奴隷解放後の黒人文学

 南北戦争の後、1865年、ついに奴隷解放宣言が出された。深南部から北部へと黒人たちは移動をした。北部に出てきてもいきなりの出世などはできるはずもなく、黒人たちの中には、そのまま南部にとどまり農業を続ける者も多かった。しかも、土地を与えられていない黒人が大部分であり、彼らはsharecropper(小作人)という立場を選択するほか道がなかった。小作人のまま一生を終える者もいれば、なかには稼いで独立農民になった者もいた。独立農民になった人たちのなかには、集まってコミューンを作る者も現れ、all black townが生まれた。繁栄をした町もあったが、白人のリンチにより滅びた町もあった。このように、どこまで行っても搾取される、という絶望感が奴隷解放後の1870、80、90年代頃まで続いた。
 この絶望的状況で登場した人物がBooker T. Washingtonである。彼は農園奴隷であったが、奴隷解放後に独学で勉強し、アラバマ州に Taskegee Instituteという黒人のための職業訓練校を設立した。初代校長として、実学(特にレンガの作り方や農業)を教え、女性には家政学なども教えた 。生徒はキリスト教徒ということが前提であり、保守的な規律正しい人間を育てることが目的とされた。彼は各地で演説を行って寄付金を集め、Taskegee Instituteは寄宿舎を建てるほどの生徒数の規模に拡大し、南部の黒人大学の基礎となった。彼の演説の内容は、白人にも黒人にも訴えかけるものであったが、「白人も黒人も奴隷制度というものの犠牲者であり、黒人がこんなに苦しむのも白人のせいではなく制度のせいなのだ。だから、奴隷制のことはもう忘れよう。黒人たちよ、これからもがんばっていこう、そして白人のみなさん、これからも導いてください。」という白人が喜ぶことを前提にしたものであったので、反感を覚える者も少なくなく、限界があった。
 Booker T. Washingtonに初めて批判した人物がW. E. B. Duboisという人物である。彼は南部のフィスク大学という黒人大学に進学した後、ハーバード大学院に入学し黒人で初の博士号を取得した人物でもある。社会学的な方向論で黒人問題を分析し、奴隷制については白人にも問題があったと指摘したところがBooker T. Washingtonとは異なる。学者的であり、フィールドワークにより資料を集め、一般庶民にも理解できるようわかりやすく説いた。アフリカ系の文化に価値を持たせて黒人的な美というものを礼賛した。