森田 勝昭 著『鯨と捕鯨の文化史』(名古屋大学出版会 1994年)

鯨の意味論的歴史

 文化史という題だけあって、経済史のような分析はさけている。事細かな分類を設けてアプローチしている。第一章では、近代世界(資本主義と科学思想)誕生の並行現象である大航海時代の基本的なしくみと、その一分野である近代捕鯨の分析、第二章では、十九世紀最大の捕鯨勢力であるアメリカ帆船捕鯨の発展過程と、当時の捕鯨産業を分析する。そして第三章で、日本の捕鯨産業に焦点をあて、当時の鯨の利用法と、育まれていった鯨観などについて分析している。四・五・六章では、船員日誌や解剖書といった世界の捕鯨の記録を紹介する。七章では、商業捕鯨中止から、全面的な禁止にいたる系譜と、熱狂的な鯨類の保護運動の問題点を指摘する。
 鯨は、世相を反映して、次々と姿を変えてきた。神の栄光を見たり、経済価値をもたらすもの、一方人命をうばう凶暴な生物、また人間の欲望の哀れな犠牲者など、とも。作者は、鯨と人間の歴史は、鯨の意味論的歴史でもある、という。環境破壊が憂慮されているが、動物の生存権に関して、鯨は特別な扱いをうけているというのだ。私たちは犬や猫が感情をもっているように思うが、それを証明することはできない。動物の権利とは、人間のフィルターを通して作られたものであるから、結局は人間中心なのである。これを、人間中心的自然観と名付けているが、鯨に起こったのは、また別の、観念的意味論の問題であるとする。鯨の能力の研究が盛んになり、鯨は権利を享受すべき生物におしあげられる。鯨に関する書籍、メディアが蓄積され、いつしか鯨=神のシンボルになっていった。「メディアホエールは、餌を食べず、愛を振りまき、瞑想の世界に生きるだけで、人間も共に瞑想し、愛だけに生きる存在となっている。つまり、その世界は、非現実的で、非歴史的な世界なのである。環境教育には充分な価値が認められる。しかし、鯨をみつめている人は、新しい神のイメージをそもに見るのである」としている。利用の制限のみならず、利用すること自体が悪だと主張する大衆レベルの動きが、ジャーナリズム、政府高官を動かし、もはや科学調査という共通言語を無視しているのだ。かといって、他国ばかり責めているのではない。日本がこれだけ、鯨は伝統的な食べ物だと主張しているが、一般的になったのは戦後のことである。日本人のノスタルジーにも似た思いが、誤解を強くしている、と指摘しているのも加えておきたい。
 鯨を追う人々は、神の存在を感じつつも、生きる糧として捕獲していた。あくまでも地球上に存在する生物の一種で、それ以上ではなかった。IWCも、もともとは捕鯨産業を維持する目的でつくられたものだった。それが思わぬ方向に動いてゆく。鯨肉を、そこまで食べたいと願う人々はおそらく存在しないだろう。たかが食文化である。日本人も、昔は西洋の肉食習慣を拒んでいた。結局は、慣れが解決してくれるものだ。なぜこだわるか。イメージで人間が動物のランク付けをして、人間が自然を利用し、共存していることを忘れているからだ。私たちがペットとしている犬を食用にしているから言って、それを責めることができるだろうか。ガチョウの肝臓を太らせて料理することを、「おかしい」と言えるだろうか。それぞれの食には、それぞれの人間社会を背後に形成しているのである。正しい、間違っているという一択は、論点が違うのである。作者は、一方的に価値観を押しつけて、人間の生命現象や生活を否定するなら、それはファシズムと呼ばざるをえない、と言っている。
 この本は、1994年に出版されたものだから、世論をわかせた捕鯨問題を、まさに捕鯨の初期から文化史として洗い出すことによって、偏見を極力避けようとした書であると思う。価値判断を避け、ただ、考え方の違いをのりこえ、その違いを共存していけるような未来を願って結びにかえた、祈りにも似た書であると思う。
(松平 安紀子)

目次に戻る