Sanae Shimada(嶋田 早苗)



 I am a senior student at Toyama University. I belong to a course to learn Britain and American culture, history with English books. Especially I have studied about African American history. I am interested in black segregation. I write graduation thesis about two black leaders − B.T.Washington and W.E.B.Dubois−who fought in order to gain freedom and right of black race at the beginning of the 20th century. I will introduce the part of my graduation thesis.

 Incidentally, I belong to sailing boat club. I have continued sailing for four years. This sport is apparently known elegant and cost. Though, our burden in cost side is low because our club is supported by Toyama University. And surprisingly we are used to practicing in the beginning of spring and winter.

When we were sailing in the sea, we sometimes encountered heavy rain, snow, thunder and so on. Though we experienced such dangerous opportunities, we also gained lucky chances. It is to have met dozens of dolphins two times for three years. This sport is in close contact with nature. The tactics also has close relations with nature conditions such as wind blows, the waves. I had very good time except browning skin.

 I will graduate Toyama University for a while. I have lived alone for the first time in my life. So I become to take care of myself. For example, cooking and cleaning my room. After graduation, I will take a job. I want to be economically independent.

 Lastly I refer to my thesis again. I will explain the background of the ending of the 19th century in advance so that I can introduce two black readers' movements and philosophies.


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卒業論文紹介@

 奴隷解放後の黒人の生活(1863年から1900年代)


 ワシントンとデュボイスの黒人地位向上運動と哲学をひも解く上で,黒人奴隷が事実上解放されてからどんな経過をたどってきたかを時系列に沿って述べていく。

 1863年奴隷解放宣言が出され,黒人奴隷達は念願の自由を得た。黒人が生計を立てていくために一番に欲したものは、自分の土地であった。しかし,土地を得られたのは、サウスカロライナ州,ジョージア州及びフロリダ州の太平洋岸の海岸地帯に連なる多数の島々に住む4万人の解放奴隷だけだった。また、比較的に優遇されていた元奴隷の中には,プランテーションに留まり,慎重にこれからの自分の身の振り方を模索する者もいた。しかし、奴隷制時代に酷い扱いを受けた大部分の元奴隷達は、当然プランテーションから飛び出していったのである。

 アメリカ社会は,奴隷解放を受けて次第に変化し始めた。連邦政府が裁判において黒人を証人として立てる事を認めたし,州によっては市街路面鉄道の人種隔離が解除された。また、1865年から69年の間、連邦議会は、陸軍省内に解放黒人に関する全問題を統制支配する権限を持つ解放民管理局(Freedman's Bureau)を設置した。管理局は,大農園主の放棄地,政府没収地を三年間無償で40エーカーを限度として黒人に貸す事を目標に掲げた。黒人達の間では,「40エーカーとラバ1頭」(forty acres and a mule)―ラバは耕作のための必需品であった―が共通の切実な要求となった。しかし、結局その要求はほとんど実現されなかった。また、管理局法廷は,白人(旧主人)を処罰する機関を果たしたが、その一方,正規の民事法廷は,黒人を過去の奴隷制時代と変わりない地位に縛りつける公共機関として機能した。結局,解放民管理局の働きは、北部と南部の亀裂を深めるという結果を残したまま、4年間という短い期間で終了してしまったのである。かたや、1866年南部では黒人取締法(Black Code)―黒人を支配するための諸法―が制定された。例えば,サウスカロライナ州では、元奴隷に通行証を持たせて,夜間外出禁止令を遵守させるという、消滅した奴隷制に代わる厳しい規制が課せられた。

 そこで、同年暮れ,合衆国憲法修正第14条,第15条が採択され,それぞれ1868年,1870年に成立した。修正第14条は,南北戦争において北部に敵対して誕生した南部連合の指導者の政治権力行使を禁止し、また黒人法を破棄して黒人の市民権を保証した。修正第15条は,「人種,肌の色あるいは以前の隷属状態」を理由にした各州の投票権否定を禁止し、解放黒人に参政権を与えるものだった。

