イギリス旅行(研修・観光など)から卒業研究へ
草薙太郎
このページは「ホームページ作成から卒業研究へ」のページと一部内容が重複します。旅行体験記はホームページにしやすくても卒業研究にはしにくい、それをどうするかというのが大切なことですから、重複するのも当然な部分があります。両方参照してみてください。
ホームページ造りは、静かなデスク・ワークで、全体として、どこか卒論制作に似ています。ですから、分析的な文章ばかりですが、旅行は行動の中で、つい卒論のことなど忘れてしまいます。そこで(指示:○○をせよ!)といった指示を強調形で挿入してあります。
以下に五つあるテーマを掲げます。クリックすれば、当該の文章にジャンプします。
1ディケンズの『クリスマス・キャロル』(テーマ:チャリティー)
2シャーロック・ホームズを巡るドイルの小説(テーマ:異常な能力の落とし穴)
3ロンドンのショー・ビジネス(テーマ:舞台と観客席が感動で一つになる人間的一体感)
4マードック、ドラブルなどの戦後女流文学(テーマ:権威との葛藤)
5児童文学、「庭の文学」(イギリスの美しい自然を織り込んだ文学)(テーマ:戦いに傷ついた心と身体の癒し)
1ディケンズの『クリスマス・キャロル』(テーマ:チャリティー)
従来は、学生がイギリス本国にゆくことは希であった。だから、日本国内で手に入る文献のみで卒論を書き、卒論指導もそれを前提にしていた。現在では、学生がイギリス本国へ行かないことの方が希なくらいになっている。ただし、6ヵ月か3ヵ月か数週間の語学研修か、数日の観光旅行が主である。
これを卒論に生かすのはむずかしい。私のように、初めからアカデミックな研究を前提にした留学ならともかく、そうでない場合、そもそも大英図書館に入って本を借りることすらむずかしい。
イギリスへ行った体験談をホームページにすることは比較的やさしい。しかし、それを卒業研究にするには、かなりの工夫が要る。その工夫の一環として、たとえばディケンズの『クリスマス・キャロル』と、平均的な学生のイギリス行きとを結び付けたアイデアを次に提示する。
短期間のイギリス旅行の場合、学生が比較的容易に学べるのは、ちょっとした買物をするときの生活英語、交通機関や各種施設、劇場の利用などでの「観光英語」である。これをそのまま卒業研究には、少なくとも「英文科」としては無理である。それも英語学ならともかく文学研究にはならない。
その際、ディケンズの『クリスマス・キャロル』研究が出来ないかということである。イギリス旅行体験をディケンズの『クリスマス・キャロル』と対照しながら語る。その場合は作品のテーマが決め手になる。
(a)作品のテーマについて
『クリスマス・キャロル』の主題は、クリスマスの季節におけるチャリティーである。そして作品の文章構造を
(1)
チャリティーを絶対やらない態度を貫く
(2)
チャリティーをやらざるを得ない心境にさせられる
(3)
チャリティーの実行
の三つに分ける。(この章での指示1:作品のテーマは何か、それを、どう展開しているかを簡潔な箇条書きにせよ!)
平均的なイギリス旅行体験でも、チャリティーについては、誰しもが何かを経験する。地下鉄に乗れば子供を背負ったジプシー風の女性が施しを請求してまわってくる。それが、そうした方法による商売で、一種の詐欺行為に近いことは何らかの事前の情報で知らされる。しかし、背負った子供がぐったりしているのを見ると、施し請求とは別に心配になる。また戸別訪問でやってくる施し請求に対して拒絶を貫くのは難しい。私の場合、まだ小学生だった次女が同情して何かやると言い出し、私が拒絶するので私を鬼か何かのように罵ったりした。
文章構造として(1)に関連して
(1−1)同情を惹く事象
(1−2)同情を惹く事象を敢えて拒絶する
の二つに分ける。上記の内容を分類すればそこにイギリス旅行での体験を書き入れることが出来る。(この章での指示2:作品のテーマの展開に対応する普遍的な事象を箇条書きにし、自分のイギリスでの体験を書き入れよ!)
(1−1)
チャリティーをするように勧誘され、同情したくなったことはないか、自分の体験を書き入れる。
(私の場合の例:
@地下鉄内を子供連れでまわり施し請求する女性。子供はしばしばぐったりしている。
A戸別訪問での施し請求。ナイーヴな小学生は同情して施しを親にせがむことがある。)
(1−2)
チャリティーを勧誘されても断固拒絶した自分の体験を書き入れる。
(私の場合の例:
前項@を完全に無視。子供に異変があれば周囲のイギリス人が何とかするだろうと自分に言い聞かせる。
前項Aも完全に無視。子供がせがんで妻が少しくらいならと言い出してもがんとして受け付けない。)
以上のように分類しておくと、『クリスマス・キャロル』での対応個所を指摘できる。大雑把にいえば、(1−1)はスクルージの周囲の人々、特に書記とその家族の窮状、(1−2)はスクルージが見せるそうした事象に対する反応である。
各項目にロンドンで学べる生活英語について気付いた点を付記しておくと、旅行した意義が具体的な成果になる。実際、ロンドンの地下鉄と貧しい人々との生活は密接であって、不正乗車は罰金何ポンドなどと書かれている。日本の交通機関の「精算すればよい」といったフレンドリーな態度を交通機関はとらない。黒人のボディガード付きのいかつい車掌が抜打ちで取りたてにくる。一度、不正乗車というほどではないが、乗り換えの都合で、切符の範囲を超えて家族で乗車した。乗り越し区間では降りないので、日本ではあまり言われない行為だが、定期を持っていない小学生の次女がひっかかった。しかし、いたいけな女の子には、さすがにいかつい車掌も強いことは言えず、英語もわからない子供なので、少しまくしたてただけで、行ってしまった。私が出るとかえって不利なので、私は知らぬ顔をし、妻が何かとりなすことを言ったが無視された。
それはともかく、交通機関の罰金請求の英語、ジプシーなどの施し請求の英語とその訛りなど、特記すべきことは多い。
(b)作品の展開と自分の行動
『クリスマス・キャロル』の「作品の展開」は、前項での分類の詳細になる。(2)チャリティーをやらざるを得ない心境にさせられる、の項目については、大雑把には、幽霊たちがスクルージの過去、現在、未来を見せ、深く反省させるということになる。
それに対応する自分の行動は、別にチャリティーに目覚めて何かを行ったというのではなく、純粋に心理的なものでよい。
例えば、語学学校に通う場合は、講師のイギリス人の行動観察でもよい。行動観察すれば、必ず何か感想はわくであろうから、それが心理的行動になる。
これは実際に目撃したことながら、ロンドンの銀行のATMは、昨今日本で流行るショベルカーでの略奪などに対処するためか、大通りに面した壁に埋め込まれていることが多い。ATM前に行列が出来ていると、その側に乞食が座っている。大抵の人は無視しているが、若い英国紳士然とした人が、現金を引き出しながらゆったり乞食と冗談を言って話し、立ち去るときに一枚紙幣をめぐんでやっていた。
そこまで世慣れた態度がとれるのはイギリス人でも限られているであろう。日本人の場合は、在英期間が長いビジネスマンでも無理だと思う。ましてや学生が真似できる芸当ではない。
