★☆★スウィフトとアジア☆★☆





[『ガリヴァー旅行記』の舞台]
  『ガリヴァー旅行記』の主な舞台はどこだろうか?意外にも,第4部の馬の国フウイヌム以外は,太平洋地域なのだ。
  もっとも,作品中の地図や本文から読みとれるデータの間には,かなり矛盾もある。
  例えば,リリパット国はファン・ディーメンズ・ランド(Van Diemen's Land)の北西で南緯30度2分付近となっているが,テキスト添付の地図の位置からすれば,南緯10度からせいぜい20度の間にあることになる。ケイスの地図ではオーストラリアとニュージーランドの間にあることになっているが,添付地図ではインド洋になる。
  ブロブディンナグにしても,北緯3度の地点から東に流されたはずなのに,帰路に乗船した船は北緯44度あたりにいたことになっている。北緯44度といえば,北海道の中央より少し北にあたる緯度で,これも話が食い違っている。
  もともとスウィフトの時代のイギリス人には,まだこの地域の地理は十分つかめていなかったのだから,少々の食い違いはやむを得ない。また,曖昧だったからこそ,そこにこれらの「未知の」国々を配置することも出来た。
  『ガリヴァー旅行記』の舞台は,日本のすぐ近くに設定されていたのだ。


[時代背景]
  スウィフトの時代,ヨーロッパの人々にとって東洋とは香辛料の供給地であった。特に,インドと東南アジアは垂涎の地と言ってもよかった。
  この地域にまず進出したのはポルトガル人であった。航海王エンリケたちの努力でアフリカ西岸の探検を続け,ついに1498年バスコ・ダ・ガマがインドのカリカットに到着し,大航海時代の幕が切って落とされた。
  1510年,ポルトガルはインド西岸のゴアを占領し,植民地としたのを皮切りに,アラビア海からペルシア湾への中継基地ホルムズ,東アフリカ沿岸各地を次々に手中に収め,16世紀のインド洋交易を独占することになる。ポルトガルは,マラッカからジャワへのスパイス交易路を支配すると共に,北上して1537年にはマカオを植民地とし,1543年には日本の種子島に漂着する。その際船長が種子島の人々の歓待への感謝の印としておいて帰った2丁の鉄砲は,瞬く間に全国に拡がり,戦国時代の大勢に大きな影響を与えることになる。
  17世紀にはいると,ヨーロッパの各国に東インド会社が設立され,ポルトガルに対抗して東洋貿易を開始する。まず活発な動きを見せたのがオランダであった。オランダにはスペインとの長年にわたる抗争の間に多くの新教徒商人が集まり,彼らが積極的に海外進出をめざしたからである。ついで,1588年,スペインの無敵艦隊を破ったイギリスが,アジアへの進出を開始した。1620年末,ホルムズ東方のジャスク沖海戦でポルトガル艦隊をうち破り,1622年にはペルシアを支配していたサファヴィー朝のアッバース1世がイギリス軍と協力してポルトガルからホルムズを奪還し,ポルトガルのインド洋独占の時代に終止符が打たれた。
  イギリスは1612年,インドのスラトに商館を建て,ムガール王朝と交渉して,マドラス,カリカット,ボンベイにも進出した。さらに,モルッカ諸島にも進出しようとしてオランダと激しい抗争を起こし,1623年のアンボイナ虐殺事件以後は香料諸島から手を引き,インド経営に全力を尽くすことになる。オランダは,1619年,バダヴィアに拠点を置き,1639年にはポルトガルに代わって日本との貿易権を獲得し,1641年にはスマトラのアチェー王国と連合してマラッカを占領し,東南アジアの覇権を握った。
  『ガリヴァー旅行記』の時代は,まさにそれからさほど遠くない時代であり,ガリヴァーがラピュータに行くきっかけとなった海賊船に乗っていたオランダ人のことを,ガリヴァーが糞味噌にけなしているのもこうした事情があったからだと考えられる。


[『ガリヴァー旅行記』と日本]
  『ガリヴァー旅行記』の中でガリヴァーが訪れた国としては唯一,実在するのが日本である。
  イギリスは1600年,九州に漂着したオランダ船リーフデ号に乗り組んでいた三浦按針が家康に取り立てられたのをきっかけに,1613年日本と通商関係を持つに至るが,結局貿易では利益が出ず,日本から撤退(1623年)し,特に鎖国後は,オランダが日本と交易しているだけであったため,スウィフトは日本の情報をほとんどもっていなかったはずだが,その割には取り上げ方が詳しい。それは何故だろうか。
  それを検討する前に,当時の日本におけるヨーロッパ情報,ヨーロッパにおける日本情報に触れておく。


