「ビハーラ活動」のみならず、仏教者によるケアワークに関する研究は全般的に、前述の通り、多くの種類があるわけではない。理想論や啓蒙書のたぐいは多数あるが、実態調査に基づく現状評価の議論は少ない。この章では仏教的なケアワークについての先行研究の中から、まずキリスト者のケアワークから得られた示唆を紹介したものをとりあげる。
賞雅さや子は〔賞雅,1998〕キリスト者のパストラルケア・カウンセリングへの取り組みを取り上げている。これを「わが国における仏教者の対人援助活動」に対する「先駆的な活動」として位置付け、日本仏教の対人援助活動への示唆とした。
賞雅の主張によると、「パストラルケア・カウンセリング」とはキリスト者により体系化された対人援助活動をさす。その起源は不詳で、「600年頃のローマ教皇、グレゴリウスT世の著書『Books of Pastoral rule』は何世紀もの間、ケアを提供しようとする聖職者たちの指導書となった」〔賞雅,1998:43〕。13世紀には教会が実践する職務として標準化され、16世紀、宗教改革の頃に、「牧会者(pastor)と彼らより援助を受ける者とはお互いに慰めあい、支えあっているのだという認識が芽生える」〔ibid.:44〕など、大きく発展を遂げた。20世紀に入って、それまで多くの牧会者たちによって営まれてきたパストラルケア・カウンセリングは、行動諸科学――そのなかで主に心理学の刺激を大いに受けることとなる。1900年代初頭に興った宗教心理学から得られた知見を取り込み、神学校でパストラルケア・カウンセリングのコースがつくられた。1940年代から60年代にかけては、神学生の医療現場における臨床的な教育が制度として打ち立てられ、近代的なパストラルケア・カウンセリング・ムーブメントを巻き起こすきっかけとなった。これにより専門化されたケアが体系として誕生することになる。賞雅はパストラルケア・カウンセリングの歴史と現代における取り組みとを示唆として、日本の仏教者が対人援助を担うための課題と展望を3つのトピックで示している。
第一に、「援助者の教育と訓練」である。日本での対人援助に対する関心が増すに連れ、専門的な技術や知識を身に付けるための体系的な人材教育が、援助の実践者自身から求められるようになった。パストラルケア・カウンセリングはCPE(Clinical Pastoral Education、臨床牧会教育)とというシステムによって行われる。「神学生・聖職者が臨床の現場において、スーパービジョンの下で実際の援助活動を体験しながら、宗教的援助者としての能力、宗教性、関係調整能力、リーダーシップ、パストラルケア・カウンセリングの技術を高めることを目的とした実践的な訓練法である。」〔ibid.:46〕このなかで訓練生は個別に教育係の助言を得て、主体的に実際の現場を経験していく。数名の訓練生からなるグル−プをつくり、実習とそれについてのケースカンファレンスを重ね、指導を仰ぎながら、1年余りの研修を経てカウンセラーや病院付きの牧師「チャプレン」となる。このようにパストラルケア・カウンセリングは、少人数グループの有機的な心の動きが訓練生相互に影響しあうケースカンファレンスと、変化に富む個々の事例に即応するためにマンツーマンの指導とをその特徴としている。また、体系化され、組織化された教育システムにより、一定の質・量の援助者を養成し、輩出すること、さらにシステム自体の維持・発展が可能となることもいま一つの特徴である。
次に、方法の開拓である。パストラルケア・カウンセリングの歴史は「魂への配慮(cure of souls)」についての試行錯誤の繰り返しであったと賞雅は述べている〔ibid.:p.43〕。これにより、宗教による対人援助はその時代ごとのニーズに対応することができたとしている。わが国の仏教者対人援助も同様に、他の医療福祉の専門職とは異なる独自の方法を開拓する必要があると賞雅は主張する。さらに、その技法は、心理学などの行動科学の分野を生かしながらも、仏教の知恵や仏教者独自の個性・可能性を現実化、具体化するものでなくてはならないし、その研究方法は、さまざまな学問分野や思想の対話の中から、さまざまなエッセンスを取り入れて、その上で仏教固有の対人援助を模索することを追及する必要がある、としている。
第三に、宗教的なコミュニティを挙げている〔ibid.:49ff〕。日本仏教の場合、キリスト教会のような宗教コミュニティを形成しているとはいえないとしながらも、檀家制度のように「個人を取り巻く諸対象との相互作用」も一つのコミュニティとみなしうる、と主張している。賞雅は、そうしたコミュニティのなかで寺院、あるいは僧侶・門信徒らについてつぎのように可能性を指摘している。いわく、彼ら仏教者が「家族、友人、あるいは医師や教師などの専門家等との相互関係」を「有機的に結びつけて、(中略)最大限に活用しつつ」、医学的・社会的・経済的な問題と関連した実存的な(たとえば「生きる意味」や「価値」などの)問題に対処するオーガナイザーやコンサルタントといった役回りを期待することもできる、というものである。
賞雅の議論のようにモデルを提示したうえで今後の発展課題と可能性を述べたものはあっても、現状を「何が出来るか?」について評価した具体的な臨床研究は少ない。その中で、広島のビハーラ法話の事例をあげた深水の研究〔深水,2000〕は法話という布教の一形態に的を絞った貴重な報告例だといえる。
深水は「病院内での説教、法話会において、何が話され、何が求められているか」〔深水,2000:T〕という問いを立てている。