しかし、「絶対にチャリティーはしない」という心境は、少し修正されるのではないか。こうした英国紳士の心のゆとりに触れて、ちょっとした親切を受けた思い出などをめぐって、自分の過去、現在、未来を深く考える、といった心境になる人は多いと思う。そして、自分も、だまされる形ではなく、何かチャリティーを、といった心境になることは、考えられないことではない。
それに関連して、金融機関を利用するときの生活英語、乞食とまでいかなくても労働者階級の人が呼びかけてきたり、冗談を言ったりするときの珍しい英語などには特記すべきことがある。
(c)作品の終結と自分の行動
以上のように『クリスマス・キャロル』の文章を構造化し、それに対応した在英体験を記述し、関連する生活英語を付記することで、文学の主題の把握と、アカデミックな留学ではない、ちょっとしたイギリス旅行、語学研修の体験を結び付けることが出来る。
さらに、「(3)チャリティーの実行」について言えば、これは私自身は実行していないのでよくは知らないものの、イギリスはチャリティーやボランティア活動が盛んな国であって、その気になれば色んな体験が出来ると思う。また、それに関連した英語の特記事項は数々あると思う。
こうしたチャリティーの観点での「時代背景」について言えば、むしろディケンズの頃からイギリスの方はあまり変わっていないので、日本の特殊性の方を論じたくなる。私自身の思い出からいえば、幼い頃は乞食が家までやってきて祖母がパンにバターを塗って施してやったり、町の角には片足をなくした(と称する)傷病軍人がアコーディオンを弾いて施しを求めていたりしていた。そうした人々は姿を消し、都会ではホームレスが自立を促す雑誌を売るというニュースを聞く。
ディケンズの頃は、冷徹な利潤追求を公平な競争で行い、その結果の歪みをチャリティーで補うという英米型資本主義が確立した時代であったと思われる。イギリスは階層社会なので、それでいいのだが、日本は、イギリスのように平野ばかりの地形ではない。地方と都会の格差がひどく、世界が大競争時代になるに従って日本の都会も英米化しているが地方はそうではない。
こうした問題も、興味があれば論じたらいいかもしれない。
(d)以上の考察に基づく卒論の例
以上の考察に基づいて卒論を書いたらどうなるか、以下に例示する。(これは骨組みだけであって、実際の卒論は英語のレジメをつけ、もっと肉付けをする必要がある。)
題名:イギリス留学体験とディケンズの『クリスマス・キャロル』
はじめに
ディケンズの『クリスマス・キャロル』では、チャリティーのテーマが、(1)主人公スクルージがチャリティーを絶対やらない態度を貫く(2)チャリティーをやらざるを得ない心境にさせられる(3)チャリティーの実行、の三段階で展開する。この点について、イギリスに留学した体験に基づく考察を行いたい。
第一章 主人公スクルージがチャリティーを絶対やらない態度を貫く
作品では、スクルージの周囲の人々、特に書記とその家族の窮状が描写される。(作品に則して例をあげながらの解説がここに入る。)これはイギリスで体験したチャリティー勧誘の第一段階としての「同情を惹く事象の提示」に対応する。(自分が体験したことを、なるべく作品に関連があることを中心に述べる。)
第二章
主人公スクルージがチャリティーをやらざるを得ない心境にさせられる
作品では、前章で述べたことに対して、スクルージがいかに冷たい反応をするかが描かれている。そして、幽霊たちがスクルージの過去、現在、未来を見せ、深く反省させるということになる。(作品に則して例をあげながらの解説がここに入る。)これはイギリスで体験したチャリティー勧誘の第二段階としての「同情を惹く事象を敢えて拒絶する事象、心理の提示」に対応する。(自分が体験したことを、なるべく作品に関連があることを中心に述べる。多くはイギリス人がチャリティーを実行していることを目撃しての心理体験になる。)
第三章 主人公スクルージのチャリティーの実行
作品では書記の家族への温情を初めとしてスクルージとは思えない行動に出て、驚かれ喜ばれることが描写される。(作品に則して例をあげながらの解説がここに入る。)この点に関して、もしイギリスでチャリティーを実行した体験があるなら、作品との関連付けをしながら述べればよい。
おわりに
まず、自分のイギリス体験とは何であったかをまとめる。そこに付随して生活英語などで特記すべき事項があれば書く。また、語学学校で日本人、英米人以外の国籍の人と友人になったことがあれば、そのつきあいを通じて得たことなどを書く。ただし、ディケンズの作品やチャリティーというテーマから、あまり離れないように留意する。
2シャーロック・ホームズを巡るドイルの小説(テーマ:異常な能力の落とし穴)
(a)作品のテーマについて
シャーロック・ホームズを巡るドイルの小説の主題は、「異常な能力の落とし穴」としていいのではないか。そもそも推理小説は文学としては英文科の卒論では認められず、社会背景の研究を加味すればよいとされる。「異常な能力の落とし穴」といった捉え方は、ヴィクトリア朝社会への考察でよくみかける。従って、一連の推理小説を、こうした形で把握してしまえば、すでに社会への考察を含むことになる。普通、いわゆる「ホームズ好き」はこんな捉え方をしないし、ヴィクトリア朝社会を分析する人は、ホームズだけを取上げたりはしない。だから、何とも中途半端な、本格的な小説分析の手法を推理小説に適用する態度になる。しかし、それが、イギリス旅行体験を卒論にするには有効だと考える。
さて、シャーロック・ホームズを巡るドイルの小説群の文章構造を
(1)一見平凡な事象で「異常な能力」を示す導入
(2)
「異常な能力」の出現
(3)
「異常な能力」の落とし穴があることを示す
の三つに分ける。(この章での指示1:作品のテーマは何か、それを、どう展開しているかを簡潔な箇条書きにせよ!)
この点について少し解説する。まずホームズの人物自体ちょっとした平凡なこと――靴についた泥、服のしわ、髪の乱れ――などをとらえ、それだけで相手の職業、その日の行動を見事に推理してみせる「異常な能力」の持ち主である。これが推理小説ファンにはたまらない魅力とうつる。
ホームズの見事な推理によって犯罪をあばかれる側の犯人たちも、色々と「異常な能力」を持っていて、それを発揮する。しかし、犯罪に使われる能力は、まずホームズの見事な推理によって暴かれることで破綻する。また、推理小説ファンには一部みとめたくないことかもしれないながら、ホームズ自体、結局はこうした悪の「異常な能力」の持ち主と戦って命を落としたり、復活しても、どこか「破綻」を暗示させる結末になる。
平均的なイギリス旅行体験でも、(1)(2)で示す「異常な能力」へのイギリス人の好みは、誰しもが何かを経験する。ギネス・ブックの世界といってもいい。ギネス・ブック自体、イギリス人の「この好み」の産物であろう。
たとえばテレビでやるクイズ番組がそうである。日本のテレビ番組でもクイズ番組はそれなりの人気を獲得している。しかし、イギリスの番組は異常である。長時間、大量のマニアックな問題への挑戦を延々と続ける。それで勝ち抜いてゆく「異常な能力」の持ち主もいるから驚かされる。
文章構造として(1)(2)に関連(というより対応)して
(1−1)一見平凡な事象
(2−1)平凡な事象を「異常な能力」を示す材料にする
の二つに分ける。上記の内容を分類すればそこにイギリス旅行での体験を書き入れることが出来る。(この章での指示2:作品のテーマの展開に対応する普遍的な事象を箇条書きにし、自分のイギリスでの体験を書き入れよ!)