 やがて、こうした一連の動きに反対する南部の白人は,暴力的な手段を取るようになった。1869年になると、クー・クラックス・クラン(Ku Klux Klan, 略称KKK)という名の秘密テロ組織が結成され,黒人達の投票を阻止し,稼ぎを奪い,暴力を振い,最悪の場合リンチ殺人を秘密裏に実行した。そんな中で,黒人の地位向上に尽力し黒人の支持者を多く持っていた共和党員は、南部諸州で次第に公職を奪われていった。

 こうして、遂に1870年初頭には、南部再建計画の挫折は明白なものとなった。挫折の直接の原因は、北部における工業の発達や政治腐敗事件が全国に蔓延した事で南部再建への関心が薄れてしまった事にあった。この頃の南部は,劇場,列車,その他の公共施設における人種隔離が当然のように行われていた。黒人指導者の大半は、白人の敵意にあい,人種統合に消極的になっていた。

 1875年に公民権法が制定され,黒人も平等に施設利用出来る事が保障されたが,何ら特別な強制条項を含んでいなかったので、実際には効力がなかった。そして,同年連邦軍が南部から撤退したのを機に,急進的な再建は終焉を迎えた。当時の南部黒人のほとんどは,土地を得られないがために白人地主のところに留まり,分作小作人(Sharecropper)となった。シェアクロッパーは、土地の使用と農具,種子,収穫までの食料を含む貸付品と引き換えに,収穫物の一部分を地主に納める農民である。また、黒人が獲得したはずの参政権は白人地主によって行使を妨げられるのが一般的だった。

 黒人達が土地と同じ位欲したものは教育を受ける事であった。老若男女を問わず関心が高く、貧しくても高い授業料を払って通う者もいた。解放民管理局が4000以上の無月謝学校を設立し、無償初等教育を実施したほか、公立学校制度が始まり,1887年までに60万人以上の黒人少年少女が小学校に登録した。また、1866年から1869年の間に,フィスク大学やアトランタ大学を含む7つの黒人単科大学が設立され、少しずつ黒人の高等教育も普及していった。

 このように、教育を受ける機会は幾分増えたが,黒人の生活環境はなかなか改善しなかった。なぜなら、工業化に伴い、南部では従来の作物に変わって綿花栽培が盛んになり,自給自足の生活は終わって,食べ物を含む生活必需品を商人から買わなければならなかったからである。貧しく現金を所持しない黒人達は,その年に出来る収穫物の質権と引き換えに物を買った。そして多くの場合,その負債額は,収穫物の売値を越えていた。1880年、南部の全黒人の90%が農民か召使いや使用人として働いていた事から考えれば,ほとんどの黒人達が奴隷制時代と同じ職種に就いていたばかりか,借金で首が回らない状態にあった事が分かる。いくらか学校が整っても,子供達すら働かなければならない状況下にあっては,なかなか通えないのが実状であった。

 1883年には,最高裁で公民権法が却下され,1896年のプレッシー対ファーガソン裁判では「分離すれども平等」(黒人と白人は同じ公共機関を利用せず,人種ごとに隔離されるが,これは差別ではなく区別であるという考え)の原則が支持され,その後,ジムクロウ法(Jim Crow Laws, 人種隔離法)が急速に広がっていった。そして、1899年カミンス対郡教育委員会裁判における最高裁の判決により,公式にジムクロウ法が学校に適用された。こうして、1900年には南部における白人優位の体制が確立した。                   



卒業論文紹介A「ワシントンの収めた実績」


ブッカー・T・ワシントンの収めた実績


ワシントンは生涯を通して様々な功績を収めたが、中でも次の三つが代表的なものであろう。タスキーギ学院(Tuskegee Institute)の設立(1881)、「アトランタの演説」(Speech at the Atlanta Exposition ,1895)、『奴隷より立ち上がりて』(Up from Slavery ,1901 以下、本文ではSlaveryと記す)の執筆である。以上を時系列に沿って述べていく。

