『山海経』の諸注釈

郭璞『山海経伝』
明代の注釈
清代の注釈
近現代の研究

郭璞『山海経伝』

 『山海経』にまとまった注釈をつけた最初の人として、郭璞(276~324)の名は忘れてはならない。
 郭璞は山西省聞喜の人、寒門の家の出で、311年の永嘉の乱で洛陽が陥落し、西晋が滅亡すると、江南に渡り、元帝の時の丞相王導の参軍となり、のち尚書郎となった。「遊仙詩」「江賦」をはじめ神秘的なものを絢爛な表現で歌った詩賦を多く残している。

 しかし郭璞は詩人としてよりはむしろ占いの名人としての方が有名である。『晋書』郭璞伝をはじめ『捜神記』や『世説新語』などに、郭璞が怪獣の名を言い当てたり、動植物の異変から災害を予言したりした話が見える。そうした伝説が生まれた背景には、戦乱によって儒学の権威が揺らぎ、神仙思想が流行していたことがあり、また郭璞自身も怪異に強い関心を示していたことがある。『山海経』『穆天子伝』や『爾雅』に注釈をつけたのもその一環であり、かれは常識の向こう側に潜む未知の世界に対しても、日常的世界と同様の目で対処するという態度を貫いていた。郭璞からすれば、怪異は決して怪しいものではなく、ただ常識の枠外にあって知らないものだから怪異に見えるだけなのである。その思想は彼の『山海経』注に附した序文からもうかがえる。

 それ故郭璞の注は奇怪に見えるものに対する記事について、最も心血が注がれていて、文字や言葉の意味そのものについての訓詁は比較的少ない。別の文献に類似の怪異があればそれを引用し、さらに郭璞の当時に起こった奇怪な事件についても、関連のありそうなものを紹介している。例えば

又西北五十里高山、其上多銀、其下多青碧(郭注1)・雄黄(郭注2)、……
 又た西北五十里は高山、其の上は銀多く、其の下は青碧・雄黄多し、……(西次二経)
(郭注1) 碧、亦玉類也。今越巂會稽郡東山出碧。
  碧は、亦た玉の類なり。今の越巂(えっすい)会稽郡の東山に碧を出(いだ)す。
(郭注2) 晉太興三年、高平郡界有山崩、其中出數千斤雄黄。
  晋の太興三年(320)、高平郡界に山崩有り、其の中に数千斤の雄黄を出す。

のごとくである。

 ただ彼は他の文献に見えず解釈のしようがないものについては、無理に臆説を立てずに「未詳」「未聞」と記しており、学者としては厳正な態度であるといえる。

 郭璞注は『山海経』の生まれた時代にもっとも近い時代のものであり、『山海経』研究の際にはまず参照すべき権威ある注釈とされている。絶対視するのは正しくないが、無視するのもまた正しくない態度である。

明代の注釈

 郭璞以後、『山海経』の注釈は明に至るまで書かれていない。しかし郭璞注の版本は宋代から出版されていて、それなりに読まれていたらしい。ただ唐には『五経正義』、宋には朱子学が起こって儒学が不動の権威となっていたため、現実主義を旨とする儒学に相容れない『山海経』に郭璞以上の注釈をつける必要を感じた者はいなかったのであろう。

 元のもとで異民族支配と儒者弾圧を経験した後、平民出身の皇帝朱元璋が興した明のもとで、中国の知識人の力は相対的に弱まり、小説や演劇などの庶民の文芸が盛んになる。そうした中で王守仁(陽明)が現れ、知行合一・心即理をキーワードに実践を重んじる陽明学を唱えて多くの人々に支持された。

 王陽明とほぼ同時代の楊慎(1488~1559)は『山海経補注』を著し、『山海経』学復興の先鞭をつけた。楊慎は正徳六年(1511)に状元となり、のち翰林修撰となったが、雲南に左遷されてからは読書と著作に専念した。博学をもって知られ、朱子学を批判するとともに、陽明学をも厳しく批判し、「実事」即ち空虚な論議ではなく現実の知識を幅広く集めて、言葉の意味や物の名前を考証することを唱えた。この立場から、経学においては実証主義的な訓詁を旨とする漢学を重視した。彼が『山海経』に目をつけたのも、禹・益の作と信じられた古い書物であり、奇怪な内容であることから、合理的に(科学的にということではなく、迷信や神秘の色合いがないという意味)考証してみせる恰好の材料だったのであろう。『山海経補注』の序文には禹と益の著した『山海経』が桀の内史終古によって殷に伝えられたという伝説が記され、末尾に

