イギリス文学史U

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       イギリス言語文化コース 征矢野 邦彦

イギリス文学史Uの授業で私は課題Aを選んだ。よって自分なりの英文学史を構築してみたい。ここでは特に小説という一つの文学形式に論点を当てたい。さらに何人かの作家を取り上げ、その作品を考察してみたい。

 小説というジャンルの文学形式が誕生したのは英国における18世紀であろう。小説は比較的下層の階級が生み出したものである。当時、市民階級も急速に経済力を貯えていった。そうした市民階級のあいだに、旧来の読書階級とは違った新しい読書階級がどんどん育ちはじめていった。旧来の読書階級が古典文学や詩を読書対象と捉えていたのに対して、古典文学や詩を味読する教養をもたない新しい読書階級は別のものを欲した。つまりもっと面白くて、人生の生き方の教訓を与えてくれるような文学を欲したのである。そしてまさしく小説がその需要にこたえたのである。つまり小説は市井の文学である。

 英文学史において唯一絶対の小説の時代といえるのはヴィクトリア朝期(1837−1901)であろう。急速に膨張した中産階級にとって、ためになって楽しい室内娯楽が小説であった。また、ヴィクトリア朝期の作家の文学を成立させたのは、一つには産業革命によって時代の支配者となった新しい読者階級の存在であり、もう一つには同じ産業革命の成果としての印刷産業の盛況であった。そしてまもなく、識字率の普及により、勤労階級も小説の読者層に入るようになる。

 やがて1901年が訪れるとヴィクトリア女王は死を迎えることとなる。一つの時代が終わったのである。19世紀はなんといってもイギリスの時代であったがその栄光は過去のものとなっていく。イギリス的な価値が光を失いはじめるが、文学もまた模索の道を歩みはじめることとなる。海外からの新しい「血」(たとえばアイルランド)が導入されたり、外部世界よりも人間の内部に作家の視点があてられたり、新しい内容に適した新しい形式が求められたりするようになる。やがて時代は世界大戦の世紀へと突入してゆく。

 多分に私自身の好みが反映されてしまうのだが、上記のヴィクトリア朝期からCharles Dickens(1812-1870)Emily Brontë(1818-1848)、第二次大戦までの時代からVirginia Woolf(1882-1941)James Joyce(1882-1941)を選び、畏れ多くも作品を考察してみることにする。

まず、Charles Dickensの『A Christmas Carol』である。この作品に見られるクリスマスの精神は、端的には、心のゆとり、豊かさをクリスマスという最もキリスト教的世界で伝統的な行事を通して、教え説くものである。時代を担い、世界の強国イギリスをつくりだしたヴィクトリア朝期の資本家などのなかには、この作品の主要人物である、かつ守銭奴であるScroogeのような人物も多かったであろう。彼らは社会の表側では大英帝国という飾られた世界をつくりだしたが、裏側にあたる貧困階級にはそのしわ寄せとして悲惨な状況をつくりだしてしまった。Dickens自身もそのしわ寄せの辛酸を舐めた人物である。彼は物書きとして、いわば、Hardな事象をSoftに考え直すことを勧めた。つまり、ひとびとがお互いにもうすこしやさしくなろう、と提案しているように、この作品を通して感じる。

 もちろん上記のようなクリスマスの精神は自己完結的であって、根本的にはなにも解決できないであろう。今日のようにクリスマスを祝う習慣は、ヴィクトリア朝に形成されたものである。その頃著しく衰退しつつあったキリスト教の精神が、世俗化され、心温まる行事として再肯定された姿が、この作品にみられるクリスマスの精神である。

 この作品でDickensは市民社会のモラルを神聖視して、モラルに背く人物を描き出し、モラルに回帰する主人公を善しとしている。自己回復が一つの主題として挙げられるであろう。善人−悪人、強者−弱者、加害者−被害者などの二項対立の環を断ち切る倫理的切断により、人間というものの本質に迫ろうとしている。特にこの作品ではクリスマスというキリスト教的行事を媒体としながら、人間愛を説いている。

 『A Christmas Carol』の表現技巧に言及してみる。この作品はもともと聴衆を前に作者が演説風に朗読したことでも知られている。よって基本的には読者に語りかけるような気軽な口語体で書かれている。また、しつこい印象を与えがちな言葉のリズムがある。しかし微妙に同じ事柄の表現方法を変えてあることにより英語のリズムはしつこいと感じられない。むしろ、繰り返しの美しさとでも呼べる表現技巧である。とともに、繰り返すことで読者あるいは聴者に出来事の印象を明瞭に理解してもらうこともこの表現の効果であろう。さらにこの作品にはおおげさな比喩の多用がみられる。例えばこんな一文がある。