 ワシントンは、1881年6月にアラバマ州タスキーギ学院に責任者として赴任した。彼はそこで開校するにあたり黒人達の実生活調査を行い、貧しい生活を目の当たりにした結果、黒人になされるべき教育は本による教育のみでは事足りない事を実感する。同年7月4日、学院は掘り立て小屋と教会を校舎として、実業教育を主眼とする黒人学校として開校される。この新しい学校は、黒人のみならず白人からも大変な関心を示された。しかしながら、当初白人の中には、黒人が教育を受けるに値しないとか、教養を身に付けた黒人は農場離れし労働力が不足するのではないかという理由から、良く思わない人もいた。

 ワシントンは、開校前の視察やバージニア州ハンプトン師範農業学院(the Hampton Normal and Agricultural Institute in Virginia) での経験を踏まえて、生徒達に語学や数学に加えて実業教育を施した。具体的に、歯磨きや入浴の仕方などの根本的な生活様式に関する事から、農業訓練など多岐に渡った。その中でもタスキーギ学院建設に生徒達を積極的に参加させた事は、生徒達に良質な煉瓦造りを習得させる事になった。ワシントンは、“They discovered that we were supplying a real want in the community.”(Slavery 71)と記述し、白人に黒人が白人地域社会に貢献出来る事を意識させたと自負している。ワシントンが実業教育を推し進めた事は、結果的に白人からの好意的な関心を呼び、学院への金銭的な援助を得られるようになっていった。一方生徒達は、実業教育を通して労働の尊さや美しさを学び、職人級の知識を得る者もいた。こうして、ワシントンは黒人達に手に職をつけさせ、その地域の白人達に対しては黒人達が社会に貢献している事を実感させ、さらには黒人教育に対する理解と黒人への友好的意識を持たせる事に成功するのだった。

 ワシントンによるタスキーギ学院への関心が高まるにつれて、ワシントンは活発に演説家として活動するようになる。 彼は生涯を通して数多くの演説をしたが、その中でも全国的な名声を勝ち取ったのは、1895年9月8日ジョージア州で行われたアトランタ綿花博覧会開会式の演説であった。いわゆる「アトランタの演説」である。ワシントンは大きく三つの事を主張した。

  一つ目に彼は黒人に向かって、“Cast down your bucket where you are.”(Slavery 99)つまり「あなたがいる場所にバケツをおろしなさい」と呼びかけた。このセリフというのは、ワシントンが海で難破した船を例に挙げて言ったものである。数日漂流した後、別の船が現れたので、水をくれるように頼んだところ、やって来た船が再三示した言葉がこれであった。難破船の船長は、一貫してこう言われたので、試しにバケツをその場に下ろして水を汲んでみたら、淡水を得ることが出来た。海で遭難したと思っていたら、実はアマゾン川の河口に辿り着いていたのである。つまり、ワシントンはこの例を挙げる事で、黒人に南部に留まり、白人と友好関係を築く事を説いたのだった。

二つ目に、黒人には実業教育を受ける事を推進した。この事は、彼の設立したタスキーギ学院の教育方針そのものに通ずる。当時の世論として、黒人の間で政治的権力の保持が叫ばれている中で、彼は演説の中で、“No race can prosper till it learns that there is as much dignity in tilling a field as in writing a poem.”(Slavery 100)と述べ、学芸に並んで農業の重要さを示し、実業教育を位置付けたのだった。一方白人には、“you will find that they will buy your surplus land, make blossom the waste places in your fields, and run your factories.”(Slavery 100)と、黒人達はタスキーギ学院で農耕を含めた教育を受けた結果、ゆくゆくは白人達の手助けをするようになる事を指摘し、黒人教育への理解を求めた。ここでは、youは白人を指し、theyは黒人の事である。

三つ目に、“It is important and right that all privileges of the law be ours, but it is vastly more important that we be prepared for the exercise of those privileges”(Slavery 101)と述べた。oursとは黒人を指していて、黒人に今必要な事は法的な権利ではなく、それを得るための訓練であると主張した。訓練というのは、つまり、実業教育を受け技能を身につけ、一人前の社会人になる事である。その反面、彼は、“It is at the bottom of life we must begin, and not at the top.”(Slavery 100)とも主張し、白人と対等の立場を欲しがらず、黒人に自らの置かれた境遇に留まり、そこから生活を改善するように促している。top(高等教育)を受ける事を望むよりは、bottom(実学・職業訓練)をおさめて、ピラミッドの底辺を形成せよという意味でもある。

