平成15年度後期 英米言語文化特殊講義 課題

 

課題1

(1)   シェイクスピアの生れ故郷であるストラトフォード・アポン・エイボンという所は、町並みと自然の調和が大変美しい、古き良きイギリスの風情を今も残している町だと思った。彼が生涯にわたってこの町を愛し続けたのも納得出来ると感じた。

(2)   The Shakespeare Centre Library

(3)   glover, glove-maker

(4)   私は、この学生が述べるようなことは、指摘されなければおそらく気付かなかっただろうと思う。しかし、指摘されてみればその通りだと思えるところもあった。「シェイクスピアの関連サイトには、彼の生涯や時代背景は詳しく記載されているのが、作品に対する批評はあまり為されておらず、シェイクスピア自身やその作品が少しぼやけてしまっている」という記述には大いに同感できる。私も、シェイクスピアの生い立ちなどに関する記載ばかりが目につくという印象を実際に受けたからである。ただ、「シェイクスピアに関しては、常に理想化、偶像化が意識的に為されているように思える」という点に関しては、言い過ぎではないかと感じる。私もこの学生と同じく、シェイクスピアの作品に近づきがたさを感じてはいるが、それは彼の作品は知識の足りない私が読むには多少難しいものだからである。この学生はシェイクスピアやその作品に敷居の高さを感じているように見受けられるが、私はそれを感じておらず、自分に知識さえあれば彼の作品に触れるのは難しいことではないという認識を持っているため、後述の部分に関しては同意しかねる。

(5)   この学生が書いているようなことは、私は見つけられなかったので、個人的な解釈をここに述べたい。ほとんどの時期においてと同様に、シェイクスピアが活躍した時代においても、「格調高い」という言葉と即座に結びつけられる「上流階級」と呼ばれる人々はほんの一握りであり、ほとんどの人は「大衆」である。となると、その大衆を集める作品を書き、彼らに娯楽を提供しようとするのは当然の摂理なのではないだろうか。また、シェイクスピアが後世に至っても人の心に残り続けていることを考えると、彼が大衆を楽しませる劇作家でなければ、これだけの影響力を後の世に残せなかったのではと思われる。

 

課題2

(1)   適切でないもの・・・クリストファー=マロエ

正しい読み方・・・クリストファー=マーロウ

       適切でないもの・・・エドワード=デ=ベレ(Edward de Vere

   正しい読み方・・・エドワード=デ=ベラ(Edward de Bella

(2)シェイクスピアの作品を書いたのではないかと上げられている人物について・・・

フランシス=ベーコン(15611626)

イギリスの哲学者、政治家。Idol(イドラ)人間が備え持つ、誤った考え方について言及。デカルトと並んで近代の自然科学の基礎を築いた人物。

クリストファー=マーロウ(1593)

エリザベス朝を代表する劇作家・詩人の一人で、無韻誌形による演劇の先駆者。1593年に29歳の若さでデットフォードの酒場での喧嘩がもとで殺された。

   この2人についての記述はとても多く、そこから考察したところによると、確かにこの2人がシェイクスピアの作品を書いたのではないと論ずる際の理由は間違ってはいないと思われる。エドワード==ベラについてはあまり記述を見つけられなかったので、定かかどうかは言い難い。

(3)シェイクスピアの存在があまりにも大きくなってしまったというところに原因があるのではないだろうかと思う。作品の詳しいところまで見ていなかったり、知らなかったりしたとしても、シェイクスピアという人の名前と代表作品くらいは誰もが知っているだろう。そのために、シェイクスピアの存在自体ありうるのかという議論が起こってくるのではないだろうか。シェイクスピアが世界的に著名になり、現代まで様々な機会において議論され、語り継がれる存在でなければ、きっと誰も疑問になど思わなかっただろう。

 

課題3

  『ライオンキング』は、『ハムレット』に登場する王族がライオンになっている動物版ハムレットといえる。例えば、主人公の王子・シンバのモデルはハムレットであり、シンバの父・ムファサのモデルは亡霊となってハムレットの前に現れる故デンマーク王、ムファサを死に至らしめた悪役の叔父・スカーのモデルはクローディアスである。                                

