ここでは、「ガリヴァー旅行記」を書いたスウィフトが、主人公であるレミュエル・ガリヴァーの性格を構成するにあたり、参考にした人物の一人だと言われているウィリアム・アダムスについて述べていきたいと思います。
ウィリアム・アダムスは、1564年にイギリスのケント州にあるジリンガムという町で生まれた。彼はライムハウス(ロンドン東部、イーストエンドのテムズ川北岸の地区)で年季奉公をしながら、数学、天文、航海、造船について学んだ後、エリザベス女王の船の水先案内人となって、バーバリー(アフリカ北部地方)の貿易商と共に、12年間その職を務めた。
その後、彼は、よりすばらしい経験をしたいと考え、1598年にオランダの東インド会社派遣の東洋遠征船5隻の水先案内人として、その内1隻のリーフデ号に乗り込んで、インドを目指した。しかし、その船隊は、途中暴風雨に襲われたため、マゼラン海峡を通過して、チリー沖に出た時には、2隻だけになってしまっていた。彼らは仕方なく予定を変更し、積み荷の毛織物を売るために、日本に向かったのだが、結局我が国に辿り着いたのは、リーフデ号1隻のみだった。
瀕死の状態で日本に到着したリーフデ号の乗組員たちは、やはり、宗教上でも、貿易上でも対立関係にあったポルトガル人やイエスズ会士による中傷を受けた。しかし徳川家康(リーフデ号が日本の豊後に到着したのは、関ヶ原の戦いで彼の覇権が確立した1600年である)は、今回日本にやって来たオランダやイギリスのような新教徒国と通商できれば、これまで貿易と共に布教活動も行っていたスペインやポルトガルとの関係を絶つことができるのではないかと考え、彼らを歓迎した。中でも、ウィリアム・アダムスは、世界情勢に詳しく、科学知識も豊富であったため、彼が将軍に就任すると、外交顧問に任じられ、「三浦按針」という日本名と、江戸橋の邸宅、更には相模国三浦郡逸見村におよそ250万石の領地が与えられた。
こうして彼は、家康・秀忠と2代にわたり、側近として活躍した。その業績としては、航海士としての技術を生かした日本初の洋式帆船の建造、そして日蘭貿易や日英貿易の円滑な進行などがあげられる。
ウィリアム・アダムスはイギリスへの帰国を強く望んでいたが、家康が日本にとって非常に重要な人物である彼を帰したがらなかったこともあり、結局1620年に病の為、日本でその生涯の幕を閉じた。
以下は私がウィリアム・アダムスの生涯から推測した彼の人物像です。
*柔軟性があり、温厚
これらが、異国の地である日本の社会に比較的すんなりと溶け込むことができた最も大きな要因ではないでしょうか。
*辛抱強く、冷静
彼が、この航海で生き延びることができたのは、自分を見失わない冷静さと、困難や悲しみに耐え続ける辛抱強さを兼ね備えていたからだと思います。
家康は、ウィリアム・アダムスに「三浦按針」と名付けたが、彼の姓(三浦)は、家康が彼に与えた領地、すなわち相模国三浦郡逸見村(現在の神奈川県横須賀市)の「三浦」からきており、名(按針)は、彼が水先案内人であったため、水先案内という意味の「按針」からきている。
以下はほんの一部に過ぎません。
・リーフデ号の漂着地
…大分県臼杵市
・彼の治めていた領地
…神奈川県横須賀市
・彼が生涯の幕を閉じた地
…長崎県平戸市
・洋式帆船を建造した地
…静岡県伊東市
このように彼の関わった多くの地で、現在に至るまで祭りが行われていることより、彼は多くの日本人に親しまれ、また尊敬されていたことがわかります。
最初に来日したイギリス人、ウィリアム・アダムスが我が国にもたらした利益は、計り知れません。彼がもし日本を訪れなければ、我が国の歴史は現在とは大きく異なっていたでしょう。