 故讀者疑信相半、信者直以爲禹益所著、既迷其元而疑者遂斥爲後人贋作詭譔、抑亦軋矣。漢劉歆『七略』所上、其文古矣。晉郭璞注釋所序、其説奇矣。此書之傳、二子之功與。但其著作之源、後學或忽、故著其説、附之筴尾。
 故に読む者は疑信相い半ばし、信ずる者は直ちに以て禹・益の著す所と為し、既に其の元に迷いて疑う者は遂に斥けて後人の贋作詭譔と為す、抑そも亦た軋れり。漢の劉歆の『七略』に上(たてまつ)る所、其の文 古なり。晋の郭璞の注釋して序する所、其の説 奇なり。此の書の伝わるは、二子の功なるか。但だ其の著作の源、後学 或いは忽せにす、故に其の説を著し、之を筴尾に附す。


といい、その尚古思想が窺える。

 しかし彼の『山海経補注』は、部分的な注釈であり、しかも根拠の引き方に問題があるもので、たとえば

 猨翼之山(南山経)
 猨豈有翼哉。言此山之險而難登、猨亦須翼。諺所謂胡孫愁也。
 猨(さる)に豈に翼有らんや。此の山の険にして登り難く、猨も亦た翼を須(もち)うるを言う。諺に所謂る胡孫愁なり。
(胡孫愁……三峡にある地名。猿も登れずに悲しむという意。宋・黄庭堅「竹枝詞」に歌われる。)

の如く、『山海経』よりもはるか後世の文献を根拠として引いたりする。

 彼の解釈は博識をもとに合理性を求めるところに主眼があり、唯心主義に傾いて独善的になりがちな陽明学へのアンチテーゼの意味も込められているのであろう。想像ではなく現実の知識をもとに未知のものを考証しようとする態度は、明代中期から心学への反発として起こり始め、清代に至って考証学として開花するが、楊慎の学問はただ多くの知識を引いて結び付けるだけで、言語学的な検証が欠けており、決して精密とはいえず、杜撰の評さえある(『四庫全書總目提要』)。しかし清代の「実事求是」の学風へ先鞭をつけた功績は評価されるべきであろう。

 明代の『山海経』注釈者は他に『山海経釈義』を著した王崇慶(1487~?)がいる。朱彝尊『明詩綜』の小伝によると、正徳三年(1508)に進士となり、のち吏部尚書(人事担当官)に至った。しかし『明史』には伝がなく、詳しい生平はわからない。『明史』芸文志には王崇慶の著作として五経の注釈や文集が記されるが、その思想は古い注釈を綴り合わせたようなもので、特に新味はないと『四庫全書提要』に評される。このほか彼の思想を断章の形で著した『海樵子』があり、最終章に「変異も常を出るものではなく、常を知れば変を知る。」ということが書かれ、これを見れば彼が楊慎に近い合理主義思想を持っていたことがわかる。『山海経釈義』にもその態度はよく現れており、極めて合理的かつ儒家思想の宣揚に努めた解釈をしている。ただその解釈は博学に基づくものではなく、経書の説に合うように解せるかどうかを第一にしている点で楊慎とは異なる。そうして儒家思想に合う解釈ができなければ、彼は容赦なく本文を「豈に理ならんや」と疑ったのである。例えば

 又東三百八十里、曰猨翼之山、其中多怪獸、水多怪魚、多白玉、多蝮蟲、多怪蛇、多怪木、不可以上。
 又た東三百八十里を、猨翼の山と曰い、其の中は怪獣多く、水には怪魚多く、白玉多く、蝮虫多く、怪蛇多く、怪木多く、以て上るべからず。(南山經)
 釋曰、山既不可以上、則凡怪蛇怪木與所謂怪魚、又何從而見之。不可見則何由而知之。凡此皆其自矛盾而不可信者也。
 釈して曰く、山 既に以て上るべからざれば、則ち凡そ怪蛇・怪木と所謂る怪魚と、又た何に従りてか之を見ん。見るべからざれば則ち何に由りてか之を知らん。凡そ此れ皆な其の自ずから矛盾して信ずべからざる者なり。