“…,no pelting rain less open to entreaty.…”一種の擬人化であり、自然界の雨は願いを聞いてくれるということはないということなのだが、このような分かりやすい比喩もあれば、神話や歴史事項を知っていなければ、意味のつじつまが合わない比喩もみられる。さらに、天気の描写の優れた表現により、街角の描写だけでなく、人々の気分までも巧みに描いている。  つまるところ、『A Christmas Carol』は子供だけでなく、大人にとっても読み応えがある。

次にEmily Brontëの『Wuthering Heights』である。作品の前に作者を考察したい。彼女は人との接触を極度に嫌う、非社交的な人物であった。彼女の城はHaworthの牧師館の二階にある、墓地を見下ろす小部屋であった。彼女の姉妹とも有名な作品を残しているが、ここではEmilyにのみ触れる。彼女はどの姉妹よりも最も多くの時間を牧師館で過ごしている。また、彼女はHaworthのヒースの生い茂る、荒れた丘陵地を自由気ままに散策するのが好きであった。二回の学校生活やブリュッセル留学も彼女をHaworthの荒涼とした荒野から切り離すことはなかった。牧師館の裏手から数分も歩けばそこにはもう果てしなく続く荒野が広がっている。どんより曇った空を背景にヒースの織りなす丘陵を眺めることで彼女の孤独感は慰められたのかもしれない。『Wuthering Heights』の舞台もまさしくそのような陰鬱な荒野である。Emilyの文学的想像力の源泉はHaworthの荒野にあると言える。

 『Wuthering Heights』では荒野の田舎屋敷を舞台に一人一人の登場人物が、自然および自分自身の魂とじかに向き合うような生き方をする。人間と人間、家と家との愛や憎しみを主題としつつも言葉では言い表すことのできない、魂の対話が描かれている。例えばこの作品を、愛と憎しみの物語、奸計と復讐の物語、秩序と破壊の物語、生と死と再生の物語、自然との融合の物語ということはできるであろう。しかしこれらのどの表現をもってしてもこの作品の本質を言い表せないのは、この小説があらゆる要素を融合し、昇華していることで破格の力強さを生み出していることにほかならない。ゴシック的、神秘主義的、超自然主義的要素がこれだけ盛り込まれているにもかかわらず、この小説を「ロマンス」と言い切ることにためらいを感じるのは、この小説のもつ重層性と深遠さによる。既成の文学観や倫理感でこの小説を分析しても表層をなでるにすぎないと感じる。

 この小説はその技巧の点からも興味深い。つまり借家人Lockwoodの語りの中に家政婦Nelly Deanの語りが組み込まれた構造になっているからである。この二重構造はNellyの語る物語の中の時間とLockwoodとの現実の時間という二つの時間によって読者を操ることにもなる。この技巧の効果としては、この小説の中で起こったとされる真実、つまり強烈な不道徳性、非現実性、異常性への直面から読者を免れさせるということが考えられる。それは語りの人物というフィルターを通しているからである。ただLockwoodNellyは小説の中でそれなりの人間性をもったキャラクターである。よくみられるomniscient narratorではない。二人が語り手と呼べるかは議論が分かれる。いずれにせよこの小説では異次元空間が創造されている。時間枠を巧妙に作り出し、現実的な異次元空間であるから、人々に受けるのであろう。だが、曖昧性や矛盾点もあり、それらも考慮してEmilyが虚構の中に虚構を築いたかは謎である。

さらにVirginia Woolfの『Mrs. Dalloway』である。Woolfはこの作品によって彼女自身の手法を確立したといえる。つまりそれは、stream of consciousnessと呼ばれる手法である。新しい時代にふさわしい新しい手法であるが、「外」と「内」という二分法的概念を芸術に当てはめた場合、従来は「内」が「外」を映し出すものであった。しかしWoolfは「内」が「新しい外」を作り出すべきであると考えた。これはrealismが古い妄想であるとする考え方である。ただ、stream of consciousnessWoolfが考え出した手法ではない。

stream of consciousnessについて簡単に言及する。人間の意識は川の流れのように常に流れて止まないが、流れは持続している。こうした意識の流れを知覚、思考、記憶、感覚、感覚的記憶などすべてを含めて表現しようとする文学的手法をいう。現代小説における重要な手法で、20世紀初めアメリカの心理学者William Jamesが機能的心理学を唱えたことに由来する。作家が自覚して採用するようになったのは1920年代で、WoolfJames Joyceによって定着した。

