★☆★スウィフトと自然科学☆★☆





  『ガリヴァー旅行記』の第3篇では,近代自然科学や近代思想への批判が見受けられる。以下,スウィフトの科学批判を眺めておく。

[ラピュータ国の学者たち]
  ラピュータ国の上流階級の人々は奇妙な性癖をもった人として描かれている。

  「お偉方の心は深い思索にいつも沈潜しがちなので,ものを言う器官と聞く器官を適当に外部の者に叩いて刺激してもらわない限り,ものを言うことも,他人の言っていることに耳を傾けることも出来ないらしかった」

  これは明らかに学者,特にニュートンに対する当てこすりである。スウィフトはニュートン(1642/43-1727)を快く思っていなかったらしい。
  スウィフトがドレイピア書簡でウッド銅貨の問題を取り上げた頃,ニュートンは枢密院査問委員会の委嘱を受けてウッド銅貨の鑑定を行い,試験に用いた見本銅貨の限りではほとんど違法はなかったと答申したのに対し,スウィフトは

  「布地の端切れを試験してその反物を買うというのならまだわかるが,百頭の羊を買うのに,よく肥えた一頭だけを見て,全体を買う馬鹿がいるか」

  と批判した。ニュートンはドレイピア書簡が現れる1722年より前のことだが,造幣局監事や造幣局長も務めたことがあった。王立協会会長も務めている。
  ガリヴァー旅行記に出てくる,スーツの仕立屋のミスの話が,ニュートンをからかったものだということは,よく知られている。

  この仕立屋は国王の命令でガリヴァーのスーツを仕立てようとし,ガリヴァーの全身を物差しとコンパスを使って測定し,結果をノートに書き付けていったにもかかわらず,いざ出来上がってみると,不格好なひどいものになってしまう。計算の時,数字の桁を一つ間違えたのだそうだ,とガリヴァーは報告している。

  これこそまさに,ニュートンの論文のなかの太陽と地球の距離を示す数字が,印刷屋のミスで一桁大きく印刷され,問題を起こしたことを風刺したものであった。
  ニュートンは研究に熱中しすぎたため,『プリンキピア』の刊行から5年経った1692年にはメランコリー,不眠症,被害妄想といった神経症の症状を示すようになり,ケンブリッジのトリニティーカレッジを離れてロンドンに移り,その後20年以上,王立協会の会長を務め,研究からは全く離れて「有名人」として過ごした。スウィフトがニュートンにあったのはこの時期であった。


[彗星騒ぎ]
  さて,ここで,彗星の話が登場する。それによれば,

  前に彗星が現れたとき危うく地球にぶつかりそうになった。さいわい尻尾に撫でられないですんだが,撫でられていたら地球は間違いなく灰燼に帰していたはずだ。この彗星の次の出現は計算上,31年後となっている。人々は今度こそ,地球が壊滅してしまうのではないかと心配をしている。

  という。
  これは,ハレー彗星で有名なハレー(Edmund Halley, 1656-1742)が彗星の行った予言(1706年)に言及したものである。彼はニュートン力学を応用していくつかの彗星の軌道計算を試み,1682年に出現した大彗星が1531年,1607年の彗星と同じ軌道をもつことを初めて明らかにした。この大彗星は76年の周期をもち,次には1758年に現れると予言した。1682年の彗星は,尾の長さが視角で70度もありました。天空の半分近くを占めていた。彗星についての知識の十分でなかった当時の人々にとって,これは何か不吉なことが起こる予兆のように映った。
  だから,彗星の出現に人々が不安を覚えるのも無理からぬところがあったが,スウィフトは,天文学なんかをやるから不安になるのであって,ちょうど子どもが幽霊やお化けの話を喜んで聞きたがるが,その後,怖くて眠れないという気持ちにそっくりだ,と彼らの心配性振りをガリヴァーに冷ややかに観察させている。スウィフトの自然科学嫌いがよく現れた場面である。


[火星の衛星の話]
  近代科学批判というわけではないが,火星の衛星の話もなかなか興味深いものである。

  「彼らは火星のまわりを回転している2個の小さな星,つまり衛星を発見している。その2個のうち,内側の星は,そのもととなる惑星つまり火星の中心から,火星の直径のまさに3倍の距離を保っており,外側の星の場合はそれが5倍である。前者が1回転するのに要する時間は10時間,後者は21時間半である。」

  火星の衛星が実際に発見されたのは,約150年後の1877年のことである。ダイエスとフォボスと呼ばれる衛星は,ダイエスは火星との距離が火星の直径の1.45倍で公転周期が7.9時間,フォボスが火星との距離が火星の直径の3.5倍で公転周期は30.3時間である。
  ガリヴァー旅行記ではさらに,

  「この二つの衛星の周期の二乗が,その火星の中心からの距離の三乗にほとんど同じくらい比例している。ということは,他の天体を支配しているのと同じ引力の法則によって,この二つの衛星が支配されていることを,明らかに示している。」

