平成15年度後期 英米言語文化特殊講義 課題
課題2 シェイクスピア作品の著作についての要約文において
(1)
英語の読み方が正しくない人物
・クリストファー=マロエ 正しくは→ クリストファー=マーロー
・エドワード=デ=ベレ → エドワード=ド=ヴィア
(2)
要約について不適切だと感じた点
@ 大学へ行っていない男の作品にしては、今日シェイクスピアの作品だと言われる作品の内容があまりに教養がありすぎるという指摘である。@'しかしこの主張には、次のような反論が出ている。シェイクスピアはグラマースクールに通っていたが、シェイククスピア時代のグラマースクールのカリキュラムは、ラテン語を書いたり話したりする事を学生に要求したり、古典文学の訓練をさせたり、作品の構成に十分な修辞学や雄弁術を学ばせるようになっている。シェイクスピアの時代のストラトフォードは十分ラテン語に精通していた。従って、シェイクスピアの作品は、シェイクスピア自身が書いたものとみなせ得る。
この反論中の下線部は不適切であると思われる。シェイクスピアは町のグラマースクールに通ったのみであり、ラテン語は少々、ギリシャ語はさらに少ししか知らないまま劇作家になったという。よって、当時の他の劇作家や詩人たちとは異なり、大学教育を受けていなかったシェイクスピアの場合、語学はあまり得意ではなかったようだ。彼においては、その才能は母語である英語という言葉を操ることに発揮された。彼は今日の近代英語形成期の英語を自由に操って演劇や詩を書き、新たな語や、その使用法を作り出していった。
・ フランシス=ベーコンは、ラテン語と英語の両方を駆使して、膨大な作品を書いた勤勉な政治家且つ法律家であり、分析的な考え方を示す彼の作品は全て、シェイクスピアの作品を生み出す精神性とは全く異なっている。
フランシス=ベーコンがシェイクスピアの作品性とまったく異なっているとは言えないと思う。シェイクスピアの作品にもそのつど変化がみられ、統一した作風を持っているとは言いがたい。さらに、シェイクスピアは片田舎の手袋職人の息子であり大学にも法学院にも行っていないのに劇中であんなにも古典や法律の言及が登場し、フランシス=ベーコンもシェイクスピアが得意とした英語を駆使して作品を書いていたということから、このフランシス=ベーコン説は完全に否定できるものではないのだろうかと思う。ただA’ の反論中の「本や会話から吸収できる知識というものを無視しているし、時代の社会的移動性もあまり考慮していない。」ということを考えるとやはり、シェイクスピア作品の著作に関する証明は困難なものである。
(3)
上記のような問題が起こる根本原因
根本原因としてはシェイクスピアの存在であると思う。彼は他の作家に比べて生い立ちや伝記があまり明確になっておらず、彼自身の存在をはっきりさせるものが少ないからではないだろうか。確かに高等教育は受けてはいないが、彼の作品を段階を追ってみれば、その作風に変遷があり、一作一作そこに使用されているフレーズにさえ変化のあとがあるという。作家として長く作品を書いていれば当然起こってくることだが、このこともシェイクスピアの著作についての説に証明のようなものを与えてしまい、さらに問題を大きくしてしまったとも考えられる。そして、今でも彼の存在を疑問詞されているというのは、それほどの名作を残した人物であるからなのだろう。「シェイクスピアの墓を暴く女」
大場建治・著<集英社新書>のなかの一節に
─シェイクスピアをはめ込もうとしてみれば、相手は融通無碍のシェイクスピア、いくらでもはめ込める。
という言葉がある。前述の原因に加え、この言葉がシェイクスピア作品の著者問題の根本原因ではないだろうか。
課題3 『ハムレット』と『ライオンキング』の比較考察
この2つの作品には類似点がいくつか見受けられる。そのことについての考察を述べていく。
まず、父、母、息子、父の弟、息子の恋人などの人物関係が共通しており、父と子供の親子関係も共通している。息子は父と死別してその亡霊が現れ、息子に言葉をかけることによってストーリーが変化していくことにある。父の死は主人公の叔父である父の弟に殺されたことによるということまで、そっくりである。
そして、両作とも父の死の真相を知った息子は、復讐を心に誓う。『ライオンキング』の中には『ハムレット』の裏返し的な部分がいくつか存在するが、最も大きなポイントとしては、故郷への帰国を躊躇する息子の前に現れる父の亡霊の場面である。ハムレットの父の亡霊は、息子のハムレットに死の真相を教え、復讐を命じる。そして別れ際ハムレットに向かって言う言葉は、「ハムレットよ、私のことを忘れるな ("Hamlet, remember me") 」である。一方『ライオンキング』では父の亡霊が息子にかける言葉は、「お前が誰かを忘れてはならない ("Remember who you are") 」です。悲劇『ハムレット』では、「父の死」の方へと主人公は導かれる。喜劇『ライオンキング』では、「これからの自分」の方に主人公は導かれることになる。父は正当な王の血を受け継ぐ息子を励まし、奮い立たせる。それによって自分の置かれた立場を自覚した息子は強い意志を持ち生きていくのである。
この『ライオンキング』という作品は、『ハムレット』の大筋をまねた翻案ではないが、作中には『ハムレット』のとの類似点が多く見られる。結末での父と息子の関係や、父の息子へのメッセージに込められた思いは異なるものの、『ライオンキング』は『ハムレット』のハッピーエンディング版であるといえると思う。
この2作品の考察をする際に、他にも類似点や共通点を持つ作品や映画があることがわかったので、今後そのような映画や作品に触れ、比較して考えてみたいと思う。