(1−1)
あとで「異常な能力」を示す導入になる平凡な事象を体験しなかったか、自分の体験を書き入れる。
(私の場合の例:
@テレビのクイズ番組。クイズ自体は平凡で面白くない。日本のように、人の関心を惹く内容か、逆に「トリヴィア」に徹するかといった配慮もない。ただし、量がすごい。
A偽札事件。長女がオックスフォードで二十ポンド札の偽札をつかまされたが、警察は動かない。日本なら事件になることが平凡なこととして無視される。)
(1−2)
平凡な事象が「異常な能力」を示すことになった自分の体験を書き入れる。
(私の場合の例:
前項@では、とにかくクイズの量が多く時間が長く、すべてを答える超人的な人物がいることで圧倒される。
前項Aでは、イギリスの警察は働かないのかと思わせられる。グリーン・カードという六ヶ月以上イギリスに滞在するものが警察署に届け出る義務があった身上書のようなものが、1998年に私が留学した時点では、廃止されていたことを知る。それで、まったくイギリスの警察は呑気でいい加減なのかと思っていたら、夜明けに不法入国者を捕らえたといったニュースに驚かされる。あの『悪魔の詩』の作者を保護しきったことなど、イギリス警察は意外に有能な面がある。)
以上のように分類しておくと、ホームズを巡る小説での対応個所を指摘できる。大雑把にいえば、(1−1)はホームズの推理の材料になる一見平凡な事象であり(2−1)はホームズが見せるそうした事象に対する対応としての見事な推理である。
各項目に対応する、ロンドンで学べる生活英語について気付いた点を付記しておく。偽札をつかまされたと思えば金融機関に届け出て、偽でなかったとき等価のものが返ってくる証明書をもらう。長女の場合は結局返ってこなかったので、偽だとはっきりした。
こうした手続きでの等価の金額請求の英語、クイズマニアの英語と、各層にわたる、その訛り、クイズ番組で司会者がいうお決まり文句など、特記すべきことは多い。
(b)作品の展開と自分の行動
「ホームズもの」に限らず(2)「異常な能力」の出現としての推理小説は単純である。ホームズ(もしくは、それに代わる名探偵)が、事件の真相を暴いてみせるだけのことである。
これに比べればジェーン・オースティンの方が(「誰が誰を殺したか、あるいは誰が誰のものを盗んだか」を推理する推理小説ではなく、「誰が誰と結婚するか、あるいは誰が誰と恋に落ちるか」を推理する推理小説がジェーン・オースティンだといわれる)はるかに、「真相暴露の場面」も複雑に描いている。ただし、オースティンを引き合いに出すまでもなく、アガサ・クリスティーの作品にも見られるように、そうした「真相暴露の場面」で、登場人物の性格が見事に描写されることである。それは、まるでバラバラだった人格の断片がつなぎあわされて、ちゃんとした人間に回復されるようでもある。それは本格的な小説も推理小説も共通した、イギリスの作品の、特徴のように思われる。
推理小説とても小説なので、単なる謎解きゲームではなく、謎が解かれた瞬間に人間理解が深まる必要がある。
それに対応する自分の行動は何か考えてみよう。要するに、イギリス旅行中に、「ホームズもの」のような推理小説の登場人物の役割や行動をしたことがあるかということである。
私の場合は、ロンドン大学で、早稲田から来た先生に誘われて、こちらが近道だというので、立入禁止区域を通ろうとしたことがある。そのとき守衛に見つかってしまった。
私はただあやまって、元来た道を帰ろうとしたのだが、守衛は「ネックスト・タイム」を繰返し、むしろ、今回は許してやるからというので、立入禁止区域を通ることをうながした。それも数歩引き返した私達をわざわざ追いかけ、腕をとってまでである。
推理小説風にいえば、私たちは犯人として見つけられたわけだが、守衛は、ただ規則を守らせるだけではなく、イギリス人としての一種の人格教育をした、というか、規則を守らせる機械ではないことを示した。守衛がロンドン訛りのきつい白人だからともいえる。昨今ロンドンに多い有色人種の守衛では、とても、そうしたことはしなかったと思う。(この発言、微妙な差別発言かもしれないながら、そういうことだと思う。)
街の警官たちも、白人のエリートである。知力、体力にすぐれ、あの帽子と警棒が似合う「かっこいい」人達ではある。それが黒人など有色人種を差別したという記事が連日のように報道はされる。しかし、私が接した限り、人間的なあたたかみが感じられる英国の警官は健在という感じであった。街角でみかける違法な物売り、ストリート・ミュジシャンへの警官の対応は、私達に注意したロンドン大学の守衛と似ている。違法だからといって、すぐには追い立てない。頃合いを見計らって近づくと、違法占拠者たちは、すぐに素直に従う。ある程度自由にさせてくれたという想いがあるらしい。ヨーロッパでもっとも優秀といわれるイギリスの警官には、血も涙もあるという感覚があって、それは規則を機械的に守らせるだけではなく、あくまで人間性を失わない訓練があるからだと思う。
犯罪場面に遭遇することは希でも、ちょっとした規則違反と、それに対するイギリス人の人間的な対応なら、比較的短期間のイギリス旅行でも体験することはあると思う。
それに関連して、警官などが規則違反を注意するときの生活英語、また注意される側で、浮浪者とまでいかなくても少し道を外れた人が冗談を言ったりするときの珍しい英語などには特記すべきことがある。
(c)作品の終結と自分の行動
さらに、「(3)異常な能力の落とし穴」について言えば、ヴィクトリア朝風ということをいう必要がある。ヴィクトリア朝風というと赤い煉瓦造りのちょっと殺風景な家並みを思い浮かべる。留学したとき、宿舎探しで見て、こういうところには住みたくないと思った。
必ずしもみすぼらしいばかりではない。しかし、とにかく煉瓦の壁を造って、それで四角に囲うという単純な構造が、どうしても馴染めなかった。
ヴィクトリア朝風といえば、建築様式の問題ではなく、異様に厳しい道徳と、その道徳に抑圧された性や犯罪への異様な関心を思う。そちらの方が英文学関係の先生方の常識に近く、ヴィクトリア朝風の建築様式は、むしろ有名ではない。しかし、そこにこそイギリス旅行の意義があるように思う。
大英帝国が拡張してしまい、特にインドに行って帰ってくる人々は、1970年代のアメリカからベトナムへ行って帰ってくる人々に似た病理を抱えていたのではないかと思う。英米は、確かに民主主義的な文化を持つ。しかし、それを植民地をつくる形で異文化に押し付けようと闘争しているとき、人間の持つ醜いエゴや病理が社会を虫食み、現地だけでなく本国の社会構造に影響を与える。
たとえば『まだらの紐』という、毒蛇を自由に操れる「異常な能力」の持ち主が、それを使って殺人を計画し、それをホームズに見破られ、自分で自分の首を絞めるように、毒蛇にやられて死ぬというドイルの作品がある。
毒蛇など、動物を操れる「異常な能力」というのは、大英帝国の発展で、植民地に行き、そこから帰った者であることが多い。そうした設定が「ホームズもの」には多々ある。つまり世界を征服しかけるという「異常な能力」をアングロ・サクソン民族が発揮した。しかし、そこには、やがて植民地の独立をまねき、衰退に向かう落とし穴が待ちうけていた。
シャーロック・ホームズをこの観点で論じるのなら、英文科の卒業研究としては歓迎すべきことになる。その場合マダム・タッソー人形館近くのシャーロック・ホームズ博物館の資料も取入れたらよい。そして、考慮すべき事柄には文学関係だけでなく、大英帝国と世界との関係を示す政治・経済の主な事件も取入れるべきだ。
ギネス・ブックをつくるというイギリス人の嗜好は、世界の大半を手に入れた大英帝国を維持する中で、人間個人が持つ「異常な能力」への執着があったと思う。それは、植民地を抱えた上での英国人のアイデンティティー探求の一つでもあったのではないか。
ジョン・ブルという、英国人イメージがある。頑固な英国紳士としてイラストにも描かれる。頑固も一つの能力、もしくは能力を支える心的態度であって、おそらく「異常な能力」への興味とも重なる面があろう。「ホームズもの」の一つに『赤髭連盟』という作品がある。赤髭の見事さを競い、優勝して百科事典を写す仕事を任されるという、ギネス・ブックやジョン・ブルの世界がまず展開する。そして実はそれは金庫泥棒のための地下壕掘りをするためのトリックだったという、「異常な能力」をくすぐられての「破綻」というどんでん返しが待っていることになる。そこに、世界の大半を植民地として手に入れたはいいが、やがて「破綻」が待っているという、「大英帝国全体の運命」を読み取るのは、皮肉に過ぎるだろうか。