まず法話に求められる特質を述べている。前提として、仏教的救済の共感を背景としている布教は、「究極的には法を説いて」〔ibid.:V-2〕いくことを求められるもので、すなわち信仰を広める技術であることをあげる。それがビハーラなどの現場で「治る見込みのない病人に対するときに、(中略)強引に信仰を伝え『救おう』とする姿勢ではなく、あくまで自然体に患者と接することを示唆しながらも、一方では背景に信仰をおくことを忘れてはならないとする、一見すれば矛盾する方法を示している。(中略)結果として平生の信仰の実践が、死に向かっての心がまえを作りあげて行くものであり、火急に信仰による救いは得られない」〔ibid.〕と述べている。
また深水は広島にあるビハーラの病院で催されている法話会を例示し、「臨床において特別の法話がなされていない(中略)、日常の法話と同じ話が、日常の延長として行なわれているに過ぎない」〔ibid.:W〕として、患者が「入院」という非日常の状態にあることに配慮した法話がなされていないと憂慮し、次のように続けている。
しかし、今日日常生活の中で仏教は疎遠となり、普段の信仰を病床に持ち込む患者は少なくなりつつある。むしろ、病床の不安からはじめて仏教に興味をもつ場合が多いのではないだろうか。そうした臨床のみの心の不安の求めに対して、法話が何を与えて行くことが出来るのか。今後のより綿密な調査の中から捉えたい。〔sic〕
深水はこのように、法話という僧侶のアプローチに分析の余地があることを示唆している。また併せて、患者への受けのよさを追求することと体系化された仏法を忠実に伝えることのバランスを分析する必要がある、としている。
仏教教団の地域的な取り組みについては深水の報告の他にも、金子有希が「真宗王国」として名高い富山県の例を取り上げている。
金子は、1980年代富山において始まった病院・宗教家によるターミナルケアの取り組みについて参与観察を実施した。
まず金子は、当時軸として活動していた団体として、県立中央病院の改築に伴い緩和ケア病棟開設を準備する「ターミナルケア研究会」、県内の医療・福祉関係者と宗教家が「いのちと医療を考える勉強会」として結成した「ターミナルケア懇話会」、浄土真宗本願寺は富山教区が施設入所者や患者、そしてその家族の心の支えとなるべく展開する事業「ビハーラ富山」の3団体をあげている。この3団体は相互にネットワークを形成し、連関して講演会や討論会、学習会を開催してターミナルケアのみならず介護や生命観、死生学といったことについて市民が考える場を提供した、とし、そのなかでも「ターミナル期におけるチーム医療の一つである宗教的なケアが期待され」る「ビハーラ富山」の活動にふれている。
またさらに、創立当初の理念はターミナルステージにあった「ビハーラ富山」だが、実際のところターミナルステージでの宗教ケアというふうに活躍しているわけではなく、福祉ボランティアとの弁別がしがたい、という彼らの活動実態を指摘している〔ibid.:25-26〕。いわく、
その原因は活動対象がターミナル期にある人ではないという点、それゆえに医療スタッフとして活動しているという意識が得られないという点に尽きる。(中略)いわゆるターミナル期の現場に立つ人がいなくなり、全体として高齢者福祉中心の活動になっているのである。(中略)個人的にターミナル期の患者さんと接した人はいるが、ビハーラという団体の活動としては「病院」というリアリティーのある最前線現場に入り込んだことがなかった。活動はいつも老人福祉施設に限られ、それゆえ会員にもタ−ミナルケアのチーム医療のメンバーとして関わっているという意識はほとんど見られなかった。彼らはビハーラの活動を「堂々たるボランティア」と言い切り、そういう精神で実践活動を行っており、組織の大部分がそういう意識の人で構成されている(後略)。
そうした現状がある一方で、実際に活動に従事している会員数人とのインタビューから〔ibid.:26ff〕、「ビハーラの現状はターミナル期に直結していないが、それ以上に普段から宗教というものを身につけて、いざとなったらうろたえないようにする。」とか、「今は福祉ボランティアをしているが、こうした現場を多く学ぶ中でとっさの対応が見につく。高齢者もターミナル期にある人も同じいのちであるから、ターミナルステージだけを切り離しても宗教ケアはできない。」といった意見があることも述べている。このように「ビハーラ富山」という組織が1990年代前半においての状況を、医療現場に近づきつつあるけれども未だ下地作りの段階であり、さらに医療現場に積極的に関わることで組織的な宗教ケアを開花させようという模索の段階にある、としている。
金子はビハーラに対する期待を「これからの方向性」〔ibid.:27ff〕として次のように述べている。すなわち、
病院では(中略)看護として、話し相手専門になる。ここに、ビハーラが今までの既成の組織にはなかった役割を担う要素がある。その人とじっくり語り合い、信頼関係を築くことが、精神的ケア、ひいては宗教的ケアへとつながっていく。
こうした期待がされるなかで、ビハーラ富山がその機能を発揮できないのは、宗教家が医療チームの一員としてみなされていない上、医療の現場だけでなくそれ以外の人々にも宗教的ケアの必要性や意義が浸透していないこと、日常生活の中に信仰や仏教的な素養、つまり生老病死の「四苦」と向き合う考え方が備わっているわけではないなかで、葬儀や法事といった一連の儀式・イベントに拘泥して「葬式仏教」と揶揄される仏教界の姿勢を変革していこうとする努力が足りないこと、以上の二つに原因があるのではないか、という示唆を与えている。