産業革命期イギリスのパブリックスクール
外国人はパブリックスクール(以下公学校と略)について説明されればされる程わからなくなるといわれている。公立学校は私立学校に対する公立学校といったような法律や制度上の言葉ではなく、一種の慣用語であるため、どの学校が公学校であるかを判別するのは非常に困難である。
慣用語ではあるがしかし、公に公学校に該当するらしい学校が指名された例が、ないわけではない。その第一は、1864年に出されたクラレンドン委員会(クラレンドンを長として、いわゆる公学校を調査するために設けられた国の委員会)の報告書である。この報告書が対象にした学校は、イートン(バークシア)、ウィンチスター(ハンプシア)、ウェストミンスター(ロンドン)、チャーターハウス(ロンドン)、セント・ポールズ(ロンドン)、マーチャント・テイラーズ(ロンドン)、ハロウ(ミドルセクス)、ラグビー(ウオリクシア)、シュルースベリー(シュロップシア)の9校である。この委員会はこの9校を公式に公学校とはよんでいないが、多くの文法学校の中から抜き出したことは、これらを特別なものとみなしたことを示すといえよう。このホームページではこれら9校を公学校として取り扱う。
公学校が他の文法学校から区別されるいくつかの特性の中で、最も大切なのは生徒の社会階級である。なぜなら、公学校の教師は大きな文法学校の校長になるのが昇進の道であったから、公学校と文法学校とで教師に大差はなかった(従って彼らが教える授業内容も大差はなかった)が、社会が学校を評価するのに重視するのは、教師ではなく、どんな生徒がその学校にいるか、ということであったからである。
バムフォードの調査によると、1841〜50年に7つの寄宿制公学校に入学した者の出身を見ると、
称号をもつ生徒…12%
地主ジェントリー…42%
牧師…13%
軍人…6%
専門職…4%
商工業・農業経営…1%
その他…22%
となっており、地主や貴族や聖職者の子供が公学校生徒の主流を占め、新興のブルジョワジー(商工業の企業家)はきわめて少ないことがわかる。
このように、生徒の実態を見てくると、公学校がきわめて貴族的な特権的な学校だったことがわかるが、このことを示す具体的な事例をひとつとりあげてみよう。
シュルースベリー校のバトラーは、1798年に24歳で校長に就任し、1836年まで在職して業績をあげた人であるが、彼は日曜の朝、礼拝のために生徒教会につれていく今までの習慣をやめて、学校のチャペルでのおつとめで以て代えたい、と理事会に願いでた。そのひとつの理由は、町の教会では、慈善学校の生徒や工場で働く少女と一緒にされるから、ということであった。これは大勢の子供と一緒では騒々しくて敬けんな礼拝ができないということであろうが、それにしても町の労働者の子供と、公学校の生徒とを峻別するという、貴族的な性格が表れているといえる。
また、他の文法学校と比較すると、公学校がどれほど貴族的であったかがわかる。バーチンガム文法学校は、
牧師…9人
医師及び事務弁護人…34人
製造業者及び大商人…17人
建築家等…13人
教師…4人
支配人・秘書・書記…23人
仲買人及び地方販売人…110人
寡婦…14人
である。先に述べた公学校の生徒の出身階級とバーミンガム校の出身階級は、時期も違い、統計のとり方も違うため比較が難しいが、公学校の主流が貴族・ジェントリー・専門職であったのに対し、文法学校では、製造業者や商人といった中流階級が主であったこと、さらに職人というように当時としては中流の下の階級に属していた者もある程度含まれていたことがわかるだろう。
イギリスではヘンリー8世(1509〜47年在位)の時、全国的に広大な土地をもつ修道院が解散され、その土地が金持ちの手に移った。その後も土地は投資対象にされ、貿易や商業で金をもうけた者、高い官職についたり、法律家などで産をなした者、が土地を買いこんで地主になり、貴族につぐ社会的地位を得るに至った。これがすなわりジェントリーである。
学校で区別されているだけかというと、それだけではない。実は、公学校の中でも差別は起きていたのである。生徒には2種類あり、学校の基金でもって無償教育される生徒と、私費生とにわかれていた。基金生徒には通学する者もいたが、学校の寮に泊まる場合もあった。一方私費生徒は町に下宿したり、教師が経営する寮に泊まったりしていた。基金生徒は私費生徒や先生に侮辱されたり冷遇されたりしたそうだ。以下はその例である。
トロロープは1820年代基金生徒として、ハロウに在学していたが、在学中のようすを「私はただの一度も友達をもたなかったし、皆から軽蔑された。私が耐え忍んだ屈辱はとても筆舌につくせるものではない。私がふりむくと、先生をも含んだすべての者が私の方を指さした。私は遊びに加わることを許されなかった。また私は何も学ばなかった、なぜなら何も教えてもらえなかったから。」と述べている。当時ハロウでは私費生徒は教師の寮に泊まっていたが、トロロープは貧乏のために学校から3マイル離れた農場から基金生徒として通学し、途中ですっかりほこりまみれになって登校したので、一層私費生徒の軽蔑のまとになったのである。
以上いくつかの側面から公学校の実態を調べ、同時に欠陥や問題点をも明らかにしたが、他方ではいうまでもなく、公学校への礼賛も存在していた。そしてかかる礼賛は当然予想されるように、公学校を出て後年名声を博した人たちから出ている。たとえば有名な政治家キャニングは、1780年代にイートンに在学したが、後になって同校のある晩餐会で次のような演説をしている。「後年どんなに成功いようとも、どんなに野心が満たされようとも、どんあ勝利が得られようとも、イートンの第6フォームの生徒であった時ほどに偉大な人間にもう一度なることはない」と述べている。
彼は公学校の出身者であったが、校が校出身者でない者にも多くの礼賛者がいた。ディケンズは1858年に、公学校ほど社会的に自由な機関はなく、公学校ほど階級や身分や富への隷従が皆無な場所はない、そこでは生徒は、自分の能力及び人格以外の何者によっても左右されることなく、率直な自由な男らしい独立の精神に満ちている、と公学校をたたえた。…このように、公学校には様々な意見が分かれているのだが、差別があったことはやはり消せない事実であったのではないだろうか。
パブリックスクールという言葉にはいいイメージがあったが、調べてみて、あまりいい学校とは思えなくなった。礼賛者がいたという事実はあったようだが、公学校はスポーツが奨励されたこともあり、フランクで自由な雰囲気に満ち、生徒の身分階級いとらわれなかったことは確かである。しかしそれは中産階級以上の社会においてであり、中流以下のものは基金生徒として差別されたり、あるいは全く学校から排除されてしまうという状況を考えると、礼賛すべき学校とは思えない。この問題はもっと深く追求していくべきではないだろうか。
土井裕紀子 言語文化学科