「ホームズもの」の卒論に、必ず社会的背景への考察を含めというのは、英文科の先生のホームズ・ファンへの意地悪ではない。むしろ、「大英帝国全体の運命」と重なるような社会的背景があるからこそ、推理小説の古典として、一連の「ホームズもの」がいつまでも輝きを失わないのではなかろうか。
以上のように「ホームズもの」の文章を構造化し、それに対応した在英体験を記述し、関連する生活英語を付記することで、文学の主題の把握と、アカデミックな留学ではない、ちょっとしたイギリス旅行、語学研修の体験を結び付けることが出来る。
(d)以上の考察に基づく卒論の例
以上の考察に基づいて卒論を書いたらどうなるか、以下に例示する。(これは骨組みだけであって、実際の卒論は英語のレジメをつけ、もっと肉付けをする必要がある。)
題名:イギリス留学体験とシャーロック・ホームズを巡るドイルの作品
はじめに
コナン・ドイルのシャーロック・ホームズを巡る一連の作品は、人間の「異常な能力」と、「異常な能力」の落とし穴がテーマである。作品に共通して、このテーマが(1)一見平凡な事象で「異常な能力」を示す導入(2)「異常な能力」の出現(3)「異常な能力」に落とし穴があることを示す、の三段階で展開する。この点について、イギリスに留学した体験に基づく考察を行いたい。
第一章
一見平凡な事象で「異常な能力」を示す導入
作品では、まずシャーロック・ホームズがまったく平凡な事象(それが後に非凡な推理の材料になる)に関心を払う。また、犯罪の犯人が、犯罪を隠すために、全く平凡で変哲もない事象を装った行動をする。(作品に則して例をあげながらの解説がここに入る。)これはイギリスで体験した、イギリス人の、一見平凡と見える事象に異常な執着を示し、結果として「異常な能力」を示すことの第一段階としての、あとで「異常な能力」を示す導入になる平凡な事象に符合する。(自分が体験したことを、なるべく作品に関連があることを中心に述べる。)
第二章
「異常な能力」の出現
作品では、まず犯人が犯罪のために「異常な能力」を発揮し、それをホームズが見事な推理で解決してみせるという意味で「異常な能力」を示す。(作品に則して例をあげながらの解説がここに入る。)これはイギリスで体験した「異常な能力」嗜好の第二段階としての平凡な事象が「異常な能力」を示すことになったこと、に対応する。(自分が体験したことを、なるべく作品に関連があることを中心に述べる。)
第三章
「異常な能力」に落とし穴があることを示す
作品ではホームズが見事に解決してみせた事件の謎解きが、背景となる人間関係や社会情勢が織り込まれていて、それが深い人間理解、断片情報からの人格の再構築になっている。(作品に則して例をあげながらの解説がここに入る。)この点に関して、もしイギリスで多少のトラブルなどの体験がある(出来れば、それを通じてイギリス人の人間性に触れるような)なら、作品との関連付けをしながら述べればよい。
おわりに
まず、自分のイギリス体験とは何であったかをまとめる。そこに付随して生活英語などで特記すべき事項があれば書く。また、語学学校で日本人、英米人以外の国籍の人と友人になったことがあれば、そのつきあいを通じて得たことなどを書く。ただし、ドイルの作品やヴィクトリア朝の社会、「異常な能力」嗜好、というテーマから、あまり離れないように留意する。
3ロンドンのショー・ビジネス(テーマ:舞台と観客席が感動で一つになる人間的一体感)
学生がイギリス本国へ行かないことの方が希なくらいになっているとして、6ヵ月か3ヵ月か数週間の語学研修で行っても、数日の観光旅行をしないものは、まずいない。その日程には、ロンドンの劇鑑賞が大抵入る。
短期間のイギリス旅行の場合、学生が比較的容易に学べるもののうち、ちょっとした買物をするときの生活英語、交通機関や各種施設で使う英語もあるにしても、劇場の利用などでの「観光英語」は文学に最も近い。
これをそのまま卒業研究にするには、なかなか無理な面がある。というのは、例えばミュージカルの『オペラ座の怪人』にしても、下敷きになる小説が、たとえ日本語訳で読むとしても大変に長大なものである。いきなり英語のシナリオに飛びついたとしても、フランス語が頻出し、英仏の社交界の常識がわからないとわかりにくいやり取りが頻出する。これらを無視するか、高校生向きに易しくしたもので読んだのでは文学研究にはならない。またロンドンまでわざわざ出かけた意味がない。
その際、ロンドンのショー・ビジネス全体をまとめて「文学研究」が出来ないかということである。その場合は共通のテーマが決め手になる。それを「舞台と観客席が感動で一つになる人間的一体感」とする。それは、およそステージで何かをやるときは演劇、音楽、ダンス…、すべて共通ではないかという疑念が湧くであろう。それに対し、現地に行ったことが生きる特徴付けをしてゆく必要はある。
(a)作品のテーマについて
ロンドンのショー・ビジネス全体の主題は、「舞台と観客席が感動で一つになる人間的一体感」である。そして作品の構成を
(1)
「舞台と観客席が感動で一つになる」導入
(2)
「舞台と観客席が感動で一つになる」瞬間
(3)
「舞台と観客席が感動で一つになる」ことが「人間的一体感」を生む
の三つに分ける。(この章での指示1:作品のテーマは何か、それを、どう展開しているかを簡潔な箇条書きにせよ!)
平均的なロンドンの観劇体験でも、演劇に関ることについては、誰しもが何かを経験する。安売りのチケット販売や、各種のチラシを置いてある場所、劇場周辺に集まってくる人々の様子などである。イギリス人男性と日本人女性のカップルは多い。
私が1998年から1999年にかけて留学したときには、ディズニーの『美女と野獣』が好評でオリビエ賞を獲得した。そのときは子供連れの家族が多く、劇が始まる夕方、地下鉄のトテナム・コート・ロード駅周辺は、ヒロインのベルと同じコスチュームの女の子を連れた家族で賑わっていた。
こうしたことを長女などは「コスプレ」という言い方をする。しかし、江戸時代から戦前までの歌舞伎鑑賞は、舞台の上と同じ着物を着た観客がいたという。私が学生時代には、新橋演舞場で、舞台の上では玉三郎扮する芸者がタンカをきり、観客席の、どうやら本物の新橋芸者らしき奇麗どころが拍手喝采する光景が見られた。伝統芸能には歴史が応援して舞台と観客席を一体にする装置がある。
歌舞伎と同じく、ロンドンのショー・ビジネスにも、歴史が応援する装置がある。演劇の歴史はチューダー王朝から現代まである。その中でもショー・ビジネスということになればジョージ王朝が中心になる。
ジョージ王朝風というと、リージェント・ストリートのカーブを描いた通りにそって華麗なビルディングがカーブを描いて建っていることを想う。ジョージ四世と関りが深いからである。
このリージェント・ストリートのカーブを描いた通りは、それと知らずに写真を撮る人は多い。オックスフォード・ストリートで同名の地下鉄の駅を降り、ディズニー・ショップに向かって歩けば、この通りになる。カフェ・ロワイヤルという名門のレストランがある。向いには「メガネのミキ」がある。フルーツ・タルトを売っている店も多い。
とにかく、華麗なビルディングがカーブを描いて建っていること、リージェント(摂政)という名前があることが示すように、放蕩で有名なジョージ四世が建てたビルディングのある通りなのだ。ジョージ四世といえば、シェイクスピアの『冬物語』のパーディタ役で一世を風靡した女優との艶聞があった。王政復古期から百年と少し経って、女優も定着し、華やかな政治がらみの社交界とシェイクスピア劇が絡んだ時代である。
シェイクスピアは登場人物一人一人を生き生きと描写した。それが、この時代になると、国政を左右する国家的スキャンダルも絡む世界に進出してきて(ジョージ四世の放蕩の支出を議会が面倒をみるかどうかが大問題になった)、国家的詩人と訳すか、国民的詩人と訳すか、とにかくシェイクスピアはナショナル・ポエットに成長した。
単に人間描写がうまい劇作家ではなく、その「人間描写のうまさ」が国家的なものになるほどの振幅があるという「歴史が応援する作品の特質」があらわれる、通りの景観である。
さて構造分析として(1)に関連して
(1−1)演劇的感興をそそる事象
(1−2)演劇的感興をそそる歴史的事象
の二つに分ける。上記の内容を分類すればそこにイギリス旅行での体験を書き入れることが出来る。(この章での指示2:作品のテーマの展開に対応する普遍的な事象を箇条書きにし、自分のイギリスでの体験を書き入れよ!)