 また白人に対しては、“The wisest among my race understand that the agitation of questions of social equality is the extremest folly,”(Slavery 101)と述べ、賢い黒人であれば白人と平等な権利を欲しがらないと断言した。その上で、“I think, though, that the opportunity to freely exercise such political rights will be accorded to the Negro by the Southern white people themselves, and that they will protect him in the exercise of those rights.”(Slavery 106)と、政治上の権利は南部の白人が黒人に与えるものと述べ、あくまで白人を黒人の主人とする図式を崩さなかった。黒人の地位向上にはさしあたり参政権が必要なのではなく、その事に先だって物質的かつ知的成長が急務である事を説いた。

 ワシントンは、1901年には『奴隷より立ち上がりて』を出版した。幼少時代奴隷として過ごし過酷な境遇にあった事、ハンプトン学院で実業教育を受けた事、タスキーギ学院長の任につき、当時のマッキンリー大統領からも実績が認められた事に至るまで、ワシントンの社会的地位を確立するまでの歩みが記述されている。この自伝からは、ワシントンの成した活動ばかりか、彼の奴隷制及び白人に対する思いが綴られている。例えば、彼は、自分に無関心で何もしてくれなかった白人の父親に関して以下のように述べて、彼を奴隷性の犠牲者としてかばっている。“But I do not find especial fault with him. He was simply another unfortunate victim of the institution which the Nation unhappily had engrafted upon it at that time.”(Slavery 8)ワシントンは、奴隷制をアメリカ合衆国政府が導入した不幸な制度と考えており、両人種とも奴隷制の犠牲者であると捉えたのである。この事から、彼が黒人はもちろん白人庶民にもまた非はないと考え、白人に同情し、かつ同調する傾向が強い事が窺える。            



卒業論文紹介B「デュボイスの収めた実績」


W.E.B.デュボイスの収めた実績


デュボイスは,学生時代にフィスク大学,ハーバード大学,ベルリン大学で学び,ハーバード大学においては,学士号,修士号に加え,博士号も授与されるほどで、大変博学な人物であった。その一方,彼自身黒人である事で,少年時代には差別を経験した。彼は,この苦い経験を、“I remember well when the shadow swept across me.”(The Souls of Black Folk 4以下、本文ではThe Soulsと記す)と述べて、黒い影が自分の前をさっと通った,と表現している。この経験を経て、デュボイスは,1893年の25歳の誕生日に,自分自身が「科学の分野で名を上げ,文学の分野で名を上げ,そして私の人種を高める」という持論を公表した。後にデュボイスは,教育者,作家や公民権活動家としてアメリカ社会に貢献した。本章では、デュボイスの主な功績として,(A)『黒人のたましい』(1903)の執筆,(B)ナイアガラ運動(1905‐09)とNAACPの創始(1910) 、(C)汎アフリカ会議の発足(1919)の3つに大別して,時系列に沿って述べていく。


(A)『黒人のたましい』の執筆 

 デュボイスは、生涯を通じて20冊以上本を出版しており,執筆家としての活動が目覚ましい。特にその中でも,もっとも著名な作品を上げるとすれば,それは『黒人のたましい』であろう。まず始めに,デュボイスがこの作品を出版した経緯を踏まえるために,彼がいかなる時代を生きたのか述べる事にする。  デュボイスの少年時代は,奴隷解放宣言が出された1863年よりほんの少し後の時代、すなわち南北戦争後の再建時代真っ只中であった。黒人達は平等と自由に胸ときめかせ,一時は実際に若干の権利が与えられた。しかし,20世紀を目前にして、黒人の選挙権は法的に剥奪され,黒人教育の普及は徹底されず,その結果として黒人の貧困と犯罪の増加を招くような差別待遇完成時代を迎えた。黒人による犯罪の多発の原因に関して,デュボイスは,“lynching as practised today in the United States is not the result of crime-it is a cause of crime, on account of the flagrant, awful injustice”("Crime and Lynching", 1912)と述べて、白人によるリンチは黒人が犯罪に手を染める悪いやつだから行われるのではなくて,逆にリンチ−そしてリンチを是とする白人優位のアメリカ社会−が犯罪を引き起こす原因になっている, という見解を残している。