の如くである。「この山は登れないと言っているのにどうしてそこに怪獣や怪魚がいるとわかるのか」という批判は、今日の目で見れば屁理屈に過ぎないが、その極端な合理主義の論調は後漢の王充『論衡』を思わせるものがある。

 彼はこうした主張によって、宋学にも陽明学にも与せず、昔の儒学の正道に帰ることを旨としたのであろう。王崇慶には『元城語録解』という著作もあるが、これは宋の司馬光に私淑した劉安世の語録につけた注釈で、彼は無神論者で迷信を嫌った司馬光の思想を受け継いでいるのである。

 『山海経補注』と『山海経釈義』は、いずれも儒家思想の宣揚、それも合理主義を唱えることに主眼を置いている点が注目される。神秘主義の書として『山海経』を広めようとするのではなく、むしろ神秘主義に反対するためにこの書を取り上げているのである。その背景には、郭璞注『山海経』の版本が叢書『古今逸史』に収められて出版され、広い読者を得ていたであろうことも考えられよう。人々がこれを読んで、陽明学に加えて迷信や神秘主義の悪影響を受けることを憂えた可能性が考えられるのである。

清代の注釈

 清朝に入り、まず康煕五年(1666)に呉任臣『山海経広注』を著した。呉任臣は康煕十八年(1679)に科挙の博学鴻詞科に合格、官は翰林院検討に至ったが、詳しい生平はわからない。その注釈は博引旁証を事とするものの、後世の詩文も訓詁と一緒に載せるなど、引き方は粗雑であり、楊慎『補注』と近い性格を持つ。その序文でも、郭璞注は足りないところが多いので広く文献を引いて補ったと自ら語っている。ただこれに付録されている「読山海経後」「山海経雑述」は山海経について言及した多くの文献を引いており、『山海経』の研究史をたどる上では有用な資料である。

 続いて現れた汪紱(1692~1759)『山海経存』は、在野の学者の作として異色の存在である。『清史稿』巻四百八十・儒林一に伝えるところによると、家は貧しく、景徳鎮で絵師となって生計を立て、後に福建省で寺子屋を開いて学問を授ける傍ら、古典を博覧し、六経以下楽律、天文、地理、兵法、医術、占卜に至るまで極めないものはなかったという。『山海経存』には楊慎の序文を載せているが、郭璞注をほとんど無視しており、たまに引いていてもそれに反駁している。しかしその注は王崇慶のように儒教イデオロギーに凝り固まった観念的なものではなく、むしろ郭璞と同じ態度で注を自分なりに書き直したような趣がある。また絵師であっただけに、精緻な挿し絵を付けているのも特徴の一つに数えられる。なおこの書は海外四経・海内四経を欠いており、汪紱の玄孫が光緒二十一年(一八九五)にこの書を出版した時に、畢沅の『新校正』で補い、挿し絵も自ら描いて補ったと、その跋文にいう。

 やや遅れて現れた畢沅(1730~1797)は、乾隆二十五年(1760)に状元となり、史学者で唯一の状元として知られる。各地の巡撫(知事)を歴任し、官僚としてはあまり出世はしなかったが、綿密な考証を事とする学者としては有名であった。彼の『山海経』注釈である『山海経新校正』は乾隆四十六年(1781)の序文があり、この時代は時あたかも文字・音韻・訓詁を事とする考証学の興隆の時代であった。経書の字句の解釈よりも、その奥にある義理を追求することを旨とする宋学・明学に代わって、まず経書そのものに即し、言語学的な方法で解釈することによって、儒学の義理を客観的に理解しようとする「実事求是」が標榜された。『山海経新校正』もこの考証学の方法に基づく、博引旁証の精密な注釈であり、さらに「山海経篇目考」を巻頭に付して、古本・『漢書』芸文志本・劉歆校定本及び図賛・図について、その由来と変遷を考証している。また楊慎と呉任臣の注にも批判を加えている。