(1−1)
イギリス、特にロンドンに来て、演劇的感興をそそられたことはないか、自分の体験を書き入れる。
(私の場合の例:
@『美女と野獣』が上演されていた劇場近くでヒロインと同じ服装の女の子を連れた家族を沢山見た。
Aそもそも地下鉄の内装が赤と緑でところどころにバービカン劇場やサヴォイ劇場でのシェイクスピア公演のポスターがあって、歌舞伎座か新橋演舞場にいるような感じがした。繁華街には必ずショー・ビジネス関連の公演の安売りチケット売り場がある。)
(1−2)
歴史が演劇的感興をそそる応援をしていると感じた自分の体験を書き入れる。
(私の場合の例:
@リージェント・ストリートの景観から、ジョージ四世の放蕩を連想し、政治がらみの女優とのスキャンダルを思い出す。
Aウェスト・エンドで芝居を観れば、ほとんどの劇場はジョージ王朝か、その前のスチュアート王朝時代が起源。)
以上のように分類しておくと、ロンドンの現在のショー・ビジネスとの対応個所を指摘できる。大雑把にいえば、(1−1)は、『美女と野獣』が、ベルというイギリスの女の子の典型的なシンデレラ・ストーリー(イギリスの田舎娘が王宮で王子とダンスを踊り結ばれるという)であったり、『オペラ座の怪人』が、そもそも観客席にあらわれる幽霊という、始めから作品内に観客を舞台にさそいこむ「装置」を持つ、といったことに対応する。(1−2)は、基本的には歴史の継続を意識して新しい作品が生み出されることにつきる。大英図書館に行けば、王政復古の1660年頃から現代まで、ロンドンの演劇シーズンの記録(配役、キャスト、演出家、劇場、公演のねらい、公演中の特記すべき事件)が大冊の百科事典のような書物になってある。
この項目に関連した英語について気付いた点を付記しておくと、「演劇英語」などというとイギリス文化のすべてが飲み込まれることになるものの、劇場人の大袈裟な言い回しがある。それは、由緒ある劇場だけでなくサーカスを見に行っても聞かれる「この美しい夕べに、この劇場(あるいはサーカスのテント)にようこそマダム(あるいはサー)」といった言葉で、単に日本なら「チケット拝見」で済むような場面でのことである。
(b)作品の展開と自分の行動
ロンドンのショー・ビジネスの「作品の展開」は、作品ごとに違っている。作品に共通して「舞台と観客席が一体になる瞬間」を設定してあるなどといっても、それは殆ど世界共通の話であってイギリスのロンドンの特殊性ではない。
ただ、ロンドンの特殊性といえば、一度地下鉄に乗って向かいの席で一生懸命に話す演劇関係者を見かけた。なにやら演劇の進行を記述したダイヤグラムのようなものを見て、一生懸命に話していた。口振りから、どうも演出のプロらしい。
公共の場所で周囲の耳も気にせずに自分の商売の話をするグループは、日本でも見かける。しかし、その商売が「演劇」であったのに出くわしたのにはロンドンの特殊性を感じた。日本では演劇はまず東京でしか商売にならないし、東京の演劇関係者は、どこか気取って、もっとゆったり喫茶店などで「打ち合わせ」をするのではなかろうか。
ロンドンではショー・ビジネスに関して、ニューヨークのブロード・ウェイ・ミュージカルやハリウッド映画なみの資金が動く。東京でいえばブランド品を売りさばく業者や美容関係者の繊細な感覚と緊張感に、不動産業者のバイタリティーをあわせたような人々が「演劇関係者」らしかった。
それに関連して、演劇(ショー・ビジネス)を演出するための英語、つまりメタ演劇英語については、ロンドンの書店では参考書が売られている。他の場所では、まず手に入らないと思う。詳しく読む気がなくても一冊記念に持って返ればロンドンっ子の演劇にかける情熱を忘れない。
(c)作品の終結と自分の行動
以上のようにロンドンのショー・ビジネス全体を構造化し、それに対応した在英体験を記述し、関連するメタ演劇英語などを付記することで、文学の主題の把握と、アカデミックな留学ではない、ちょっとしたイギリス観光旅行の体験を結び付けることが出来る。
さらに、「(3)『舞台と観客席が感動で一つになる』ことが『人間的一体感』を生む」について言えば、これは先述の、シェイクスピアはナショナル・ポエットに成長して「人間描写のうまさ」が国家的なものになったとしたことに関わる。
ロンドンの「演劇関係者」は「シェイクスピアの愛」(Shakespeare’s love)という言葉を、まるで演劇の専門用語か何かのように使っていた。演劇にあまり親しみがなく、小説や詩を中心に「文学」に親しむ場合には、「人間的一体感」とか「シェイクスピアの愛」といったとき、どうしても演劇を離れた普遍的な思想のようなものを思い浮かべてしまう。それと無関係ではないかもしれない。しかし、第一義的には、これらは演出のテクニックに近い。
つまり確かにシェイクスピアは登場人物一人一人を生き生きと描写した。それは地位によって差別をしない、シェイクスピアの人間愛の産物でもあろう。しかし、同時に、それはどんな端役にも見せ場をつくり、劇団員のやる気を起こさせ、さらに、各層にわたる観客すべてを舞台にひきつけるテクニックでもある。
(d)以上の考察に基づく卒論の例
以上の考察に基づいて卒論を書いたらどうなるか、以下に例示する。(これは骨組みだけであって、実際の卒論は英語のレジメをつけ、もっと肉付けをする必要がある。)
題名:ロンドンのショー・ビジネスについて
はじめに
ロンドンのウェスト・エンドで展開するショー・ビジネス(ミュージカルや各種演劇など)のテーマが、(1)「舞台と観客席が感動で一つになる」導入(2)「舞台と観客席が感動で一つになる」瞬間(3)「舞台と観客席が感動で一つになる」ことが「人間的一体感」を生む、の三段階で展開する。この点について、イギリスに留学した体験に基づく考察を行いたい。
第一章
ロンドンのウェスト・エンドで展開するショー・ビジネスには、まず「舞台と観客席が感動で一つになる」ための導入ともいうべき「装置」が用意されている
作品では、例えば『美女と野獣』が、ベルというイギリスの女の子の典型的なシンデレラ・ストーリー(イギリスの田舎娘が王宮で王子とダンスを踊り結ばれるという)であったり、『オペラ座の怪人』が、そもそも観客席にあらわれる幽霊という、始めから作品内に観客を舞台にさそいこむ「装置」を持つ、といったことがある。(作品に則して例をあげながらの解説がここに入る。)これはイギリスで体験したショー・ビジネスの第一段階としての「演劇的感興をそそる事象」に対応する。(自分が体験したことを、なるべく作品に関連があることを中心に述べる。)
第二章
ロンドンのウェスト・エンドで展開するショー・ビジネスには、「舞台と観客席が感動で一つになる」瞬間が作品の中に用意されている
作品では、演劇としては普遍的なことながら、必ず標記の瞬間が用意されている。(作品に則して例をあげながらの解説がここに入る。)これはイギリスで体験したショー・ビジネスの第二段階としての「演劇的感興をそそる歴史的事象」に対応する。「歴史的」というと奇異の観があるかもしれないものの、作品が狙う「感動の瞬間」はシェイクスピア以来の伝統で端役を含めてあらゆる役者が見せ場を持つ演劇上のテクニックが、あらゆる階層の観客にアピールする結果起こるものである。それは普遍的であると同時にイギリス固有の伝統の産物(ほとんど芸能という労働市場で高い値をつけて取引できる技能に近い)でもある。(自分が体験したことを、なるべく作品に関連があることを中心に述べる。多くはロンドンの劇場で多くの人々が「感動」を体験することを目撃して《あるいは、自分も共感して》の分析になる。)
第三章
「舞台と観客席が感動で一つになる」ことが「人間的一体感」を生む
作品では「感動の瞬間」によって人間の連帯についての一つのありかたが示され、そこに観客が誘い込まれる。(作品に則して例をあげながらの解説がここに入る。)この点に関して、もしイギリスで独特の人間的一体感を体験があるなら、作品との関連付けをしながら述べればよい。
おわりに
まず、自分のイギリス体験とは何であったかをまとめる。そこに付随してメタ演劇英語などで特記すべき事項があれば書く。また、語学学校で日本人、英米人以外の国籍の人と友人になったことがあれば、そのつきあいを通じて得たことなどを書く。特に一緒に演劇などを観にいった体験があればよい。全体としてウェスト・エンドのショー・ビジネスというテーマから、あまり離れないように留意する。
4マードック、ドラブルなどの戦後女流文学(テーマ:権威との葛藤)
学生が6ヵ月か3ヵ月か数週間の語学研修かをしたとして、男女同権について討議することはあると思う。またイギリス人男性の女性に対するやさしさは定式化している。私も現在の外人教師カレンさんにロンドンで会えば荷物を持ってあげたりコートを着せてあげたりは自然にすることになる。日本では、絶対しない。
昨今はそうした行為を拒絶する若い女性が現れて(つまり女性庇護の形を借りた男女差別だというので)男性を困惑させている。
こうした、日本よりはるかに身近に感じるフェミニズム(女権拡張論)問題を考えるには、戦後のイギリス文学の中からマードックやドラブルなどを取上げるのが良い。
(a)作品のテーマについて
マードックやドラブルの小説の主題は、「権威との葛藤」である。そして作品の文章構造を
(1)
知らず知らずの権威への服従
(2)
権威との衝突
(3)
権威からの解放と成長
の三つに分ける。(この章での指示1:作品のテーマは何か、それを、どう展開しているかを簡潔な箇条書きにせよ!)