 こうして、デュボイスがこのような悲惨な状況を目の当たりにして育ったからこそ、この『黒人のたましい』は生まれたのである。同書の大まかな内容としては、黒人の社会参加の機会を閉ざす白人への告発,B.T.ワシントンなどの著名な人物に対する意見に加え,彼の黒人に対する思いが全体を通して綴られている。同書において,デュボイスは,差別撤廃のために絶対必要な条件について及び黒人という人種に対する思いに言及している。それは、具体的に次の3つの項目に大分される。すなわち、(1)黒人への高等教育推進と参政権獲得,(2)黒人に内在する二重意識(double-consciousness)、(3)黒人の優れた文化的遺産である。

 (1)高等教育と参政権
  まず彼は,黒人に実業教育に加えて白人同様に高等教育を受ける事を薦めた。デュボイスは、次のように述べたのである。   
“It is not enough for the Negroes to declare that color-prejudice is the sole cause of their social condition, nor for the white South to reply that their social condition is the main cause of prejudice.”(The Souls 188)
黒人が、皮膚の色に対する偏見が黒人達を低い社会的地位に置く唯一の原因と考えるのは十分ではないし,また白人が、黒人の大部分が労働階級という社会的地位の底辺に属する事が黒人への偏見を生む主な原因と答えるのも十分でないと述べた。また、“Only by a union of intelligence and sympathy across the color-line in this critical period of the Republic shall justice and right triumph”(The Souls 189)と述べて、共和国の危機的時代にあたって、カラーライン(人種境界線)を越えて知性と共感の団結によってのみ正義と公正は勝利を収める、というように考えた。デュボイスは,“The problem of the twentieth century is the problem of the color-line”(The Souls 15)と断言した通り、20世紀の問題はカラーラインの問題であるとし,この問題を解決しがたい、しかし緊急を要するものと受け止めていたのである。

 これらの記述から,デュボイスが,黒人には社会地位を上げる事が必要であると考え、かつ、その手段として知性、知識そして自信を獲得する事に重きを置いていたことが読み取れる。併せて、彼はここで共感が必要であると言っているが,これは白人の黒人への共感を意味している。そこから,白人はついに参政権を認める様になると主張しているのである。つまり,黒人が高等教育を受け,教養を身につけて白人と肩を並べる事により、白人が必然的に諸権利の獲得を認める事になるよう志したのである。しかしながら、現実にはその当時の白人は黒人が教養を身につける必要はないと感じていたし、何より自分たちの土地を黒人の小作人に耕させたいと考えていた。従って,多くの白人は、黒人が自分達と対等になる事に抵抗があったし,無意味と考えたので、デュボイスの考えは一般の白人の共感を得るものではなかった。

 (2)二重意識
  デュボイスは、現実社会での黒人差別の撤廃を呼びかけるばかりでなく、黒人の深層心理を推し量り,黒人には二つの魂が内在する事を主張した。二つの魂を有する事は,黒人というものが,アフリカという母国を持つアフリカ黒人でありながら,アメリカ人でもあるという事が原因となっている。      
“It is a peculiar sensation, this double-consciousness, this sense of always looking at one's self through the eyes of others, of measuringone's soul by the tape of a world that looks on in amused contempt and pity.”(The Souls 5)
デュボイスは,この二重意識,黒人が絶えず他者の目で自らを見るという感覚,軽蔑と哀れみを込めて面白がって眺めているアメリカ白人世界の尺度で自己の魂をはかる感覚というのは、独特なものである、と指摘した。その結果,“at times ( this seeking to satisfy two unreconciled ideals) has even seemed about to make them ashamed of themselves.”(The Souls 7)というように、時には白人と黒人の調和しない態度を満足させようという探求が自分自身の存在を恥じてしまう、というような状況に陥ってしまう事を言い当てた。つまり、アメリカ白人を理想とする社会にあって,アメリカ人としての尺度が、黒人を自信喪失させ,そして遂には,勤勉さや仕事に対する情熱を削ぎ,黒人を怠惰で無気力な人間にさせる一要因になっているとデュボイスは指摘した。

