課題1.さてシェイクスピアの故郷に関連したサイトを見て、シェイクスピアのどのようなことに興味を持ったか、また持てなかったかを考えてください。(持てなかったかというのは奇妙な課題ですが、シェイクスピアは中身がわからなくても反感を抱かせる要素がありますので、もし反感もしくはうっとおしいという感想を抱いたならそれでもいいのです。)いくつか課題を用意しますのでやってみてください。
(1) まずサイトにある絵や写真をみてください。「彼が生まれたイングランド中部のストラトフォード・アポン・エイヴォンという所は、街並みの美しい町であると感じた。この町には、シェイクスピアの真実が息づいているようにも思えた。」という感想をいだいた大学生がいました。みなさんはどう思いますか。次に書いてください。( )
(2) 「シェイクスピアは何と言っても世界的英雄であり、シェイクスピア、或は彼の作品と言うと、格調高く、権威のある、一種カリスマ性を思わせる独特の雰囲気がある。世界中のシェイクスピアへの関心の高さがある。シェイクスピア中心の図書館があったり、或はシェイクスピアにまつわる数多くのコレクション等をサイト上で見る事によって、以前抱いていたシェイクスピアへのイメージとの大方の一致があった。」という感想を書いた大学生がいました。みなさんは、ここでいう「シェイクスピア中心の図書館」をみつけましたか。みつけた人は次に図書館の名前を英語で書いてください。( )
(3) サイトを見て「実際シェイクスピアの生涯等に目を通してみると、彼は皮製品を扱う商人の子として生まれており、貴族の生まれではない。そうなると彼の格調の高さの所以は、作品という事になる。作品は主に貴族社会を題材にしたものが多い。しかし、彼が貴族の生まれでもないのに、貴族社会を事詳細に描写出来るのは何故であろうかというように、シェイクスピアを巡る問題には妙に不思議な点が数多くある。」という文章を書いた学生がいます。「皮製品を扱う商人」という英語をみつけてください。みつかった人は次に書いてください。( )
(4) サイトを見て「ところで、シェイクスピアの関連サイトを見ると、彼の生涯や時代背景までは詳しく記載されているのだが、彼の作品に対する文学的批評があまり為されていない事には驚愕した。逆にあれやこれやと別の事ばかりが載っていて、シェイクスピア自身やその作品が少しぼやけてしまっている。一見すると素人には分りにくく、まるでシェイクスピアの事を熟知している人の間でのみ楽しんでいるような反感さえ覚えた。今まで私自身、シェイクスピアという名前は良く耳にしていたにもかかわらず、疎遠になっていた一つの理由には、シェイクスピアに浸る人はあたかも上流階級であるかのような特権的な雰囲気が漂っていて、近づき難かったからである。シェイクスピアに関しては、常に理想化、偶像化が意識的に為されているように思えてならない。」という文章を書いた学生がいます。中学生や高校生でここまで読み取れればすごいと思いますが、はっきり読み取れなくても、この大学生がいうような雰囲気はみなさんなりに感じますか?もし感じるなら、それはどんなところからか書いてください。( )
(5) 同じ学生が次のようにも書いています。「‘シェイクスピア’という人物像は、時代を経るにつれて益々格調高いというイメージだけが先行してしまっているような印象を受けた。その証拠に、シェイクスピアは当時、演劇の盛んだったロンドンにおいて確かに人気作家ではあったが、彼は他の劇作家との競争の中で、集客力のある、売れる作品を書くよう要求されていたのが実状の様である。それ故、シェイクスピアは孤高な芸術化などではなく、むしろ大衆を楽しませる為の娯楽を提供するエンターテイナーであったというのが事実であった。これは今までのイメージからすると、意外な事実であった。」この学生が書いたようなことを裏付ける場所がみつかったら、それを英語か日本語の説明にして次に書いてください。( )
課題2.ところで、シェイクスピアの作品は、今日シェイクスピアと言われている人物が書いたのではないと、シェイクスピアの著作に疑問を投げ掛ける人は、次の@ABのような主張によってそれをしています。シェイクスピアのサイトをもとに、大学生が書いた次の要約文を読んでください。
@ 大学へ行っていない男の作品にしては、今日シェイクスピアの作品だと言われる作品の内容があまりに教養がありすぎるという指摘である。@'しかしこの主張には、次のような反論が出ている。シェイクスピアはグラマースクールに通っていたが、シェイククスピア時代のグラマースクールのカリキュラムは、ラテン語を書いたり話したりする事を学生に要求したり、古典文学の訓練をさせたり、作品の構成に十分な修辞学や雄弁術を学ばせるようになっている。シェイクスピアの時代のストラトフォードは十分ラテン語に精通していた。従って、シェイクスピアの作品は、シェイクスピア自身が書いたものとみなせ得る。