平均的なイギリス旅行体験でも、この問題に関することについては、誰しもが何かを経験する。地下鉄に乗れば、荷物を網棚に上げるにせよ、席を譲るにせよ、何かと女性に親切なイギリス人男性の姿がある。デパートでは女性の買物のお供をして、辛抱強く待ち、その退屈をまぎらすための各種の商売まである。そうはいうものの、もし語学学校の女性教師と懇意になるか、ディスカッションでこの問題を討議すれば、意外に結婚すると権威に従わせようとする男性がいて、それが日本でいう「バツイチ」の女性を作り出している実態を聞くことになる。
文章構造として(1)に関連して
(1−1)男性が女性に親切
(1−2)女性を庇護することを名目にして権威に従わせようとする男性の意図がある
の二つに分ける。上記の内容を分類すればそこにイギリス旅行での体験を書き入れることが出来る。(この章での指示2:作品のテーマの展開に対応する普遍的な事象を箇条書きにし、自分のイギリスでの体験を書き入れよ!)
(1−1)
イギリス人男性の女性に対する親切さ加減を、目撃したり体験したことはないか、自分の体験を書き入れる。
(私の場合の例:
@地下鉄内でのイギリス人男性の女性への親切なマナーを目撃。特に1999年現在でもときおり地下鉄で見かけた山高帽の紳士のマナーはすごい。
Aロンドンでのつきあいでは、女性への荷物、コートの世話は必須。)
(1−2)
女性への庇護を名目にして権威に従わせようとするイギリス人男性の意図に気付くことがあるか、自分の体験を書きいれる。
(私の場合の例:
@ロンドン大学内では、日本でいう体育会系の秩序を感じる。学部学生、大学院生、講師、助教授、教授、大学の理事をつとめるような力のある教授という階級が厳然としていて、どちらがドアのところで道を譲って、ドアを開けてあげるかで、日常的に意識させられる。同じ階級の場合に女性が優先されるのみで、イギリス人男性の女性へのマナーは、結局、日本でいうヤクザか任侠の世界で、兄貴分の「イロ」に対して弟分が親切にするに近い。つまり、男性の支配被支配という秩序に女性が組み入れられているだけとも思える。
A富山大学の前の女性外人教師から身の上話として、最初の夫との離婚話を聞かされ、それは、「自分を隅々まで支配しようとした男性」という、完全にマードックの小説の世界だと聞かされた。)
以上のように分類しておくと、マードック、ドラブルなどの作品での対応個所を指摘できる。大雑把にいえば、(1−1)はマードックの『鐘』で学歴のいい相手と主人公が結婚した最初の状態、(1−2)はその夫に強制的に宗教団体に入れられるところなどである。
この問題についてはロンドンで学べる生活英語について気付いた点というより、まさに普通の語学学校の語学研修の中心事項なので、そうした問題を討議するときには、しっかり学べばよい。
(b)作品の展開と自分の行動
マードック、ドラブルの「作品の展開」は、前項での分類の詳細になる。(2)権威との衝突、の項目については、大雑把には、マードックの『鐘』では強制的に入れられた宗教団体の施設で騒ぎを起こすことになり、『砂の城』では不倫の恋に身を任せることになり、ドラブルの『碾臼』では、冒頭から(つまり、その「前段階」は小説では「前提」として扱われる)未婚の母になる一連の行為が始まる、ということになる。
それに対応する自分の行動は、別にフェミニズムに目覚めて何かを行ったというのではなく、純粋に心理的なものでよい。
例えば、語学学校に通う場合は、講師のイギリス人の行動観察でもよい。行動観察すれば、必ず何か感想はわくであろうから、それが心理的行動になる。
あるいは、私が留学していた1998年から1999年にかけて、英国でも少子化が問題になり、ブレア首相が女性に結婚をと呼びかけると、そもそも、そうした個人の生き方に関わることで首相が発言するのがけしからんというイギリス人女性たちの反発が起こったことがある。テレビにも注目すればよい。
(c)作品の終結と自分の行動
以上のようにマードック、ドラブルなどの文章を構造化し、それに対応した在英体験を記述し、関連する生活英語(というよりディスカッション英語。語学学校で習えるというか授業の中心であることが多い。)を付記することで、文学の主題の把握と、アカデミックな留学ではない、ちょっとしたイギリス旅行、語学研修の体験を結び付けることが出来る。
さらに、「(3)権威からの解放と成長」について言えば、イギリスは若者の成長を問題にすることが盛んな国であって、その気になれば色んな見聞が出来ると思う。また、それに関連した英語の特記事項は数々あると思う。
こうしたフェミニズムの観点での「時代背景」について言えば、エドワード王朝風が問題になる。つまり、マードックやドラブルが衝突した権威は、ヴィクトリア朝まで遡ることもあるにはあるが、むしろ、その後のエドワード王朝風のことが多い。マードックの『砂の城』に出てくる権威ある校長の家や、その他の作品でも、建築を問題にするとき、そうした様式が象徴のように現れる。
エドワード王朝風といえば、確かハロッズという有名な百貨店の地下の食料品売り場がそうだと聞かされた。確かに華やかなタイルだけを見ても圧倒される。そもそも、こうした売り場で買い物をするようなブルジョアの生活がマードックやドラブルの批判の対象になっている面がある。
さらにこのことの間接的な例をあげれば、1998年10月にロンドンに到着し、その年末から翌年の正月にかけて、当時まだ存命だったマードックの痴呆と最期の報に接し、関連の書物が本屋に平積みされるのを見た。また、最晩年の小説も手に入れた。
マードックの小説は、特に晩年のものは筋が複雑だ。読み取って的確なあらすじが作成できたら、それで、かなりの部分マードックの小説を理解したことになりそうだ。留学時に、マードックの晩年の作品を手に入れたとき、「ノッティング・ヒルの恋人」という映画が上映されていた。ノッティング・ヒルは、そのマードックの作品の舞台でもあるロンドンの高級住宅街で、地下鉄を降りてうろついてみた。エドワード王朝風の建物もありそうに思えた。2001年の正月に再び訪れて映画の撮影現場に行ったりもした。現代のイギリスの中産階級の人間関係と、ハロッズの地下食料品売り場的なエドワード王朝風の雰囲気とは切離せない面がある。
こうした「お金持ちの生活」を少し覗いたということなども、「イギリスの感覚」「ロンドンの雰囲気」を理解するには有用である。そして、それはイギリスのフェミニズムの「当面の敵」なのである。
こうした問題も、興味があれば論じたらいいかもしれない。
(d)以上の考察に基づく卒論の例
以上の考察に基づいて卒論を書いたらどうなるか、以下に例示する。(これは骨組みだけであって、実際の卒論は英語のレジメをつけ、もっと肉付けをする必要がある。)ただし、「アイリス・マードック、マーガレット・ドラブルなどの作品」としたところは、どれかに絞った方がよい。
題名:イギリス留学体験とアイリス・マードック、マーガレット・ドラブルなどの作品
はじめに
アイリス・マードック、マーガレット・ドラブルなどの作品では、フェミニズムのテーマが、(1)主人公の知らず知らずの権威への服従(2)権威との衝突(3)権威からの解放と主人公の成長、の三段階で展開する。この点について、イギリスに留学した体験に基づく考察を行いたい。
第一章
主人公の知らず知らずの権威への服従
作品では、主人公が最初はイギリス社会の習慣にそって生き、男性主導の社会に組み込まれている。(作品に則して例をあげながらの解説がここに入る。)これはイギリスで体験したフェミニズム観察の第一段階としての「イギリスでは男性が女性に対して親切」に対応する。(自分が体験したことを、なるべく作品に関連があることを中心に述べる。)