  といっている。計算してみると,ガリヴァー旅行記の場合,内側の星は周期2/距離3は3.7,外側の星が3.698で確かに比例している。ダイエスとフォボスの場合もそれぞれ20.4と21.413でほぼ比例している。ガリヴァー旅行記でいう「引力の法則」はケプラーの第三法則のことと思われる。これは,ニュートンの万有引力の法則(1665年)から導くことが出来る。
  スウィフトの科学嫌いは徹底しているが,知識は相当あったものと思われる。しかし,150年後にならないと発見されない火星の衛星について述べているのは,「偶然」と考えるのが妥当だろう。


[学士院(academy)]
  さて,ラピュータからバルニバービに降りたガリヴァーは,「大研究所」に案内される。これはイギリスの王立協会を念頭に置いたものであった。
  イギリスの王立協会は1645年に創設された。1655年からは『理学報告』を刊行し,その後の自然科学の発展に貢献した。17,8世紀には天文学が興味の中心を占めており,少数の公理の上に運動の理論を築くこと,つまり力学の体系化に関心が寄せられていた。ラピュータの学者たちを紹介する際に,天文学の話が詳しく出てくるのはこうした背景があってのことと思われる。
  バルニバービの研究所で行われている「研究」は,まったく荒唐無稽なものといっていい。胡瓜から太陽光線を取り出す研究,人糞を食糧に戻す研究,氷に熱を加えて火薬を作る研究,家を屋根から建てる施行法の研究,手触りと嗅覚で色を識別する研究,蜘蛛の巣で絹糸を作る研究などなど。
  この研究所に「万能学者」と呼ばれる人物が登場するが,これはボイルを指すとも言われる。ボイル(Robert Boyle, 1627-1691)は,化学者,物理学者で,真空ポンプを使った実験によって発見した「ボイルの法則」は有名である。1668年以降,ロンドンに住み,王立協会の主要メンバーとして科学の発展に貢献した。敬虔なピューリタンでもあった。ガリヴァーはこの学者の研究も見学する。学者は空気を固体にする研究や大理石を柔らかくする研究などをおこなっており,ガリヴァーにもいろいろ説明してくれるが,

  「知識不足の私には何のことかさっぱり分からなかった」

  そうである。


[自動文章作成機]
  つづいて紹介されるのが,自動文章作成機(?)である。縦横20フィート(約6.1m)の枠の中に,サイコロ大の木片が多数並べられ,バラバラにならないよう互いに細い針金で連結されている。木片の各面には紙が貼り付けてあり,そこにこの国の言葉のすべての単語が,いろんな叙法,時制,語尾変化を示す単語も含めて,書き付けられ,それが順序にはお構いなしに並べられている。枠には40の鉄のハンドルがつけられており,教授の号令に合わせて弟子たちが回すと,単語の配列が一変する。それを1行ずつ読みとって,意味のある文章を書き取っていくる。これを繰り返すことで,さまざまな文章が出来上がるわけである。
  これは,スウィフトのオリジナルな発想ではない。14世紀に考案されたルルスの「大いなる術」に連なるものと考えられる。
  ルルスの術はライプニッツに影響を与えた。彼は、普通の言葉に代り総ての思考や推論を正確に誤りなく記述できる普遍的な言語としての記号の数学的体系ー思考の計算法・普遍数学ーを創造する事を既に20才の時に夢みて1666年に、彼自身の言葉によれば「学生くさい試み」であった「組み合わせの手法について」という論文を書いている。
  スウィフトがライプニッツの提案を知っていたかどうかは不明だが,『ガリヴァー旅行記』でこれに類する機械を取り上げたのは,なかなかの炯眼といっていい。現代の論理学は,こうした発想が実用化されたものといってもいい。


[「進歩」の理念]
  バルニバービの人々は,「進歩」の理念にとりつかれていた。

  40年ほど前,数人の男が用事か遊びでラピュータに上がっていき,5ヶ月ほど滞在して帰ってきたが,そこでラピュータの学者たちから「学問」をかじってきた。そうしてそれまでのやり方を否定し,新しい方法を導入しようとして学士院を作ったのだというのだ。
  それ以来,教授たちが次々と新しい建築法やら農業の新方式やらを発表し,人々はそれに飛びついたが,なかなか理論通りに行かず,農地は荒れ,家は壊れ,人民は衣食に事欠く有様となっている。それにもかかわらず,昔通りの生活をしようとする者は,学問の敵,無知不逞の非国民として侮蔑と敵意を以て見られている,という。

  ここで示される「進歩」の理念は,まさしく近代の啓蒙思想の理念であった。


[スウィフトの誤算]
  スウィフトは学者や進歩の理念に対して,異常とも思えるほど敵愾心を燃やしているが,その後の歴史は,スウィフトが批判していた方向に進んでいった。
  農業は進歩して18世紀の間にイギリスの家畜の平均体重は倍に増えた。18世紀末には産業革命が起こり,宇宙飛行士の排泄物は分解されて水の再利用が行われている。科学に対するスウィフトの評価は見事にはずれたが,彼が科学やその発展の根底にある啓蒙的な考え方に本能的とも言えるおそれを抱いたことは誤りではなかった。今日の様々な問題がそれを雄弁に物語っている。