A 中産階級で、しかも地方出身者の男によって書かれたものにしては、シェイクスピアの戯曲は、外国や貴族の知識があまりにも多すぎるという指摘である。A'しかしこの主張には、次のような反論が出ている。上記の指摘は、本や会話から吸収できる知識というものを無視しているし、時代の社会的移動性もあまり考慮していない。従って、上記のような指摘によって、シェイクスピアの作品がシェイクスピア自身によるものではないと指摘するのは間違っている。
B シェイクスピアの生涯における地方の記録で、ストラトフォードのシェイクスピアに対する明白な参考文献が、彼を作家として同一視していないという指摘である。B'しかしこの主張には、次のような反論が出ている。上記の指摘は確かに真実ではあるが、シェイクスピアの著作に関しては直接関係のない事である。なぜならば、別にストラトフォードの法の役人が、シェイクスピアがロンドンでした著作活動等について言及すべき理由はないからである。
C @ABのように、シェイクスピアの作品は、実はシェイクピアが書いたのではないという議論が持ち上がっている。シェイクスピアの代わりにシェイクピアの作品を書き、シ
ェイクスピアの作品だという置き換えが為されたとする意見があるが、シェイクスピアの作品を実際に執筆したとされる候補者のうち、最近最も有名なのが、フランシス=ベーコン、クリストファー=マロエ、そしてエドワード=デ=ベレの三人である。しかし、シェイクスピアの著作を疑う根拠がたとえなくとも、これらの候補者に対しては多くの強力な議論が取り交わされている。そして、シェイクスピアの著作を扱うこれらの意見が間違いだと反論するのが次の三項目である。
・ フランシス=ベーコンは、ラテン語と英語の両方を駆使して、膨大な作品を書いた勤勉な政治家且つ法律家であり、分析的な考え方を示す彼の作品は全て、シェイクスピアの作品を生み出す精神性とは全く異なっている。
・ 1593年のクリストファー=マロエの死は、イギリス文学史において一番良く文書で立証される出来事の一つである。それ故、シェイクスピアの戯曲をクリストファー=マロエが書いたものだと信じる人々は、マロエが本当には死んでいなくて、彼自身の身元の痕跡を残さずに尚且つ、シェイクスピアによって書かれた物だとして手渡されるまで、連続して戯曲を公の演劇界にどうにかして供給しながら、25年以上も隠れていたという事を想定したければならなくなる。
・ オクスフォードの伯爵(エドワード=デ=ベラ)は、1604年に死んだ。彼をシェイクスピアの作品の実際の執筆者だと信奉する人は、次のようにそれを主張している。「エドワード=デ=ベラは死の時に戯曲の在庫を残したが、その在庫は明確には指定出来ない人々によって、1613年位にそれが無くなるまで劇場会社に次第に送り込まれていたのだ。」しかし、この本質的に不合理な考えは、シェイクスピアが1604年以降にも戯曲を書いた事を示す多くの証拠と食い違うものである。)
(1)シェイクスピアの作品を実は別の人物が書いたとしてあげられた上記の名前のうち、英語の読み方として適当でないものがあります。それは誰と誰で、正しい読み方に近い発音をカタカナ表記するとすれば、どうなりますか。( )
(2)上記の要約は自分で調べてみて適切だと思いますか。不適切だと思う点があれば書いてください。( )
(2)上記のような問題が起こる根本原因は何だと思いますか。空想でもいいから、自分の考えを書いてください。( )
以上の作業を行ってもらっておわかりになったと思うのは、シェイクスピアはあまりに有名すぎて、ある人々にはその作品に触れることがあたりまえになってしまっていて、むしろ作品とか、作品に触れての感動とは別のことが話題の中心になっている面があります。まだシェイクスピアの作品に触れていない人にとってみれば、それは反感を抱かせるもとになります。かといって作品に触れていない人にただ面白いから読んでみろ,芝居を観てみろと強制することが出来にくい昨今です。
課題3.シェイクスピアが現代にどう生かされているかを検討するために、ディズニーが企画して現在日本では劇団四季が翻訳上演している『ライオンキング』について調べてみてください。Yahoo検索などで<ライオンキング>とカタカナで入れれば劇団四季のサイトから日本語で『ライオンキング』の要約文などを見ることが出来ます。YahooAmerica検索などで英語で<Lion King>と入れたらアメリカのブロードウエイの情報が手に入ります。富山大学HPにある海外検索エンジンを使ってロンドンのウエストエンドでの上演についても調べてみてください。その上で、私の個人HPから「ディズニーについて」の項目を読み、父親と子供の関係、筋などからシェイクスピアの『ハムレット』を下敷きにして『ライオンキング』が出来上がっていることを認識してください。そして「英国王政復古期の演劇について」をクリックし、「一般のテキスト検索」で『ハムレット』の原文を見たり、YahooAmerica検索などでプロットの要約を見たりして、『ライオンキング』と『ハムレット』との比較考察をしてください。( )