まず、『ハムレット』において、ハムレットが誤ってボローニアスを刺し殺してしまった後、クローディアスによって表面上使節としてイングランドに送られるという箇所と、『ライオンキング』において、シンバがスカーの陰謀で父の死が自分のせいだと思いこまされ、プライドランドを追い出されるという箇所は、叔父が自分の王位を揺るがす邪魔者を自分の国から追放するという点で似ている。

さらに、酷似しているのが、結末が幸、不幸とそれぞれ違うものの、主人公の父親の亡霊が現れ、主人公を敵討ちに向かわせるところである。『ハムレット』では、夜中ハムレットの前に国王の亡霊が現れ、自分は実の弟のクローディアスに殺されたことを告げ、復讐を誓わせる。一方、『ライオンキング』ではプライドランドを去り、成長したシンバの前に、父ムファサの霊が現れ、正統な王の血を受け継ぐ息子を励まし、奮い立たせる。自分の置かれた立場を自覚し、とるべき道を悟ったシンバは、かつての光り輝く王国を取り戻すべく、プライドランドに戻る。

以上の点から、『ハムレット』を下敷きに『ライオンキング』が作られたとの判断に至った。

 

課題4

    私は、『タイタス』と『タイタス・アンドロニカス』を比較してみて、『タイタス』は『タイタス・アンドロニカス』を忠実に再現しようとしたものでもなく、完全に舞台を現代に置き換えたものでもないと感じた。

    『タイタス』は、古代ローマを忠実に再現した、リドニー・スコット監督の『グラディエーター』とは対照的に、ジュリー・テイモアの「時代を混合し衝突させる」という意図のもと、意識的に衣装やセットに異質のものを取り入れている。現在の古代ローマ遺跡やムッソリーニが建てた庁舎などで撮影を行い、古代ローマ風から近代の軍服、ネクタイ、スーツといった様々な時代の衣装が用意され、自動車やオートバイも登場しており、映画の舞台が古代ローマではなく、どこか別の時代のように感じられた。私には、古代の戦車と同時にオートバイや現代の戦車が並ぶシーンが、時代が交錯しているという点で特に印象的だった。また、音楽に関しても、ジャズなどの現代的音楽を取り入れている。

これらの思い切った衣装やセットに、シェイクスピアの詩情豊かなセリフを調合させた『タイタス』は、過去と現在が混ざり合う超時代感覚で『タイタス・アンドロニカス』を描いた映画だと思った。

 

課題5

    原文の最後のシーンは、ロミオとジュリエットがわずかな時間差で互いに言葉を交わすことなく死んでいき、このシーンは彼らの悲劇を象徴するシーンとして、観客の心に深く残るものである。一方、改作の最後のシーンは、ロミオが死ぬまでの間ジュリエットと会話する形式をとっており、原文よりもドラマチックだという印象を受ける。私は、オリビア・ハッセーが主演するRomeo and Julietとレオナルド・ディカプリオが主演するRomeo Julietの双方を観たことがあるが、前者の方を先に観たことや、シェイクスピアの原文のあらすじを知っていたこともあって、後者は原作を現代的にアレンジしたものだと思っており、18世紀の時点でこれの元となったような改作がなされているとは知らなかった。そして、後者を観て、原作よりも結末への移行が劇的であり、彼らの愛の悲運さをより高めていると感じたことを覚えている。その印象を思い出してみても、やはり、改作の方が原文よりもよりドラマチックであると言えると思われる。また、現代人は非常に映画慣れ、テレビ慣れをしているため、少々のことでは感動しづらくなっていると私は考えているのだが、その現代人にも感覚的に訴えるものがあると感じる。さらに、「シェイクスピアは古典的で、とっつきにくい」と考えている人たちにも、「シェイクスピアといっても普通の恋愛ドラマと変わらない」という感想を持ってもらえるという可能性さえあるので、改作は原文と劣らないほどすばらしいと思う。