 Woolfの日記(1922年10月14日)によると『Mrs. Dalloway』の主題は「狂気と自殺」であり、「狂人と常人の見る世の中を並行させる」ことでその主題を具体化しようとしたらしい。彼女がなぜ人間の精神面における暗部を主題に選んだかについては、彼女自身の精神病理面に注目する必要がある。彼女の繊細な神経は近親者達の死によって、次第に変調をきたしていった。近年では彼女は統合失調症とも躁鬱病であったともいわれている。それらの病を抱える者はふとして自殺などの手段による死を意識する。Woolfの場合、それらの死の意識が作品に向けられていたのではないか。いや、むしろ作品を書くことで死の意識から免れることができていたのである。しかし、彼女は1941年、Rodmellの自宅、Monk’s House近くのOuse川に入水自殺してしまう。

Stream of consciousnessは個の内面の意識あるいは無意識を描出しているため、唯我論的に捉えられてその個人自身以外には何一つ確かなものはないという哲理が文学的に表現されたものであるが、同時に小説という表現形式においては読者に登場人物の内面をさらしている点で、読み手の、登場人物への感情移入といった注意を喚起しやすい。感情移入という点で、『Mrs. Dalloway』におけるClarissa Dallowayは死んだ青年(Septimus)に共感し、死への憧れをもつ。だがClarissaはふと窓を見ると年老いた女性が静かに、そして穏やかにベッドに寝に入る姿を目撃する。その瞬間、死への憧れは消え、はつらつたる瞬間が毎日の中で失われていっても、無常に流れてゆく人生の果てに必然的に訪れる老いにもそれなりの尊厳があると悟る。その結果、生を受容し、死への共感を超える新しい生を生き続けることになる。この作品は、老い往く女性の、あるいは老い往かざるをえない人間の悲哀を美しく謳いあげている。

最後にJames Joyceである。作品としては『A Portrait of the Artist as a Young Man』を取り上げる。だが、まず、Joyceと彼の作品群について私見を述べさせていただきたい。彼の作品として、特によく知られているものとして、短編集『Dubliners』、『A Portrait of the Artist as a Young』、『Ulysses』、『Finnegans Wake』がある。挙げた順に従って作品の読解は不可能の極みに達する。彼の作品を理解するためには以下の事柄が必要である。一つ一つの単語のもつ意味への深い理解とそれらがつくる音の連鎖。キリスト教神話やギリシャ神話への精通。当時のアイルランド社会の政治状況やカトリックとプロテスタントの対立状況。社会状況とも通ずるが「学校」という環境への理解。「芸術」の精神の理解。以上に挙げた事柄はほんの断片にすぎない。もちろん忘れてはならないのは「人間」の心への理解である。次に『A Portrait of the Artist as a Young Man』の主題を分析する。

 主人公Stephen Dedalusが自我を確立してゆく過程には、教会・国家・両親といった権威との軋轢が大きく関わっている。特にStephenは宗教と性に関する罪の意識に心を痛めるが、そうした激しい煩悶を経ながら獲得した自己規定には、美の観念に心を奪われることを肯定する若者の姿がある。作品の最後でStephenはギリシャ神話の工匠Daidalosに“stand me now and ever in good stead.”と日記の形で呼びかけている。「芸術」への高尚な願いとともに誓いをあらわしている。

 言語表現に言及すると、JoyceWoolfよりも一枚上手に感じる。理由はStephenが成長するにつれて、使われている単語のレベルも成長しているからである。また文体も成長している。童話の幼い語り口から始まり、地獄の説教、田園詩、日記など。Stephenの成長と物語の発展段階に対応する文体の多様性には驚くべきものがある。これは一見簡単な作業に見えるが、並たいてい以上の語彙力と言葉への造詣が深くなくてはできない作業である。まさにJoyceは言葉の達人であり、自身も回想録で自分は言葉で何でもできる趣旨のことを述べている。そのようなJoyceの文学を読み解くことは非常に困難であるし、労力と時間と根気がいる。しかし、難解であるからこそ、知的探求にとってメリットは大きい。

 以上で私なりの英文学史を終わりにする。結果的には論文形式ではなく、雑文的になっている。無限ともいえる英文学の流れを全て掴むことは私自身には不可能であるので、取り扱った範囲は狭い。だが作者と作品に深く触れることを心がけたつもりではある。また、前述したが作者と作品の選択には私自身の興味が多分に影響している。最後であるが、人は「物語」を求めると感じる。私自身の感じ方で、非常に曖昧性が強いのではあるが。