五蔵山経


 五蔵山経は山の名を掲げ、前の山からの里程や、そこから流れる川、そこに住む動植物、そこで産出する鉱物等を一定のパターンに従って記載する形を取る。

 南次二経之首、曰柜山、西臨流黄、北望諸毘、東望長右。英水出焉、西南流注于赤水、其中多白玉、多丹粟。有獣焉、其状如豚、有距、其音如狗吠、其名曰貍力。見則其県多土功。有鳥焉、其状如鴟而人手、其音如痺、其名曰鴸、其名自號也。見則其県多放士。
 東南四百五十里、曰長右之山、無草木、多水。有獣焉、其状如禺而四耳、其名長右、其音如吟、見則郡県大水。
 南次二経の首は、柜山と曰い、西は流黄に臨み、北は諸毘を望み、東は長右を望む。英水焉より出で、西南に流れて赤水に注ぎ、其の中は白玉多く、丹粟多し。獣有り、其の状は豚の如く、距(けづめ)有り、其の音は狗の吠ゆるが如く、其の名を貍力と曰う。見(あらわ)るれば則ち其の県は土功多し。鳥有り、其の状は鴟(とび)の如くして人の手、其の音は痺の如し、其の名を鴸と曰い、其の名は自ら号(よ)ぶなり。見るれば則ち其の県は士の放たるる多し。
 東南四百五十里は、長右の山と曰い、草木無く、水多し。獣有り、其の状禺(さる)の如くして四つの耳、其の名は長右、其の音は吟ずるが如く、見るれば則ち郡県に大水あり。(南山経)


このような記述が延々と続き、読む者をうんざりさせるほどである。しかしそこに見える動植物には奇怪な姿をしたものが多いため、五蔵山経は従来「怪物の宝庫」としてとらえられてきた。

 しかし五蔵山経には怪物だけが記述されているわけではない。むしろごくありふれた動植物や鉱物の記述の方がはるかに多いことに、十分に注意する必要がある。

 前野直彬氏は五蔵山経のこうした記述のしかたから、山に分け入って仙薬の材料を得たりする機会の多い巫祝(シャーマン)が、その知識を集積したのが五蔵山経ではないかと考えた(前野直彬『山海経・列仙伝』、集英社『全釈漢文大系』33、1975)。古代において、山は人々に様々な恵みをもたらすと同時に、むやみに近づくと正体不明の恐ろしいものに出会う恐れのある場所でもあった。『左伝』宣公三年に

 楚子問鼎之大小輕重焉。(王孫滿)對曰、「在徳不在鼎。昔夏之方有徳也、遠方圖物、貢金九牧、鑄鼎象物、百物而爲之備、使民知神姦、故民入川澤山林、不逢不若、螭魅罔兩、莫能逢之。」
 楚子 鼎の大小軽重を問う。(王孫満)対えて曰く、「昔 夏氏の方に徳有るや、遠方に物を図き、金を九牧より貢し、鼎を鋳て物を象り、百物にして之が備えと為し、民をして神姦を知らしめ、山林に入りては、若わざるに逢わず、螭魅罔兩(魑魅魍魎)も、能く之に逢う莫し」と。


と見える、有名な「鼎の軽重を問う」故事も、山林は魑魅魍魎に出会う可能性のある場所と考えられていたことを示すものである。そうした山に自由に分け入ることができたのは、巫祝のような宗教者がまず第一に考えられるのである。

 五蔵山経が巫祝の知識をもとにして作られたとする考えは、多くの研究者に支持されている。しかしこれを最終的に書物にまとめ上げたのは、むしろ統治階級の側に属する人々ではないかと私は考える。山々から産出する動植物や鉱物の情報を正確につかむことは、巫祝だけではなく、統治者にとっても重要なことであった。わが国の奈良朝が諸国に命じて風土記を編纂させたのも、こうした需要があったからにほかならない。仮に巫祝の作であったとしても、統治者の側にかなり近い巫祝であったとする小南一郎氏の見解がやはり妥当であろう(小南一郎「『山海経』研究の現状と課題」、『中国ー社会と文化』第二号、東大中国学会、1987)。

 先秦時代の中国では、黄河流域の中原の国々では巫術のような神懸かりを嫌う傾向があったが、長江流域の楚では巫術が盛んに行われていた。それ故五蔵山経も楚で作られたものという説が根強く存在するが、五蔵山経に登場する山は中原の洛陽周辺の山々も多く登場するため、楚の巫祝のみによって作られたとは考え難い。こうしたことも、東周王朝の中心であった洛陽で、東周の統治者の意図によって五蔵山経がまとめられたとする小南氏の見解を補強するものといえよう。


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