香取淳子 著『メディアの逆襲』

(芸文社 1993年)

この本書はテレビが導いてきた社会変動を、懐かしいヒーローに絡めてたどった物でありテレビにヒーローを登場させて日本社会の変貌にかかわりながらメディアとしてのシステムをどのように整備してきたか、その仕組みを読み取る物となっている。

第1章では現代の女性の生き方の例として皇太子妃である雅子さまを取り上げている。現代のエレガンスとは努力し、自分を磨くことに価値をおきはじめたようであり、それは外務省でキャリアウーマンとして働いていた雅子さまが体現して見せていたと言っている。また皇室が日本の象徴である限り、皇太子妃には家柄や血統ではなく、現代社会のシンボルにふさわしい女性が選ばられなければならない点においても 雅子さんほど、新しいシンボルにふさわしい女性はいないと言っている。またこの章では美智子皇后のことも取り上げており、民間出身の女性が皇室に入ったことは、それまで人々が抱いていた地位概念を大幅に変え、生まれついての地位よりも、個人の素質、才能や努力によって築きあげた地位の方が評価されるということを示したといっており、美智子皇后が皇室に入ったことは民主化を示すものとなり、民主化のヒーローであると言っている。

第2章では鉄腕アトムがヒーローとして描かれている。科学技術が発達し、あらゆる現象が解明されると子どもは将来に夢を抱きにくくなり理想もまた抱きにくくなる。社会がそのような変貌を遂げようとしているとき、人類愛に燃え、勧善懲悪思想のヒーローは生まれにくい。しかしロボットであるアトムならウソっぽくみえないことからアトムが活躍する場が醸成されていった。アトムが好評だったのは、まさに時 代の風潮にマッチしていたと考えられる。それは1960年代が科学技術がクローズアップされていたときであり、宇宙がきわめて身近なものになり、生活全般に科学技術のもつ比重が高くなったからであるといっている。

電子メディアがあらゆる枠組みを解体し、地球を一つの共同体に変えつつあるいま、再び宇宙と科学技術とがクローズアップされてきており、再び、科学のヒーローが待たれる時代を迎えている。しかし科学技術に対する素朴な信頼感が揺らいでいる今、アトムのようなヒーローは登場しにくくなっているのではないかと言っている 。

またこの章のもう一人のヒーローは大村こん というお笑いタレントであった。このひとのやるアホのお笑いが隆盛であったのは近代化の移行期だったからであろうと言っている。それは産業構造の転換期には、さまざまな歪み、不満、不安が噴出し、それら一切を吸収するものとして、アホの笑いが求められていたのであり、不安を鎮静するものとして求められていたのがアホの笑いであったからであると言っている。 アホに対する愛着は、近代化の過程における競争原理への拒否反応であり、またどのような存在にも価値を認め、それなりの役割を負わせていた村落共同体への憧憬にも通じると言っている。

第3章ではまずヒーローの条件をいっている。それはヒーローという物が不完全であることが要求されるといっており、またヒーローの魅力が批評の余地のあるところにその源泉があって、そのような余地を残している人物がテレビ時代のヒーローになりやすいと言っている。

次に、1970年代のヒーローであるウルトラマンがなせ人気を博していたかと言うことについて言っている。それはこの時代、急速な重化学工業化の歪みが表面化しはじめ、経済成長の背後で公害や自然破壊など人類にとって有害なこともあるのだということを示す事例が出始めた時期であったため、科学の持つ功罪を問い直す時期に入りつつあった当時、怪獣に姿を借り、自然と人間、破壊と再生をテーマに構築された ウルトラマンの世界が限りなく人々を引き付けたからであると言っている。

第4章ではドリフがヒーローであると言っている。ドリフの笑いがなぜ受けたかというと1980年代は科学技術によって支えられてきた高度経済成長のパラダイムが崩壊の兆しを見せはじめ、さまざまな領域で体制への反動が沸き上がり、既存の価値規範のいっさいのラディカルが問い直された時代にドリフの笑いが合致していたからである。ドリフの笑いはストーリー性も社会性も排除したままドタバタギャグに徹した笑いであったが、好奇心やバイタリティーは旺盛でそれは当時の日本の姿であった。価値基盤が揺らぎ、既存のパラダイムへの見直しの気運が高まった時、大人の理論は破綻し、輝きを失うが、子どもは輝いて見え、新しい価値が内在しているように見える。このような子どもへの退行現象がドリフの笑いを支えていたといえるのではないかといっている。

また1980年代において『仮面ライダー』の存在意義が大きいといっている。それは仮面ライダーの敵である昆虫が人間に対する昆虫サイドからの警告と言えるらからである。それは環境破壊の結果、生物が消滅しているからであり、地球から生命の多様性が失われた時、危機は人間にまで迫っているからであると言っている。

第5章ではクレヨンしんちゃんがヒーローである。親が親らしくなく、大人が大人らしくなくなった現在、子どもが子どもらしさを保つのは難しくなったこの時代にしんちゃんはそのたぐい希な能力を発揮して、この大人と子ども、親と子どものボーダーレス社会をしたたかに生き抜いているといっている。またこの章では家族のあり方を描いておりしんちゃんをめぐって展開される騒動を描きながら、結局は家族愛を主張し、このボーダーレス社会でも、家族はやはり、心の安らぎの場所であると言っている。

第6章ではまず衛星メディアのことをいっている。衛星メディアは現地情報をまるごと伝えることによってその国のイメージ、人種についてのイメージが作り上げられていく。多様な人々を受け入れる方向でメディアが発展していけば、理由のない偏見や差別意識も、時間をかけて払拭されていくに違いないと言っている。また多チャンネルのことにも言っており、多チャンネルの可能な衛星では、これまでの地上波テレビではほうそうしなかったような地方や、特定の層を対象した情報を電波に乗せることもできる。それが市場価値をもち、情報内容が充実していけば、均質化した社会の持つ不寛容さもなくなり、情報の選択肢が多様になれば、地球に優しい新しい社会の実現が可能になるはずだといっている。

今までヒーローなんてあまり考えたことがなかったがその時代には、その時代にある背景からヒーローというものが誕生するんだなと思った。またヒーローが表われれば、それをまねするだろうし、またそれは我々に何かを訴えたいが為に登場する気がするし、本書がそう言っている点に共感が持てた。

(石川 洋子)


目次に戻る