課題4.この『ライオンキング』の演出で有名になったのがジュリー・テイモアで、その最初の映画が『タイタス』です。もちろんシェイクスピアの『タイタス・アンドロニカス』の映画化です。YahooAmerica検索などで英語で<Titus>と入れ「一般のテキスト検索」で『タイタス・アンドロニカス』の原文を見たり、Yahoo America検索などでプロットの要約を見たりして、『タイタス』と『タイタス・アンドロニカス』との比較考察をしてください。ビデオ屋さんでビデオを借りることも出来ますし、DVDも出ています。ジュリー・テイモアのパートナーのエリオット・ゴールデンサルの音楽がアメリカ的で素晴らしいものです。( )
次に私自身の研究と関わった課題に話題を移します。それは17-8世紀の英国での改作のことです。シェイクスピアは16世紀末から17世紀初頭にかけて活躍した作家です。そのあと時代は移り、クロンウェルの清教徒革命を経て王政復古期になりました。シェイクスピア時代は女性の役を少年俳優が演じていましたが、女優が登場する時代になりました。シェイクスピアは尊敬されてはいましたが時代に合わないというので改作が行われました。それから18世紀も末になるとEdmond Maloneという人が客観的な校訂をしてシェイクスピアのテキストを世に出しました。現在私たちがシェイクスピア作品として読んでいるものの正確なテキストというときに提供されるものの元祖です。元祖といっても現代のものとさして変わらないくらい正確なものでした。
そうなると現在私たちがシェイクスピアの作品だと思って感動しているものは(正確なテキストの読みを心がけ、つねにエリザベス朝の舞台の実態を思い浮かべている人をのぞいては)むしろ18世紀に出来上がったともいえることになります。
この論点を具体的に論じるために『ロミオとジュリエット』の最後に二人が死ぬ場面を考えてみましょう。
原文ではローレンス神父の考案した作戦で、ジュリエットは薬で仮死状態のまま墓場によこたわっています。それが仮死状態であることを神父はロミオに知らせようとしたのですが手紙がペストの流行のせいでつかなかったため、こっそり墓場にやってきたロミオは絶望して用意した毒をあおいで死んでしまいます。そのあとジュリエットが仮死状態から目覚めロミオが死んでいるのをみて絶望して自殺します。したがってシェイクスピアの原文では最後のシーンでは言葉を交わすことはないのです。
ところが18世紀に活躍したシェイクスピア俳優のデイヴィッド・ギャリックが書き直したものは次のようです。ロミオが毒をあおいで死んでしまう前にジュリエットが目覚めるのです。ある意味ではロミオにとって原文より残酷で凄絶なシーンになります。(精読が必要なので一行づつ日本語訳を書きました。)
Jul. I know that voice--Its magic sweetness wakes
ジュリエット。あの声は知ってるわーー魔力のあるやさしさが
My tranced soul--I now remember well
気絶した私の魂を目覚めさせるーーはっきり思い出したわ
Each circumstance--Oh my lord, my Romeo!
状況のいちいちをーーおお、あなた、私のロミオ!
Had'st thou not come, sure I had slept for ever;
あなたが来てくれなかったら、本当に私は永遠に眠っていたわ;
But there's a sovereign charm in thy embraces
しかしあなたの抱擁には至高の魅力がある
That can revive the dead--Oh honest Friar!
死人を蘇らせられるーーおお、正直な神父様!
Dost thou avoid me, Romeo? let me touch
私を避けるのですか、ロミオ?さわらせてください
Thy hand, and taste the cordial of thy lips?
あなたの手に、そしてあなたの唇の甘さを味わわせてくださいー
You fright me--speak--Oh let me hear some voice
あなたが恐いわーー何か言ってーーおお 何か声を聞かせて
Besides my own in this drear vault of death,
この恐ろしい死の地下室に響く私自身の声以外の
Or I shall faint--support me?
でなと気絶しそうーー助けてー
Rom, Oh I cannot,
ロミオ、おお、それが出来ないんだ
I have no strength, but want thy feeble aid,
私には力がない、むしろ、あなたのか弱い助けが欲しい、
Cruel poison!
残酷な毒め!
Jul.Poison! what means my lord? Thy trembling voice!
ジュリエット。毒ですって!どういう意味ですの、あなた?あなたの声はふるえているわ!
Pale lips! and swimming eyes! death's in thy face!
唇が青ざめている!目がうつろだ!死相があらわれている!
Rom. It is indeed--I struggle with him now?
