★☆★スウィフトと政治☆★☆ | |
[ハイヒール党とローヒール党] | |
『ガリヴァー旅行記』第1篇にリリパット国の二つの政党が登場する。トラメクサン党とスラメクサン党である。
このトラメクサン党とスラメクサン党は,当時のイギリスの二大政党トーリー党とホイッグ党を指し,踵の高さの違う靴を履いている皇太子はのちのジョージ2世を指している。ジョージ2世は皇太子時代に父ジョージ1世の政策に反対してトーリー党に傾いていたが,即位後は進歩的なホイッグ党のウォルポールを重用した。 |
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[スウィフトの党派的立場] | スウィフトは,自ら『1710年の政変に関する覚書き』で,
と述べている通り,一時期,政治に深く関わっていた。この作品は1714年に書き始められたものであるため,ここで「前内閣」と呼んでいるのは,アン女王の死によって崩壊したトーリー党政権を指す。 スウィフトは,1710年に成立したロバート・ハーリーを中心とするトーリー党政権のスポークスマンの役割を果たしていた。トーリー党の機関誌『エグザミナー』の主幹となり,トーリー党のために政治的パンフレットを書いている。彼はその見返りとしてイングランドでの主教職を求めたが,実際に与えられた報酬はダブリンの聖パトリック教会の主席司祭の地位(1713年)でしかなかった。 まもなくトーリー党びいきであったアン女王が亡くなり,ホイッグ党に好意をもっていたハノーヴァー朝のジョージ1世が即位すると,トーリー党の内閣は崩壊し,ホイッグ党内閣が誕生し,以後47年の長きにわたってイギリスの政治を担うことになる。その時の首相がウォルポールであった。 ところで,スウィフトは,元来は,ホイッグ党の考え方に近かったといわれている。特に政治的信念についてはそうで,王権神授説には反対であり,究極の主権は国民にあると考えていた。スウィフトは18世紀初めのホイッグの著作家たちと親しくしていたが,彼は宗教的信念については国教主義者であり,その点ではホイッグ党に同調することはできなかった。特にアイルランドで非国教主義を強めようとする動きには強く反対していた。 スウィフト自身は,「政治的にはホイッグ党,宗教的にはトーリー党」という立場をとろうとしていたといわれている。 |
[イギリスにおける議会と政党の起源] |
■ 議会制度の成立
今日ではほとんどの国に議会が存在するが、議会の起源はイギリスにある。 1265年にマグナ・カルタを無視して専制を行ったヘンリ3世に対して反乱を起こした貴族のシモン・ド・モンフォールによって,従来の聖職者・貴族の集会に州騎士と都市市民の代表を加えた最初の議会が作られた。 1295年には大貴族や高位聖職者とならんで,各州2名の騎士と各市2名の市民および下級聖職者の代表も加わった模範議会が召集され,さらに14世紀には上院と下院からなる二院制へと発展した。 14,5世紀に絶対王制化が進むと,国王はしばしば議会を軽視するようになり,ついに1642年清教徒革命が起こり,名誉革命を経て議会の権限が強化されていくことになる。ウォルポールの時代には,「王は君臨すれども統治せず」という原則が確立され,議会は「男を女にし,女を男にすること以外はなんでもできる」といわれるまでになる。 ■ 政党の成立 さて,王政復古で国王となったチャールズ2世が,カトリックの復活をねらって議会と対立した。議会は審査法(1673)を作って非国教徒が公職に就くことを禁じた。 チャールズ2世は失敗を悟ってカトリックから国教会に鞍替えし,ダンビー伯を起用して国教会と協力して王権強化を図った。それに呼応して宮廷派が力を得てくると,それに批判的な党派が現れ,宮廷党に対して地方党と呼ばれた。 その中心となったのがシャフツベリ伯であった。シャフツベリは権力を握っている政府に対抗するため,組織を固め,政策を整えて,世論を呼び覚まそうとした。