海内四経


 海内四経の記述は、中国の辺境に関する記述や、崑崙山に関する記述など雑多なものを含む。しかしその最大の特徴は、戦国末期に実在した地名が多く見えることである。例えば

大澤方百里、群鳥所生及所解。在鴈門北。鴈門山、鴈出其間。在高柳北。
高柳在代北。
大沢は方百里、群鳥の生ずる所及び解く所。鴈門の北に在り。鴈門山、鴈其の間に出ず。高柳の北に在り。
高柳は代の北に在り。(海内西経)


は趙の地名であり、

貊國在漢水東北。地近于燕、滅之。
貊國は漢水の東北に在り。地は燕に近く、之を滅ぼす。(海内西経)


は燕とその周辺国の地名であり、

琅邪臺在渤海間、琅邪之東。其北有山。一曰在海間。
琅邪臺は渤海の間、琅邪の東に在り。其の北に山有り。一に曰く海の間に在りと。(海内東経)


は斉の地名である。これらはいずれも位置を示すのみか、山がどちらに隣接するかといった地誌・地形の情報を記すのに終始し、神怪の類のいかにも『山海経』らしい記述は見当らない。こうした記述には信仰上ではなく実用上の目的があったと考えるべきであり、『戦国策』や『荀子』において対外政策を説いているくだりに類似する記述もあることから、こうしたことに必要な地理的知識を提供するためのものであったと考えられる。斉と境を接する趙の軍事要衝と燕の周辺国、また斉自身の周辺地域が記されることからして、これらの記述は荀子をはじめとする斉の稷下学士がかかわっていることが大いに考えられるのである。

 一方で海内四経には崑崙山の様子も詳細に記される。

 海内昆侖之虚、在西北、帝之下都。昆侖之虚、方八百里、高万仞。上有木禾、長五尋、大五囲。面有九井、以玉為檻。面有九門、門有開明獣守之、百神之所在。在八隅之巖、赤水之際、非仁羿莫能上岡之巖。
 昆侖南淵深三百仞。開明獣身大類虎而九首、皆人面、東嚮立昆侖上。(海内西経)
 海内昆侖の虚(おか)、西北に在り、帝の下都なり。昆侖の虚は、方八百里、高さ万仞。上に木禾有り、長さ五尋、大いさ五囲。面に九井有り、玉を以て檻(てすり)と為す。面に九門有り、門に開明獣有りて之を守る、百神の在る所なり。八隅の巖、赤水の際に在り、仁羿に非ざれば能く岡の巖を上るもの莫し。
 昆侖の南淵は深さ三百仞。開明獣は身大いさ虎に類して九つの首、皆人面、東に嚮(むか)いて昆侖の上に立つ。(海内西経)


 ここでは非現実的な神怪も登場し、先に挙げた実在の地名とは様相を異にする。海外西経の後半と海内北経の前半は崑崙山に関する記述で占められ、こうした記述は神仙思想との関連が早くから指摘されている。これらは恐らく斉で活躍した神仙方士の伝えた知識がもとになっているものであり、稷下学士によって海内四経に綜合されたのではないかと思われる。


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