 続いて郝懿行(1757~1825)の『山海経箋疏』が現れる。郝懿行は嘉慶四年(1796)の進士、官は戸部主事に至った。寡黙で学者肌の人物であり、官僚としては出世しなかったが、小学(伝統的言語学)の方面で業績が大きく、『爾雅義疏』はことに有名である。『山海経箋疏』は畢沅の『新校正』を土台とし、さらに多くの古典を、周到に吟味した上で引き、空想による臆説や、奇を衒った説は見られず、『山海経』の古典的注釈の最高峰といえる。彼の妻の王照円も学者であり、『列女伝補注』『列仙伝校正』などの著作がある。
 この後『山海経』の注釈は、研究ノート的なものはいくつか現れるが、本格的なものは民国時代まで現れない。『箋疏』の完成度が高かったためであろう。

 なおこれらの注釈とは別に、郭璞注と明の蒋応鎬の絵図が入った通俗本も、明代以後盛んに出版されている。わが国で江戸期に出版された『山海経』も、概ねこれを翻刻したものである。これらは皆楊慎の序文を収めているのが特徴である。この序は劉歆叙録や郭璞序と並んで『山海経』を禹と益の作として賞揚していることから、版元にとってはこの書に箔をつけるのに好都合なものだったのであろう。しかし楊慎注や清代の諸注釈はこれらの版本には収められていない。郭璞注は適度に神秘性を持ち、一般の読者に歓迎されやすいのに対して、楊慎の注は屁理屈が目立ち、畢沅や郝懿行の注は煩瑣に過ぎるので版元が嫌ったのであろう。

近現代の研究

 近代に入り、西洋の神話学などの諸学問の導入により、『山海経』研究も新たな局面に入る。何より大きいのは、この書は禹や益のような聖人の作と信じて疑わない儒教的な桎梏から抜け出し、あくまでこの書の内容や文体、また考古学的な発見との対照によってこの書の成立の時代を考えようとする態度が定着したことである。

 こうした近代的な『山海経』研究の最初の成果は、小川琢治『支那歴史地理研究』(1928)にまとめられた一連の論文に始まる。京大の人文地理学講座にあって指導的地位を築いた小川博士は、中国古代地理の文献として『山海経』に注目し、その成立の過程を文献学的に考えようとした。その結果、五蔵山経を漢以前の洛陽での成立、海外・海内四経は漢以後の成立、大荒・海内経は郭璞が付け加えたと判断した。さらに古本三十二篇・漢志の十三篇、劉歆の十八篇についても、竹簡に書かれていた書物は分量が各巻で同じでないと扱いに不便であるという観点から、「五蔵山経はもと十三巻の竹簡に分かれていたが、漢代に海外・海内四経が加わっても、劉向が古書の権威を高めるために十三巻の巻数を変えないように組み替えた。『七略』の巻数はこれによる。劉歆は現行本の海内四経以前と同じように組み替えて十八巻とした」と考え、また海外・海内四経については錯簡があるとして意味が通るように並べ替えて「本来の面目を復元した」としているが、その説明は仮説の域を出るものではない。また『山海経』の内容にまでは十分踏み込んでいない憾みもある。

 中国でも同じ頃に疑古派の中心人物であった顧頡剛「五蔵山経試探」(『史学論叢』14、1925)を発表し、五蔵山経は春秋・戦国の交、周・秦の間の地域で作られ、山岳祭祀に関った巫祝が作ったものであろうと考えた。また陸侃如「山海経考証」(『中国文学季刊』創刊号、中国公学大学部、1929)で、五蔵山経には鉄の産出を言う条が多く、鉄は戦国期に初めて普及したものであることから、これを戦国期の成立と考え、海外・海内四経は『淮南子』を模したもので前漢の作、大荒・海内経は劉歆以後郭璞までの間に附加されたものと考えた。一方『山海経』の内容については、呉晗「山海経中的古代故事及其系統」(『史学年報』第三期、燕京大学、1931)で、黄帝・炎帝をはじめとする神々の系譜と事跡を整理している。そしてこれらの系譜の多くが女性を中心に描かれていることから、母系社会であったと当時考えられていた西周期にこの書の成立時代を設定している。また玄珠(茅盾)『中国神話研究ABC』(1929、世界書局)で、『山海経』の成立年代や、その性格づけの変遷を詳細に考証するとともに、海内四経などに見える昆侖山の伝説について、これをギリシャ神話のオリュンポスと同じ「神々の都」であるとした。西洋神話との比較で『山海経』を論じた最初のまとまった論考として、この書の意義は大きい。また研究史の論考としては、張心澂『偽書通考』(1939、商務印書館)に『山海経』の主要な書誌的考証が引かれ、大いに参考になる。

