「胸」は「パン」?


 私の出た中学校には、「一泊移住」と称する、林間学校のようなものがあった。その夜、ミーティングの席で、各クラスの出し物などがひとしきり終わってから、司会をしていた体育の先生が「それでは中国語の勉強をしましょう」と言い出し、「頭は『トウ』、肩は『チェン』」と説明を始めた。次いで「胸は『パン』」と言われた途端、女子生徒の間から「えーっ」と声が上がった。まさにそのものズバリの語感だから無理もない。しかし先生はお構いなしに「膝は『シー』、足は『チャオ』」と続け、「ロンドン橋」の節で「トウ、チェン、パン、シーチャオ」と歌いながら、頭・肩・胸・膝・足を順に叩いていく遊びを始めた。日本語で「あたま、かた、ひざ、あし」と歌いながらこの遊びをやったことのある人も多いと思う。

 そのうち先生は調子に乗って、「トウ、チェン、ボ○ン」だの「トウ、チェン、ナイ○」だのと、身振りよろしくやり始めた。今を去ること二十余年、セクハラという言葉も概念もなかった時代である。それにこの先生は卑猥なことをよく口にはしたが、決して変な視線を送ったり手を出したりはしなかったし、よく生徒を殴りもしたが、言うことはいちいち筋が通っていて、謝るべき時には土下座して謝る熱血漢であった。生徒にも保護者にも一目置かれこそすれ、決して恨まれてはいなかったことを、この先生の名誉のために申し添えておく。
 
 ともあれ「胸」の中国語を「パン」と教わったことは、大方の生徒の脳裏に焼きついたことであろう。なにせ女性の胸に隆起せるものに興味津々の年代である。私も例外ではなかったが、人と恐らく違っていたのは、持ち前の考証癖が頭をもたげたことであった。
 そこで家に帰ってから愛用の小学館『新選漢和辞典』を引いてみた。この辞典には中国語の読みもちゃんと載っている。すると「頭」は確かにtou2(トウ)、「肩」もjian1(チエン)で間違いない。ところが「胸」はxiong1(ション)であり、「パン」とはどこにも書かれていない。確かに「頭」は日本語でも「トウ」だし、「肩」も「ケン」だから「チエン」になるのも何となくわかる。しかし「胸」は「キョウ」だから、「パン」ではあまりにも違いすぎる。「むね」と読む他の字を調べても、「膺」はying1(イン)だし、「臆」はyi4(イー)で、「パン」とは読まない。「乳房」を中国語で読めばru3fang2(ルーファン)で、「パン」に少し近くはなるが、まさか……。家には中国語辞典などもちろんあるはずもなく、これ以上の探索はあきらめるより仕方がなかった。

 それから歳月は流れ、私は大学で中国語を学び始めた。しばらくして「胸」は中国語で「胸脯」xiong1pu2(ションプー)と言うことを知ったが、ではどうしてくだんの先生は「パン」などと誤解したのであろうか。
 その謎が解けたのは、「肩」の中国語を知った時であった。「肩」は中国語では「肩膀」jian1bang3(チエンパン)と言う。例のあの歌は「トウ、チェン、パン」ではなく、「トウ、チェンパン」で、胸などもともと入っていなかったのである。
 
 今となっては思い出すのもおかしい「中国語原体験」であるが、あの先生は「胸」の中国語は「パン」だと今でも思い込んでいるのであろうか。しかし「謎」を提供してくれたことが、私を中国語へ向かわせる隠れた動機の一つにはなったと思う。そういう意味では恩人と言えるかも知れない。
 なお「乳房」の中国語は「乳房」ru3fang2(ルーファン)で正解である。これは蛇足。


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