ロミオ。そうなんだよ、本当にーー僕はそいつ(毒)と闘っているんだー
課題5.原文と比較して(原文の英語と日本語訳はすぐ次に示します。)こうしてロミオをなかなか死なせず生き返ったジュリエットと対話させるのをどう思いますか。原文も改作も最初から通読していないのでよくわからないという人はビデオを見てください。オリビア・ハッセイが主演しゼフィレーリー監督が制作した映画は原文に忠実です。最近のデユカプリオがロミオをやったものはギャリックの影響か、少しロミオが死ぬのを遅らせています。二つのビデオはちょっと大きなビデオ屋さんならどこにでもあります。
原文と訳
Rom. ……Here’s to my love! [Drinks,] O true apothecary! Thy drugs are quick. Thus
ロミオ。――さあ恋人に乾杯!(毒を飲む、)おお、ちゃんとした毒屋だ!お前の毒は効き目が早い
with a kiss I die. [Dies.
こうしてキスをしながら私は死ぬ。(死ぬ
Jul. O comfortable friar! Where is my lord?
ジュリエット。おお頼りになる神父様!私の夫はどこにいますの?
I do remember well where I should be,
私がどこにいることになるかはよくわかっています
And there I am. Where is my Romeo?
そして、たしかにそこにいます。ロミオはどこですか?
人声がして神父が一刻も早くここを出ようというと
Jul. Go, get thee hence, for I will not away. [Exit Fri. L.
ジュリエット。行ってください、あっちへ、私は残りたいんです。(フライアー神父退場
What’s here? A cup, closed in my true love’s hand?
何だろうここにあるのは?コップかしら、私の真の恋人の手に握られた?
Poison, I see, hath been his timeless end:
毒だわ、どうやら、永遠の眠りにつかせてしまった
O churl! Drunk all, and left no friendly drop
なんてケチなんでしょう!全部飲み干しているわ、すこしも親切で残しておいてくれなかったのかしら
To help me after? I will kiss thy lips;
私にあとで役立つように?あなたの唇にキスします;
Haply come poison yet doth hang on them,
ひょっとして毒がまだ唇に残っていないかと
To make me die with a restorative. [Kisses him.
それを蘇りの薬として死の世界に生きたいんです。(ロミオにキスをする。
Thy lips are warm.
あなたの唇はあたたかいわ
First Watch. [Within] Lead, boy: which way?
第一の夜警。(舞台内から)案内しろ、子憎: どっちだ?
Jul. Yea, noise? Then I’ll be brief. O happy dagger! [Snatching Romeo’s dagger.
ジュリエット。あ、物音?いそがなくっちゃ。おお、幸福な短剣!(ロミオの短剣を奪い取り、
This is thy sheath [Stabs herself]; there rust, and let me die. [Falls on Romeo’s
これがあなたの鞘よ(自分を刺す);錆よ、そして私は死ぬわ。(ロミオの遺体の上に
body, and dies.
倒れて死ぬ。
(回答例:原文の最後のシーンは、ロミオとジュリエットがちょっとした時間差でお互いに言葉を交わす事無く死んでいくので、その少しの差が我々に息をのませて、クライマックス的な盛り上がりを見せている。それに対して、改作の方はロミオが結局死んでしまうにもかかわらず、その死ぬまでの間をジュリエットと対話させる設定になっていて、余計に悲しみを後まで引きずらせる効果が出ているので、ある意味原文よりもドラマチックなタッチで描かれている。原文の方はロミオとジュリエットの両方がコロッと死んでしまい、あまりにもあっさりしている。それに比べて、手の込んだ改作の設定の仕方の方がより凄まじいとも取る事が出来るので、現代人には馴染みやすいのではないかと思う。恐らく、その辺の時代による受け取る側の価値観の違いに合わせて改作が為されたのだろうと予想し得る。私自身も、原文の方のロミオとジュリエットが全く会話を交わす事無く、それぞれ死んでゆく場面を本で読んだ時、一般的な設定と何か違うと感じ、ストレートに内容を飲み込む事が出来なかった。逆に、改作のような設定は、現代の演劇としてはよくありそうな設定なので、馴染みやすく、受け取りやすい。但し、あくまで受け取りやすいのは現代の感覚で見るからである。本来は、エリザベス朝を舞台にした、本物のシェイクスピアを読むという姿勢でいかなければ、シェイクスピアの本当の魅力とか、その時代の感覚とかいったものを深く肌で感じる事は不可能である。それ故、単純な娯楽としては、現代的感覚に合う改作の方が適しているのだろうが、そこには一種の強引さが見られるので、本物のシェイクスピアを味わうにはやはり、原文のような設定のまま読むのが正統派のすべき事であろうし、又そうでなければシェイクスピアの時代の雰囲気をつかむ事は出来ないであろうと思われる。)
以上の回答を参考にして、自分自身の感想を書いてください。どんなユニークな感想でもかまいません。( )