 戦後、新中国ではまず蒙文通「略論『山海経』的写作時代及其産生地域」(『中華文史論叢』一、1962)を発表し、『山海経』の各部分で中央の観念に差があることを根拠に、『山海経』は巴蜀地域、もしくは巴蜀文化の影響下にあった地域で成立したもので、大荒経が最も古くて西周前期のもの、海内四経が西周中期以前、五蔵山経と海外四経が春秋・戦国期の成立とする新説を立てた。文革終了後には『山海経』についての研究もかつてないほど盛んになり、袁珂『山海経校注』(1980)はその最も大きな仕事というべきものである。袁珂は神話学者としての立場から、『山海経』に見える神話伝説の解釈に最も力を注ぎ、神々の闘争をその物語の構造に注目して、ほとんどを黄帝と炎帝の闘争から派生したものと考えた。その成立については、「『山海経』写作的時地及篇目考」(『中華文史論叢』復刊1号、1978)で、大荒・海内経は神話的雰囲気が最も濃厚であることから一番古くて戦国初期から中期、五蔵山経と海外四経が戦国中期以後、海内四経が漢初としている。袁珂は他にも中国神話についての著作が多いが、ほとんどが『山海経』を重要な資料として用いている。

 一方わが国では散発的な業績はあるものの、中国ほどには目立った研究成果は現れなかった。その中で特筆すべき業績として数えられるものは高馬三良『山海経』(平凡社『中国古典文学大系』、1973、また平凡社ライブラリー、1994)と前野直彬『山海経・列仙伝』(集英社『全釈漢文大系』33、1975)の両訳注、そして伊藤清司「山川の神々」(『史学』41-4、42-1、42-2、1969)である。伊藤氏の論文は五蔵山経を中心に、『山海経』を古代中国の人々の民間信仰の資料と捉え、民俗学的なアプローチでこの書を解釈しようとしたものである。五蔵山経を巫祝の信仰の書とする考えは、前野氏の訳注にも引き継がれており、説得力のあるものではあるが、海経の部分はそれだけでは説明しきれない要素の方が多いのもまた事実である。また岡本正「山海経について」(『中国古代史研究』吉川弘文館、1960)や小南一郎「『山海経』研究の現状と課題」(『中国ー社会と文化』第二号、東大中国学会、1987)は、『山海経』研究史を概観する上で有用な論文である。
 近年松田稔『山海経の基礎的研究』(笠間書院、1995)を発表し、わが国初の『山海経』研究の専著と注目された。『山海経』に見える動植物や神、鉱物などを統計によって数値化する手法を盛んに用いながら、これらの性質を探ろうとしたものであるが、「基礎的研究」の名とは裏腹に、この書の成立時期や地域に関する文献的研究が弱い憾みがある。

(2012.2.24追記)本ページは高馬三良『山海経』及び前野直彬『山海経・列仙伝』の解説に多くを負っており、「明代の注釈」については筆者の日本中国学会第51回大会(1999年10月)における口頭発表「明代における『山海経』 」がもとになっている。この発表は明代の学術や文化についての理解が不充分なままであったという反省から、活字論文としての発表はあえて見送ってきたが、その後意外にも「あの発表はどうなったのか」という声を同業者からいただくことが多くなった上、最近出版された松浦史子『漢魏六朝における『山海経』の受容とその展開』(汲古書院)に本ページが参考文献として挙げられていることを知った。本ページをこのままにしておくのは問題が多いため、できるだけ早く改稿の上論文として発表し直すこととしたい。


『山海経』について に戻る

朴斎主頁 に戻る