[鎖国時代の日本とヨーロッパ]
■ 鎖国と海外情報
  鎖国は日本にとって,海外からの情報の途絶を意味したわけではなかった。長崎にやってくるオランダ船の船長に「阿蘭陀風説書」と呼ばれる海外事情の報告書を提出させていたからである。
  蘭学の最初期に属する西川如見(1648-1724)は『日本水土考』『華夷通商考』(1695年[スウィフト28才],元禄8年)でかなり正確な世界地図を示している。また,新井白石(1657-1725)がイタリア人神父シドッチを尋問して『西洋紀聞』を著したが,そこには,ブラウ図と呼ばれる世界地図を参照したことが記されている。この地図では,ガリヴァー旅行記の舞台となる地域はちょうど空白域になっている。『西洋紀聞』にはスペイン継承戦争(1701-13年)の記事も見出せる。
  このように,当時の日本でも,海外事情は思った以上に入ってきていた。

■ ヨーロッパの日本情報
  ヨーロッパの日本情報はどうであったのか。
  まず,日本がヨーロッパ人に知られるようになったのはいつ頃からか?
  これまでのところ,有名な『東方見聞録』が最初だと言われている。イタリアの商人マルコ・ポーロの『東方見聞録』はヨーロッパ人のアジアへの関心をあおったが、その中に日本は「ジパング(Zipangu)」として現れる。その情報は、大体次のような内容のものだった。

  (1)ジパングはマンジ(チナ)の海岸から1500マイル(=2400キロ)東方に存在する。住人は色白で程良い背の高さである。偶像崇拝を行い、彼ら自身の国王をもつ。金や真珠などに富んでいる。
  (2)クビライがジパングに二人の大将と大軍を送った。暴風雨にあって船が壊れた。ジパングの都市を占領したが、包囲されて明け渡し、帰国した。この出来事は1268年のことであった。
  (3)ジパングで崇拝される偶像は、牛・羊・犬などの動物の頭をもつもの、一つの頭に3ないし4つの顔のあるもの、手が4本、10本、あるいは100本あるものもある。外国人をとらえると、殺して食べてしまうこともある。
  (4)ジパングは7448の島々からなり、香りのよい木がはえている。風が夏一回、冬一回しか吹かず、航海にはまる一年近くを要する。

  これが、ヨーロッパ人に知られた最初の日本情報だった。これは、幻想と怪異に満ちた当時のオリエント観そのものといえるが、その中に東洋への憧れも見いだせる。
  ヨーロッパ人が実際に日本を訪れたのは、1543年のことであった。ポルトガル人ディエゴ・デ・フレイタスの情報によれば、1542年にポルトガル人がレキオス(琉球人)の島に暴風雨にあって漂着したといわれる。ついで、1543年には、ポルトガル人が屋久島に漂着して、鉄砲をもたらした。
  1544年には、スペイン人ペロ・ディエスが来日し、日本の島が北緯32度にあること、リョンポから155レグワ(約850キロ)の所にあり、ほぼ東西に横たわっていること、人々は色白で髭を生やし頭を剃っていることなど、かなり詳しい情報をヨーロッパにもたらした。
  1547年になると、ポルトガル人商人ジョルジュ・アルヴァレスが本格的な日本見聞記を著し、日本人アンジロウをフランシスコ・ザビエルに紹介して彼の訪日に大きな影響を与えた。
  ザビエルは、1547年、マラッカでアルヴァレスにアンジロウを紹介され、日本の話を聞いて、日本に行くことを決意し、1549年に日本の地を踏む。そして1551年に離日するまでの間に1000人の信者を獲得した。また、その間に何通もの書簡を書いて、日本の事情を詳しく紹介している。特に1549年11月5日付鹿児島発ゴア宛の長文の書簡は、16,7世紀ヨーロッパの貴重な日本情報として利用された。
  そこでは、日本人は親しみやすく、善良で、礼儀正しく、知識欲に富み、理性的な国民としてきわめて好意的に描かれている。名誉を重んじ貧乏を恥とせず武器を大事にする武士の姿も示されている。一方、坊主や僧侶は社会的な尊敬は受けているものの道徳的な面では問題があるとしている。
  ヨーロッパの船が南蛮貿易のために定期的に日本を訪れるようになった16世紀後半には,イエズス会を中心とするキリスト教宣教師が多数来日し,日本からも天正少年使節がローマ法王のもとに遣わされた。
  しかし,徳川幕府は,鎖国政策を断行する。そうして,1624年イスパニア船の来航を禁止,1639年ポルトガル船の来航を禁止し,1641年にはオランダ商館を平戸から長崎の出島へ移し,鎖国を完成させる。
  鎖国によって再び日本の情報は伝わりにくくなった。特にイギリスは,東南アジアでも目立った活動はしなかったから,スウィフトの頃の日本情報はかなり限られていたものと思われる。それでは,スウィフトは,どこから情報を得たのか?

