§9. Christmas Books
ディケンズはクリスマス物語集の序文の後半で、クリスマス物語を「愛すべき寛大な思考を喚起する気まぐれな仮面劇のようなものだ」としている。その後、無知で軽率な作家は彼が“心を豊かにしまた、ベストを着る季節である”というクリスマスの一般的な意見を生み出したと信じたこともあった。文学全世代からの評価やたくさんの論争は、この愚行を論破した。そしてディケンズが靴墨工場で働いていたとき(注1)に、ワシントン・アーヴィン(注2)がブラスヴィレッジホールを書いたという単なる事実は、そのひどい無知さを露呈させるには十分である。しかし、クリスマスがおいしいご飯と良い気分の季節であるという考えは、ディケンズのもっとも優れた性分にあうものである。そのことが彼の弱さを少し勇気づけもしたが。その空想にふけるという神業も完全に彼の文章にあらわれていた。というのも(完全ではないがもっぱらドイツへの)その影響はすでに際だった審美眼を作り出していた。また、その趣向をピックウィックの挿話(注3)や努力を必要としないそのほかで用いた。五冊の現行本のうち一冊『人生の戦い』(1846)は決定的な失敗作であると言われている。確かにおそらくそれは『ジョージ・シルバーマンの釈明』(注4)を除いた小説において、ディケンズの書いた中では最も悪いものである。イギリスの陰気な召使いの中には、彼の本当の素質を見つけた人もいた。ともかくもほかのどの点においても、その素質を見つけるには難しい彼らにその特権を与えられたのだ。けれども『鐘の音』(注5)(1844)や『炉端のこおろぎ』(1845)はある程度格別な人気がある。『鐘の音』の方は、ジョセフ・バウリー男爵(注6)やキュート州長官(注7)などすべての実在人物の皮肉を欠いては、さえないありふれた社会風刺によってほぼ致命的に不当な扱いを受けている。一方『炉端のこおろぎ』の方は、ティリー・スローボーイやほかでのさわやかなさえずりに関していくらかはすっかり‘うまくいった’ようにはみえない。最初の本『クリスマスキャロル』(注8)(1843)や最後の『憑かれた男』(1848)は断然最も優れたキャロル(クリスマス祝歌)であり魅力的なものである。我々はもちろん『古代の船員』の場合におけるバーボウルド夫人(注9)を認めなくてはならないように、その物語が‘起こりそうもない’ものであることを認めなくてはならない。つまりすべての感情や物語が人を怒らせるものであるという視点を除いては、それキャロルに対抗しうる別の反対意見はほとんどない。『憑かれた男』はより一貫性がない上、時には注の強制という古い失敗をおかしている。だが最初の水であるテタビーズ(注10)は確かにキャロルの中で類似しているクラチット(注11)よりは良く、良い天使のミリーは誇張表現や感傷的なものから通常よりもかけ離れているし、深刻な場面では現在のものと違って、ディケンズがしばしば試みたがあまり達成できなかった本当の非現実的な性質の筆致やひらめきがある。