魯魚亥豕
「魯魚亥豕(ろぎょがいし)」とは「形の似ている文字の誤り」を指す成語である。「魯魚」の方は『抱朴子』内篇・遐覧に
故諺曰、書三寫、魚成魯、虚成虎。
故に諺に曰く、書は三たび写せば、魚は魯と成り、虚は虎と成ると。
とあることによる。印刷がなかった時代には書物は筆写して広められたが、三回書き写されれば、「魚」という字は「魯」になり、「虚」という字は「虎」に化けてしまうということである。
「亥豕」の方は『呂氏春秋』察伝に見える。
子夏之晉、過衞、有讀史記者曰「晉師三豕渉河。」子夏曰「非也、是己亥也。夫己與三相近、豕與亥相似。」
子夏 晋に之(ゆ)き、衛を過(よぎ)るに、史記を読む者有りて曰く「晋の師 三豕河を渉る」と。子夏曰く「非なり、是れ己亥なり。夫れ己と三とは相い近し、豕と亥とは相い似たり」と。
子夏(孔子の弟子卜商の字)が晋へ行く途中、衛を通ると、史書を読んでいる者が「晋の軍、三匹の豚が黄河を渡った」と朗読するのに出くわした。すると子夏は「三豕(三匹の豚)ではなく『晋の軍、己亥(つちのと・いの日)に黄河を渡った』だ。そもそも己と三、豕と亥は似ていて誤りやすいのだ」と言った、という話である。
この話を聞くと、疑問に思う人がいるかも知れない。果たして「魚」と「魯」を間違えたりすることがあるのだろうか、と。「豕」と「亥」なら見間違えることもあるかも知れないし、「己」をくずして書けば、「三」を続けて書いた形と間違うこともあり得る。しかし「魚」と「魯」はどこから見ても違う文字ではないか。
どのような文の中で「魚」と「魯」を間違えたのか、具体的なことは『抱朴子』には書かれていないから、想像するより他はないのであるが、一つ考えられるのは、例えば
魚
最
と書いてあるのを
魯
取
と誤ったという可能性である。一つの文字が二つに分解されてしまったり、二つの文字が一つにくっついてしまったりする「魯魚亥豕」は、縦書きなら十分起こり得ることである。時代は下るが、其角の句
此木戸(このきど)に錠のさゝれて冬の月
を芭蕉が
柴戸(しばのと)に錠のさゝれて冬の月
と読み違えて、凡庸な句だと誤解した『去来抄』の逸話も、このタイプの「魯魚亥豕」である。どちらでも意味が通じるような時には、こういう誤りが起こりやすいのであろう。
芭蕉でさえこのようなミスをするくらいである(もっとも彼は後で誤りに気づいたけれども)。誰しも「魯魚亥豕」の失敗は一つや二つくらいあることであろう。私は小学生の頃、野球で知られた東海大相模高校を「とうかいおおずもう」と読んで笑われたことがある。「相模」と「相撲」の「魯魚亥豕」はよくあるようで、高校の同期に「北相模」という名字の人がいたが、「きたずもう」というあだ名がついていた。東海大相模の「魯魚亥豕」も私一人ではあるまいとGoogleにかけてみたら、案の定ぞろぞろ出てきて安心した。
地名や人名はとかく「魯魚亥豕」されやすい。私の故郷に近い大阪は片町線の鴫野(しぎの)駅も、よその人はよく「鴨野」と間違える。「鴫」という字は国字で、鉄道の駅でこの字が使われるのは「鴫野」だけであるから、致し方のないところであろう。また高校の同期に「弘行」という名前の人がいたが、学校の名簿に「引行」と誤植されてしまった。すると彼宛てに来るダイレクトメールはすべて宛名が「引行」と書かれていて、しかも「ノブユキ」と仮名で書いてあるものもあったという。「引」という字は「のべる」という意味もあるから、「引行」は確かに「ノブユキ」と読めるけれども、この宛名を書いた人は「なんか変だぞ」と思いながらも懸命に読み方を考えたに違いない。あの衛の人も同じように「三匹の豚?」と不審に思いながらも「晋の師 三豕河を渉る」と声を張り上げたのであろうか。
他によく「魯魚亥豕」されるのは「昂」と「昴」。前者は音「コウ」、訓は「たかい」。後者は音「ボウ」、訓は「すばる」で、全くの別字である。「昴」の字は谷村新司の名曲「昴」がヒットして有名になったが、当時は「昂」と誤植されることが多かった。今ではむしろ逆で、唐代の詩人について学生にレポートを書かせると、陳子昂を「陳子昴」と書く人が相当数に上る。「昂」は当用漢字から外れ、「昂奮」は「興奮」、「昂揚」は「高揚」、「意気軒昂」も「意気軒高」に書き換えることになったから、今の若者には「昴」よりもなじみのない字には違いない。平野啓一郎が『日蝕』で芥川賞を受賞した時、リヨンを「里昂」と書いているとマスコミが大騒ぎしたのも、「昂」という字に新鮮さを感じる世代が増えたということであろうか。(なお「里昂」は中国語で読めばli3ang2(リーアン)となり、リヨンに近くなる。要するに「里昂」は中国語の当て字の直輸入なのである。ついでに言えば「静謐」という言葉も「難解な言葉」を使っている例として挙げられていたが、これを新聞で読んで、今どきの新聞記者は「静謐」すら知らないのかと、嘆かわしい気持ちになってしまった。)
我がコースの学生も、いろいろと「魯魚亥豕」をやってくれる。中国古典の専門家にとっては、「魯魚亥豕」は本来「古いテキストには文字の誤りがつきものだから、テキストの文字を盲信すると誤読につながることもある」という教訓なのであるが、ここで言うのはそんな高級な話ではない。「會」を「曾」と間違えた、「荀子」を「筍子」と書いた、などというのはまだ可愛い方で、「日(ひ)」と「曰(いわく)」の区別がつかない学生がいたのにはほとほと呆れた。「魯魚亥豕」と同じ意味の成語に「焉馬之誤」というのもあるが、さすがに「日曰之誤」という言葉はない。「日」と「曰」を取り違えるのは、仮にも中国古典を学んでいる者にとっては、片仮名の「カ」と漢字の「力」を混同するに等しい、恥ずかしいことである。
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