■ 『ガリヴァー旅行記』とケンペルの『日本誌』
  1690年オランダ船船医として渡来し,日本に2年間滞在したケンペルという人物がいた。彼は日本の青年を助手として,日本について詳しい情報を入手し,それを『日本誌』として発表した。
  ケンペルの『日本誌』が出版されたのはガリヴァーの翌年1727年だが,スウィフトはその草稿を読んでいたらしい。
  スウィフトがケンペルの『日本誌』からヒントを得た可能性の高い場所は,以下の諸点であるとされている。

  (a)ケンペルの生き方(混乱したヨーロッパを脱出し,旅行者としての人生を選択)をガリヴァーの生き方にダブらせた。日本でガリヴァーがオランダ人船医になりすますのも,ドイツ人でありながらオランダ船の船医として来日したケンペルの姿を彷彿とさせる。
  (b)ケンペルは日本の鎖国政策に好意的であったが,『ガリヴァー』でも他国と交渉のない「巨人国」や「馬の国」が好意的に描かれている。
  (c)『日本誌』で日本人が時計,望遠鏡,地図などヨーロッパの事物を見て驚く様子が描かれているが,『ガリヴァー』では「小人国」でその場面が再現されている。
  (d)ケンペルは「エゾ」に触れ,原住民が毛むくじゃらで荒っぽい性格であったため,馬とともに軍隊を派遣して制圧した,とか,蝦夷の原住民が不潔であるのに対し,日本人は極端な清潔好きだ,とか(偏見むき出しで)述べているが,YezoがYahooに,清潔好きと馬とが結びついて「馬の国」のフウイヌムに反映されている可能性がある。
  (e)ケンペルが述べる踏み絵の話が,『ガリヴァー』にも出てくる。
  (f)ケンペルが京都の町の様子を述べている箇所と,『ガリヴァー』の小人国の都の描写に類似性がある。

  また,『ガリヴァー』の第3篇で,コンピュータの原形のような装置が登場するが,その文字らしきものが書かれたプレートが,ケンペルが持ち帰った日本語の50音図と雰囲気が似ている上,そこに描かれた文字らしきもののいくつかは日本の仮名によく似ている。
  スウィフトが出版前の『日本誌』の草稿を見て,そこからヒントを得た可能性は高いようである。
  当時のイギリスには日本の情報はほとんど入ってこなかったため,ケンペルの『日本誌』が,最新の生の情報であったであろうと思われる。スウィフトは,また,三浦按針についての記述のある,英国の牧師が編集した紀行文・探検記も所有していたことが知られている。スウィフトの日本情報はこうしたものから得たものと考えられている。
  『ガリヴァー旅行記』における日本についての記述で最も興味深いのは,踏み絵の話である。スウィフトは

  「オランダ人はキリスト教徒でありながら,平気で踏み絵を踏む」

  といっているが,それは事実であった。当時のオランダ人にとって利益が信仰よりも優先した。日本のようにキリスト教が禁じられているところでは,祭式を控えるなどして,貿易に励んだ。日本が踏み絵を行ったのは,キリスト教が日本の植民地化の手段となることへの疑念からであった。オランダにとっては,ポルトガルやスペインといったカトリックの国々を牽制する意味で,踏み絵はむしろ都合がよかったのだ。また,オランダ国内では,利益優先が商業資本の発達をもたらし,それが「個人」を出現させ,「信仰の自由」といった先進的な思想ももたらすことになった。