 (3)アフリカ文化
  最後に,デュボイスは黒人がアフリカからもたらし,引き継いだ文化を大変評価していた点について述べる。具体的に,その文化というのは,詩,歌、ダンス,その他の民間伝承である。彼は、“there is no true American music but the wild sweet melodies of the Negro slaves; the American fairy tales and folklore are Indian and African”(The Souls 13,14)と述べて、黒人奴隷の歌って踊る野性味あふれる心地よいメロディーとリズムは、アメリカ音楽の欠くべからざる構成要素となっているし,アメリカのおとぎ話や民間伝承で真にアメリカ的と言い得るのはインディアンとアフリカ系アメリカ人によるものだけである,と言いきって黒人の存在の大きさを示している。デュボイスの主張に見られる特徴は,このように、黒人の優れた文化を生み出したアフリカという国、そしてアフリカ系の人達の才能を誇りに思うところと言っていい。


 (B)ナイアガラ運動とNAACP

 デュボイスの差別撤廃を目指す意思表示は, 1905年7月にナイアガラ川付近のカナダのホテルで開かれたNiagara Conference(ナイアガラ会議)において本格化していった。当時、キリスト教青年会(YMCA)やキリスト教女子青年会(YWCA)による教会における人種隔離が依然続いていた事も、この会議開催の背景にあった。この会議におけるデュボイスらの主張は,教会をはじめとする組織における黒人差別への抗議であり,具体的には,言語と出版の自由,投票権,医療、憲法修正に関する19項目の原則にまとめられ、Niagara Manifesto(ナイアガラ宣言)という名で公表された。そして、デュボイス率いる29名の黒人は、世間に対して,アメリカ人としての権利を獲得するまで、「我々に向けられている恥深い行為に関して、知らせ続ける」と宣言し、Niagara Movement(ナイアガラ運動)という組織的な黒人解放運動を発足させた。しかし,この運動は、30の支部を持つまでになるものの会員は少なく,特に白人会員は非常に稀で,黒人大衆の支持もあまり得られなかった。それは、デュボイスが黒人大学生や卒業生に高い関心を示したが,無教養な黒人一般大衆にはあまり目を向けていなかったからでもあった。また,敵対するB.T.ワシントンからの妨害によって白人支援者からの援助金を得られなくなったこともあり,ナイアガラ運動は長く続かなかった。だが,ナイアガラ運動は,黒人の不満を前面に出し、世に知らしめた点では成果を上げた。加えて,同運動の活動方針は,デュボイスの活動における中核をなし,1910年に発足するNational Association for the Advancement of Colored People(全国有色人向上協会、略称NAACP)へと受け継がれる事になる。

 NAACPは、黒人と白人との協調路線をとりつつ、法的擁護に依る黒人の地位改善を図る事を目的とした。デュボイスは、NAACPで、機関紙『クライシス』の編集者を努めて,彼の哲学を世に広めることが出来た。同誌は順調に発行部数を伸ばし、多くの反響を得られるようになっていった。ナイアガラ運動が29名の黒人のみから成る団体であったのに対して,NAACPは、白人リベラルの呼びかけに応じて創設された白人主導の組織であった。この違いもあって,NAACPは、アメリカ社会で影響力を持ち,かつ長く続き、その活動を軌道に乗せる事が出来たと思われる。


 (C)汎アフリカ会議

 NAACPにおいて、デュボイスは,進歩的な白人との協力の中に黒人差別の打開策を探っていたが、一方,黒人達のアフリカ回帰運動を支持する気持ちから, 1919年2月にパリで、自ら指導的立場に立ってPan- African Congress(汎アフリカ会議)を開催した。この会議には総勢578人、そのうちアメリカからは16人、アフリカからは12人の黒人達が参加した。そして、会議では、世界中に四散したアフリカ人の法的保護、アフリカ人の理想に則った政府設立の要求がなされた。デュボイスは、“the Negro is a sort of seventh son"(The Souls 5)と述べて、黒人を第七の息子であると定義し、受難の民であると同時に、世界に変革をもたらす才能ある民であると認識していた。彼は,アフリカ人の団結が何より差別の現状を打破する手立てとなると考えていたのである。

