批評家とは、美なるのものから受けた印象を、別個の様式もしくはあらたな素材に移しかえうる者をいう。
批評の最高にして最低の形態は自叙伝形式にほかならぬ。 美なるものに醜悪な意味を見いだすものは教養人であり、かかる人物こそ有望である。 美なるものがただ「美」のみ意味しうる者こそ選民である。 道徳的な書物とか非道徳的な書物といったものは存在しない。書物は巧みに書かれているか、巧みに書かれていないか、そのどちらかである。ただそれだけでしかない。 19世紀におけるリアリズムにたいする嫌悪は、キャリバンが鏡に映った自分の顔を見るときの怒りと異なるところがない。 19世紀におけるロマンティシズムにたいする嫌悪は、鏡に自分の顔が映っていないといって怒るキャリバンそのままである。 人間の道徳生活が芸術家の扱う主題の一部を形成してはいる、が、芸術の道徳は、不完全な媒体を完全な方法によって処理することにこそ存する。芸術家たるものは証明せんとする意欲をもたない。いかなることも、真なることさえ証明されうるのだ。 芸術家たるものは道徳的な共感をしない。芸術家の道徳的共感は赦すべからざるスタイル上のマンネリズムである。 芸術家たるものはけっして病的でない。芸術家はあらゆることを表現しうるのだ。 思想も言語も芸術家にとっては芸術の道具にほかならぬ。 善も悪も芸術家にとっては芸術の素材にすぎぬ。 芸術と名のつくものはすべて、形式の点より見れば音楽家の芸術を典型とし、感情の点よりすれば俳優の演技をこそその典型とすべきである。 すべての芸術は表面的であり、しかも象徴的である。 どうでしたか?Wildeの芸術に対する深い思い入れを感じられたのではないでしょうか?(中には、彼の『美・芸術』への思想があまりにも抽象的すぎて、あまり良く分からなかったと思われる方もおられるでしょう...)彼は、『美・芸術』への限りない追究をこの作品において行っています。 【ストーリー&ポイント】 舞台はロンドン。美貌の青年モデルであるドリアンは快楽主義者ヘンリー卿の感化で背徳の生活を享楽するが、彼の重ねる罪悪は、画家バジルによって描かれた肖像に現れ、いつしか醜い姿に変わり果て、焦燥に耐えかねた彼は自分の肖像にナイフを突き刺す...。 ポイント@ヘンリー卿との出会いによって呼び覚まされたドリアンの美意識 ポイントA愛しのシビル・ヴェイントのとの恋と絶望 ポイントB変わり始めた彼の肖像 ポイントC肖像の隠し場所 この他にもあらゆる事柄が、この話のポイントとなっています。そして、人間にとって醜いとされる心理を事細かにドリアンを通じて描いています。美しさが自分に存在していることの喜び、そして美しさを失っていく悲しさ..(女性の皆さんは、充分にドリアンに共感できるのではないでしょうか...?)ドリアンの場合は、彼の肖像が醜くなり、彼自身はそのままの美しさを保っていました。しかし、彼の魂の退廃が肖像に徐々に現れ出す恐ろしさは、彼にとっ恐怖以外何物でもなかったのです!! Back to Top Page!!