[使用文献]
国書刊行会 「米国ゴシック作品集」
「アッシャー家の崩壊」 八木敏雄訳
原作“The Fall of the House of Usher”
このホームページの中に、今まで自分が英米講座の授業において作成したレポートの中から二つを抜き出して、そのまま掲載しますが、ここではそのレポートについてのコメント及び自己批判をするつもりです。
何故、以前に書いたレポートについて今更になって自己批判をするのかというと、それは「読み書きの技法」なる本がきっかけです。二年生後期の某講義において、その講義の最初に「読み書きの技法」(他数冊)を読み、その本の内容についての詳しい説明を某先生から受けて、その内容をもとにして反省してみると、前期に作成したレポートがひどくできの悪いものだと思えてきたのです。
どういった点において悪いのかということは、「読み書きの技法」に書かれている論文の構成についての理論を読んでない人でも、私のそのレポートを読めば(特に「アッシャー家の崩壊」についてのレポートの方)言葉で説明できるかどうかに関わらず、大体わかるのではないでしょうか。「アッシャー家の崩壊」を論じたレポートを「読み書きの技法」を経た後で見なおして改めて思いましたが、この論文はかなりできが悪いです。どこが悪いのか?それは論文としての構成です。
First:論述の概略(今から何を述べようとしているか)
今から論じようとしている作品のテーマ、主題(つまり、最も大切なこと)を述べる。
Second:概略の柱となるもの
述べたいことの中で重要なことについての論述。
Third:作品中から持ち出す細かい例証
自分の論における細かい(詳しい)、補足的な内容を述べる。
上に表したFirstからThirdまでが、論文の構成として基本的かつ最も重要なものです。(この後に、論じてきたことの全てをまとめて結論づけることもあり。)しかし、私が今、自己批判の対象としている論文はFirstの点においてはまだ大丈夫なのですが(それでも玄人の方々の目から見れば、まだまだヌルイのかもしれませんが)、その後の構成が上に表したものとは違う形になってしまっています。概略の柱となるものを述べて、その後に細かい例証、という順序立てが成っておらず、主題を述べた後はただ作品についての事実を羅列的に並べているにすぎないのです。
「アッシャー家の崩壊」を論じたレポートが以上のような改善点を含んでいるレポートに仕上がってしまったのも、そのまま推敲せずに提出してしまったのも、そのレポートを締切日の前日にせっぱ詰まった状態で書いたことが主な原因だと思います。そこから考えてみると、レポートを作成するにあたって絶対必要なこととは、基本的な論文の構成を意識することももちろんですが、それ以上に根本的な段階としてレポートを実際書き始める前に、その構造を自分なりに考える十分な時間を確保することだと言えます。「締切日の前日の一日だけでレポートを作成する」といっても、一日=24時間丸々全部を使ってレポートを作るわけではなく、一日のうちの数時間(一般的に、短くて3,4時間、長ければ睡眠時間を若干削ったりして10時間近く?)の中で作るのが普通です。それまでにレポートの中に書くことや、その構造を十分に練り尽くしてあるのなら話は別なのですが、その数時間を「レポートの中に何をどういった順序で書こうか」などの構成の面を考える段階から始めていては、良いレポートが仕上がることはほぼあり得ないだろうと思います。また、自分が経験したことそのままですが、仕上がったレポートを見直して改善する暇もないでしょう。とにかく、レポート(論文)を書く際には、何よりもまず十分な時間が必要だということです。
だんだん年寄りの説教みたいになってきてしまいましたが、(よく私が他人から若年寄だと言われるのが、この文章を書きながら少し解ったような気がします)とにかくこの文章において私のレポートの自己批判から発展して何としてでも言いたかった事は、「常に己を高める精神を持て」ということです。最初にこの一言を言えばそれで良かったものを、だらだらと長く書いてしまったことについては、これもまた反省の余地の考えられるところです。以上でもって、一応この文章は終了です。しかし、この文章中で述べたことは、この文章を作成した時点での私の見解・信念ですので、それ以降にその信念が更に発展するかもしれません。ただ、現実におけるほとんどの物事に関しては、はっきりと定められた「頂点」と呼べるものがない以上、できる限り上へ上へと行きたいものです。