シャフツベリはそのために「緑リボン・クラブ」をつくるが,これが近代的な政党の先駆となった。 ■ ホイッグ党とトーリー党 審査法によって非国教徒が公職に就くことが禁じられた後も,肝心の国王についてはカトリックでも即位可能であった。しかもチャールズ2世の後,即位が予想されていたのは王弟のヨーク公ジェームズであった。そこで,彼の即位を排除しようとする地方党は議会で「王位継承排除法案」を通過させようと試みた。 シャフツベリは法案通過に圧力をかけるため,地方から盛んに請願書を提出させたため,彼の一派は「請願者」と呼ばれた。他方,政府側に着く者はそうした手段を嫌ったので,「嫌悪者」と呼ばれた。そして両派は互いに「ホイッグ」「トーリー」というあだ名で呼び合った。 この頃の政党は,いわゆる名望家政党で,組織も綱領もはっきりしておらず,貴族が指導していてメンバーに際だった相違はなかった。大まかに言えば,トーリーの方が王の世襲権に疑いをもたず,王権に対する無抵抗の姿勢をとったのに対し,ホイッグは王権の法による制限と宗教上の寛容を支持していた。 王位継承排除法案が提出されると,国王はその都度,議会の解散をもって応じた。1681年の議会はわずか7日間で解散され,チャールズは絶対君主として君臨することになる。政府はホイッグに対する弾圧を強め,シャフツベリはオランダに逃れるが,そこで病没してしまう。 このシャフツベリ伯の理論上のアドヴァイザーとなっていたのが,ジョン・ロックであった。 ■ 名誉革命 さて,チャールズ2世の跡を継いで問題のジェームズ1世が即位すると,カトリック化が急速に進められ,国王の横暴が目立ち初め,ついにホイッグのみならず,トーリーまでもが反国王の側に回り,ついに両党が一致してオランダのオレンジ公ウィリアムをウィリアム3世として迎えるにいたる。これが名誉革命である。 ウィリアムは宗教的に寛容な立場をとっていたことからホイッグに近く,また,自分の結婚の縁でトーリーの首領たるダンビー伯とも親しかったことから,両党に受け入れられる素地があった。 ジェームズ2世がなくなった後も,ジェームズの血統の人が王になることを望む人々のことを、ジェームズのラテン語形がヤコブスであることから,ジャコバイトと呼ばれた。 ■ トーリー党内閣の成立 ウィリアム3世の後を継いだアン女王はトーリー党に好意を抱き,トーリー党の内閣が成立するが、王位継承法によってアンの後を受けて国王となることが決まっていたハノーヴァー家のジョージ1世がホイッグ党を支持の姿勢を見せたことから,トーリー党は大いなる脅威を感じた。 トーリー党のボーリンブルックはジェームズ2世の復位もしくは妥協を図ることができる内閣を作ろうとする。これはジャコバイトの内閣を作ることでもあり,トーリー党内部にも深刻な対立を生みだし,結局,ボーリンブルックの失脚と,トーリー党への強い不信を招いてしまう。以後47年におよぶ以後のホイッグ党の支配は,その結果であった。 |
[「綱渡り」と財政政策批判] |
■ 綱渡りのエピソード
『ガリヴァー旅行記』(p.39-40)で,ガリヴァーはリリパット国の宮廷の奇妙な習慣に言及している。それは綱渡りである。
■ 財政政策批判 『ガリヴァー旅行記』第2篇には,巨人国ブロブディンナグの国王からイギリスについて尋ねられたガリヴァーが,イギリスの政治などについて語る場面がある。その中で,イギリスの財政政策についての説明が出て来る。
スウィフトはこの一連の挿話を国王の次の言葉で締めくくっている。
公私ともに失意のどん底にあったスウィフトの心情がよくあらわれているが,スウィフトが政府の財政政策を批判したのは,正しくなかった。経済が成長過程にあるときは,赤字予算は決して悪ではない。当時のイギリスは貿易の伸びに伴い,大きく成長し始めており、赤字予算は時宜をえた政策であった。スウィフトはそれを理解できない,負けつつある側の人間であったのだ。 |