★☆★作者について☆★☆





[生い立ち]
1667年11月30日…アイルランドのダブリンにて,アイルランドに移り住んだイングランド人の両親のもとに誕生。父は,息子のジョナサンが生まれる数ヶ月前に死去。母親は、息子を産んでまもなく,息子を残してイングランドへ戻る。そのため伯父に引き取られて養育される。
1673年(6才)…キルケニー・グラマースクールに入学。
1682年(15才)…ダブリンのトリニティー・カレッジに進学。
1686年(19才)…文学士の学位をとって卒業。


[テンプルの秘書となる]
1688年(21才)…名誉革命が起こり,政治的な不安からイングランドに渡る。
1689年(22才)…母の遠縁にあたるサー・ウィリアム・テンプルの秘書となる。
1690年(23才)…健康上の理由でいったんアイルランドに帰る。
1691年(24才)…イングランドのウィリアム・テンプルのもとに戻る。
1692年(25才)…オクスフォード大学で修士号を獲得。


[聖職者の資格を得る,執筆開始]
1694年(27才)…テンプルのもとを去ってアイルランドに戻り,イギリス国教会の聖職者となる。
1696年(29才)…テンプルのもとに戻り,『桶物語』を執筆。エスター・ジョンソン(ステラ)と再会。
1697年(30才)…『書物の戦争』を執筆。
1699年(32才)…テンプル死去。
1702年(35才)…ダブリン大学から神学博士号を受ける。ステラをアイルランドに呼び寄せる。
1704年(37才)…『桶物語』を匿名で出版。頻繁にイングランドに渡ってリクルート活動を行うが,ことごとく失敗。政治に首を突っ込み,トーリー党の肩をもった政治的パンフレット多数を書く。
1710年(43才)…ダブリンのセント・パトリック教会の主任司祭となる。ホイッグ党が失脚しトーリー党が進出。多くの文人と交わり、政界,社交界の花形となる。
1714年…アン女王が死去。ホイッグ党の天下となり,アイルランドに引っ込む。持病のめまいと耳鳴りが悪化。


[ガリヴァー旅行記を執筆する]
1720年(53才)…『ガリヴァー旅行記』の執筆開始。
1723年(56才)…10年ほど前からスウィフトと交際のあったヴァネッサ死去。
1726年(59才)…ロンドンの出版社から匿名で『ガリヴァー旅行記』を出版。


[死去]
1728年(61才)…ステラ死去。
1729年(62才)…『貧家の子女を社会的に有用ならしめる方法についての私案』を執筆。
1735年(68才)…持病がますます悪化。精神的に不安定になる。
1740年(73才)〜…ほとんど錯乱ないし痴呆状態になる。
1745年(78才)10月19日…死去。当時としてはかなりの長寿であった。


[スウィフトの立場]
  スウィフトのおかれていた立場は微妙なものであった。彼はアイルランドに住んではいたが,元々はイングランド系で,カトリックの強いアイルランドでイギリス国教会の牧師をしていた。政治的にはトーリー党の側に立っていたが,晩年はホイッグ党の天下になっていた。彼は様々な面で,マイノリティの立場に立たされていた。そのことが,作品にも大きな影響を及ぼすことになる。