第二章
主人公が権威と衝突する
作品では、やがて主人公が自分に対して支配を強める男性主導の社会に対し、反抗せざるを得ない立場に追い込まれる。(作品に則して例をあげながらの解説がここに入る。)これはイギリスで体験したフェミニズム観察の第二段階としての「女性に親切なイギリス人男性は、実は女性を強く支配しようとしている」に対応する。(自分が見聞したことを、なるべく作品に関連があることを中心に述べる。また語学学校でのディスカッションの内容などを紹介する。)
第二章
主人公が権威から解放され成長する
作品では物理的、もしくは精神的に主人公が権威から脱走し、解放されることが描写される。(作品に則して例をあげながらの解説がここに入る。)この点に関して、もしイギリスで見聞したことがあるなら、作品との関連付けをしながら述べればよい。
おわりに
まず、自分のイギリス体験とは何であったかをまとめる。そこに付随して生活英語などで特記すべき事項があれば書く。また、語学学校で日本人、英米人以外の国籍の人と友人になったことがあれば、そのつきあいを通じて得たことなどを書く。ただし、マードック、ドラブルの作品やフェミニズムというテーマから、あまり離れないように留意する。
5児童文学、「庭の文学」(イギリスの美しい自然を織り込んだ文学)(テーマ:戦いに傷ついた心と身体の癒し)
ここでは、学生がイギリス旅行をした場合、ロンドンではなく、郊外の観光地を訪ねた場合を想定し、それを、どう英文学の卒論に生かせるか考えてみる。
ロンドンを離れた観光地といえば、いわゆるコッツウォルズといわれている羊を飼う村のイメージがある。羊を飼うといえば、かのピーター・ラビットを巡る物語の作者ベアトリクス・ポッターが羊生産で儲けた金をナショナル・トラスト運動につぎこんだことが思い出される。ナショナル・トラストは自然や歴史的建造物の保護運動なのだが、「ロンドンを離れた観光地」の大半がそうした運動に支えられている。
ピーター・ラビットを巡る物語は一応児童文学ということになっている。児童文学といえば、アーサー・ランサムが代表的である。児童文学の集中講義でお呼びした横田先生のメンターは白百合女子大の児童文学の教授であった神宮輝夫氏で、氏はアーサー・ランサムの訳で有名な方である。その物語はイギリス北部の湖水地方で展開する。
イギリスの田舎の美しさは、上記の羊のいる草原、湖と並んでチューダー朝の美しい民家としても記憶される。
チューダー王朝様式は、まさにシェイクスピア時代なのだが、建物として、黒い木の、とくに斜めにハスガイのように入った気組みが外に見える美しい民家と、四角い塔が立つ教会が印象的である。セント・ポール大寺院も、今でこそ丸いドームがそびえているけれど、シェイクスピア時代は四角い細長い箱のような塔であった。
とくに斜めの木組みが印象的な民家の様式はシェイクスピアの生まれ故郷のストラトフォード・アポン・エイヴォンの景観の基調である。その美しさに定評があるのか、ロンドンでも一連の建物にこの様式を採用することは多く、日本人が多く住むイーリング、アクトンの住宅にも採用されている。
ストラトフォード・アポン・エイヴォンの景観と町の人々を愛する人は多く、その水彩画スケッチにシェイクスピアにちなむ風物を描写した文章をつけて出版する人もいた。
こうした本をながめて思うことは、確かにシェイクスピア劇は人間の内奥にひそむ欲望を描き出し、心理劇といっていい要素があって、戦乱も殺人も描く、かなりドロドロしたものではある。その想像力に惹かれて、同時に、それを生んだ作者の生まれ故郷ののどかな佇まいに接すると、それだけで心が落ち着き癒されるものがある。
シェイクスピアはいなかったとか、シェイクスピアに近代人の苦悩を押し付けるとか、うるさい議論はあるものの、エイヴォン川の、川の流れをじっと見ていると、初期のコメディで描写される海の表現を思い出す。何のかの言ってもシェイクスピアの作品には、エイヴォン川のほとりで幼年期を過ごした詩人の表現が盛り込まれている。
イギリス旅行でストラトフォード・アポン・エイヴォンの景観を写真に撮ったら、私はまずこうしたシェイクスピア作品の魅力について思い出してほしいと思う。
ストラトフォード・アポン・エイヴォンの町のホームページの最初のタイトル・ページには、ゆれる川面にロイヤル・シェイクスピア劇場が映る画像がある。これが、すべてを象徴しているようだ。
さて、児童文学に話を戻すと、シェイクスピアの作品を子供でも楽しめる小説に直したのがチャールズ・ラムである。「ラム・シェイクスピア」は当時すべてがロンドンの演劇中心で動いていた時代に、まるで反・演劇運動でもやるように、シェイクスピアを散文に直してしまった。
反・演劇運動とは、反・政治経済運動でもある。それは同時に、上記で「かなりドロドロしたもの」をシェイクスピアが描くとした言葉を利用すれば、反・ドロドロ運動でもある。
ここに、イギリスの都市部以外で自然を楽しむ観光の本質が現れていると思う。
つまり、「庭のイングランド」という言葉があるように、イギリス本国は自然に恵まれた美しい癒しの土地である。そこにローマ時代の昔から勇猛な民族が住んで、ときにヨーロッパ大陸の貴族たちの傭兵として、あるいは、十字軍に、あるいは民主主義の理念のもとに、現在まで戦い続けている。
そうした戦いに傷ついた兵士たちが、実際に傷病兵として憩う施設がロンドンのテームズ川の辺近くのチェルシーというところにある。ここが、いわゆるイギリスが世界に誇るガーデニングのメッカであることも象徴的だ。
タイトルで児童文学と「庭の文学」を並べたのには、「戦いの癒しとしての自然」という意味がある。イギリスの児童文学は、上記のアーサー・ランサムの作品が湖水をめぐる一種の「海賊ごっこ」「洞窟探検など冒険もの」の要素があり、ハリー・ポッターを巡る物語もテレビ・ゲームが下敷きにあるといわれるほど「戦い」に満ちている。
(a)作品のテーマについて
イギリスの児童文学、「庭の文学」(イギリスの美しい自然を織り込んだ文学)の主題は、戦いに傷ついた心と体の癒しである。そして作品の文章構造を
(1)
子供たちや美しい自然といった慰安の場を文学に設定する
(2)
その底に戦乱を織り込む
(3)
慰安への逃避ではない人間性回復をめざす
の三つに分ける。(この章での指示1:作品のテーマは何か、それを、どう展開しているかを簡潔な箇条書きにせよ!)
平均的なイギリス旅行体験でも、「子供たちへのイギリス人の配慮」「美しい自然」については、誰しもが何かを経験する。あらゆる施設で子供たちへの配慮がみられ、美しい自然と歴史的建造物の保存にイギリス人ほど熱心な人々はいない。私は1998年から1999年の留学期間中にロンドン郊外の観光地としてはシェイクスピアの生まれ故郷ストラトフォード・アポン・エイヴォン、ストウ・ガーデン、ブレナム・ハウスなどを訪れた。慰安の場所であり、子供たちを連れて行くのに良い場所であると同時に、イギリスが戦った各種の戦いに想いを馳せないではいられない場所でもあった。
文章構造として(1)に関連して
(1−1)「子供たちへのイギリス人の配慮」「美しい自然」を感じさせる事象
(1−2)上記に関連してイギリスが戦った各種の戦いに想いを馳せないではいられない事象
の二つに分ける。上記の内容を分類すればそこにイギリス旅行での体験を書き入れることが出来る。(この章での指示2:作品のテーマの展開に対応する普遍的な事象を箇条書きにし、自分のイギリスでの体験を書き入れよ!)