まず、この物語における主要な登場人物としてイギリス人のジュークスと、死者の村で出会う、かつてジュークスとつきあいのあった身分の高いインド人であるガンガ・ダースの二人がいるが、ジュークスの特徴について考えるとなると、物語の最初の方にある“My coolies were neither more nor less exasperating than other gangs”(P4)という言い方の中で、‘other gangs’がインド人一般労働者を指していることから、彼が原地の人々を見下しているということが読みとれる。それに加え、ジュークスが死者の村に落ちてガンガ・ダースと話をしている最初の方で“I had already matured a rough plan of escape which a natural instinct of selfishness forbade me sharing with Gunga Dass”(P10)とあるが、ここからはジュークスのインド人のことなど考えない、インド人に絶対に得をさせないという自分本位の考え方が強く感じとれる。そして、これらの性質はガンガ・ダースが死者の村に来る以前に外の世界で会ったイギリス人が皆そうであったように、インド人に対する支配者としての意識を持ったイギリス人の典型的なものなのである。
それに対してガンガ・ダースの方は、支配者に対して強大な恨みを持つ被支配者としてのインド人の代表のように描かれている。ガンガ・ダースは、ジュークスより前に死者の村に来たもう1人のイギリス人が脱出方法を完成させる直前に、その男を銃で撃ち殺し、ジュークスがその脱出方法を見つけだし、二人で一緒に死者の村から逃げ出そうと決めた後にジュークスの後頭部を銃身で殴った後で1人で逃げ出すといった行動をとる。ガンガ・ダースのこれらの行動は、表面的にはガンガ・ダースという人物がひどい悪人であることだけを表しているように見えるが、彼がこのような行動をとったのは、彼の言葉の中に“But I was afraid that he would leave me behind one night when he had worked it all out, and so I shot him.”(P23)とある部分から十分読みとれるように、彼が、ジュークス達イギリス人が先に述べたようなインド人のことなど考えてくれない自分本位の人々であるという事を、死者の村に来る前の通常の世界での経験から十分に感じとっているが故に生まれたイギリス人に対する不信感を抱き続けていたからである。つまり、単純にガンガ・ダースの人間性を示す部分としてではなく、彼がそのような行動をとるに至ったのには、彼自身だけでなく、インド人に得をさせようとは考えないといったような自分本位の本質を持つイギリス人の方にも大きな原因があるということを指摘した部分として読みとるべきなのである。
更に、似たような形で問題を提示している部分として、物語中に次のような文がある。“...he had dropped the ‘sir’after his first sentence”(P10)この文中での ‘he’はガンガ・ダースを指していて、死者の村でジュークスと初めて会った時はジュークスのことを、インド人が白人男性に対して用いる敬称である‘sahib’で呼んでいたのに、その後は敬称の‘sir’を付けないで話しているので、いけないことだというふうに受け取れる。しかし、これもまた表面においてのみのことで、この部分は本当は、インド人がイギリス人を敬わなければいけない合理的理由などないのに、ジュークスがイギリス人はインドを支配する優れた人間だから、インド人はイギリス人を敬わなければいけないという、インド人に対する偏見・差別といった固定観念を持ってしまっていることを指摘しているのである。
以上のことから考察すると、ジュークスとガンガ・ダースの間には決定的な意識のずれがあったと言える。ガンガ・ダースは、以前にジュークスのせいでできたという左頬にある三日月形の傷跡に象徴されるように、イギリス人に対して不信感と共に強大な怨念を持っていたのに対し、ジュークスはインド人に対し偏見・差別を持ち、インド人に対してさほど悪いことをしたとは思っておらず、そのためにインド人の怨念を軽視し用心を怠った。ガンガ・ダースの、ジュークスを殴って殺そうとした行動は、このようなイギリス人の固定観念と被支配者であるインド人が持つ支配者に対する怨念の軽視、そして通常の世界の序列が通用しない場だからこそ起きたインド人の恨みの爆発のすべてが交わった結果であると言ってもいいだろう。そして、物語の最後でジュークスは生きて元の世界に戻ることができるのだが、死者の村において一度、インド人の恨みの強さを身をもって知ってしまったからには、死者の村に落ちる以前と同じ気持ち、同じ意識の持ち方で生きていくことはもう出来ないであろうということは簡単に想像できるところである。