★☆★スウィフトとアイルランド☆★☆ | ||||||
[『ガリヴァー旅行記』とアイルランド問題] | ||||||
『ガリヴァー旅行記』第一部には直接アイルランド問題が登場するわけではないが,リリパット国皇帝がブレフスキュ帝国との戦いに勝った後,ガリヴァーに残りの敵艦隊も捕獲してくるよう要求したのに対して,
と批判するが,「総督を派して統治する」といった部分は,当時のイギリスがアイルランドに対して行っていたことと重なってくる。また,
といった部分は,スウィフトがアイルランドのために戦ったことと重なってくる。 ■ スウィフトとアイルランド スウィフトはイングランドからの移住者の息子で,生粋のアイルランド人というわけではなく、アイルランドやその首都であったダブリンを好いてなかったにも関わらず,彼はアイルランド問題に深く関与し,「愛国者」とみなされるようになった。 そもそもスウィフトがアイルランド問題に関わるようになるのは,1714年にアン女王が亡くなり,イギリスでの栄達の道を絶たれ,打ちひしがれてダブリンに戻った後のことである。それ以前の彼は,この問題にはほとんど関心を持っていなかった。そうした意味では,スウィフトが真の愛国者であったということは難しいが,アイルランドに腰を据えたスウィフトにとって,アイルランドが置かれていた状況は見過ごすことのできないものであった。 ■ ドレイピア書簡(The Drapier's Letters)(1724年〜) スウィフトがアイルランドのために立ち上がるのは1720年代以後のことである。まず彼は,一連の「ドレイピア書簡」と呼ばれる文書を発表してイギリスの通貨政策を批判した。 1720年頃,アイルランドでは少額貨幣,特に銅貨の不足に苦しめられていた。特に一般市民にとってそれは深刻であった。 そこでイギリス政府に対して銅貨の増発を望んだ。もともとこうした問題が生じたのは,イギリス政府のやり方にあった。イングランドやスコットランドには独自の造幣局がありましたが,アイルランドにはそれがなかった。アイルランドでは,国王の特許を得た商人が作った銅貨が持ち込まれ,流通していたにすぎなかった。国営の造幣局でなく,一商人が通貨を鋳造するわけだから,どうしても不正も行われやすかった。その問題が露わになったのがこの時であった。 1722年,国王はウィリアム・ウッドという少々いかがわしい鉄商人に特許を与えた。360トンの銅をつかって14年にわたって銅貨を作ることを認めた。もちろん特許状には悪貨をつくらないよう厳重な規定があったが,ウッドはそれを無視した。銅貨に多くの混ぜものを加えて品質を落とした。 品質の低い通貨は当然価値が下がり、それが大量に出回ることになったため,アイルランド経済は混乱した。そうした中,「ウッドの半ペニー銅貨に関し,アイルランド人の商人,小店主,農民,および一般市民諸君に訴える公開文」という一冊のパンフレットがダブリンで出版された。著者名はM.B.ドレイピアとあった。これが一連の「ドレイピア書簡」の第一号であった。 ドレイピア(Drapier)はもちろん仮名である。「ドレイピア書簡」は1724年中だけでも7本,翌年8月,イギリス政府の完敗の形で決着するまでに合計20近くの文書が発表された。ドレイピア書簡はアイルランド国民に喝采を以て迎えられた。「旧教徒も新教徒も,トーリー党もホイッグ党も,喜んでドレイピアの旗の下に結集した」とスウィフトの知人が書き残している。 スウィフトはこの書簡の中で次のように言っている(ドレイピアとはもちろんスウィフトその人である)。
こうしたわかりやすい調子でウッドや政府の通貨政策を批判した「ドレイピア書簡」の威力は絶大であった。第3書簡では,
と述べ,アイルランド国民にウッド銅貨ボイコットを呼びかけている。第4書簡になると,ウッド銅貨問題もさることながら,アイルランド人自身の態度にもペンが及んでくる。そうしてアイルランド人が従属国としての地位に甘んじ,「所詮自分たちは・・・」といった考え方をしているのを批判して,
と公然と民族自決・民族独立をアピールするに到る。こうしたドレイピアのアピールをアイルランドの世論は支持し,イギリスももはや座視することはできなくなった。 1724年8月には「ウッドの処刑,見たままの記」なる,ウッドの死刑宣告,処刑場送りから死刑執行の状況までまことしやかに書いた戯文が発表されるが,これはもちろんでっち上げの嫌がらせである。これの著者もスウィフトと思われる。 ドレイピア書簡を巡っては,第4書簡発表後,政府は作者に300ポンドの懸賞金をかけた。結局誰もスウィフトを売る者は現れず,1725年8月,ついに特許状の取り消しを勝ち取る。ガリバー旅行記が完成したのはまさにこうした時期だった。 |
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[ラピュータ島とバルニバービ] | ||||||
『ガリヴァー旅行記』第3部には,空を飛ぶ島ラピュータが登場する。
ここで登場するラピュータ島とバルニバービの関係は,イギリスとアイルランドの関係を風刺したものだと言われる。「日光や雨の恩恵を剥奪する」というのは,当時アイルランドが貿易の自由を奪われていたことを指している。バルニバービの荒廃した様子は,当時のアイルランドの様子を反映させたものと考えられる。 スウィフトは「アイルランドの窮状の諸原因」と題する1720年頃に行われた説教で,
と述べ,さらに,
と述べている。ここに述べられていることは,バルニバービの描写と通ずるものをもっている。この説教の中でスウィフトはアイルランドの状況を改善するために,国産品の愛用,贅沢品の輸入の削減,子どもの教育の充実などの提案を行っている。スウィフトは,当時のアイルランドの状況を打開するためにさらに別の提案も行っている。それは,『貧家の子女がその両親ならびに祖国にとっての重荷となることを防止し,かつ社会に対して有用ならしめんとする方法についての私案』(1729年)である。 これは,きわめてまじめにアイルランドの窮状打開の方策を示す形をとったものだが,その内容は恐るべきものである。『文学評論』で漱石は「これを真面目とすれば純然たる狂人である」と評している。スウィフトはまじめな顔で怖いジョークを説いているのだ。 さて,スウィフトは,ダブリンの街をうろつく乞食たちの子どもが,成長しても仕事がなく泥棒になるか傭兵にでもなるしかないことを指摘し,「子どもたちを社会の健全有用な一員とする安価で容易で正しい方法」を提案する。
こうすることでどのようなメリットが生まれるのだろうか?まず,貧民の多くはカトリックだったから,こうすることでめざわりなカトリックが減ることになる。また,1才以降,子どもを育てる経費が削減されるから,国民の資産が年5万ポンド増えることになるし,子どもは国内で製造されるのでその販売代金が国内に流通して潤う。その他,母親は子どもに優しくなり,亭主は妊娠中の女房に優しくなって殴ったり蹴ったりしなくなる,などなどの大きなメリットがあるというのだ。 スウィフトがこの提案を本気でしているわけはないが,単なるおふざけでもない。スウィフトは大まじめにこうした突拍子もない提案をすることで,事態の深刻さをアピールしているのだ。スウィフト自身はアイルランドがそれ程好きではなかった。愛人(?)ステラに送った書簡では
と言っているし,晩年の1731年に書いた「スウィフト博士の死」では,アイルランドを
と表現している。 |