 この会議というのは、トリニダード出身の弁護士ヘンリー・シルベスター・ウィリアムズが発案したもので、1900年にロンドンで開かれた汎アフリカ大会が最初であった。汎アフリカ会議が唱える思想すなわちPan- Africanism(汎アフリカ主義)は,アフリカ文化に対する礼賛の気持ちとアメリカにおける人種偏見への反発の双方から生まれ、アフリカ系の人々の連帯を説くものであった。

 デュボイスは,奴隷制という差別と屈辱の経験をした同士としてアフリカ系アメリカ人に共感すると共に,同じ黒人としてアフリカの人々に強い連帯感を感じていた。一方、アメリカに関しては,社会的経済的に黒人を差別して大国家を建設しようとする産業帝国主義の国で、黒人の社会的地位を不当におとしめ、本質的には奴隷と同様に扱って、植民地に対して与えたのに等しい侮辱を与える国と受け取ったのだった。これらを根拠として,デュボイスは,汎アフリカ会議開催に踏み切ったものと思われる。彼にとって,黒人の機会を閉ざすような白人との協力や和解はあり得ない事であり,黒人が社会的には差別され,アメリカ社会から追放されていながら、経済的には白人雇用主に従属し、搾取されなかればならないというやりきれない状況に留まる事が最良の策とは思えなかったのである。


 以上述べてきたように,デュボイスは,自由と平等の実現には参政権の獲得,高等教育の普及が必要であると説いて黒人を導き,かつ白人による黒人差別を弾劾した黒人指導者であった。彼の特徴は,白人に臆することなく、時には白人らを非難しながら,黒人の不満を公然と主張した事であった。また、底辺層に目を向けるよりは、彼が,「才能ある10分の1」と呼ぶところの学識ある黒人達を念頭において活動していた事も特徴的である。しかし、白人中心のアメリカ社会への非難は,人々に彼を左派的思想の持ち主と認識させた。この事は,黒人の高学歴者を重んじる姿勢と併せて、彼の活動への共感を得にくくさせていった。

 デュボイスは、こうして、必ずしも自分の主張するところは,アメリカという国にはなじまない事を悟り始める。なぜなら、現実に大抵の黒人は労働者階級に属し,一生懸命働いても貧しい生活しか営めなかったからである。そこで彼は,20年代に共産主義に関心を持ち始め,以来ロシアと親交を深めていくようになり、マルクス主義に傾倒していった。また、汎アフリカ会議の活動により,世界に散在している黒人にアフリカへの移住を説いた。彼は、黒人の本来あるべき場所をアフリカと定め,かつ黒人の崇拝すべき思想はマルクス主義という結論に至ったのである。デュボイスの差別撤廃活動というのは、アメリカに留まることなく,世界を視野に入れて達成されようとしたのである。彼の学識を持ってせずにはなされなかった事であろう。                                   

≪文献目録≫
Du Bois, W.E.B. The Souls of Black Folk. 1903 New York : The Modern Library, 1996.
W.E.B.デュボイス 『黒人のたましい』 木島始他訳  岩波書店 1992
「黒い巨人-W. E. B. Du bois」 『フリーダムウェイズ』 小林信次郎訳  山口書店 1988
スコット・ニアソング 『ブラック・アメリカ』 高橋徹訳 れんが書房新社 1984
ベンジャミン・クォールズ 『アメリカ黒人の歴史』 明石紀雄他訳 明石書店 1994
メアリー・ベス・ノートン他 『アメリカの歴史B南北戦争から20世紀へ』 本田創造監修 中条献・戸田徹子・宮井勢都子訳 三省堂 1996 
W.E.B.デュボイス 『黒人のたましい』 木島始他訳 岩波書店 1992
ベンジャミン・クォールズ 『アメリカ黒人の歴史』 明石紀雄他訳 明石書店 1994