第2章       「ビハーラ」と「ビハーラ富山」

 

この章では「ビハーラ」と「ビハーラ富山」、及びターミナルケアの概要、相互の関わりについて触れる。「ビハーラ活動10ヵ年総括書」(以下「総括書」と表記)を参考に全国的な概略を、金子の研究〔金子,1994〕を参考に富山県内における活動を見ていく。

 

1.   ビハーラの沿革

 本願寺教団における「ビハーラ」運動展開の下地は@既成仏教教団の形骸化に対する危機感、Aキリスト教「ホスピス」の紹介・日本への採り入れ、B高齢化と終末期医療への関心がある。

戦後、それまで約四百年続いた寺壇制度がほころび始めたのを受けて、本願寺教団は1955年頃に今までの姿勢を改めることをせまられた。社会の問題を宗教そのものの課題として受け止めて、自ら積極的に関わる姿勢への方向転換である。

1977年、欧米のホスピス活動が報じられる。ホスピスの原語はラテン語で「ホスピティウム」、「暖かく迎える」と言う意味。元来中世ヨーロッパにおける旅人や病人の安息や看護のための、教会や修道院が運営する施設を意味し、それが近代医学の展開につれて病院に統合されていったもの。我が国では、静岡県浜松市の聖隷(せいれい)三方原病院、大阪の淀川キリスト教病院などが80 年代より始めた。主な役割は末期のために生じる患者の症状を軽減し、患者とその家族を在宅および入院体制の中で医学的に管理すると共に、看護を主体とする継続的なプログラムを持って支え励ますもの。延命治療などの“積極的な医療の介入”による治療を行わない。身体的な痛みのコントロールと、精神的・社会的・スピリチュアルなケアが中心。すなわち、前者の身体的なケアは従来通り医師や看護婦などの医療従事者が行い、後者についてはソーシャルワーカーや宗教家などが担うというものである。

本願寺教団においてこれらの動きが本格化したのは、キリスト教系のそれと同じ頃の1980年代であった。ヨーロッパのホスピス運動に追随する日本のキリスト教系教団が活動しているのに倣い、各地の僧侶が先進的に終末期の問題を考える動きが現れてきた。したがって、これにさらに追随する形になった本山の動きは、1986年に「真宗と医療に関する専門委員会」の設置から始まる。翌年「ビハーラ実践活動専門委員会」を立ち上げ、「ビハーラ」という概念に基づく基本構想を打ち立てた。すなわち「入院・在宅を問わず、病床に伏す人々(後には患者や施設利用者の家族も結果として含まれていった。)の持つ精神的な悩みに対し、それを和らげ、人間としての尊厳を保ちつつ生きられるよう、家族など多くの人々とともに、宗教者としての精神的介護(ケア)にあたる」〔「総括書」,()内は筆者〕ことである。この点は対象となるのがターミナルステージのみであるホスピスとは異なり、高齢者福祉などターミナルステージ以前も含まれる。また後に脳死などについての研究や議論も活動内容に含んでいくが、これらは実際に活動していく中で派生してきたものである。そうして基本構想のもと、現場に投入する人材「実践活動研究会員」の育成を開始する。教団の僧侶や門信徒などから募集し、2年間行なわれたこの研修は、先ず「基本学習」として本山で2〜3日の合宿により80時間の基礎的学習を受講し、そのうえで「実践学習」として実際の病院や施設の現場で見学・実習といった体験学習を行なった。その後、1997年度までに10期にわたる人材養成事業を実施して、修了した研究会員は649名に及んで、全国で「ビハーラ活動推進者(コーディネーター)」として地方組織「教区ビハーラ」の中核となって展開している。

このように、最初から全てが問題提起と模索の中で始まったことへの「見切り発車」という批判や、介護や福祉、医療や脳死などさまざまな分野へ過度に多角化したことへの批判も免れないところがある。じっさいこの10年間で、阪神・淡路大震災などの災害ボランティアに参加したり、臓器移植の法制化に伴う生命倫理の問題を議論するなど、最初に田宮仁によって概念化されたビハーラとは、内容が変化し拡大していった。しかし、活動以前の問題意識――すなわち、既成仏教教団・僧侶に対する信頼の崩壊、形骸化、といったこと――と活動が始まった当初の方向付け――「死」のテーマ・患者の家族・医療や福祉業界と積極的に関わって掘り下げていくこと――は共感され賛同を得ていて何ら変わっていない。むしろ活動に従事している僧侶・門信徒らの中には別の意見がある。つまり周到な準備をするよりも、その時間を惜しんでとにかく始動する。そして様々な体験をかさね、さらにそれらを宗門全体にフィードバックし議論することで、その結果として今後の課題と発展の可能性を見出すことができた、いうなれば「怪我の功名」であったと受け止められている。

 

2.   富山県内

 富山教区において、ビハーラ活動が始まったのは、1980年代の終わりである。全国的に広がる終末期医療への関心から、1988年に富山市内の住職で篁整形外科医院々長の篁俊男氏をはじめとする医師や僧侶が中心となって、「富山ターミナルケア懇話会」が設立された。

 富山教区の僧侶が2割程度、シスター・牧師や県医師会に所属する医療従事者などをこれに含めると約7割であった。会員数は当初97名。 年1回の研修会や講習会、年3回のシンポジウムを開催し、市民が終末期について考える場を提供した。

 富山で関心が高まるなか、本願寺でも全国的にビハーラの活動を展開していった。富山では本願寺派の全国31教区で終末期の仏教ケアをねらいとして起こった。富山教区では1990年に「ビハーラ富山」として活動開始。当初「仏教ホスピス」と言われたのを置き換えて「ビハーラ」とした背景からわかるように、「ビハーラ」とは終末期の患者が抱えるニーズ、つまり死への不安などに対して浄土真宗的な背景を活かした相談援助活動を指し、同時にそれを主たる活動とした宗門内の各教区・組の勉強会的なグループを指した。患者のニーズに応えられるよう、最低限の知識や技術の習得のために勉強会を実施したり、ラジオ番組やシンポジウム、講演会などを通じて啓蒙活動を行ったりした。もっとも重点をおいたのは、「実践活動」という施設でのお手伝いで、毎月要請のあった医療施設や福祉施設での介護支援やレクリエーション活動を実施した。しかし、第一義としたターミナルステージにおけるケア活動は、積極的な宗教活動が施設内で敬遠されるなどして機会に恵まれなかったり、もともと対人援助の専門家でないために技能がとぼしかったりしたため十分な成果を上げることができなかった。ただし、この点については準備が万全でなかったので、最初からすべてが模索のなかで実施されていたことを会員たちも認識している。また、開始から10年経って社会的な僅かながら認知度も増し、同時に会員のなかには技能を習得する者も現れている。

 現在の活動は主に、法話、レクリエーション、外出した際に買い物などの介助、施設内で生活の介助である。だいたい僧侶2名を含めて5,6人程度で赴く。その他にも個人的に施設で、紙芝居・絵本の読み聞かせなどのボランティアをかってでる者もある。

 もともとアマチュアの多い組織なので、介護や看護の技術を補うことは必須である。関連する団体である、「懇話会」の支援を受けて、それら技術を最低限身につける。もともと組織立ち上げの発起人となった人々は医師でもあり僧侶でもあるということから、医療分野からの「懇話会」と、宗教界からの「ビハーラ富山」はこのように密接に関わっている。ゆえに活動理念が似ている「懇話会」の「実働部隊」的な趣もあるようだ。

 さて、こうした全国的な現状分析と7年前の個別事例の調査がふまえたうえで、今の富山においてビハーラがどのように活動しているか次章で見ていきたい。


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