(1−1)
「子供たちへのイギリス人の配慮」「美しい自然」を感じたことはないか、自分の体験を書き入れる。
(私の場合の例:
@シェイクスピアの生地にある各施設でも、グローブ座でも、大英図書館でも、子供たちのための配慮がある。
Aイギリス中が美しい自然と歴史的建造物の保護に力を入れていることを認識した。ナショナル・トラストに務める若い女性と家族ぐるみで付き合った。その女性はイギリス建築、美術を専攻し学芸員をめざしていた。)
(1−2)
一見ほのぼのとさせるだけの上記の事柄に「戦乱」を感じたことはないか自分の体験を書き入れる。
(私の場合の例:
@イギリスで最も美しい城の一つで、小公子に出てくる絵のような「公爵邸」であるブレナム・ハウスは、イギリスの軍神とわれるマルボロー公爵家、つまり、チャーチルの居城であった。第二次世界大戦中の有名なチャーチルのラジオ演説で英国民を励ましたものが流されていた。
Aシェイクスピアの生まれ故郷を流れるエイヴォン川の川面を見ながら、ロンドンのドロドロしたものの対極にある、この「のどかさ」は、ドロドロがあるからこそのものと思った。
B当時まだ小学生だった次女のために、オックスフォード・ストリートの百貨店に子供服を買いに行った。そのとき子供服売り場で驚いたのは、男の子用のものは、ほとんどミリタリー・ルックで、女の子にも、迷彩服のジャンパーとスカートがあった。日本的に「可愛い」装飾的なものは一切なかった。)
以上のように分類しておくと、児童文学、「庭の文学」での対応個所を指摘できる。大雑把にいえば、(1−1)には、子供が活躍するか、イギリスの自然を舞台に物語りが展開するかするということが対応し、(1−2)は海賊、冒険、戦争、政治や芸能スキャンダルなどが背景にあるということが対応する。
各項目については、交通機関、宿泊施設を含む「観光英語」が参考になるが、観光地のパンフレットが馬鹿にならない。歴史と自然についての記述が詳しいし、子供向けの解説パンフレットでも特記すべきことは多い。
(b)作品の展開と自分の行動
「作品の展開」は、前項での分類の詳細になる。(2)作品の底に戦乱を織り込む、の項目については、先述の通りながら、たとえば作者の執筆事情を加味してもよい。J.K.ローリングのハリー・ポッターを巡る物語の執筆動機には、離婚と困窮がある。
また突拍子もない例を持ち出すようながら、ハーディの『ダーバービル家のテス』は、同様のスキャンダルで死刑になった女性の公開死刑を見たことであったという。
この『ダーバービル家のテス』については、「庭の文学」に入れてもいいのではないか。そうした女性を巡るドロドロしたスキャンダルを、まさに「美しい自然」の中に展開し、苦しい労働つきとはいえ、イギリスの農家の生活をそれなりに美しく描き、主人公を魅力的な少女に設定して、イギリスの田舎の少女の成長ぶりを、見方によっては「のどかな」筆致で描いている。そして最終場面は、イギリスが誇る観光地の一つであるストーンヘンジである。「スキャンダルのドロドロをイギリスの観光地めぐりに昇華した」文学といえなくもない。
それに対応する自分の行動は、しっかりイギリスの観光地めぐりをすることである。B&Bなどにも泊まり、しっかり英文のパンフレットを、子供向きのものも含めて読むことである。
(c)作品の終結と自分の行動
さて、一応最終段階に「慰安への逃避ではない人間性の回復」を掲げてみた。しかし、これは一言で片付けられるほど簡単な問題ではない。実際に、イギリス旅行をして、学生ひとりひとりが考えてみなければ何ともいえない。
観光旅行と文学を結びつけるというのは、従来、専門の文学研究者の間では評判の悪いことであった。
例えば、国文の学生が川端康成の『伊豆の踊り子』を卒論のテーマにし、伊豆への観光旅行をしてそれに代えたら、それで通用するかどうかは疑わしい。しかし、外国人の研究者であれば、むしろ積極的に勧めるべきことではないか。『雪国』にしても、実際、雪の季節にトンネルを抜けて雪の多い地方に鉄道で乗り入れる体験を、日本文学を愛する外国人にはしてほしいと思う。
外国人には「百聞は一見にしかず」の「一見」の部分が不足している。
富山大学の英米言語文化には「漱石とイギリス文学」といったテーマを口にする学生もいた。漱石が読んだイギリス文学やヨーロッパ文学を読みこなし、漱石が教師をしていたとき、『オセロ』をどう読んだかも把握し、ロンドン時代に漱石が師事した学者についても詳しく調べ、当時のロンドン事情もすべて文献で把握して・・・となると、そう簡単に取り組めるテーマではない。
しかし、ロンドンに行って、実際に漱石が下宿した家を訪ねたり、そういう興味で日本から訪英する人々の一部と言葉をかわしたりしながら、自分の人生を見つめることがあったら、それはそれで、「研究」になるかどうかは疑わしいものの、意義のある文章が少なくとも書けるであろう。
(d)以上の考察に基づく卒論の例
以上の考察に基づいて卒論を書いたらどうなるか、以下に例示する。(これは骨組みだけであって、実際の卒論は英語のレジメをつけ、もっと肉付けをする必要がある。)また、イギリスの児童文学、「庭の文学」(イギリスの美しい自然を織り込んだ文学)としたところは、各自、好みの作品に絞った方がよい。
題名:イギリス留学体験とイギリスの児童文学、「庭の文学」(イギリスの美しい自然を織り込んだ文学)
はじめに
イギリスの児童文学、庭の文学(イギリスの美しい自然を織り込んだ文学)では、作品の構造が、(1)子供たちや美しい自然といった慰安の場を文学に設定する(2)その底に戦乱を織り込む(3)慰安への逃避ではない人間性回復をめざす、の三段階で展開する。この点について、イギリスに留学した体験に基づく考察を行いたい。
第一章
子供たちや美しい自然といった慰安の場を文学に設定する
作品では、子供たちや美しい自然といった慰安の場が設定され、子供が活躍するか、イギリスの自然を舞台に物語りが展開するかということになっている。(作品に則して例をあげながらの解説がここに入る。)これはイギリスで体験したイギリス人が考える保護すべき慰安の場の第一段階としての「子供たちへのイギリス人の配慮」「美しい自然」に対応する。(自分が体験したことを、なるべく作品に関連があることを中心に述べる。)
第二章
作品の底に何らかの意味での「戦乱」が織り込まれている
作品では海賊、冒険、戦争、政治や芸能スキャンダルなど、何らかの「戦乱」が背景にあって、それが作品で描かれることもあるし、作者の執筆動機として背景に沈み込んでいることもある。(作品に則して例をあげながらの解説がここに入る。)これはイギリスで体験したイギリス人が考える保護すべき慰安の場の第二段階としての「戦乱」の織り込みに対応する。イギリスで一見ほのぼのとさせるだけの「子供たちへのイギリス人の配慮」「美しい自然」といった事柄に「戦乱」を感じた体験があるなら、作品との関連付けをしながら述べればよい。
第三章 作品は、最終的には慰安への逃避ではない人間性回復をめざす
作品によって大きく異なるものの、概ね標記でくくれる結末にはなる。(作品に則して例をあげながらの解説がここに入る。)また、イギリス旅行から直接標記のテーマに関して記述したいことがあれば記述する。(自分が体験したことを、なるべく作品に関連があることを中心に述べる。)
おわりに
まず、自分のイギリス体験とは何であったかをまとめる。そこに付随して観光英語(旅行用パンフレット各種。子供向けも含む)などで特記すべき事項があれば書く。また、語学学校で日本人、英米人以外の国籍の人と友人になったことがあれば、そのつきあいを通じて得たことなどを書く。ただし、「イギリス人の子供たちへの配慮」「美しい自然」というテーマから、あまり離れないように留意する。