★☆★卵論争と時代背景☆★☆ | |
[「卵論争」−問題の始まり−] | |
『ガリヴァー旅行記』第1篇で,スウィフトは有名な「卵論争」の話を取り上げる。 これは,リリパット国とブレフスキュ国の長年にわたる戦争の発端として語られる話で,卵を食べるときに大きい方の端から食べるか,小さい方の端から食べるか,という問題である。
この逸話は,当時のイギリスを皮肉ったものだが,内容を理解するためには,当時のイギリスの歴史的状況を知っておく必要がある。ここでは,まず,17〜18世紀イギリスの歴史を振り返る。 |
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[17〜18世紀のイギリス(歴史的概観)] | 17世紀から18世紀にかけては,近代市民社会成立の時代である。 特にイギリスでは,清教徒革命,名誉革命によって近代社会の基礎が形作られた。一方のフランスでは,17世紀はブルボン朝の全盛期で,前半にはルイ13世が名宰相リシュリューに助けられて絶対王制を確立し、後半にはルイ14世が活躍している。また,1618年から48年にかけてドイツでは,30年戦争が起こり,1648年のウエストファリア条約で終結している。 ■ 清教徒革命 清教徒革命はイギリス国教の強制に対する清教徒の反抗としての宗教的性格があった。エリザベス1世(1558-1603在位)が未婚のまま死に,チューダー朝の血統が絶えると,スコットランドのスチュアート家のジェームズ6世がジェームズ1世として即位した(1603-25在位)。彼は王権神授説を信じ,議会としばしば対立した。この対立は王の専制支配と議会の権利の主張という政治的対立と,国教を強制しようとする国王とそれに反対する清教徒との対立という2つの側面を持っていた。 王と議会の対立は,ジェームズ1世の子,チャールズ1世(1625-49在位)の時にさらに激しいものとなった。彼は国教を強化して清教徒を圧迫し,議会を無視して重税を課したため,議会は1628年,「権利の請願」を提出して議会の権利と国民の基本的人権を確認させた。 しかし王は,翌年議会を解散し,以後11年にわたって議会を開かず専制政治を行い、さらにスコットランドで反乱が起こる。国王は戦費に窮して1640年,議会を2度招集したが,武力で議会を制圧しようとして,ついに王と議会の対立は武力衝突にまで発展し,内乱が勃発した(1642-49)。これが清教徒革命の発端である。 内乱は初め王党派が優勢であったが,クロムウェルが「新型軍」を結成して優勢に立って王党軍を破り,王は捕らえられて1647年,議会に引き渡される。 しかし,王と妥協し立憲王制をめざす長老派と,議会専制,共和制を主張する独立派とが対立した。長老派は議会内で有力であり,独立派は軍隊において有力であったため,対立は「議会対軍」という形も取った。そうした混乱に乗じて王はスコットランドに逃れ,スコットランド軍と王党軍の南下によって再び内乱が起こった。議会軍は結束して王を捕らえて処刑し(1649年),クロムウェルらが共和制をうち立てた。 ■ 王政復古 クロムウェルは議会内の対立派を追放し,独裁的な政治を始めた。彼は貴族院を廃止し,アイルランドを征服し,オランダとの第一次イギリス・オランダ戦争(1652-54)に勝利して,1653年,終身の護国卿となって独裁体制を固めた。厳格なピューリタニズムに基づく彼の独裁政治は,やがて国民の反発を招くことになった。1658年クロムウェルが死ぬと,王党派が勢力を盛り返し,1660年フランスに亡命していたチャールズ1世の息子チャールズ2世が帰国して,即位した(1660-85在位)。これが王政復古である。 ■ 名誉革命 チャールズ2世を継いだジェームズ2世(1685-88在位)も専制的な政治を行い,カトリックの復活の意図も見られたため,1688年,議会はジェームズ2世をフランスに追放し,かわって王の長女メアリとその夫でオランダの総督オレンジ公ウィリアム3世を共同統治の王として迎えた。これが名誉革命である。 |
[「卵論争」の意味] | スウィフトが活躍したのはちょうどこの時代である。 ここでもう一度,卵論争を見直し、どこが何(誰)を風刺したものか,考察する。
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