまつわる利点や、生起する摩擦を描き出すことを通じて、かれらが認識し解釈する介助や介助関係のあり方を考察する。この試みは、従来十分に論じられてこなかった家族内部の関係性を、ミクロな視点から解明することを助けるだろう」(土屋 2002: 182-183)
その中で介助の利点として「介助技術の優越や与えられる多大な安心感」(土屋 2002: 185)が障害者自身から語られる。その一方で「介助が親子の関係に与える影響については、次のようにいうことができる。第一に、親はもちろん介助に関わる労力的負担を感じていた。こうした介助疲れが精神的負担を生じさせ、介助を行う相手にあたるなどし、関係性の悪化をまねいている。注目すべきは、子どもが、親の感じる負担を自分自身の負担をして再構成していたことであろう。第二に、介助が介在するなかに力関係が生じていた。全ての介助を母親が担う状況では、子どもは自らの生活を成り立たせるために母親に逆らうことができない。こうしたなかで子どもは力関係の存在を認め、日常生活を何とかやり過ごしていくための技法の獲得を求められる。第三に、身体に関わる摩擦が生じていた。とりわけ異性の親と子の間で身辺介助が存在する時には、通常想定される身体規則を侵犯するなどの理由から、摩擦が生じることになる。第四に、介助という行為を通じて親が子どもの行動や意思に介入したり、お互いにある行為を要求しあうことによる摩擦が生じていた。これが介助の〈しがらみ〉と表現されるものである」(土屋 2002:204)といった問題点が、浮かび上がってくる。
こうした母親と子の間に介助関係が介在することで起こる問題の中で、自立の意味するところを土屋は次のように述べている。
「障害をもつ人にとっての自立とは、自らを子供扱いし続け、行為主体となることを妨げるような、「障害者の母親」との関係からの脱出であり、またとくに摩擦が生じる介助関係からの脱出である。これは、家族の持つ規範的/抑圧的な側面への異議申し立てであり、具体的には介助と家族を切り離すことによって、外部からの「介助する家族」への抑圧や、内部において生じる摩擦―〈しがらみ〉―を除去しようとする試みであるといえる」(土屋 2002: 217)
「介助と家族を切り離すという提案は、まず、介助による関係性の規定を回避し、家族のなかに「距離」をつくり出すことを意味する。これにより、労力的な負担や身体的な依存などの規定が、確実に除去される。さらに重要なのは、めざされるのは、愛情にまつわる規範を取り払うことであり、「愛情」という言葉に還元されない関係性の構築であるということだ。(中略)親も子どもも、「愛情」という言葉や、これによって相手に何かを要求することの危うさに気づいている」(土屋 2002: 225-226)
このような中で目指される関係性は「介助が介在する親子の関係を、いったん解きほぐしていこうとする提案が「脱家族」であり、よりシンプルな関係として親子関係を再構築していく際に目指すものが、「単純な関係性」であったのだ」(土屋 2002: 228)という指摘がなされる。
まとめ
ここでは介助を行なう母親、そして介助を受ける子供側の言説から見える関係性が取り上げられている。その中では介助の利点も取り上げられているが、家族の中で介助関係を持つことで介助を行なう側とされる側双方が負担を感じるという状態が指摘されている。自立は介助関係がある親子関係から抜け出ることで、問題が内在する状態をなくし、それまでとは違う単純な関係性が作り上げられるとされている。
本論では一つの家族に注目し、両親、自立をしている障害者自身、そして兄弟という家族構成員それぞれの言説を取り上げて関係性を見ていくことを目的としている。その中でこの土屋の研究にあるように相互的に捉えていこうとするものである。そうすることで一つの視点だけに偏る見方ではなく、実際に体験されている家族の関係性を包括的に見られるのではないかと考える。